虫の魔
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
「魔が差す」って、どうして起こるのだろう? 考えたことはあるかい?
愚痴、恨み言、陰口……僕たちは、あるいは誰も見ていないところで、あるいは共感してくれる誰かと一緒にいるタイミングで、いろいろなことを漏らすはずだ。
どんな暴言を吐いたところで、それはいっときの憂さ晴らしであり、明日を生きるための糧だ。相手をどうにかしてやろうと思っても、妄言、妄想のうちで済ませられるなら、平和的だろ。本人がそこにいたりして、名誉毀損や侮辱の罪にあたらない限りね。
でも、たいていはそこで吐き出しておしまい。実際にその人を害そうと思い、実行にうつす奴はそうそういない。その先の自分の身を考えてみたなら、面倒の方がかさむだろう。
それを越えちゃうスイッチって、どこにあるんだろうか? いつ作られてしまうんだろう? 自分を抑えるタガを、外してしまう力っていうのは。
抑制が効かなくなること。それに関する、ちょっと気味の悪い昔話を最近、耳にしてね。君のネタになるだろうか?
むかしむかしのこと。とある村に住んでいる子供が、朝の目覚めと共に、吐き気を覚えたらしい。
ぐっと手拭いをあてて戻したところ、湿り気とともに散らばったのは、カマドウマを思わせる、「く」の字に曲がった二本の虫の肢。そしてそれよりも細く、かすかに湾曲した触角が一本。
当然、彼は顔をしかめた。寝ている間に何が起こったのか、想像にかたくなくて、ひたすら井戸から水を汲んでは、がぶ飲みをした。お腹が膨れ、苦しさのままに吐き戻す。
それで目的が果たされないと分かると、今度は食事どきに、いつもの数倍するほどの飯をかきこんだ。上から出せないなら、下から出そうという腹積もりだったんだ。しかし、それも功を奏すことはなく、それ以上の部位は身体から出てこなかった。
じかに見てしまうと、身体を動かす意欲もたちまち失せる。
昨日までは友達と連れ立って遊んでいたものの、今日は誘われても家に居座り、最低限の家の手伝いをしながら、ひたすら自分のお腹を心配し続けていた。
知らぬ間に虫を食べてしまった。残りの部分だって早く出ていってくれれば、どれだけ気が楽になるだろう。
一人になると、自分でのどの奥へ手を突っ込み、それでも出てくるのは己の胃液らしき、すっぱい液体だけ。
もう寝る時には、一分のすき間もないくらい、ぴっちりと手拭いで口から鼻までを覆っている。家の中にも虫が出ないか、頼まれる前から掃除するようになる子供だけど、事態は収まっていなかった。
あまりに遊びに参加しないのも疑われると、かくれ鬼に加わったところだった。
例の子が隠れた場所の近くに、よその子も入り込んできた。共倒れはごめんだと、子供が腰をあげかけた瞬間、目の前でぴょんと跳ねたものがあったんだ。
バッタだ。緑がかったその身体で大きくひと跳ね。続いて小刻みにぴょんぴょん跳ねながら、子供の目の前を横切ろうとする。
でも、その望みはかなわない。子供はあげかけた腰をぐっと落とすと、ぱっと上半身ごとあごを前に出し、開いた口の中にバッタをくわえこんだんだ。そのままごっくりとのどを鳴らし、身体の中へ追いやってしまう。
あっという間のできごとだった。当の子供にも、自分がなぜこんなことをしたのか分からない。気がついたらすでに、お腹の中でかすかにうごめく虫の気配があるだけだった。
今回は目撃者がいる。そばに隠れかけていた子は、目を剥いて彼を見やったあと、声をあげてその場を逃げ出してしまったんだ。
このことはたちまち、村中に知れ渡ることになった。
何かしら動物に憑かれたのだろうと、子供は長老の家に連れていかれて、祈祷をあげられる。しばらくそこに預けられることになり、寝起きや食事まで厳しい制限がかけられたとか。
それでも、のちに子供が語ったところによると、完全とは言えなかったらしい。
たとえ密室に閉じこもっていたとしても、虫はいずこからか入り込んできて、手足がきく間は、勝手に自分で捕まえて口へ運んでしまった。
