41話
お嬢はもうすぐ10歳になる。この頃には、血を見ても怯えず、春代さんの理不尽な暴力にも動じないようになっていた。そして、写真で見たお嬢の母親によく似てきた。
落ち着いた物言いは、同年代と比べると遥かに大人びていて、子供らしくないと思う人間が大半だろう。1年と少し前に組に入った鰐刀の方が余程子供だと言える。
今もお嬢の自室にて、算数やら国語やらと教わっている。その様子を横目に自身の仕事を確認していると、遠くでゴロゴロという音が響いた。
そういえば、今朝のニュースで夕方過ぎから荒れると予報が出ていた。雲も厚みを増し、色が濃くなっている。
「おじょー、雷平気か?」
「大丈夫、ありがとう」
お嬢は雷が苦手だった。まるで責められているようだと身を震わせる。
「今日は早めに寝た方がいいですね」
「うん」
お嬢の顔色もあまり良くなかった。今日は春代さんが出払っており、お嬢が心穏やかに過ごせる日だと思っていたが、そう上手くはいかないようだ。
「あの子はどこです?」
「今日は体調が優れないようで、もう眠っています」
風も強まり、雨戸に打ち付ける水の音が強くなってきた。まだ夜遅くというわけではないが、嵐の中春代さんはこの別邸に帰宅する。自分の着替えが終わると、出迎えがなかったお嬢の姿を求めているようだ。
顔も見たくない、声も聞きたくないと罵るくせに、春代さんはお嬢に自身の出迎えを求めた。使用人のように頭を下げ、自分が立ち去るまで上げてはいけない。そう教えこんでいた。
帰宅するかも怪しく、お嬢の体調も鑑みて今日は出迎えられないと事前に連絡をしていたにも関わらず、春代さんはお嬢を呼びつけようと歩き出した。
「待ってください! お嬢に休むように言ったのは私です! お嬢は何の責任もありません!」
「たかが舎弟の言葉に従ったのですか、ならばなおのこと躾が必要です」
そんな馬鹿な話があるか。そう思い引き留めようとするが、春代さんに着いていた舎弟の1人が私の体を押しとどめた。
春代さんがお嬢の部屋の方へと消えていく。雨音と風、それとだんだんと近づく雷の音に混ざりながら、春代さんの怒号が聞こえた。
お嬢の部屋に行くことは叶わず、数分その場に立ち尽くした時、甲高い悲鳴と人が倒れる音がした。
これには私を止めていた男も動揺し、力が弱まった所で抜け出した。
「お嬢!」
部屋の扉を開けて飛び込んできたのは、頬から足先までべっとりとした赤で染まったお嬢と、その隣に倒れ込む春代さんだった。
一瞬、何が起こったのか理解が出来なかった。部屋に侵入者でもいるのかと思い、ざっとお嬢の部屋を見渡す。しかし、この部屋にいるのはお嬢と私。それとピクリとも動かない春代さんだけだ。
部屋を確認した後、虚ろな目で震えるお嬢の隣に膝を着いた。辺りの血は、全て春代さんのもののようだ。
「お嬢、いったい何があったんです?」
私の問いかけに、お嬢は1度顔を上げた。大きく瞳が震えたかと思うと、今度は大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。
「……っ! 誰か! 誰か来てください!!」
このままではいけないと、春代さんを治療する人間を呼ぶ。この時、密かに思っていたのだ。微かに春代さんに息があったとしても、どうかこのまま死んではくれないかと。そうすれば、お嬢は苦しまないですむ。そう思って、自分の手は春代さんに伸びなかった。
うつ伏せになっていたため、その場ではわからなかったが、春代さんの胸あたりには短刀が突き刺さっていた。それは確かに春代さんのものであり、常に着物へと忍ばせている。自分で刺したのか。それは考えにくい。刺客がいた可能性も低い。ならばあとは、お嬢が実行したという可能性だ。
翌日の昼頃、本邸から組長が訪れた。久しぶりに直接顔を見たが、相変わらずの威厳と重圧感であった。夜通しはらはらと涙を流し続けたお嬢は、組長に呼ばれると涙を止め、2人きりで部屋にこもった。
数時間後、まずは組長が部屋から出てきた。声の聞こえない程度に離れた場所で待機していた私に、組長は小さく告げる。
「これは自殺で処理する。お前は気にせず、自分の仕事をしろ」
「……は、い」
そこからはとても早かった。組長は春代さんの遺体を火葬し、自身の側近たちを伴って帰宅した。それと同時に、血濡れのお嬢の部屋の改装が始まった。1週間もすると、お嬢の部屋は何事も無かったかのように綺麗になってしまう。改装が済んだその日だった。
お嬢は、私を部屋に呼び出してようやくあの夜について語ったのだ。
「鷹槻は、まだここにいてくれる?」
「もちろんです。私は、ずっとお嬢のそばにおります」
「私が、何をしても?」
「はい。お嬢が許してくれる限り、私はお嬢の護衛です。お嬢だけの鷹槻です」
お嬢はそう尋ねたあと、ゆっくりと頷いた。そして、ひどく悲しそうに微笑んだ。
「消えないの」
お嬢は自分の手を見つめた。そして力いっぱい握りしめる。
「春代さんの重みも、血の匂いも消えないのっ!」
なにかが崩壊したように、お嬢の目からは止まったはずの涙が溢れる。それは今まで堪えてきた感情の塊のようで、お嬢の苦しみがどっと押し寄せてきた。
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