げらげら
一個目
寝台白布之を父母に受く 敢えて起床せざるは之孝の初め也、という冗句をどこかでみたのを先ほど思い出して思わず思い出し笑いをしたところで、まず思いついたのは、これが非常に上等な冗句に見えるのはこれが知的な側面と面白さという側面の二極どちらにおいても高い価値があるからなのではないか、という考えだった。高度に知的で(少なくとも私にはそう見える)しかも面白いからこれは高い価値があるのだ、と思ったわけだ。
がすぐに大間違いだと気づいた。これから書き連ねるのはこの文言によって私がさっき得た気がしている面白さの多様さである。最初から私の感性の話でしかない、なにかの文脈に則った理論や数をまとめた統計ではない、つまりエッセイでも低劣な類の話だが、結構いい線いってる(なにがかは私にもわからないが)気がするので暇つぶしくらいにはいいかもしれない。
この冗句がとても面白いということは前提とするとしたとき。これが冗句であるのに不可欠な要素は何か。単純に意味をとればクズのたわごとでしかないこれを冗句に転換させているものは何か。最初私は冒頭で書いたように面白くて賢いから面白いのだ、と考えた。バカだよ。それじゃ何も言ってないのと同じだ。すぐに気が付き、次に、多分知性が根幹となっている、これが面白いのは私の中にある、知性への強いあこがれのためだと決めつけた。それは例えばこの冗句のダジャレとしての完成度の高さとか知的なものの厳めしさとかいろいろ内包しているようだが、とどのつまりは「賢い」からいろいろな「面白い」が生まれるのだ、と考えたわけである。
しかし知性と面白さとは果たして関連するのか。突然出てきた知性、これが面白さとなにか関係するのか。なにか一般的に言える、面白さの要素なのか・・・残念ながらそんなことはない。私は下ネタ大好きだがどう考えてもちんちんに理性はない。どう考えてもこの二つはひとくくりに「面白い」などとひとくくりにできるものではない。では「面白い」にいろんな種類があるのか。そう考えるのは自然だし私もそう思っていたが最近どうもそうも言いきれないのではないかと思いはじめた。面白いには面白い以上の根幹がある。それは驚きだ。interestingにしろfannyにしろ面白さには驚きが必要である、なければならない。面白さは驚きの一種であるともいえる。驚きとは何か。文脈上で解釈される情報の一種である。それは文脈上で取り扱えない情報、という情報である。それがなにか。つまり驚きは文脈の破壊なのだ。文脈とは何か、言葉だ。言葉は理性だ。驚きとは理性の一時的な喪失なのだ、正気の逸失なのだ。狂気の沙汰ほど面白い。冒頭の考えもその次の考えも間違いだ、知性があるから面白いのではない、知性の崩落が面白いのだ。(知っててhappyはhappyであって面白いのではない。私の脳みそはそれらの快楽はそれぞれ別の場所で起こっているように感じる)
さて、こんなのはまやかしで詭弁でインチキで、不正確な抽象化だ。構成し直す必要がある。組み立て戻さなければならないが、それはきっとあとでやるだろう。
二個目
この間「アビリーンのパラドックス 集団思考の罠 誰も望まない旅行はなぜ起きるのか?」うんぬんという動画を見た。その中に、「集団内のコミュニケーションがうまく機能していない状況下では、集団心理は個々人の心理と全く別物になりうる、誰の考えでもない心理が誰かが考えたもののように生じることがある」と解釈できる主張があった(元動画面白くてわかりやすいのでぜひみてね)。暗黙の同意が間違った結論を導きえる、これを避けるには「悪魔の代弁者」をたてるとよいなどなど。
今私は笑いについて書いているので、この論で「笑う」という心理的行動を解釈してみたい。ド直球に結論を言うと、集団で暗黙に了解されている「面白いもの」が、決して誰か個人が決めているものではない、「これは面白いと他の人もきっと考えてる」という同調の結果「面白い」と感じるのだ、ということになる。もしそうなら絶対的に面白いものというのはないのだろうか。人類ならば誰でも笑わずにはいられないなにかがあれば、と考えたのだが、あまり関係ないかもしれない。それがあったとしても人類共通の思考があると考えれば例外ではないので。非集団的な笑い…ないかなと思ったがあったあった、というか今体験した。私は今アルコールをきめながらこれを書いているが、何の理由もなくゲラゲラ笑ったりしている。お酒を飲むと無駄に気分がよくなる。これだ。