規範
文章ほんとひで。校正くらいしろよ…
最近読んだ文章についてまとめていく。
まず、801板のニコニコ記事。「801板とは、鬼女板と並ぶ2ch最強にして最凶かつ最狂の板である。」とのことで、刃牙の帯に書かれてそうな煽り文句だが、その戦歴を見ればこれだけ言われるのもさもありなんといったところだ。一方で、婦女子のこういうレッテルを嫌うコメントも散見された。
「住民の純粋な異常性が面白かったのに、最強だの最凶だの言われたせいで「2chでも最凶クラスに異常な板でキチガイな妄想垂れ流してるアタシ」みたいな、801板にいること自体にステータス感じてる奴は嫌いだし痛いし全く最凶じゃない」
「正確に言うとここみたいに外野が801板の連中は○○で萌えれるやべーすげーこえー言ってるのが何か良く分からんけど鼻に付くんだよなぁ」
801板の住人はどう思っていたのだろうか。知る由もない(生き証人のお姉さんが一人ほどいらっしゃるが一人の意見のみを採用するというのもなんだかなぁという感じだし)。
801もまた自分たちの居場所を守るべく、底へ底へ潜伏していった者たちの集まりらしい。その頃は彼女らは社会に排斥されてしまう異質な存在であり、その深淵に集うのは悲しき外圧によるものだった。
それがなにやら、VIPの侵攻から少し変容し始めた…といったところだろうか?他者からのまなざしで自分を再解釈した結果があの天下無双の801板なのだとしたら、大喜利的なもてはやされ方を果たして全ての貴婦人たちが受け入れたのだろうか。刃牙のアオリ文のようだといったがそれは率直に言ってしまえば、どうにも801をハートで理解できない男たちが、いつも見ている少年漫画のメソッドを801板にそのまま当てはめてしまったということなのではないか。自分の価値観に無理やり押し込んでしまい、そしてそれに賛同したものがいたのではないかと考えてしまう。それが自身らを肯定的に見ることができる道だと考えたのだろうかと(こういう書き方をすると周囲に理解されない攻めと陽キャの受けのちょっと重めのBLに…)。BLに性的興奮を覚えることが理解できず、それをやべぇやべぇとはやし立てた行為が801板の住人をどういう気持ちにさせたのか、古のネットの海に沈みこんで、それを観測することは出来ない。嫌がっていたのかもしれないし、案外けろりとしたものかもしれない。それはそれとして、ニコニコの記事は少年漫画的に上手くまとめられていて面白い。
そして古のオタク像を語るツイッター文章。要するに、「昔のオタクは高学歴で生産的、今のオタクは低学歴で非生産的」という偏見にまみれた、しかも男性主体のどうしようもない文章なのだが、これがなかなかの文豪で、古のオタクを自嘲しつつ誇り、後半にかけて非生産的行為に明け暮れる全てのオタク(オタク界隈の流行語をコピペして繰り返すだけ、もしくはRTしかしない無知性念仏オタク)に警鐘を鳴らし、でも最後はやっぱり「昔はよかった」で終わる、主張したいことがはっきりしたいい文章だった。決して低学歴=ゴミといったまさしくゴミの考えそうな偏見は、まああるんだろうけれども、それも個人を個人として見ているという感じを受けた。まず私ではこれだけの人間を例に挙げることすらできないから、マジでかしこいんだろな~(小並感)。まあ、オタクが非生産的になったのはツイッターとスマホで裾野が広がったってのと、それらによる情報の大量供給に圧死したからというのが主な理由だと思われるし、この二人の悪魔どもを乗りこなせるのは最早特異な才能とすら言えるだろうから必然と言えば必然な気もする。というかオタクに限らず人間全体が非生産的になっていっているのでは?しかし一方で新たな自己表現の場としてこの大海を渡る勇士どもを見ると、結局「人による」ということなのかも。手塚治虫御大や黒柳徹子さんが思い浮かんだ。
