第2話 道化に秘められた想い
――― 1551年 頭陀寺
家を出てから約3年後、少年は14歳の時に頭陀寺という寺を訪れている。
頭陀寺は紀元700年ごろに建立された、この地域では一番の歴史を誇る伝統ある寺である。
様々な人物が訪れる交流の場ともなっており、多くの出会いがここから生まれている。
少年がこの寺で何度目かの商いをしていると、住職が彼の側に近づいてきてこう言った。
「君は本当によく気の回るお人だね。君が来るようになってから、寺の商いも随分と助けられていると皆が言っていたよ。ところで、ある人が君に会いたいと言っている。よかったら、これから会ってみないか?」
「オラに会いたいって? 誰だろうか?」
数刻後、そこに表れたのは松下之綱。頭陀寺に隣接する頭陀寺城の城主である。
之綱は住職から「歳の割りには広い見分を持つ面白い少年がいる」という話を聞き、彼と話をする機会を持っていたのだ。
寺の客室に案内されてしばらくの間、論を交わす2人。
育った環境や年齢、立場や言葉遣いも全く違う2人だが、やがて2人は意気投合し、之綱はすっかりこの少年のことが気に入ってしまった。
「どうだろう、君さえよければ私に仕えてみないか」
声を躍らせながら身を乗り出す之綱。
明るく前向きで、おそらく働き者であろうことが想像できるこの少年を、之綱はどうしても欲しくなっていた。
少年にとっても、またとないチャンスである。普通の人であれば二つ返事でこの提案を受け入れるだろう。
しかし、彼はこう答えた。
「おお! なんとありがたいお話ですだ! 今の自分の身分を考えたら、本当に過分なお申し出でございます! しかし、私には里に母がおり私からの仕送りを待っています。今持っている縫い針を全て売ってそのお金を母に届けるまでの間、仕官の話は待ってもらえないでしょうか」
少年は、内心ではすぐにでも仕官したくてウズウズしていた。
だが、之綱が自分のことを高く評価していることを感じ取ると、仕官をためらっている風を装って、さらに自分に有利なギリギリの妥協点まで相手の条件を引き出そうと、駆け引きを持ちかけていたのだ。
じらされた形の之綱だが、彼はそう感じていなかった。
彼は少年の手を取ってこう言った。
「君の母を想う気持ち、実にあっぱれである。薪集めでぶ厚くなったこの手の皮も、おそらく母のためにこうなったのであろう。よし、針は全て私が言い値で買い取ろう。だから、すぐにでも転居の準備を進めてくれないだろうか」
少年は、こうして之綱の下で奉公することとなった。
その後、武家の家臣として教養と武芸を身に付けていった少年は、約3年間をこの地で過ごし、17歳の青年へと成長していた。
彼は多感なこの時期を之綱の下で過ごしたことについて、生涯にわたって深く感謝していたと伝えられる。
その形跡は、恩返しの記録として今も書物に残っている。
そんな感謝の念を感じながら日々を過ごしていた少年だが、彼が長く之綱に仕えることはなかった。
之綱の下でよく仕事に励む少年がいるという噂は近隣に広がり、やがて隣国の大名が知る所となったからだ。
少年は大名への仕官のチャンスを得た。
一国を支配する大名の直臣と、城主の奉公人とでは、やはり身入りも将来性も違う。
自分一人が安泰な生活を送るのであればこのままでもよかったかもしれない。
しかし、母や弟妹への仕送りを増やすためにも、居心地のいいこの場所で立ち止まっているわけにはいかない。
少年はそう考え、之綱と別れて大名に仕えることにした。
新天地で大名に仕えることになった少年は、そこでも地道に功績を積み重ねていき徐々にではあるが重要な役割も任されるようになっていった。
そんな大名の下での生活は5年間続き、『少年』は25歳の『男』へと成長した。
努力の割りに中々身分が上がらず禄も低い期間が続いていることもあったので、報われない境遇に同情した同僚たちの中には
「人が見てないときには少し休みながら仕事をしたらどうか。それが賢い生き方だ」
とすすめる者もいたが、男は
「わしゃあ自分が納得できるように仕事したいんじゃ。言われたことを手ぇ抜きながら効率よく結果を出すのが賢いやり方だっていうんなら、わしゃあ賢くなんてなりたくねぇ! 今日の自分よりも明日はもっと上手くできるように、考えて工夫して色々試すだよ。おめぇも、そういうふうにやってみろ。その方が気持ちがいいでよ!」
そう答えるのであった。
そんなある日、男は大名から領地の巡察に同行するよう命じられた。
大名は馬に乗って各地を移動、男はそれに付き従う配下たちの一員となる予定である。
当日の朝、いつもより小ぎれいな服装を用意した青年は、それを誇らしげに眺めて
「よーし、今日もお役目精一杯がんばるどー!」
誓いを立てて服を着用した。