つまり純粋な、身体に依存する快楽だ。美酒に酔うのは人類に与えられた最後の赦しみたいなものだと思うが、どんなに共有されていようと他の笑いと決定的に違うのは別に世界中に私しかいなくとも酒を飲んだらウキウキになるだろうということだ。しかし、当然そこにある感覚としては「面白い」と「楽しい」なのだから全く別物だ。全く別物なのに同じように笑ってしまうのは不思議な感じがするが。待て、ヒラリー・パトナムさんリスペクトだとそんなことありえないのでは、と思ったが今調べなおした結果全然別の話のようだ。逆に「「これは気持ちいい」と他の人もきっと感じている」などと考えることはまあないだろう。だからお酒を飲んで笑うのは集団的な文脈では解釈できそうにない。ところで他にまだあったようだ、何かを達成した時のあのゾクゾク、思わず口角の上がってしまう、達成の快楽。あれなどはもろにドーパミン的な快楽物質が出ていると聞いた。なぜそんな機能が人間に備わっているのかという議論はまあ置いておいて、これはまあ多分、お酒と同じなものではなかろうか。どちらも快楽の笑いだ。一個目に書いた、読み直すとなにを言っているのか少々分からないところもあるが、知的好奇心による笑いも意外とこっちな気がする。気がするなどちょっと適当すぎるので考えてみると、常識を折り曲げられたとき笑ったりすることがあるということは一見常識という集団心理によるものなのだから集団的なものなのではといわれるかもしれないが常識は集団心理ではなく学習の結果で、学習は人でなくても出来るし、一人での学習というのもいくらでも想定できると思うから割と人間の生物的なところから生まれていると思う。「超常現象を本気で科学する」という本で見たのだが例えば農耕をするとき、原因を考えた方が原因を考えない時より収穫量の期待値が大きい、だから人は原因を求めたがるという説があるようで、ある程度納得したのでここでも援用してみる。原因を求める人類の方が生き残りやすかったというともっと正確なのだろう。まあ要するに人間は何かと原因を求めたがるものらしく、それがわかると割と喜ぶようにできているようだ。しかし大変なのは人は神ではないので得られた原因らしきものの正確性をメタ的に判断できない、そのせいでペストしかりコロナしかり、非常に困難な事態に直面した時オカルトが蔓延することになる。で、思ったのだが、原因が分からないと普通不安になるものではないだろうか。そして不安が解消されることを普通は安心するというのではないだろうか。それなのに原因を知るどころかそれを求める過程にすら欲情する変態すらいる始末で、何が違うのだろうか。ぱっと思いつくのは生命の危機があるかどうかだが、命に代えても研究し続ける化け物たちをみなさん山ほどご存じだろう。でも違った、彼らの求める真実は生命の危機の原因ではなかった。と思ったが野口さんがいたではないか。なぜなのだろう。大儀か、大儀なのか。いや、少し思想が混線しているようだ。今言っているのは結局結果論ではないだろうか。そして無意識に科学至上主義を前提にしてはいまいか。ペストに関する風説は結果的にほとんど大ウソだった、それだけのことであって、もしも生まれた風説が奇跡的に実際に効果的なものだったら、中世ヨーロッパ人の評価は爆上がりだっただろう。例えば宗教的に青いものが持ち上げられていて、青いカビの生えたパンを食べるとよいなんて風説が生まれていたら?冷静ならバカバカしいとしか思わないだろうし、そのまま実行したところで具合が悪くなるだけだが、何かがどうにかなれば可能性が一ミリでもありそうではないか。不安になろうが冷静であろうが関係ないのではないか。おい、論点が断然ずれているぞカス。そうそう、未知に快楽を感じるのと不安を感じるのはなにが違うのかという話だった。いいたかないが結局資質の違いなんじゃないのか?というところで唐突に、西尾維新御大の戯言シリーズの、さてあれはどの話だったか、サイコロジカルだった気がするが、「落丁じゃねえか」を思い出した。そもそも、一個目で無意識に私は、作り物についてのことしか考えてなかったのだ。作り物というのは基本的に結論があることが大前提であり、その大きな保険、絶対的な安心の上で好き放題やりまくっているわけで、推理小説の解決パートが落丁していたら「普通は」がっかりするか、ブチギレるだろう。「この先どうなるのか」この言葉がどういう意味を持つのか、現実と虚構ではずいぶん違う。ワクワクできるのは保証があるからだ。