【1】サボり魔の朝
Rev.1
茹だるような暑さの中、多くの青年達が少し遠くの建物に入っていくのが見えた。 彼らは紺の制服に身を包み、ある者は腰に剣を携え、ある者は本を脇に抱えていた。
しばらくすると、キーン・コーンと辺りに鐘の音が鳴り響いた。 すると、さっきまで歩いていた者達も足早に駆け出していく。
聞こえて来た鐘の音は学校の予鈴なのだろう。 これから始まる一限目の授業は実習訓練かもしれない、遠目からは、そんな様子がうかがえた。
ここ中央大陸の中心から少し東の位置にリジニャン王国と呼ばれる国があった。 その昔、聖女が降臨し悪魔と戦い、この大陸二平和をもたらした国とされている。 そして、ここは王国の、未来の騎士達が集まる由緒正しい騎士学校であった。
未来の騎士達は十六歳になると入学が許されるのだが、そろそろ新学期が始まり三ヶ月が経つ頃である、もう学校にも慣れ始めた頃だろう。 皆の眼差しには、僕達が目指すのは騎士なのだと、そう強い意思が満ちている様だった。
今朝も教室から教師や学生の賑やかな声が聞こえて来る、そろそろ授業が始まるのだろう。
しかし、そんな彼らを余所に、早々そこから脱落した者がここに一人居た。
「暑い、眠い、本当に毎日面倒くさい」
ベンチに寝そべった黒髪の青年は、鐘の音を無視するかの様に空に顔を向けた。 そして、彼は唇をぎゅっと結ぶと、全身にまとわり付く湿気に身をよじらせ、寝返りを打つのだった。
ちらりと見える横顔は、学生にしては老け込んだ、良く言えば精悍な顔つきにも見えるのだろうか……。
しかし、まるで暑さにとろけた様な気怠な表情は、色々な意味で彼を台無しにしていた。
彼が寝そべっているベンチは、石とレンガで積み上げられた大きな校舎の裏手に設置してある。 その校舎の日陰に隠れるベンチは、彼の特等席であった。
毎朝この時間だけ、裏庭に少しだけ現れる小さな桃源郷。 彼は飽きもせずに、いつも足繁く通っているのだった。
ふと裏庭を吹き抜ける風が木々を揺らし、木漏れ日が少し彼の頬をくすぐる。 サラサラと木の葉が一定のリズムで触れ合うと、まるで子守歌が流れていく様だった。
そんな穏やかなベンチの上で、彼はあと少しで、その意識を手放そうとしていた。
少しずつ周囲の音が消え、手足からゆっくりと力が抜けていく。 また裏庭を吹き抜ける風が、暑苦しい湿気を一瞬だけ洗い流すと、さらに彼の意識はまどろみに落としていく。
今にも睡魔に屈しようとしている彼だったが。 それを無視するかの様に、今朝も決まって邪魔者が現れるのだった。
「また今日もサボりですか?」
ふと後ろからかけられる優しい声に、彼の意識は現実に引き戻される。 彼は目を開けて声の主を確認する。 そこには、麦わら帽子を深く被り、淡い青色のオーバーオールを着た少し背の低い子が立っているのだ。
箒を片手に真っ直ぐ構え、もう片方の手は腰に当てている、まるで門番の様にベンチの前で仁王立ちをしていた。 そして、彼は横目にその子を見つめると、あからさまに面倒くさそうな表情を浮かべる。
「毎朝毎朝ご苦労さま、用務員さんも今日くらい暑い日は休んだら?」
「まったくもう! 毎朝毎朝お昼寝ですか、まだ朝ですよ、朝です。 それと、私は暑くても休んだりはしません! あなたが毎日寝ぼけている一瞬も、私にとっては大切な一瞬なんです!」
「お前にとってはそうかもしれないが、それは俺には関係ないだろう。 あぁ……。 もう少しで眠れそうだったのに」
そう彼は大きくため息をついて、そのままベンチから体を起こす。 そして、ムスッとした顔で彼女を見返すと、無言の抵抗を試みたのだった。
