中編
夢のような
彼女はまるで、雪の精霊のようでした。
可憐な美しい娘がどこからともなく現れたのです。純白のドレスに身を包み、透明なガラスのくつを鳴らしています。周囲からため息がこぼれました。まるで、人々の「美」のイメージを形にしたような、浮世ばなれした美しさでした。
その一方で、彼女の目は並々ならぬ情熱をたたえていました。きびしい冬を感じさせるような、それでいて爽やかな夏のあたたかさも思い出させる不思議な瞳が、まっすぐヤスキーに向けられていました。王子もゆっくりと階段を降り、娘のもとへ向かいます。
ついに二人が向かい合いました。ヤスキーはかすかにふるえる唇を開きました。
「僕と踊っていただけますか?」
「はい」
並んだ二人を見て、だれもがお似合いだと思いました。しかし、不思議なことに周囲のだれひとりとして、その娘のことを知らなかったのです。
「どこのご息女だろう?」
「きっと高貴な家の姫に違いない」
「まさか。心当たりが全くないぞ」
「どこかでお見かけした気はするのだが……」
そんなひそやかな雑音も、ヤスキーの耳には入ってきません。ヤスキーにとって、彼女と大勢の前で踊れることは、夢のような体験でした。彼はただ、娘と会えた喜びと、踊りの高揚感の中で、舞い上がっていたのでした。それはまさに聖なる日に起きた「奇跡」の光景でした。
ですが、そんな時間も長くは続きません。少女は不意に目をそらすと、悲しげな調子で言ったのです。それは周囲の人々にもはっきりと聞こえました。
「私は零時の鐘が鳴り終わるまでに、もどらなければいけません」
「そんな。どうして」
「どうか理由はおたずねにならないでください」
二人の変わった様子に、ざわめきが広がっていきます。国王夫妻も彼女の発言に首をかしげました。
「あの者は何を言っているのだ?」
「零時って、もうすぐじゃない」
王妃が言い終えないうちに、鐘の音が響き始めました。
「ごめんなさい、王子!」
「ああ、待ってくれ!」
二人は絶叫せんばかりでした。しかし不思議な娘は、ガラスのくつを脇に抱え、駆けだしてしまいます。
「運命の人よ!」
王子も駆けだしました。さあ大変です。
「お待ちくだされ、王子!」
宰相の言葉で、みんな我に返ったように、王子に続きました。鐘が鳴り響く中、奇妙な追いかけっこが始まったのです。
ヤスキーはせっかくつかんだ幸せを逃さないため、走ります。衛兵も王子の身を守るため、走ります。召使いも同様です。宰相や大魔女、そして招待客も続きました。
回廊まで来たところで、ヤスキーは娘が角を曲がるのを見ました。その先は玄関へと続く一本道です。外では門番が待ち構えていますから、はさみうちにできるでしょう。
しかし彼は曲がり角で急に立ち止まりました。後ろに続いていた大勢も、もつれるようにして止まります。
「王子……はあ、はあ……待って……」
宰相は、ようやく止まった王子に、息も絶え絶えに話しかけました。しかし、すぐに表情を引きしめます。王子の様子が変です。
「宰相……消えてしまった」
「はい?」
召使いや衛兵、他の参加客も次々と駆けつけます。しかし長い回廊には、だれ一人として存在していなかったのです。少女は、この数秒で長い回廊を駆け抜けたというのでしょうか?
その時、零時の鐘の最後の一回が鳴り響きました。回廊の真上の塔にある鐘の音は、ひときわ大きく、いてつくような夜の空気をふるわせます。
「まさか!」
宰相は青ざめた顔で、回廊のガラス窓に突進しました。かかっていた鍵を外し――ここ大事なので、覚えていてくださいね――そして、手早く窓を開けました。外をのぞきますが、一面に雪が積もっているだけです。娘や、足跡もありません。ばさ、ばさ、と、ひさしから雪のかたまりが落ちてくるだけでした。
「消えてしまった……」
王子はまた歩き出しました。
大魔女アネーキはふりかえり、集まった人々に声を張り上げました。
「私と宰相がついて行きます。外は寒いですから、皆さんはこの場でお待ちください」
「それがいいだろう。みなの者! あのご婦人はまだここにおられる。丁重におさがししろ!」
「ははー!」
宰相が命じると、衛兵や召使いたちはあわてて捜索を始めました。花瓶台の下や、柱の陰など、隠れられそうなところをくまなくさがし始めます。
魔女と宰相は王子の後を追いかけました。玄関では、二人の門番が見張りをしていました。大魔女がたずねます。
「あなたたち。こよい、この門を出て行った者はいませんね?」
「は、その通りでございます、大魔女様!」
宰相は、けわしい顔でそのやりとりを聞いていました。門番はこの城に長年使えてきた、信用のおける者たちです。少女はまだこの城から出ていないことになります。
「ではいったい、どこへ……」
娘は、鐘の音とともに消えてしまったかのようでした。
消失
ヤスキーたちは再び回廊へもどりました。大勢がぼんやりと立ちすくんでいます。
「お前たち、どこにもいなかったのか」
「はい宰相……ですが、これをごらんください」
衛兵の一人が持ってきたのは、ガラスのくつの片方だけでした。あの少女がはいていたものです。走る途中、ぬげてしまったのでしょうか?
