【4.5】彼女の手
Rev.1
次の日の朝、まだ早い時間にロキは目が覚めてしまった。 寝ぼけ眼で彼は食堂へ歩いて行くと、台所の方からトントンと包丁の音が聞こえる。
そして、ロキは台所に制服姿のユウを見つけて、後ろから声をかけたのだった。
「おはよう、ユウ。 昨日は遅かったの?」
「あぁ、少し遠くまで散歩してたからな……」
「ねぇ、何か危ない事してる訳じゃないんだよね? 君に何かあったら、僕だって、ミー達だって悲しむんだよ!」
ロキがそう言うと、一瞬だけ包丁を持つユウの手が止まる。
しかし、気を取り直したかのように、すぐにトントンと再び手が動き出した。
「分かってる……」
ユウは振り返りもしなかったが、ただ少し寂しそうな声で答えるだけだった。
「そう言えば……。 昨日はユウが帰っちゃった後、すごく大変だったんだよ。 エドワードが何かおかしくて、急に僕らのクラスまで乗り込んで来て、もう大騒ぎだったんだから」
「エドワードって隣のクラスのか? そりゃあ災難だったな」
「冗談じゃないよ、皆には変な目で見られるし。 それにしても訓練の時は凄かったよね、ユウの事を少し見直したよ」
「あれは……。 見てたんだったら止めろよ、青春ドラマしたいわけじゃないんだ」
「ドラマ? 何それ? 意味が分からないんだけど……。 あぁ、ミーの気持ちがよく分かるよ、たまにユウって変なこと言うよね」
二人でそんな会話を続けながら、ユウは朝ご飯の支度を終わらせていった。
「さて朝ご飯も出来たし。 それじゃあ出かけてくるから、後の用意は頼むよ」
「まったく、毎朝ユウは何処かに出かけていくよね」
「ロキ、お前も野暮な事聞くなよ」
「なっ!」
その言葉にロキは顔を真っ赤にしながら、口をパクパクとしている。
「それじゃあなー」
そんな静止しているロキを余所に、ユウは颯爽と孤児院を出て行こうとする。
「ユウ! ぼっ、僕に黙って!」
「お前、その発言は危険だぞ……」
ユウは笑いながら孤児院を飛び出すと、毎朝お決まりの道を通って騎士学校へ向かっていく。
しばらく歩くと、またユウは後方に気配を感じるのだった。だが、昨日とは雰囲気が異なっていた。 どうも尾行に慣れていないのか、すぐに気がついたからだ。
恐らくは、昨晩の二人組は白髪交じりの男の手の者だろうが、今朝の尾行は別の手の者だろうか。 おおかた、騎士団長辺りかとユウは思いながら、さっと横道に消えていった。
後ろからつけていた三人組は慌てて走ってくるが、横道まで来て完全にユウを見失った事に青ざめていた。 そんな様子を、ユウは屋根の上から眺めていた。
「あの服装は、騎士団だろうな。 昨日といい、今日といい、完全にお尋ね者か……。 まぁ残り三ヶ月だ、それまでは自由にやらせてもらいたいね」
そして彼はそれ以上は気にする様子もなく、屋根伝いに走り去って行くのだった。
騎士学校に着いたユウは、毎朝の日課の如く裏庭のベンチに寝そべった。 流石に最近は夜更かしが過ぎたためか、今日は少し体が重いと感じつつも、ゆっくりと眠りに落ちていった。
どこからか、コツコツと聞こえて来る足音にユウは意識を取り戻した。
今日は狸寝入りを決め込もうと、彼は目を閉じたままにしていたが。 そして、不意に感じる周囲の違和感に、これも毎朝の日課の様なものだろうと思っていた。
違和感の正体は紛れもなく、いつもの用務員である。 正確には、本人が気づいているか分からないが、彼女の周囲に施された人避けの結界だ。
毎朝毎朝、裏庭で二人が面白おかしく騒いでいたら誰かが来そうなものである。 だが、今まで邪魔が入った事は一度もない。
人避けの結界で守られた用務員、普通なら有り得ない。 それもユウが彼女を気にしている理由の一つであった。
さて、ユウの近くまで近づいて来た足音は、そっとベンチの横で止まった。 今日はアリスが何と声をかけて起こしてくるのか、少し期待しながら待っているが、なぜか声がかからない。
しばらくすると、耳元から彼女の息遣いが聞こえて来る。 ユウは隣で彼女が何をしているのか気になっていたが、我慢して目を閉じていた。
すると、彼女の手がそっと頭をなでてくるのだ。 そのまま、ユウの顔に沿って手が触れていく。 眉毛、目、鼻、頬、そして唇に、柔らかい手が優しく触れていった。
だが、少し緊張しているのか、その指先は震えている様だった。
「おい!」
流石に恥ずかしさに耐えきれなくなったユウは、はっと声をかける。 すると、アリスは驚いて、後ろに尻餅をついてしまった。
「あの、え~と……」
彼女はワタワタと手を動かして、必死に何かを誤魔化そうとしていた。 そんな彼女を見ながら、ユウはベンチから起き上がり、手を取って立ち上がらせた。
「そんなに、俺の顔が面白いのか?」
「え~と、その……。 顔に虫が、小さい虫が付いていたので、取ってあげようと思いまして!」
アリスは顔を真っ赤にしながら、よく分からない弁解を必死に続けていたが。 段々と元気が無くなっていくと、そして消え入りそうな声で謝るのだ。
「その……。 ごめんなさい……」
「いや、虫を取ってくれたんだろう……。 ありがとう、用務員さん!」
「なっ、何度言ったら分かるんですか! 私はアリスです、アリスですよ」
そんな微笑ましいやり取りが、今日も騎士学校の裏庭で繰り広げられていく。 さて、今日はいったい何を手伝わされるのやらと、ユウは思いながらも小さく笑って返事をしていた。
「はいはい、アリスさん。 それで、今日は何をするんだ?」
その声の先には、アリスの本当に楽しそうな顔があったのだった。
彼女は今日もまた、名前も知らない彼と一緒に裏庭の掃除をする。 彼女は今日もまた、名前も知らない彼と一緒にお話をする。
だが、キーン・コーンと鐘が鳴ると、今日も青年が去って行くのだ。 彼女は今日もまた、それを後ろから見送っていた。
「楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいますね、もう残された時間も半分も無いのに」
アリスはそうつぶやいた。
「未練がましいですね、本当に……」
そう呟く彼女の表情は、深くかぶった麦わら帽子で見えない。 そして、その帽子の奥から、頬を伝わって一筋の汗が落ちていった……。
こぼれ落ちた一滴の汗は、地面に落ちては、そっと消えていく。 もちろん、それは誰にも見られる事はなかった。 それに、その一滴が汗だったのかどうかすら、誰も知るよしもなかった。
むろん、それはアリス自身が一番分かっていた事だった。