「ため息なんかついて、幸せが逃げちゃいますよ。 それと、私の名前は用務員さんではありません。 アリスです、アリスさんと呼んで下さい!」
ぱっと見て、背もそこまで高くない。 小さい子がお父さんのお手伝いをしている、と言ったら本人に失礼だろうか。 箒を持った手も細くて、白く透き通った様な彼女の肌は、明らかに用務員のそれではない。
多少は育っている所は育っている。
しかし、そんな事を声に出したところで、面倒臭い事になるに決まっているのだ。 彼は一瞬そう思案すると、やる気無く返事をするのだった。
「分かりました、アリスさん。 それで、今日も私に何のご用ですか?」
「はい、今日は裏庭の大掃除をしようと思いまして! 手伝って頂けませんか?」
アリスはにっこりと笑って彼の顔をのぞき込んだ。 それはそれは、たいそうご機嫌な表情を浮かべているのだが、彼女の顔がとても近い、今にもお互いの息がかかる程に迫っていた。
年下とはいえ、今までも何度か顔を寄せられて、ドキッとする事があった。 そして、彼は今日もまたアリスの表情に一段と見とれてしまっていた。
全体的に優しそうな顔立ちではあるが、目鼻立ちはしっかりしている。 上等な服に着替えてしまえば、貴族の令嬢と言っても遜色はないだろう。
本当に用務員なのだろうか……。 たまに見せる立ち居振る舞いが、彼女の育ちの良さを物語っていたのだ。 何か事情があるのかもしれない、彼はそう思っていた。 初めて会ってからしばらく経つが、だが、そんな彼女は自分の事をあまり話したがらないのだった。
そんな彼の一瞬の迷いを、彼女は知ってか知らずか、ビシッと強引に箒を預けてくる。 彼は観念したかの様に、もう一度だけ深いため息をつくと。 そして、ベンチから腰を上げ、辺りを見回した。
昨日は夕立も激しかった様だ、おかげ様で、確かに裏庭は相当荒れている。 その一方で、アリスはもう一本の箒を取りに戻ると、こちらを気にする様子もなく掃除を始めていった。
「本当に、面倒くさいな……」
彼が吐き出した言葉を気にする様子もなく、アリスは黙々と掃除を続けている。 彼女の様子を横目に気にしながらも、彼もまた無言で、落ち葉の掃除を始めるのだった。
掃除を始めてから三十分は経っただろうか、しばらくするとアリスは彼の方を気にし始めていた。 何だろうか、サボっていると思われては心外だ。 彼も少なからずアリスを気にしては、仕方なく彼女に声をかけてみる。
「別にサボってないぞ、ちゃんと掃除はしている」
「あっ、そういう訳ではないんですよ」
暑さのおかげだろうか、アリスの顔が少し紅潮している。 彼女は少し慌てて、手に持った箒をブンブンと勢いよく振ると、誤魔化すようにこう続けた。
「その、お話しするようになってから三ヶ月くらい経つ気がしますが。 どうして名前を教えてくれないんですか?」
「名前? あぁ、それは当たり前だろ。 お前に、いや、アリスさんに弱みを握られて、今以上にこき使われるのも困るからな」
「あっ、人聞きの悪い事言いますね。そんな事しませんよ!」
アリスは頬を膨らまし、抗議するように両手を腰に当てて、また仁王立ちになる。
「本当か?」
「はい、ただし! 先生には毎朝裏庭で寝ぼけている男の子の話は、するかもしれませんが」
そして、いたずらをする子供の様にアリスは無邪気な笑顔を彼に向けた。 そんなアリスを、彼はジトっとした目で睨む。
「はぁ。 そんな事したら、お前の口を糸で縫い付けてやるよ」
「ちょ、ちょっと酷いこと言いますね。 女性に対してなんて事を言うんですか! まったく、それじゃ本当に案山子になっちゃいますよ!」
デリカシーがないとでも言うかのように、アリスは口をへの字に曲げると、彼に向かって抗議をした。 そんなアリスの態度を見て、何故だか、彼は少し狼狽し始めた。