この辺が娯楽小説の低劣と言われる所以なのかもしれない。文学が空き地なら、娯楽小説はジェットコースターなのだ。味わい方が決まっているものはつまらないと、音無音々さんのあれもそういうことなのかもしれないと、数年越しに少しわかった気がした。まあワクワクできる実際の理由は自分事でないからかもしれないが。むしろこっちの方が本質かもしれない。そんな気がしてきた。現実だってミリオタとかいるではないか。私の感覚のことはあくまで私についてのみ語るべきだ。全くオタク君はすぐ主語が大きくなるんだから…というかはたして野口さんが研究に快楽を覚えていただろうか?そも、涎をたらしながら研究する人物像など凡人の幻想ではないか。これだけ言った上でなお「予想と違う結果が出たら飛び上がるくらいうれしいよね」とか抜かす人間は言いたかないが、本当に言いたかないが資質が違う。私にとってのふつうを語るなら、現実で「この先どうなるの」(I don't Know!)なんて状況は不安でしかない。これを前提とするなら、大きく戻るが、知的好奇心的快楽などほとんど幻想なのだ。その結果もたらされる達成の快楽に引っ張られているだけで、達成の目算すらない事態では大体ワクワクなどできない。私はね。これで一個目の知的好奇心的笑いは達成の快楽なのだということにしておく。なーんか間違ってる気がすんだけどね。わがんね。
では、集団的な笑いと身体的な笑いで全て説明できるということでいいだろうか。もっと「醜悪な笑い」もある気がするが、今回のところはこれで限界だ、死ぬ
三米
ちょっと前に「神様になった日」が終わったらしい。素朴な感想は「だーまえェ…」という感じだったのだが、それはそれとして十年前のエロゲはこういう感じだったのかなとも思った。こういう感じとは、主人公の視点が世界の全てといった完全一人称視点の感じということだ。それが今作品にも如実に表れていると感じたのだ。この話をこの区切りに置く理由は、この作品が面白さと面白くなさをぎゅっと集めた、取り上げるにいい作品だからである。視点が主人公のそれだけというのはゲーム特有の表現であると思う。小説には当然語り部の存在が当たり前にあるし(語り部=主人公というものも多いが)、アニメは映像そのままで表現されていることがほとんどだ。それらは受け手(読者、視聴者)の意識とは別物である。その点ゲームはプレイヤーが主人公を操作するというシステムだから、プレイヤー=主人公となりうるのだ。皆さんもご承知の通り、自分のことは意外なほど分からないもので、自分でエロゲをやっているときは何とも思わなかった表現にプレイ実況で実況者というメタ的な視点を入れられた途端「こいつきっしょ!」となってしまうのだ。不思議なものである。メタ意識というのは理性的振る舞いに必須なものだがことエロゲとなるとそれはゲームに没入する邪魔になるというわけだ。この辺を逆手にとったのが「雛見沢症候群」とか「信頼できない語り手」で、じゃあ小説もゲーム側なのかもしれない、小説において読者が得られる情報というのはほとんど語り部からであるから、えーと、小説の楽しみ方の一つ、「筋書きを予測しながら楽しむ」を実行すると、小説において読者はメタ視点でありながら当事者…とはならないか。読者はあくまで外部でしかなく、語り部がくれる情報が嘘だったとしても読者の意思に影響することはない。ちょっと違うか、そもそも読者の意思など関係なく小説の筋書きはそこにあって、第四の壁で断絶されてるんだから、正確には読者の意思がその嘘に影響されようがされまいがどうでもいいということだ。アニメにしろ小説にしろ受け手というのは浮いているというか、当事者とは程遠い神の視点にいるからして、どんな作品を見ようとどうしても他人事の域を出ないところがある。そこにゲームとの対比があって、小説、アニメなどは根源的に受け手がメタ視点であるのに対し、ゲームはプレイヤーが当事者に片足を突っ込んでいて、うまく没入させることができれば自分事として受け入れさせることができるのだ。でも、一人称視点の娯楽小説などは自分と主人公を重ね合わせることで楽しむものも多いし(なろう系は典型)、結局は単なる「当事者⇔他人事」のグラデーション上の傾向かもしれない。でもゲームが「当事者」側に多いのは割とそうだと思う。