古の時代、オタクに向けられる視線はたった一つだった。暗い。キモい。ちゃんと喋れ。臭い…etc。彼らは追い立てられるように集まり、ひっそりと何かを生み出すだけだった。だが時代が下るにつれ、そのような要素を持たないオタクが増えた。ツイッターで連絡を取り、ディスコードをつないで、知らない人と好きなものについて語る陽オタクは私がフォローしている人にも多い。昔の座は陰キャ、コミュ障に譲り、今は「~が好きな人」という極めて単純で、ニュートラル、場合によってはポジティブな言葉になったように思う。オタク君に対するまなざしは変容した。最古参の、厳冬の時代を乗り越えた猛者たちに春がやってきたわけだ。
そうなると古参ニキネキのアイデンティティは反転する。ある種の「業」を背負い、犯罪者のようにはじき出されていたのが、逆に神輿のように担がれることになってしまったのだ。嫌気が差してそっと身を引いたものもいただろう。侵されたように感じて憤慨したものもいただろう。しかし、どんなに侵食されたと思っても決して引かず、頑固に居座り続けるものもいた。担がれて有頂天になり、ご高説を賜るものもいた。オタクならこうあるべきだ、という規範を作り上げていったのだ。しかも、円卓により抜かれた最強のオタクを12人集めて合議したわけでもない、何万人いるともしれない有象無象たちがおのおの自分の中に、大概は筋の通らない直感だけで形成された恣意的な規範を抱くようになった。見たことがある人もいるだろう、
「クソアニメも見てねえ養殖オタクがアニメ語ってんじゃねえよ」「好きなマンガでワンピースあげるやつwww」
基本的に考え方が一ミリも統合されていないので、言いたい放題、そのうちに同じ考え方を持つ人がツイッターで集まってクラスタを作っているわけだ。まあ、オタクに限った話ではなくツイッターというのはそういう連中の巣窟ではあるがしかし、あえて古のオタクたちに言わせてもらうが、なぜオタクごときに礼儀作法が必要なのか。それは歴史的に生じて当然ではあるが、後続がそれに従わなければならない理由はなんだ?それはあなた方が嫌う「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい 皆がつまみ易いように串外しなさい」となにが違うのかと。あなた方を排斥した社会となにが違うのか。それでも強要してしまうのはなぜなのか…
大槻ケンヂさんの「ボクはこんなことを考えている」の一節に、バンドの追っかけの女の子との会話劇のようなものがあって、それがなかなか興味深かったのをおぼろげながら記憶している。なんでも学校なんてつまらない、あのバンドは特別な世界で輝いている崇高な存在なのよ、とおっかけをやっている女の子たち、その中でも序列があって、それを守らない子がいるとあり得ない、なっていないといった、厳しい視線にさらされるというのだ。ケンヂ氏はこれに関して家にも学校にも居場所のない女の子たちが最後に行きつく集い、その中でも規範が生じるのは興味深いと考察なさっていたと思う。そして結局これが全てを物語っているような気がしてならないのだ。何が何をどう説明しているのかは全然分からないのだが、これが全てに通ずる真理な気がした。
彼ら彼女らは皆、アイデンティティなるものを求める。アイデンティティは自己同一性と言い換えられるが、同時に(なぜか)集団への帰属意識という意味で使われることがある。おそらく自立アイデンティティと集合アイデンティティみたいに別のものなのだろう、こんな言葉は存在しないが。自分はこの集団に帰属しているという意識が生まれると、なんとしてもそれにしがみつこうとする、もっともっとそれに強く帰属しようとする人たちがいる。私もそうだ。
などと言いながらこれから私はもう一つ、ともすれば老害となりそうな話をするのだが。
アニメや漫画をコミュニケーションツールとして扱う若者についての6ページほどの記事を見た。おしゃべりのネタとしてコンテンツを消費する人々は映画やアニメを倍速、あるいは会話のないシーンを10秒とばしで見るらしい。VTuberのアーカイブを複窓するのと似たようなものだろうか。ほとんど説明は不要だろう、楽しみ方が全く変わってきている、というよりもコンテンツが楽しむもの、娯楽ですらなくなっているという話だ。そこには感動も考察もないのだろうか?笑いどころでは笑うのだろうか、流石に能面で見ているということはないだろう。最後の言い回しが好きなので引用しておこう。