「いや、そんなつもりじゃ……」
彼は内心まずい事を言ったと思ったのだろう、何とか訂正しようと焦っていた。 そして、はぐらかすようにアリスに伝えるのだった。
「その、そうだな、アリスさんの可愛いお口にそんな事したら、王様に磔にされて処刑されるな。 いや失礼、失礼」
ぎゅっと深く被っている麦わら帽子に遮られ、彼女の、アリスの表情は見えない。 だが、何故かアリスの口元が緩み始めると、モゴモゴと口を動かすのだった。 彼からしてみれば、何を言っているのか聞き取れなかったのだが。
「可愛いって……」
もしアリスの表情が見えていれば、きっと照れているのだと分かっただろう。
しかし、そんなアリスの様子に気がつく甲斐性もなく、ただ彼は少し安堵するだけだった。
「まっ、まったく、そうですね。 おっ、おっと、王様に磔にされてしまいますよ!」
明らかにアリスの舌は回っていなかった、それに、動揺を隠せなかったのか箒を地面に投げ出している。 そして両手で自分の頬を隠しながら、照れ隠しに抗議の態度を取っているのだ。
「そう、そうだな、失言だったよ」
やはり、そんなアリスに気がつかず、彼は少し残る気まずさを一言で片付けた。 そして、くるっと後ろを向くと、再び掃除を始めてしまったのだった。
黙々と掃除を続けていると、彼の額に汗が滲んでいく。 何故こんな暑い日に、裏庭の掃除なんかしなければならないのだ、そう彼は少しずつ不満を募らせていく。
だが、アリスの頬にも一滴の汗が伝わり、そのまま地面に落ちていった。 そんな一生懸命な彼女の姿を見ては、彼は文句を言わずに掃除を続けるしかなかったのだ。
しばらくして、あらかた落ち葉を片付け終わった二人は、特に会話をする事もなかった。 ただベンチに二人で座り、一息ついていた。
日陰の位置は少し移動してしまったが、まだベンチは校舎の影に収まっている。 裏庭を通り抜ける風をお互い全身で受け止めると、まったり涼み、そして二人とも脱力していく。
それから少し休んでいると、アリスは彼に顔を向けてくる。 話しかけて欲しいのだろうか、だが面倒くさい。 すると少しやきもきし始めた彼女は、我慢できずに自分から話しかけたのだった。
「もう三ヶ月も経ってしまいましたね、あっという間でした」
「あっという間? そうだな、あの時は裏庭の掃除を手伝わされる事になるなんて、思ってなかったけどな」
会話の途中でアリスは体ごと彼に向き直ると、その弾みで二人の肩が触れてしまう。 アリスはビクッと体を震わせ、慌てて体を後ろに引くと。 そして、両手で麦わら帽子を掴み、また深く被り直すのだった。
「そっ、そうですね、私も誰かに裏庭の掃除を手伝わせるとは、思ってませんでしたよ」
「信じられんな……」
もう勘弁してくれとばかりに、彼はベンチの背に両手を広げて、天を仰いでいる。 しばらく雲一つ無い空を見上げていると、ふと空に小さい影を三つ見つけるのだった。
「アリス、今日もお客さんだぞ」
「あっ、もう来る時間ですね」
そう聞いてアリスは少し微笑むと、おもむろにポケットから袋に入った小さなパンの欠片を取り出す。 そして、小さく欠片をちぎっていくのだ。 そうこうしていると、ベンチの周りにピヨピヨと小さい鳴き声が聞こえてきた。
「いらっしゃい、今日も沢山食べるんですよ!」
そう言って、アリスはちぎったパンを地面に撒いていく。 小さな小鳥が三匹ぴょんぴょんと近寄ってくれば、たちまち辺りは朝ご飯の時間になった。
「今日もお前らは元気だな、父ピヨも、母ピヨも、デカピヨも」
「デカピヨってなんですか、せめて子ピヨと言って下さい。 今はふっくらしていても、巣立ちの時には立派な姿になるんですから!」
