出会いはいつも突然に
気づけば、暗く何も見えない空間で漂っていた。なぜか身体を動かすこともできず、声も出せない。ここは夢か現か幻か。
突如、目の前にあの死神が現れ、怨嗟の声を上げながら、俺の首を絞めつけてくる。
やめてくれ、俺にまだ恨みがあるのか。あの時もう十分苦しめただろう。
スモークタンのうらみ、スモークタンのうらみ、とうわ言のように繰り返す死神。
訳が分からない。勝手に奪っておいて何を言う。むしろ、こっちの台詞だ。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。
俺が抵抗できないのを良いことに一方的に蹂躙を続ける。
脳裏に直接届く大声が、ガンガンと反響し脳みそがかき混ぜられる。思考がぐちゃぐちゃにされ、自我がとろけ、自己が曖昧になっていく。
与える苦痛の加減を知らず、力をますます強め、それにつれ、死神自身もどんどんと大きく膨れ上がり、しまいには空間自体が死神となってしまう。
その大きすぎる両手で俺の全身を掴み、雑巾の如く搾り上げ、耐え切れず口から飛び出た魂をまた引っ掴み、同じく雑巾の如く搾り上げ、飛び出た魂をまた引っ掴みを繰り返して、俺の魂の抜け殻を作っていく。まるで脱皮のようだ。魂が抜け出るたびに重要な感情や感覚も一緒に抜け落ちていってしまう。人間らしさの消失。これが魂まで消されるということなのかもしれない。
絞りかすのまさに“なきがら”と化した俺だったものが空間に無数に漂うころには、俺の心にはほぼ何も残っておらず、いしきはほぼなくたましいをはきだすモノになってなんノいみもなイからのモノ…………あ、ア、あ、アァ、オレワナニオシテイルナンノタメニ、イル、オレ、ガ、キエテイク……ァアアアア、アレ、アレ?
フト、ナニもないはずなのに匂いがした。
確かに感じる匂い……心穏やかになる、春の陽だまりのように温かで、若草の原っぱのように柔らかい。土と太陽、そこにほのかな花の蜜の甘ったるさ。
自然の匂い。生命に溢れた匂い。
その匂いを知覚するのつれ絞り出ていたはずの俺の要素が戻り、消えかけていた心が蘇り、真っ暗な空間に光が差し込んでくる。
匂いと光がだんだんと強くなり、ついには死神をも霧散させ 、
そして、俺は目を覚ました。
「う、う~ん……」
目を覚ました俺の目に入ってきたのは誰かの目だった。
――思わず息が止まる。
深く水を貯めこんだような緑色の双眸。月光を反射してチラチラと光る金刺繍のような長い髪。絵画に描かれる天使のように柔らかな顔立ち。
少女にじっと見つめられていた。
「はぅあっ!?」
電気が走ったように起き上がって距離を取ろうとするも、うまく立ち上がれずすってんころりん、受け身も取れず、胸から床にずっこけた。
急に立ち上がろうとしたせいでどっと血が下がり、胸を打ちつけた息苦しさが相まって頭がクラクラ、心臓バクバク、息はゼイゼイ、何が何だか理解できず、もがこうとするもやっぱり動けず……どうやら後ろ手に拘束されているらしい。口にも何か突っ込まれて口枷をされていて、それが息苦しさに拍車をかけている。
それでもどうにかこうにか時間をかけて息と体勢を整え、辺りの状況を把握する。
男たちに襲われてからどれくらい時間が経ったのか、死後の世界ではないみたいだが……どうやら鉄製の檻の中にいるみたいだ。その上から覆いをかけられているらしく、隙間から差し込む幾筋かの頼りない月明かりが完全な暗闇になるのをなんとか防いでいた。
外から聞こえる人の声や息遣い、馬のいななき、そして、尻に感じる揺れ。
ここはあの賊の馬車の中らしい。頭領は約束を守って、命だけは見逃してくれたみたいだ……今のところ。
それ以外は全部奪われて、パンツ一丁。寒い。
まあ、耐えられないほどではないので、寒さの問題はいったん置いといて……さて、気にはなっていたが後回しにしていた、さっきからずっとこっちを見つめ続ける、見目麗しい女性。
