38話
あの後、少し腫れてしまった手首の治療を狐由貴にしてもらっていた。狐由貴たちも蛇水組の件は耳に入れたようで、俺の苛立ちをなんとなく察している。
「なにがムカつくの?」
「あ?」
「ずっと眉間にシワよってるわよ」
ビシッと音がつきそうな動きで、狐由貴は俺の眉間を弾いた。手入れされた爪が少し痛い。
「蛇水にも、お嬢にもだよ。蛇水は全部ムカつく」
「お嬢は?」
「お嬢は……」
お嬢はいつも俺に選択肢を与えてくれる。どうしたいのか察してくれる。だが、お嬢の選択肢はいつもひとつだけ。組長に従う、それだけだ。
お嬢の意思も感情もなにものせない。誰も配慮しない。そんなお嬢になにも言わない鷹槻たちにだって腹が立つ。組長の言うことに頷いて、文句のひとつも言わない。人形だ。お嬢はただの人形だ。蛇水が言っていた、器というのがしっくり来てしまって、悔しくなる。
「お嬢の気持ちは、いったいどこにあるってんだよ……」
噛み締めた歯がギシギシと音を立てる。行き場のない怒り。何も出来ない自分を殴りたくなった。
「それなのに、お前らは何も言わねぇから」
助けてやる、守ってやるのが俺らの役目なんじゃないのか。お嬢のためにってなんなんだよ。
「あの子は、忘れちゃったのよ。自分の気持ちを」
「あ?」
顔を上げると、泣きそうな顔をした狐由貴がいた。治療用具の入った箱を閉じると、自分の右手を強く握りしめる。
「あたしは、小夜ちゃんの護衛の中じゃ新参だし、過去に何があったのか聞いただけ。だけどあの子が、何とか生きていこうと必死で見つけたのが今の姿なら、どうやって否定しろって言うのよ」
黙りたくて黙っているわけじゃない。狐由貴も、自分に対して怒りを感じていた。
「あたしでもこんな感情なのに、鷹槻さん達が何も感じてないわけない」
何よりもお嬢を優先する鷹槻。お嬢のためなら、自分の死も怖くないのだろう。そんな男が、お嬢を思うあまり、身動きが取れない。お嬢が生きていく最善が、今の状況なのか。
「だとしても納得がいかない」
「何する気?」
「鷹槻のとこ行く」
引き止める声も聞かず、俺は部屋を飛び出した。ちょうど狐由貴の部屋の上。そこに鷹槻の部屋がある。ドアの隙間から光が漏れていたから、いるのは確実だ。
ノックもせずに部屋に飛び込んだ。
「何の用だ」
「お嬢の婚約を止める」
鷹槻は入口正面に置かれた机に向かっていた。いつもきっちり身につけているネクタイやジャケットが放られている。
「ただの噂話だ」
「本当かもしれないだろ」
「本当だとしても、止める権利はお前にない」
鷹槻は1度も俺の顔を見ない。目の前の書類とパソコンに向かい、ただ声だけを俺に向けていた。
「止める権利はない。でも俺にはお嬢を守る義務がある」
「お嬢は守って欲しいとは思ってない」
「人に対してそんなこと考えられるほど器用じゃないって、あんたが1番よく知ってんだろ」
ここまで言って、鷹槻はようやく顔を上げた。素早く椅子から立ち上がると、扉の前に立っていた俺の頭を鷲掴みにした。
「お嬢に救われて1年もたってないお前に何がわかる。これ以上馬鹿なことを言うなら殺すぞクソガキ」
「殺せよ、地獄から這い上がって来てやる」
鷹槻は俺を殺さないと確信していた。鷹槻が1番嫌がるのはお嬢の心をかき乱すことだ。普通の平穏でなくても、お嬢が穏やかに過ごせることだけを願ってる。だからこいつは、今ここで俺を殺さない。
「このままじゃお嬢は苦しんで死ぬ。蛇水に利用されて、泣きながら死んでいくだろうさ」
「黙れ」
「組長にも祖母にも、両親にも愛されないまま、お嬢はたった1人で何も感じられないまま死ぬんだ! そうさせてんのはお前らだよ!」
「黙れ!」
頭を話されたと思えば、左の頬を強く殴られた。その勢いで床に倒れる。幸い近くにぶつかるようなものもない。だが打ち付けられた体には鈍痛が広がった。
「キレてるってことは、自分でもわかってんだろ。お嬢にとっての幸せは、今どこにもないって」
鷹槻はふらふらと後ろへ下がり、2人がけのソファに倒れるように座った。そのまま項垂れ、片手で髪をかきむしった。そしてそれから、絞り出すように話し始める。
「私は、これ以上私の勝手でお嬢を苦しめるわけにはいかない」
「あんたがいつお嬢を苦しめたんだよ」
「お前が知らないだけだ」
その言い方にムッとして、俺はその場にあぐらをかいた。
「教えろ。話すまで俺はここから動かねえからな」
鷹槻は数分沈黙したあと、動く気配のない俺を見て呆れたようだった。そして、観念したのかようやく口を開いた。
「お嬢が2歳のとき、私は護衛になった」
ここまで読んでくださりありがとうございます