さあて、あくまで書きたいのは「面白さについて」なのだが、まずここでの面白さとは「感動」に類するものだと前おいておく。泣きゲーなどを面白いと評するのは不適切だという見方もあるのかもしれないが、さりとてそれ以外になんと表現すればいい?至高?最強?過去一?ド直球に「泣ける」といえばいいのかもしれないがというかどうでもいいなこれ。面白いとも言ったりするよね?そう、泣きゲーの話なのだ。受け手を泣かせる、これを成すのは大変至難の技であって一言で言えないというかまず私には一ミリもわかっていないのだが、ただ言えるのは、まず最低限の土台として、不特定多数の人間に共感させなければならないということだ。その状況はつらいものの方がいいだろう。人間嬉し泣きというのはそうそうしないがつらいときは割とすぐ泣くものである。だがつらければいいというものでもなく、受け手に寄り添うような状況がいい、朝起こしに来た妹をいきなり銃で撃ち殺した瞬間誰も共感できなくなるからだ。また別の面白さはあるかもしれないが。いろいろいったが結局のところ、共感できるという第一関門を突破できなければいかなる小細工も無意味なのだ。
ここで簡単に共感共感といっているが、さんざん論議した通り小説などは「他人事」であるからこれに対する共感は「他者への共感」であるのに対し、エロゲに対する共感は今のところよくわかっていない。というのは主人公の自己投影の結果主人公の悲しみ=自分の悲しみとなるのか、主人公(他者)に共感することによって没入し、結果自分と主人公の境目がややあいまいになるのか。創作物の登場人物は何というか非常にファンタジーな存在で、他人でありながら(ほぼ)偽りのない内面を透いて見ることができる存在であり、自己とも他者とも言い切れないのだ。自己と他者の違いってなんだよ。理性による自己にとって他者とはその内面を全く知りえない存在とするならば、内面を知りうる創作物の登場人物は自己側の存在であるといえる。いや、現実だって話せばわかるからそれで自己というのは浅慮にすぎる、実際これが小説、アニメならば完全に他者なのだが、自分である程度登場人物の意志を決定できるゲームだとなんかちょっと違うのではと思ってしまったのだ。というか他者への共感と自己への共感(?)はそもそも違うんですか?分からん。割と違う話だし飛ばすかまた後で。
とにかく、共感は感動に不可欠だ。これはメディアに関わらないことで、例えば感動といえばの24時間テレビ(見たことない)にしても「努力する姿」という誰でも感情移入せずにはいられないそれを取り扱っているわけだ。「神様になった日」がニコニコで「24分テレビ」というタグがつけられていたのもこの辺同じだからだろう。この場合共感する対象はひなだが。
それで、なぜ「神様になった日」はなぜここまでおちょくられてしまったのか。これまでの話を踏みつけていくと、ざくっといえば主人公に共感できなかったからだ。最終話の、ひなに頑張れということがどういう意味を持つか。周囲の人のやけに肯定的な態度。個人的に最もヤバいと思ったのはひなの意志が言葉ではほぼ語られないところで、「よーたがすき」以外、意志どころか状況を理解できているかどうかもわからない様子だった。ここまで感情がわからないと私などは怖気づいてしまいそうなものだが、少しもひるむことなく前進し続ける陽太はなかなか空恐ろしいものがあった。「サイコパス主人公」のタグは伊達ではない。なぜここまで共感できないかと考えてみると、陽太以外の視点がなく、その視点から見える世界があまりにも私の常識を凌駕していたからである。そういうことで、そこで少し思ったのは、これがエロゲとして出ていたらまだ説明がついたのではないかということだ。完全主人公視点のノベルゲームとして世に出ていたならば、「信頼できない語り手」で説明がつくし、プレイヤー=主人公の状況ならば、他の視点が完全に欠けているのも最もだ。まあ信頼できない語り手にはプレイヤーも没入できないという根本的な欠陥があるのだが。要するに、アニメであるにも関わらず主人公以外の視点を視聴者が得るだけの情報が欠けていて、さりとて主人公の視点が一般的な視点(他者の視点)と順方向とはとても思えないほど、こう、なんというか、すごいものだったため、世界全てが無茶苦茶なものに見えてしまったのだ。まさに「そうはならんやろ」のオンパレードだった。まあ、「そうはならんやろ」というのも「あなたの感想ですよね」。あなたのどういう基準でそうはならんやろとなったのかはちょっと今、新年あけましておめでとうございますでいろいろやらなければならないガチャが出たのでまた今度、あけおめ~!