口を完全にふさがれてしまっても、今度は虫たちの方から彼の身体へ飛びついていく。かつ、さして這いまわる様子も見せずに、姿を消していってしまうのだとか。
一方の子供の親はというと、目の色を変えて村近くの虫たちを殺して回っていた。我が子に不快な思いをこれ以上させまいと、小兵な虫に対して、明らかに不釣り合いなクワやキネを持ち出して、次々とその巨体で虫たちの命を絶っていく。
その身体の一片すらも、粉にするまで手を止めない徹底ぶり。子供から、足と触角が口より出たという話を聞いたためだろう。夫婦は他の村人たちにも声をかけ、来る日も来る日も虫の殲滅に力をあげていた。
それからふた月ばかりが過ぎた。
例年、秋の夜長を彩るはずの声たちは、その主を欠いている。代わりに響くのは、人々の足音。虚空にきらめくは、肩にかついだ農具の刃先。
またその日も新しい虫の血を吸わんと、虎のように目を光らせて、村から少し離れた木立の中をうろついていた。
その光のひとつが、唐突に地面へ落ちる。
追って、足音も途絶えてしまい、空間を漂うは苦悶のうめき。先頭を行く者が、不意に横合いからぶつかってきた何かに押し倒され、そのまま踏みつぶされてしまったんだ。
他の者たちが手にしていた明かりが、一斉にぱっと中空へ投げ出される。誰が手放す意志を見せたでもなく、勝手にだ。
地面に落ちるまでのわずかな間で、火が次々と消えていく。風に吹かれも、水をかけられたわけでもないにもかかわらず。そして倒された者の上には、数倍する大きさの図体を持った影がうずくまっている。
反射的に、すぐそばにいた者がクワを振りかぶった。その刃は確かに影をとらえたものの、振り下ろした勢いのままに柔らかく弾み返され、柄が彼の頭へ直撃する。
間を置かず、彼の身体が横殴りに吹き飛ばされた。かつて少年が吐き出した、虫の肢と同じ「く」の字に曲げて飛んだ彼は、悲鳴ひとつあげないまま、木の幹に背を打ち付ける。どざりと音を立てて倒れ込み、もう動く気配を見せなかった。
あとはもう、さんざんな目に陥るばかりだった。影にほど近いところにいた者は、どんどん薙ぎ払われて、左右へ飛んでいく。遠い者は算を乱して逃げ出すも、追いつかれた者から、先人たちと同じ目に遭っていく。
それでも最後尾にいる者が、どうにか村の入り口までたどり着き、急を告げようとするも、すでに村でも騒ぎが起きていた。
村長の家の前に、人だかりができている。大人たちがわが身を持って、壁を作ろうとしているようだったが、ほどなくそれが吹き飛ばされる。
身を低くし、その間を抜け出てきたのは、例の虫を食らっていた子供だった。そのまなこは、先ほど男たちが担いでいたクワたちよりも鋭く光っており、それがぎょろぎょろと左右へ振れる。
やがて逃げてきた男の方を見ると、四つん這いになって猛烈な勢いで駆けてくるじゃないか。どうにか男が退いたときには、その脇を通り抜けて、間もなく「ドン」と音を立てて何かに頭からぶつかっていった。
先ほどまで男たちを襲っていた影は、すぐそこまで迫っていたんだ。
ぶつかった拍子によろめく子供だったけど、うつむいて口を大きく開いたかと思うと、そこからどんどんと吐き出すものがある。
件で話された虫たちだ。バッタにカマドウマに、ムカデやイモムシ、その他、野で多数見かけるもの。これまで大人たちが殺してきたものの同類が、どんどんと口の中より地面へ降り立つ。その様は頭からお産をしているかのようだったという。
相対する影は、いまだにぼんやりした輪郭で中身が判然としない。でも虫たちが姿を現わしてから、明らかにその身はたじろいでいた。じりじりと後ずさり、ついに最後の一匹。二本の肢と、一本の触角を失ったカマドウマが、子供の口から地面へ降り立つと、「ウオウッ」と低くうなった影は、明らかにきびすを返して、元来た道を逃げ去っていった。
吐き出された虫たちは、ぞろぞろと地面を這ったり跳んだりして、思い思いに散っていく。そしてカマドウマを吐き出した子供はその場に倒れ伏し、夜が明けるまで目を覚ますことはなかったそうなんだ。
みんなが、虫を食べていると思っていた少年の所業。
それはひょっとすると、この影の襲撃に備え、虫たちを身体の中へ蓄えておこうとする、身体の働きだったかもしれないね。