『黒木渚論・・・呼吸する町について』
『黒木渚論・・・呼吸する町について』
㈠
黒木渚※の小説を読んだ時、前回書いたが、主体が見えないと書いた。これは、しかし逆説的に言うと、客体として小説を執筆していると言えるのではないかと思った。それが小説の本質なら、確かに小説は客観的である。
『呼吸する町』は文芸誌に記載され、最終章以外は、本が刊行される前に読んでいたのだが、方法論として、ドストエフスキー的だな、と思ったり、村上春樹を超えているな、と思ったりしたものだ。それでも、それらの方法論に撒かれることなく、しっかりとした文体である。面白い、とか、悲しいとか、辛い、と言った感情観を考えさせられる個所もあるが、一貫して、それは、楽観的な町で起こっている出来事なのだ。
㈡
ラクトル、という架空の飲み物を中心として、この呼吸する町は描かれているが、本質は、日常の人間劇である。それがまた、人々が呼吸する様に、当たり前に描かれている点で、架空と現実が相まって、架空を現実感のあるものに創り上げている。人々の会話も非常に現実的だし、かと言って、唯現実的なだけではなく、小説的でもあるのだ。この不思議を何と例えれば良いだろうか。
しかし読者は、その様な方法論を考えるまでもなく、小説の世界にしっかりと入れるし、実感を持ってその世界観を味わうことが出来る。結句、この小説は、あくまでも読者主体に描かれているから、我々はその世界に、入りやすいのである。これは、少なくとも自分が思うには、黒木渚独特の、小説執筆の方法論である。それが故、小説を読んでいて、面白いし、飽きないのだ。
㈢
ところで、小説の限定版には、サイン入りであることと、ラクトルのボールペンが特典で付いて来た。これが非常に嬉しかった。楽しい、の上に、嬉しい、という感覚が重なり合った本になったし、家宝にしようとも考えている。いくつか案があった中で、ボールペンになったことは、自分としては嬉しかった。
そしてまた、小説の根底にあるある種の楽観的思考というべきものが、読者の日常を楽しくしてくれるので、また、ありがたいことなのだ。まさに、自分にとっては、エネルギーを貰うと言った感覚になる。
夏に刊行されたこの小説に続いて、秋には音楽家としての黒木渚が戻ってくる。まさに、新たに再生し、呼吸をし始めた黒木渚が、今度は音楽で何を以ってエネルギーを与えてくれるのか、この夏の暑さにも増して、楽しみで仕方がない。
※黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。