4話
「はい、これでよし!!」
その一言に大きな平手を加える。
背中でバシンっと音がなり、ヒリヒリとした痛みが広がった。
「ってぇ!!? 何しやがる!」
「はは、元気げんきー、じゃあこれで治療は終わり、帰るね」
いつもの医者が高らかに笑いながら、医務室を出る。帳組に入ると宣言をして5日。俺の部屋は未だにこの医務室で、仕事は雑用。熊井から聞いたが、今日から俺に教育係が付くらしい。
「おっはよーーー!!」
「るせぇな!?」
扉を壊す勢いで入って来たのは、鋭い八重歯を見せながら笑う俺よりも少し背の低い男だった。深緑に見える短髪に細めの瞳孔。まるで、爬虫類のようだ。
「俺様は鰐刀! お前のきょーいく係」
大口を開けて話す鰐刀とか言う男は、常にこの声のボリュームなのか。
「えっと……あ、まだおじょーから名前貰ってないんだった!! 着いてこい!!」
そう言って、鰐刀は俺の右腕をガシッと掴んだ。そしてそのまま引っ張りながら走り始める。
「離せよ!」
抵抗してみるものの、鰐刀の力は強く、ビクともしない。握られた腕が少し痛いぐらいだ。廊下を走っていると、洋風の家には合わない、襖が現れた。鰐刀はその前で急ブレーキをかけ立ち止まる。
「おじょー、新入り連れて来たぁ」
「入って」
鰐刀の声の後に聞くと、ますますか細く聞こえるガキの声。襖を開けると、奥には座布団の上で正座をするガキとそのそばに控える鷹槻。相変わらず不機嫌そうだ。
「鰐刀、廊下は走るな」
「ごめん!」
「鰐刀、連れて来てくれてありがとう。いったん下がってくれる?」
「おう!」
鷹槻に叱られしょぼくれていたはずの鰐刀は、ガキの一言で顔を輝かせ返事をする。そのまま入って来た襖がから、今度は静かに立ち去った。
一気に静まり返る室内。ガキの少し前には、畳の上に1枚の座布団。俺に座るように目配せをした。
「あなたは先日、私の下に仕えると言った。だからこれから、あなたに名前をつけます」
「名前……?」
「私たちの組では、自分の部下との関係を家族に例えるの。その関係を結ぶために、本来なら盃を交わす。私はまだそれが出来ないから、代わりに名前を与える」
盃ってあれか? 酒かなんかを器に入れて互いに飲むみたいな。この組ではそういう格式ばったやり方を大事にしているのか、よほど重要な行為らしい。
「これから名前を与えるけど、それを受けたなら私はあなたの主人。そこは理解して欲しい」
「ああ、わかった」
「それから……新しい名前を得たら、今までの人生はもう捨ててもらう」
「は?」
今まで清い生き方をしてた奴、ゴミを漁って生きてきた奴。いろんな人間がいるが、このガキの下につけばそれら一切を消し去る。新しい人間として生まれ変わるように、目の前のガキは言っているのだ。
「あなたがどんな親の元にいたか、どんな学生だったか、どんな仕事をしたか。そんなものは私には関係ないし、必要ない。だから、あなたはこれから先あたらしい名前と共に新しい人生を歩む。その覚悟は、出来てる?」
なんて身勝手なんだ。そう感じた。だが、これまでの人生に未練などない。むしろ、忘れたいと思うことばかりだ。腹を立て、拳を握りしめ、全身で理不尽さを感じていた。あの頃の自分を捨てることができるなら、迷わずそうする。だから答えは簡単。
「出来てる、当たり前だろ」
「そう、よかった」
ガキが目配せをすると、鷹槻が1枚の紙を取り出した。畳の上に置かれた紙には、綺麗な字で言葉が綴られている
「あなたは今この瞬間から、虎鉄。この名に恥じない働きを求めます」
・
「お! 名前もらったか?」
「ああ」
部屋の外では鰐刀が待ち構えていた。ニカッと笑ってみせると、じゃあ改めて、そう切り出して自己紹介を始める。
「俺様は鰐刀! 23歳だからお前より歳上なんだぞ! だから俺様がお前の指導をしてやる」
「はいはい」
「お前も名前言えよ!」
まだ口に馴染まないあの名前は、すぐには発せられなかった。何度か自分の中で言い返し、ようやく口を開く。
「虎鉄。今は16」
「虎鉄か。わかった! よろしくな」
自分のことであるのに、声に出しても実感があまりわかない。本当にその名は自分のものなのかと、変な感覚が脳をくすぐる。だがそれと同時に、自分が今までとは違うものになっているような感覚もあった。
たぶん、俺はずっとそれを望んでいたのかもしれない。
「じゃあついてこい、仕事教えてやる!」
「だから、引っ張んなって!」
感傷に浸る暇も思考を巡らせる暇もなく、鰐刀は俺の腕を掴みまた走り出す。廊下を走るなという鷹槻の注意は、もうとっくに忘れてしまったらしい。
ここでやっていけるのかとか、あのガキの表情を変えることが出来るのかとか、そういうことは今は考えない。それは最終目標だ。
虎鉄という名前にどんな願いが込められたのか、自分に何が求められているのか、それを探す方がずっと有意義だと思う。
この日、ようやく組員として日常が始まったのだった。
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