25/03/29
イントロ
なんかふっと思いついた命題。文章の上では笑えない。ー①
なにでこれを思いついたかと言うと、ラインでのやり取りで「w」とか「~で草」と平気で打つタイプの人間なんだが、これでどんくらいの感覚が共有されているのかというのが気になって。まずはでっかく極論を張ってみた次第。以下検討フェイズ。
本文
心は即興で作り上げられる反応らしいので、笑うという現象は心と体の運動が全く同時に起こるタイプの現象ということになる。(どっちが先でもない)そんな現象がありえるだろうか?そういうものは共通の原因があるとしか考えられないし、それは認識論が逃れられなかった帰結だし、だからこそ「心は存在しない」なんて挑発的なタイトルをつけたのだろう。というわけで、面白いものを見て、「反応」を起こす。それは体の上で起こる。そして、自分に起こった現象を、どうしたって私たちは解釈せずにはいられない。この瞬間的で受動的な現象を文章に起こす、このように後から書かれた本のタイトルが心なのだろう。体が先で、心は後。しかも心は言葉で記述されて初めて存在する。(未だ書かれていない本にタイトルはつかない)
しかし、心の中で反応が生じることがある。反応の反応、記憶を読んで引き起こされた感情、誤謬の上に作り上げられた誤謬。記憶を実在のように扱って、それを認知することで起こった反応を後から解釈する。思い出し笑いとか。これは文章を読んで笑うことに似ているかも?こうなると文章上の笑いを読むというというのがどのようなステップを踏んで起こる現象なのかが気になってくる。
他人が笑っているのを見て「笑っている」と記述するのは説明が要らない簡単な事例である。しかし他人が出す他人の「笑っている」というサインは一通りではない、顔だけでも仕草だけでも、声だけでも、状況だけでもそれは読み取れる。しかしいずれもかなりでっかい普遍性を持つ。では文章の上ではどうだろうか?「笑」でも「w」でも「草」でも、「ひさびさにワロタ」「ふふっ」「ぎゃはは」「死ぬ」「腹筋ないなった」でも十分だ。でも日本語が読めなければ伝わらない。多分じいちゃんばあちゃんにもあまり伝わらない。この表現を共有していないから。
(閑話始め)(閑話始め)閑話休題って結局どっちが正しいのか一生覚えらんない(閑話終わり)それからこの表現に飽きた人にも響き渡るほどには伝わらないと思う。驚愕や怒りなども同様の性質がある。「飽き」であって、ニコニコの老人が「w」を使い続けるのは彼らがそれをみたときに体のすみずみに大音声で「響き渡り」、そして多分永遠にそうであるからだ。(この場合の「老人」は中立的だ。「笑」と「w」と「草」ともっと新しい表現とで優劣はない。優劣があると思うのは、10年・20年前のものを軒並みくだらないと思っているから)(閑話終わり)
笑いの表現はものすごく分節化して、ドメインを持つ。ドメインの数と狭さゆえに、文章上だけで笑いを伝える行為は新規性が必要で難しいし、普遍性を持たない。しかしまあ、これは大した問題ではない。「人は学べる。「お国」が違えど慣れることができる」と前提すればこれらは全て同等である。すれば。
もう一つ。
