40話
「なんです、この花は」
「あ、それは……」
花は春代さんに見つからないよう、部屋の隅に隠していた。ただその日は、ちょうど水を変えようとした所で出くわしてしまったのだろう。春代さんはお嬢から花瓶を奪い取ると、お嬢の足元にたたきつけた。破片が飛び散って、お嬢に複数の傷ができた。
「あなたには必要ありません。こんなもの」
そう言いながら、春代さんはスリッパで何本もの花を踏みつけた。その時、お嬢は春代さんの足に飛びついたそうだ。
実際にその光景は見ていない。別の仕事で留守にしていたのだ。この話は九条から聞いた。飛びついたお嬢を蹴りあげようとした所を、九条は止めに入ったらしい。
その晩、私はお嬢の部屋で深く頭を下げた。
「申し訳ありません。また私が余計なことを」
「ううん、大丈夫。また、お花持ってきてね」
「花はお好きでしたか」
私の問いかけにお嬢はゆっくりと首を横に振った。
「花が好きなわけじゃないよ、井原がくれる花が好き」
机に置いた回収した花を、お嬢は悲しげに見つめた。
「花、ごめんね……」
「いいんです。気にしないでください。望んでいただけるなら、また贈ります」
「本当?」
お嬢がパッと顔を上げた。暗く澱んでいた瞳が少しだけ輝いた気がする。治療を終えた手を、傷に触れないように握った。
「はい、約束します。私からお嬢にだけ贈るプレゼントです」
「私にだけ……?」
「はい」
「そっか。嬉しい、ありがとう」
たとえ小さなことでもいい、お嬢が甘えられるような、望めるようなことを、なにか残してあげたいと思った。
お嬢の7歳の誕生日だ。お嬢は小学校に通うようになったが、春代さんからの教育に変化は無い。どれだけ傷があったとしても、帷という名前を聞いただけで、教育者たちはなにも言わない。
そして相変わらず、お嬢の誕生日を祝う様子はない。だから、私と九条の2人でささやかではあるがプレゼントとケーキを用意している。お嬢はこれで十分だと笑うが、私としてはこの状況が不満でならなかった。
「お嬢、他に欲しいものはありませんか? 用意できるものは限られていますが、できる限りの事はしたいと思います」
「ううん、大丈夫」
「なんでもいいんだぜお嬢。おもちゃでも本でも、服でも」
九条も私に続いてお嬢の要望を聞く。すると、お嬢は少し考えたあと、私と九条の手を片方ずつとった。
「盃交わしたい」
「は?」
「ちょ、お嬢なんでそんなの知ってるの?」
7歳の少女から出るとは思えない言葉だった。組によって多少の意味合いは変わってくるが、盃は擬似的な血縁関係を結ぶためにある。組長が親となり、部下はみな子供だ。組長同士なら兄弟の盃と変えることもある。
帷組においては、自身の直属の部下となった人間と盃を交わす。そうすることで絶対的な忠誠と信頼を交換し合うのだ。
「お嬢、さすがにお嬢の歳で盃を交わすというのは……」
「盃を交わしたらずっと一緒にいられるんでしょ?」
「え?」
お嬢は本邸に配属されている人間から盃のことを聞いたらしい。時おり連絡のために訪れる本邸の人間は、思っていたよりお嬢に対して友好的だ。
「2人にはずっと一緒にいて欲しいから……」
お嬢は少し落ち込んだようだ。九条はそれを見て機転を利かせてくれた。
「なにも酒を交わすだけが盃じゃないからな。お嬢なりの盃を考えていいかもな」
「私の?」
九条の発言は思ってもみなかったものだった。九条はどちらかというとお嬢のために静かに行動するタイプだ。お嬢に直接提案をすることは少ない。
「じゃあ、名前をつけてもいい?」
「名前、ですか?」
「2人にお嬢は私だけ?」
黒く丸い目で真っ直ぐに私を見つめるお嬢。その中に縋り付くような思いを感じた。
「はい。私にとっても、九条にとってもお嬢はあなただけですよ」
「よかった。……だから、井原にも九条にも私だけのなにかになって欲しい」
そう聞いた時、あくまでも予想だがお嬢は私たちに確かな繋がりを求めているのだと思った。組長から命じられた、護衛とその対象という関係ではなく、お嬢から与える強い繋がりを。その関係を、お嬢の中で名付けという形で実現したいと願っているのだと思う。
「わかりました。お嬢から名を頂けるとは身に余る光栄です。心から感謝します」
「俺も、お嬢からそんな大切なもの貰えるなんて幸せだ」
「うん!」
弾んだ声、いつもより何倍も上がった口角。そこには少女らしい顔をしたただの女の子がいた。
そして、私は鷹槻、九条は犬太郎という名前をもらった。お嬢と私たちの間だけで交わし合う確かな約束。名前を呼ぶ時だけ、お嬢の声が少し明るくなることがよくわかった。
いつの間にか、井原という名前よりも鷹槻という名前の方が自分の体や人生に馴染んでいると感じるようになった。
お嬢は自分を作るために私や犬太郎を利用している。春代さんが作り出す、従順な子どもの皮を剥がすことが出来る場所をずっと探しているのだ。私の手を掴むお嬢の小さな手は、いつだって力が入っていて痛いほどだった。この手を離した時、この人はきっと生きることをやめてしまう。なら、私がすべきことはただひとつだ。
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