ヤスキーはたずねます。
「どこに落ちていたのだ?」
「あそこです、王子」
指さされたのは、回廊の壁のそば。ヤスキーは、はっとして壁を見つめました。そこには、彼が夢中になっているあの絵がかざられています。
ヤスキーは突然、絵の前まで駆け寄ると、ひざまづきました。不審に思った皆ですが、すぐに気付きました。
「まあ!」
王妃が口を手でおおいます。
そう、その場の全員が、少女を見た時に感じた気持ちの正体を察したのです。彼女は、絵に描かれた聖女とうり二つなのでした。どうりで見たことがあると思ったわけです。
「そんな。まさか」
「これを見てみろ、宰相」
王子はふるえる指で、絵のある箇所を指さしました。少女の足の部分です。彼女は大地にはだしで立っているように思われました。しかし、よく目をこらしてみると、うっすらと輪郭線が描かれています。
「彼女はガラスのくつをはいていたのだ。今まで気付かなかった……」
「つまり、ヤスキー。お前はこう言いたいのか?」
国王が恐る恐る言葉を発しました。それを引きついだのは王妃でした。
「あの子は、絵の中から出てきたってこと?」
国王夫妻、ヤスキー、そして宰相の胸には、ある言葉がよみがえっていたことでしょう。大魔女・アネーキの予言。
奇跡が起きる、と。
「そんなまさか……なにかの間違いでは」
宰相は言葉をもらしました。アネーキは聞き逃しません。
「あら、他にどんな方法でこのようなことができるのです? 魔法を使ったとでも?」
「魔法! それに違いない――いや、待て」
宰相はペンダントを取り出しました。カボチャの魔法道具は、光ってはいません。魔法は使われていないということです。王子のも同様でした。大魔女がなにかたくらんだわけではないようです。
「みなさん。もうお分かりでしょう」
大魔女は高らかに言いました。
「神はヤスキー王子に素晴らしい贈りものを授けてくださいました。偉大なる聖職者ツン=デレーの描いた『神の娘』を、花嫁として遣わしてくださったのです」
国王は困惑したように言います。
「しかし、また絵の中に入ってしまったぞ。どういうことだ」
「彼女は零時までにもどらなければならないと言いました。おそらくそれまでに二人がちゃんと結ばれる必要があったのでしょう……。ですが、まだ間に合います。この場のみなさんのお力があれば!」
神の娘・サヤカ
「今ならまだ、絵の少女はこちらの世界に来れるはずです。それには私の魔法と、強い思いが必要でしょう。みなさん、目を閉じて祈ってください。『ヤスキー王子と神の娘が結ばれますように』と」
「僕からも――どうかお願いします、父上、母上。そして、みなの者!」
ヤスキーも真剣な目で全員を見回しました。国王夫妻、召使い、衛兵、招待客、そして宰相も、その瞳を見れば、うなずく以外に選択肢はありませんでした。
国王は、王妃と顔を見合わせた後、言いました。
「連れ出してやってくれ。せっかく神が王子に見合う人物を見つけてくれたのだ」
「絵から出てきたのなら、世継ぎを産むこともできるわね」
「感謝いたします、陛下。ではみなさん、目をつむって――」
壁の絵と向かい合う大魔女のそばで、ヤスキーはひざまづきました。他の全員もそれに従います。
次の瞬間、回廊の全ての灯りが落ちました。魔法の儀式が始まったのです。目をつぶる直前、ヤスキーと宰相は、胸に付けたカボチャのペンダントが淡く光を放つのを見ました。
暗い回廊で、だれもが祈りを捧げています。それは聖なる夜にふさわしい光景に思えました。
コツン。
くつの音が響きました。王子ははっとします。
「もう目を開けてもよろしいですよ」
再び灯りが点りました。軽い疲労の間じったアネーキの声に、全員がゆっくりと顔を上げます。
そこにはあの少女が、絵の中と同じ質素な服をまとったまま、立っていたのです。片方の足にだけ、ガラスのくつを履いて。
絵画から抜け出してきた少女は、はち切れんばかりの思いを胸に、つぶやきました。
「王子様」
「ああ、愛しい人。そなたの名前は」
王子は感涙にむせびながら問いました。少女は優雅に微笑んで、
「サヤカです、王子」
そう答えました。それから、くだけた口調で、
「くつをはかせてくださいますか。床が冷たいの」
その場にいた全員が、夏草の香りを感じました。胸いっぱいに広がる、あたたかな匂いです。その時だけ寒さを忘れてたようでした。
王子がくつをはかせると、ぴったりサイズは合いました。自然と拍手がわき起こりました。光るカボチャさえ、二人を祝福しているかのようでした。
会場にもどった後、パーティーは夜通し続けられました。そして数日後、婚礼が執り行われました。民衆も聖なる日の奇跡に感激し、王子の結婚を心から喜びました。
二人はいつまでも幸せに暮らしました。サヤカが抜け出してしまったツン=デレーの絵も大事に保管されています。
ヤスキー国王とサヤカ王妃が治めたリバサイド国は、現在も栄えています。
(おしまい)