井上絹 2
犬猿の仲、なんて言葉がある。
これは干支において、猿、鳥、犬、と二匹が鳥を挟んで並んでいることを由来とするが、どうやらこの犬と猿、元々はとても仲が良かったらしい。
干支の順番を決める過程で、どちらが先かと争い始めたことをきっかけに、だんだんと二匹の仲は悪くなってしまったそうだ。
このことから、犬猿の仲とは、ただ"仲の悪い二人"を指す言葉だけでなく、"もともと仲が良かったが何かをきっかけに仲の悪くなった二人"を指す言葉でもあるらしい。
「忘れて!!」
そして、きっかけとは割と些細なことだったりするもので。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ところで、佐藤くんは犬派? それとも、猫派?」
犬派か、猫派か。
これは、きのこたけのこ戦争の次に熾烈な争いを繰り広げられているとされる派閥争いだ。
「犬派? 猫派?」と質問された時、相手の期待通りの回答をすることができなかった場合、それはすなわち死を意味する。
そんな究極の質問を投げかけてきた少女の名は、井上絹。
明るい小麦色の髪を肩のあたりまで伸ばし、唇の間から見える犬歯はもはや一つのチャームポイント。紛うことなき美少女である。
そんな美少女の前に現れる二つの選択肢。片方はデッドエンドまっしぐら。これがギャルゲーだとしたら、とんでもないクソゲーだ。
「えーっと、俺は、......犬派、かな?」
悩んだ末に、俺は正直に答えることにした。
犬も猫も両方好きだが、どちらかと言えば犬派だ。自由気ままな猫もいいが、ご主人様に忠実な犬の方が少し好感が持てる。
「やっぱりそうだよね!!」
満面の笑みを浮かべている井上さんを見るに、どうやら正解を引いたらしい。
「ふわふわな毛皮、まんまるお顔。ショコラー、って名前を呼んだ時に首を傾げることの可愛いこと!! ほんと最高だよね!!
あ、ちょっと待ってね」
犬の魅力について力説し始めたかと思えば、何かに気付きスマホを触り始める井上さん。
そして再びこちらを見たと思えば、スマホの画面を向けてくる。
「この子がショコラ。可愛いでしょ?」
「......っ、確かに可愛いね」
そこにはこげ茶色な毛並みの可愛いチワワの写真が表示されていた。この犬がさっきから井上さんとの会話に出てきたショコラの正体なんだろう。
しかし、俺は思わずその写真から目を逸らしてしまう。
「? どしたの?」
写真の中のチワワは、つぶらな瞳をカメラに向けながら小首を傾げている。
確かにとても可愛らしくて癒される姿なのだが......。
「いやー、可愛すぎて思わず目を逸らしちゃって。あはは」
そう言いながら俺は再び写真を見る。すると先ほどと同じように小首を傾げるチワワの姿と、そのチワワを抱く部屋着姿の井上さんが、そこにはいた。
グレーのパーカーに、おそらくハーフパンツを履いているのだろう。しかし、そのハーフパンツはパーカーの裾に隠れ、その裾の下からは白い太ももがうっすらと見えていた。
いや、見ていいのかこれは!?
そんな風に俺が心の中で葛藤している間も、井上さんは楽しそうな様子で話し続ける。
「そっかぁ、佐藤くんも犬が大好きなんだね!!」
「う、うん。まぁそうだね......」
「でもわかるよ〜。私も初めてこの子に出会った時は、しばらく目を離せなかったからね〜」
すいません、俺が目を離せなくなったのは、あなたの太ももです。
「ほんとに犬って可愛いよね〜、......あれ?」
改めてスマホの画面に目を落とした井上さんは何かに気付く。そして、焦ったように俺の方を見た。
あ、まずい。
「ねえ、佐藤くん」
「すいません、ほんとそんなつもりはなかったんです!! 太ももの不可抗力なんです!!」
井上さんに何か言われる前に、俺は直角に頭を下げ、全力で謝罪の言葉を口にした。
「ふ、太もも? ごめん、何のこと言ってるか分からないんだけど」
......あれ?
顔を上げると、そこにはきょとんとした井上さんの表情が目に映った。
「え、写真に井上さんの太ももが写っていることに気付いたんじゃ」
「え」
井上さんは慌ててチワワの写真を確認する。そして、みるみるうちに井上さんの顔は真っ赤で染まった。
......なるほど、俺は墓穴を掘ったらしい。
「なななななな!? み、見たの!?」
「すいません」
「っ〜〜〜〜!!」
井上さんは声にならない悲鳴をあげながら数歩後退り、俺との距離を取った。
「忘れて! ! 今すぐ記憶から消し去って!!」
顔を赤く染めたまま涙目になった井上さんは、必死の形相で訴えてくる。
「善処します」
しかし、そんな彼女の言葉に対して、俺はそう答えるしか無かった。
善処はするが、必ず忘れるとは言えない。それぐらいの衝撃があったのだ、あの写真には。
「絶対だよ!? 約束だからね!?」
井上さんは念を押すようにわざわざ取った俺との距離を詰めてくる。
「わ、わかったから近いって」
「っ〜〜〜!!」
俺がそう言うと、彼女は我に帰ったのかさらに顔を赤くして、バッと再び後ろに下がる。警戒心の強い犬のような行動に思わず笑みを浮かべると、彼女は恥ずかしさを隠すためか、不機嫌そうな表情を作った。
「もう、ひどいよ佐藤くん。私の太ももなんて見ても何も面白くないじゃんかー」
「あはは」
何を言っているのか? 面白いに決まっている。
特にあの柔らそうな感触を思い出すだけで......、おっと、やめておこう。これ以上考えると本当に変な気分になりそうだ。
「って、そうじゃなくて!!」
井上さんは再びスマホの画面をこっちに向けて大きな声で叫ぶ。
そこに写っていたのは、さっきとは違い、ショコラ単体の写真。どうやら井上さんのスマホのロック画面のようだ。
なんだ、また愛犬自慢か? と思ったが、しばらくその画面を見てから井上さんの言いたいことに気が付いた。注目すべき点は、犬ではなく、中央に書かれている数字だったのだ。
「は、8時25分!?」
入学式は9時半からだが、新入生は8時半には教室に着いておかなければならない。つまり。
「遅刻だね、私達」
井上さんは苦笑いしながら、頬を掻いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
犬猿の仲、なんて言葉がある。
犬と猿、そもそも種族も使う言語すら違う二匹でいがみ合えている時点で、それなりに仲が良いとは思わなくもないわけだが。
俺が今回のことで少し犬が嫌いになったように、些細なことで相手を嫌いになるなんてことは割とある。
だが、犬と仲良くするともしかしたら可愛い飼い主に出会えるかもしれない、なんてくだらないことを思うわけた。