巡察の一行は予定通りの時刻に城を出発。順調に道のりを進んでいった。春の気候は穏やかで暖かく、青い空が広がっている。
30分ほど歩いていくと、やがて商業地区が見えてきた。
差し迫ってくる商家の数々。せわしなく道を往来人々。
この国は他の国と比べて商業が発展しているため、町は賑やかで活気に溢れている。そのため、視界が開けていない場所や混雑する場所もある。
そんな中、大勢の人々に大名の来訪を伝えて脇に寄せていくというのは、中々に大変な仕事であった。
しかも、大名は子供時代から自由に領地を駆け巡る奔放な性格だったため、人混みが見えたとしても構わずズンズンとその中を進んでいってしまう。
町の人たちにとっても、それは見慣れた光景であった。
そんな時、大名の前に一匹の兎と、それを追うように一人の少女が飛び出した。
不意に起きた突然の出来事に馬は驚いて姿勢を乱してしまう。その上に乗っている大名もまた同様であった。
「何をする!」
剣を抜いたお供の一人が、声をあげて大名と少女の間に割って入った。
凍り付く周囲の人々。
飛び出してきたのは年端もいかない少女であったが、外見が女だからといって中身も安全であるとは限らない。また、この行為自体も許されるものではなかった。
もしこの場で少女が切られたとしても、それを咎める者はいないだろう。
他のお供たちも同様、殺気をまとって少女に眼光を浴びせた。
少女は状況が分からないまま、ジッと立ち尽くして剣を構えたお供を見ている。
それを見た『お供を許された男』は、剣を納めたまま無防備にスルスルと少女に近づくと、強い力で少女を足蹴にして押し倒してしまった。
「愚か者が! お前のせいで私のお役目が汚されてしまったではないか!」
男は転んだ少女の細い手首を握り、道の端まで力任せにズルズルと引きずっていった。
少女は手を引く男に見覚えがあった。
驚いたまま男の顔を見ていると、男は少女の頭に手を置いてまたも力任せに地面に押し付けた。
「頭を下げないか!」
男もまた、この女に見覚えがあった。
彼は仕事の用事で商家を訪れたとき、何度か少女に会っている。
会っただけではない。会話も交わすような間柄であった。
少女はこの時14歳。
男は女を女性として意識しており、女は熱心に仕事に打ち込むこの男に尊敬の念を抱いていた。
「お前のような、はしたない女のせいで、殿の私への信頼が揺らいだらどうするつもりだ!」
男は少女を激しく叱咤した。
これに対し少女は
「申し訳ありません。申し訳ありません」
小さくうずくまって、ひたすら謝った。
男はその様子を見ると、大名を向き直って跪いて両手をついた。
「ああ~、わしゃあお殿様になんてことをしてしまっただ~、殿が危ない目に遭ってしまっただよ~。こんなことになったんも、オラが順路の下見をしっかりしなかったせいだ~! もっと事前に準備をしておくべきじゃった~。こんなことじゃ、殿を刺客から守れね~だよ~。自分で自分が情けねぇ……、そうだ、降格になればいい! オラは降格されて、また百姓に戻されてしまえばいいだ~。武士の身分など、わしにはそもそも分不相応だったんじゃ~。おっかぁすまねぇ、オラはここまでの男だぁ~」
男は拳で地面をドンドンと叩くと、上目遣いに大名の顔を見上げた。
その様子を馬上から見下ろしていた大名は、冷ややかな視線を送りながらこう言った。
「くだらん。お前のその大げさでわざとらしい演技を見るのにはもうウンザリだわ。黙って周りに合わせていれば大きな罪に問われることもないものを、ワザワザしゃしゃり出てきおって。おおかた、お前はその娘のことを見知っているのであろう。情にほだされて、わしの怒りの矛先を自分に向けさせようとしているのだろう? 知らぬ女であれば、下手な芝居をうって庇い立てをする必要などないのだからな」
男は再び頭を地面につけた。
「そ、そうではありませぬ。庇ってなどおりませぬ。私はただ、たとえどんな状況であろうとも、殿の巡察をつつがなく終わらせることが私の役目であると思えばこそ……」
「くどい! もうよいと言っておるではないか。お前も知っているかもしれんが、その女は浅野の娘じゃ。わしに仕えている弓頭、浅野長勝の娘。たかが小娘一人が飛び出してきたくらいで、配下の身内にどうこうしようなどとは思わん。わしを見くびるでない!」
大名は周囲を見回して小さくため息をつくと、配下に目配せで合図を送った。
「さあ、もう行くぞ。さっさと道案内をせよ。日が暮れてしまうではないか」
少年期からしきたりにとらわれない無法者と言われてきたこの大名にとって、今日の出来事は実際大した問題とは感じなかったかもしれない。
しかし、男と女にとっては大きな出来事であり、これを機に2人の関係はさらに深みを増していくこととなる。