例えば他人の笑っている映像を見るのと、文章の上での笑いの表現を受け取るの、根本的に違うこの二者は実は根本的な相違があるのだが、それがなにか分かるだろうか。文章で書かれた笑いのサインは読み手の体に反応を起こさず解釈から入るのだ。つまり文章の上では笑えないQED(明確な嘘・欺瞞。文を読むこともまた、体に反応を起こさせるだけの行為である。「文章を読むという行為だけは完全に理性的な行為で、神の死んだこの世界で唯一純粋性・真理性・普遍性を持つ行為である」というのは単に読書を神聖視しているにすぎない。またこの世から一つ偉大なものが消えちゃった…;;)
いいやまだまだ。
小説で「笑っている」なんて書こうものならまるで鬼の首を取ったかのように「読解力ガー」「表現力ガー」「大衆化ノー」とハイレベルな哲学棒を持って掲示板レベルの煽りをせずにはいられない輩がわらわら現れるものだが、むろんこの表現がもっとも偉大で最も正統なものであることは言を俟たない。(俟たないって何この漢字 かっこよ!)文章中で「笑っている」ことのサインを出すためには「笑っている」と書くのが一番伝わるに決まっているじゃないか。なぜわざわざ腹筋を痛めたり死んだりしなければならないのか。これこそ、読書が部分的にでも神聖であることの何よりの証拠である。「高らかに笑った」と書いているのを読んだ人は、事実として高らかに笑ったことを「心」に記述する。心のノートに、板書のように書き写してしまうのだ。つまり、理解も解釈も通さない。体はそれに反応しない。これでは寝ているのと同義である。((閑話始め)「心に訴えかける表現」とはつまり体に訴えかけるような表現である。このような性質を持つ表現の駆動原理は大概「驚愕」によって説明される。新規性のある表現など(閑話終わり))つまり、十分に伝統的で神聖な読書は、つまらない。
それは、ハードウェアの間で繰り返されるトートロジーにすぎないのだ。
まとめよう。(←かっこいい)
「笑う」を伝達するには①笑いを意味する十分に共有された「サイン」を発射し、②それを「受け取る」 という過程を踏む。これは他の全ての表現と同じである。この「受け取る」やり方が割と種類があるはずで、サインに反応した体を言葉で後から解釈するやり方と、単に書き写す(往々にして「事実を事実として捉える」「俯瞰して見る」などと表現される行為。これができる人を「論理的な人」と言う。なぜなら…論理とは…wと、トートロジーだからっ…www)だけのやり方。あるいは、その2端間のグラデーション。(グラデーションが作れるならアウフヘーベンできるのでは!)
ネットを知らない人には「w」はダブリューだし、ネット的なものを小ばかにしている人は「w」を「そういう表現」とそのまま(といっても自身の世界像に合う形にして)書き写す。「高らかに笑った」と書かれても読み手は笑えないが、吉本静が「高らかに笑った」ならあらゆる人類は死に絶える。書き写されてしまうタイプの笑いの表現では、「文章の上では笑えない」。
おやおや、こんなことで終わってしまってよいのだろうか。いったいどの線をいったつもりだったのだろうか。なんだか取り落としたような気がしてならない、わからない、わからないことがわかった・・・なにがわからないのだろう?誤魔化しはよくわかっているつもりだ、あとは前提をさらせばよいか?あとは・・・あとは。空っぽだ。飽きてしまったようだ。こっから先がわかってないのだと知っておかなければならない。
25/03/29 五年も経つと人間って別人になりますね、すごーい 顔ない
本当に、勉強とは偉大だなって 最近の若いもんは「偉大」の意味が理解できないそうですが、(だって偉大なだけじゃあ意味ないしな…)と思います。生産性を信仰せよ。あと偉大さって大抵物語仕立てでそれがキモく感じるかな。