「こういう話をすると、「うるさいな。細かいことはいいから、とにかくストーリーがわかれば、それでいいんだ」と言い返す人がいる。なるほど。
しかし、百歩譲って「ストーリーさえわかればいい」のだとしても、その飛ばした「10秒」の中に、ストーリー上重要な伏線になるカットが一瞬だけ挟まれていないと、なぜ観る前から断言できるのだろう。彼らはエスパーなのか。あるいは、「数秒後に何も起こらないことくらい、その直前の状況から簡単に予想できる」と踏んでいるのだろうか。
だとすれば、映像作品も随分となめられたものである。なめられて当然の作品があることも、否定はできないが。」
オタク同士がつながるのは容易い、コンテンツという目に見えて分かりやすい話題があるからだ。オタクのコミュニティは形成の課程こそ違えど依然として強力なアイデンティティを持つ。そしてその帰属の強さをまず目の当たりにした若者たちは、作品を吟味し、楽しむという初手の初手を知らずオタク文化を結束の象徴として見てしまう。一人はさみしい、かといって怖い人とは距離を置きたい、いじめでまとまるのも胸糞悪い、そんなとき、話の種にもなり、ぶっ叩いてもびくともしない理想的なサンドバック、そんなのは他のコンテンツでも一緒でしょうがけれども、ツイッター上で垣間見えるオタクたちの結束の強さはともすればきらびやかにすら見える。楽しそうだし、そこで何かを成している人はかっこよく見える。匿名性も強い味方だ。
コミュニケーションツールとしてのコンテンツは、儲かるだろうしこれからも成長するだろうけれども、それはやはり古の、ただ笑えて、泣けて、感動する、あるいは考察が出来て無限に思い悩める、ただただ一人で楽しくなるだけのもの(なんならアニメ、ゲームに限ることはない、小説、映画、絵画、芸術と呼ばれる類のものでもいい、)とは別物だろう。私も前者に捕えられていて、何を見てもアマゾンレビューが気になってしまう性を背負ってしまった。でも、最初に見たものはきっと一番の感動をくれたはずで、私の場合それはアニメの日常だったけれども、それこそが戻るべき体験なのかもしれない。ツイッターもフェイスブックも捨て、ただアニメを見、感想を日記に書くのも、いや、ないわ…
追記、これに関してさらに思いついたことがあったので雑に記しておく。それは「知識を持つオタクが強いオタクなのか」問題に関することだ。時代に関わらずオタクは知識マウントで雌雄を決してきた。それは教室の片隅で密かに開かれ、静かに終わる、町内会の餅つき大会レベルのしょぼくれたものだった。だが今や、オタクたちの戦場はツイッターという、土俵は大陸全土、苛烈さはノルマンディー以上のまさに生き地獄と化した。歴戦の猛者が六尺槍をぶん回すたびに屍の山が築かれることとなった。さらに悪いことに、オタク文化をコミュニケーションに使う陽キャが出てきたことにより、そこらの木っ端のオタクどもは地下の地下まで追いやられ死あるのみ、という状態になってしまった。そんな中大量の死者の中から亡者のように立ち上がった一派がいた、アニメのような映像作品は内面に訴えかけられたか否かだけが重要なのだ、周辺知識を、声優の名前をどれだけ覚えているのかはどうでもいいと。それはある意味での自衛で、要するに「おへー!すげー!おもしれー!かわいいー!」だけでも十分OK、なんなら視聴後内容を覚えてなくてもよいのだという主張だろうか。敗北者たちはそうするしかなかったのだ。今内面に頼るような主張をした私も、その敗北者たちの一人なのかもしれない…
最後に、今現在も「業」とされるものは五万とある。pixivは性癖の博覧会だ。箱化、赤ちゃんプレイ、スカトロ、モルゲッソヨ化、ほとんど冗談にしか聞こえないこれら、だが。ゴルゴだかのコラ画像で見たのだが、今となってはメジャー性癖となったマゾやふたなり(異論は認めない)も一昔前は同じく冗談のような性癖とみなされていたというではないか。正直驚いたし、同時に希望も感じられた。歴史を見れば、またもや反転する日も近いのではないか。という言説をネットのどっかで見た。私の意見ではないです。