センスの問題なのか、アリスはデカピヨと言う言葉が気に入らなかった。
「はいはい……。 そもそも、あの時に助けてなければ、今朝もこんな掃除する事もなかったのにな……」
「そうですね……。 でも木の上で動けなくなっていた子ピヨを助けてくれた、優しい誰かさんに会ってなければ……。 そうですね、私も手伝いなんて、頼んでないですよ」
小鳥の方を向きながら、アリスはそう優しい声で返事をする。
「あの時は、お前が木の下で変な踊りを踊っている様に見えたけどな」
「変な踊りってなんですか! まったく先ほどから、褒めたり、貶したり忙しいですよ!」
ピヨピヨと可愛らしい声に包まれつつ、二人の会話も少しずつ弾んでいく。 そうこうしていると、パンを食べ終えた小鳥たちは、アリスに向かって首をコクコクと傾ける。
ごちそうさまとでも本人に伝えたいのだろうが、彼女は気がつきもせずに小鳥に話かけていたが。 しばらくピョンピョンと跳ねていた三匹は、そして飛び去って行ってしまった。
「もう帰ったぞ、アリス」
「あっ、そうですね……。 すみません、つい夢中になってしまって」
そうして、ベンチに並んで取り残された二人は。 また、ふとお互いの肩が当たった事に気がついた。 ただし、今回はアリスが逃げる事もなく、そのまま少し体を預けて来るのだった。
そして、彼は照れ隠しにアリスに話しかける。
「なぁ、アリスはどうして、毎日そんなに頑張るんだ?」
「それは、秘密です、秘密ですよ。 人に言えるような、高尚なものではありません」
答えたアリスの声が、少しだけ震えていた。 だが誤魔化す様に、身振り手振りで元気に振る舞っている。
「じゃあ私からも聞いても良いですか? どうして、毎日に面倒くさそうにしているんですか?」
まるで悪意など感じさせない優しい表情で、アリスは彼の方を向いて話しかけてくる。 そして、相変わらず距離感のない奴だと思いながら、彼はため息をつくのだった。
「人の質問に秘密って答えときながら、逆に質問を返すとは図々しいな。 はぁ、そうだな、なんでだろうな。 分からないよ、特に頑張る理由が無いからだ……」
そう言う彼の声は、アリスには、ひどく悲しそうに聞こえるのだった。
しかし、同時に彼の表情がうかがえない、そんな自分に少し苛立ちを感じるのだった。
それでも、アリスはためらうこともなく質問を続ける。
「それなら、どうして私を手伝ってくれるんですか?」
「それは……。 秘密だよ、これでおあいこだ」
「そうですね、おあいこですね」
そう言って、アリスは彼から肩を離すと、少し俯いてしまった。 そして、それ以上は、二人は会話を続ける事はなかった。
気まずい訳でもなかったが、これが今の距離感なのだろう。 だが少しの沈黙が、二人にとっては酷く長く感じられていた。 ザーッと裏庭を通り抜ける風が、石畳の砂埃を巻き上げては、少し苦い土埃の臭いを彼らに届ける。
しかし、彼らの沈黙は、唐突に破られるのだった。
キーン・コーンと一限目が終了した事を告げる予鈴が鳴り、次第に生徒達の喧噪が周囲に広がっていくのだ。 すると、アリスはおもむろに立ち上がり、彼に向かってビシッとした口調で言い放った。
「二限目は許しません!」
「分かったよ、戻るよ」
「よろしい! それでは、がっ……。 いえ……。 いってらっしゃい!」
「はいはい、それじゃ、またな……」
彼は立ち上がり、アリスに後ろ手を振っては、校舎に向かって歩いていった。
「本当にろくでもない世界だよ……。 まったく、面倒くさい……」
そうつぶやいて、彼の姿は校舎の中に消えていく。 そしてアリスは、ただ彼の方を向いて見送っていたのだった。