井上絹 1
犬も歩けば棒に当たる、なんて諺がある。
歩いていただけで棒に当たるとは相当に運がない、と俺は思うわけだが、これは何も不運な事柄だけを指す諺ではないらしい。だって、当たった棒が金の延べ棒だった場合、幸運と呼ばざるを得ないわけだから。
しかし、こと現実において、歩くだけで金の延べ棒はおろか、ただの木の棒にすら当たることなど滅多にないわけだが。
「あだっ!!」
まさか、その滅多にない出来事を高校入学という門出の日に目撃するなどと誰が予想できただろうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆
俺が入学を決めた西虎高校は、自宅の最寄駅から3駅南に進み、さらに西に20分歩いた場所に位置する。
俺が西虎高校を受験した要因の一つとして、担任の「ここは駅から近いから通学がしやすいよ」発言があったわけだが、歩いて20分の距離を"近い"と評したことについては詳しい説明をしてほしいものだ。
人によって"近い"と"遠い"の定義は違うが、少なくとも万年帰宅部の俺にとっては、この20分の距離は"遠い"と言わざるを得ないのだから。
電車を降りて目の前に広がる果てしない道のり。そこに一歩足を踏み入れながら、俺は脳内でそんな悪態をつく。
駅から出て行く人混みの中には、俺と同じ制服を着た人達をちらほら見かける。友達と話しながら歩く者、道の確認かスマホをじっと覗き込む者。
そのスピードで横に並んで歩いていたら後ろの人の迷惑だとか、前見て歩かないと普通に危ないだとか。色々思わないわけではないが、それを面と向かって注意できるほど俺はできた人間ではない。
自分に実害が出なければそれでいい。そんなことを思うような、ありふれた腐った人間なのだ、俺は。
「そういや、朝ごはん食ってなかったっけ?」
そんな腐った人間である俺にとって、通学路を外れコンビニに寄ることなど、まさに朝飯前なのである。
二つのおにぎりと一つのサンドイッチを手に入れ、コンビニを出る。左手首につけた腕時計を見ると、時刻は8時ちょうど。教室には8時半くらいまでに着いておけば良いから、まだ余裕のある時間だ。
コンビニを出て真っ直ぐ進んだところに突き当たるのは、前方行き止まりの左右の分かれ道。
確か、ここは右に曲がるはずだが。
「ん?」
俺の前を横切るように歩いていく俺と同じ制服を着た女子は、なぜか右から左へと歩いて行く。スマホを凝視しながら歩いているのを見るに、地図アプリを使っているのだろうか。だったら、道を間違えるはずはないが。
俺の覚え違いか? いや、もしかしたらこの子が単に学校に行きたくないと言う可能性も。
呼び止めるべきか否かを考えている間も、その女子はまっすぐ歩みを進める。先にそびえ立つ障害物にも気付かず。
「っ、危ない!!」
咄嗟に俺から出た注意喚起の言葉。それが彼女の耳に届く頃には、もう手遅れな状態だった。
「あだっ!!」
ーーJKもスマホを見ながら歩けば電柱に当たる。by佐藤翔太
ものの見事に電柱からヘッドショットを食らってしまったわけだ。
「いっ」
JKは額を両手で抑え、電柱の前でしゃがみ込む。そして。
「いったーーーーーい!!」
聞いているこっちも痛みを感じるほどの、悲痛な叫び声をあげた。
「......大丈夫?」
俺が発した言葉はそんな思いやりの言葉。
しかし、発言した俺が言うのはなんだが、「大丈夫?」という言葉を発する時点で明らかに大丈夫ではないことが起きているはずなのだ。そんな場において、「大丈夫?」という声かけはあまりに不適切だ。ましてや日本人となれば、「大丈夫?」と聞かれて素直に「大丈夫じゃない」と答える人間の方が少ない。
いわば「大丈夫?」という言葉は、「大丈夫です」という言葉を引き出す為の決まり文句としか言えないのだ。
それゆえに。
「......大丈夫じゃない」
涙目で拗ねたようにこちらを睨む彼女は、相当に素直な人間なのだろう。
「......」
ちなみに俺は、予想とは真逆の言葉が返ってきたことにより、フリーズ。
目の前のJKは、そんな俺を怪訝な目で見つめ、こう言った。
「ところで、君は誰?」
「君は誰?」とは、実に漠然とした質問ではなかろうか。それは名前を聞いているのか、職業を聞いているのか、はたまた別のことを聞いているのか。普通ならば、返答に困ることだろう。
だが、問題はない。俺は高校一年生になったばかり。つまり、こう言った自己紹介の場が来ることなど想定内なのだ。
「佐藤翔太です。北玄中学出身で、部活には入っていませんでした。高校では何か文化系の部活に入りたいなと思っています。趣味は読書で、好きなジャンルはミステリーです。とは言っても、ホラー以外なら基本何でも読みます。本を読むのが好きな方は是非声をかけてくれたら嬉しいです。一年間よろしくお願いします」
とまあ、何か余計なことを言った気もしなくもないが、こんな感じだろう。
「え? あ、え? ふぇ?」
......なぜだか、目の前の女子は混乱状態に陥っている。
ああ、こういった時はこちらも聞き返すのがマナーだよな。よし。
「......君は?」
なんだか雑な聞き方になってしまった。これでは人のことを言えないではないか。
「......あ、えっと」
女の子は数回瞬きを繰り返した後、慌てたように立ち上がる。
「井上絹です。中麒中学出身で、三年間バレー部でした。高校でもバレー部に入ろうと思っています。趣味、というか好きなことは、ショコラと遊ぶことです。本はあまり読まないので、ごめんなさい。こちらこそ一年間よろしくお願いします」
矢継ぎ早に自己紹介をして深々とお辞儀をする彼女は、どうやら"井上さん"と言うらしい。
今にも触れる距離にある小麦色の髪は、実に触り心地の良さそうな髪質をしている。こんなことを口にすればきっと引かれるのだろうが、思うだけなら無罪だろう。
ところで、"ショコラ"ってなんだ? ショコラと遊ぶ、と言っていたのを見るに、人か、少なくとも生き物だとは思うのだが。
「あの、ショコラって」
「っ!?」
俺が"ショコラ"という言葉を発した瞬間、井上さんは勢いよく頭を上げた。そして、毛穴一つ見えないその整った顔をぐいっと近づけてくる。
「え」
この時、瞬時に俺の頭は理解した。
ーーああ、余計な質問をしてしまったな、と。
「気になる!?」
まさに目と鼻の先にある美少女の顔には、大きく『語りたい』という文字が書かれていた。
ーー視界の隅に映る腕時計の長針は、ちょうど3という数字を指していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
犬も歩けば棒に当たる、なんて諺がある。
その棒が電柱にせよ、金の延べ棒にせよ、歩かなければ棒に当たることすらできはしない。もちろん、電柱に当たるリスクを避け、歩かないという選択肢を取るのも間違っているとは思わない。
まあ、参考程度に言わせてもらうならば。
俺が歩いて当たったのは、目の前の餌に瞬時に食らいつく、犬のようなJKだった。