俺と同じように後ろ手に猿ぐつわ、さすがに服は着たままだったが囚われている。
10代後半ぐらいだろうか。目尻の下がった緑の瞳に、まっすぐで艶のある金の長い髪、それに細く長い耳。馬車が揺れるたびに髪が波打ち、耳を撫でるたびにこそばゆいのか、小刻みにその長い耳を震わせている。
こりゃあれだ、エルフってやつだ。きっとそうに違いない。
蒼白い月明かりに照らされているせいだろうか、彼女からは人間とは違う不思議な雰囲気を感じる。こう、何がどうとは具体的に表せないが違う気がするのだ。
ああ、転生早々散々なことだらけだったが、ここに来てやっと異世界らしさを実感できた。今も置かれている状況は悲惨でも夢物語が一つ叶った思いで、今だけは素直に嬉しさがこみ上げてくる。動けたならば小躍りでもしているところだ。
せっかくだから彼女とお近づきになりたいけれども、互いに話すこともままならず、身動きも制限されている。
微妙な距離を開けて見つめ合うことしかできない。
どうすればいい。
よく考えろ、よく考えろ、こんな見目麗しいエルフと出会える機会はまたとないかもしれん。何とかして親密な関係にはなれないだろうか……って、とよく考えてみろよ、この状況。
パンツ一丁の男と縛られて2人きり。前世であればブタ箱待ったなし。
逆の立場なら普通警戒するなり、怯えるなりするだろう。
ならば、まずは俺が自由の利かない女性に襲い掛かったり、拘束されて女性に裸体を凝視され興奮する変態ではないことを伝えて安心させなければ。俺にそんな悪趣味はない……決して……ええ、決して。
口が使えないならば、身振り手振りで何とか説明するしかない。
身体をうねらせ、のたうち、目をぎょろつかせ、フンゴフンゴ荒く唸り、自分は賊の仲間ではなく被害者で、善人で紳士なことを全力で訴える。
分かり易いようにとにかく大きな動きでドッタンバッタン、馬車の床板を軋ませてボデーランゲージ。体で文字を作るんだ。
「うるせーぞっ! 静かにしろっ! ったく……」
覆いの向こうからの御者の一喝で2人して肩をビクつかせた。
鏡のように2人とも背筋が突っ張ったような全く同じ格好でフリーズし、目が合い、一緒の動きばかりしていることが可笑しくて、声は出せずともまた同時に笑い合った。
ひとしきり笑い合うと、彼女が背を向け、座ったまま起用にもぞもぞと近付いてきた。
何をする気だろうと見ていると、途中で振り返り縛られた手でこっちを指差してくる。
さっぱり意図が理解できず、下がり眉で見返すも、何度も肩をひねっては振り返って、やはりこちらを指差す。
ああ、俺も同じように後ろ向けってことかな。
とりあえず背を向けて同じ体勢をとってみる。
ふと、そこまでして一つ思い浮かんだ。
この少女は本当に安全なのだろうか?
囚われた少女=弱者と早合点していたが、それは確かか?
共感したから味方だと思っていたが、本当か?
10数人の男に囲われ、檻に入れられ、拘束された少女。普通どれか一つで十分じゃないのか。過剰とも思える拘束は何を意味するのか。
恐れだ。捕らえているものへの恐れ。
俺は今野蛮な男たちですら恐れるモノに無防備に背中を晒してしまっている。
見目麗しさでまやかし、人を食らう化け物なんて神話や物語でごまんと描かれているじゃないか。なぜそこまで頭が働かなかったのだ。野盗に出会ったときにこの世界はそんなに優しくないと理解したはずなのに、とんがり耳を見れたからと浮かれて警戒心を解いたばかりにこんなことになってしまった。彼女を見た時に感じた人間とは違うという感覚は、つまりそういうことだったのか。
今更ながら自分の無思慮に後悔した。
ぞくりと寒気がする。すぐ近くにモノの気配を感じる。もうすでにどうすることもできない距離までに近付かれていた。
俺の第2の人生もここまでか。
石化か吸血か丸呑みか血まみれか、いっそ、痛みのないよう一思いにやってくれ!!
ぴたりと俺の手のひらに何かが触れた。
ただ触れられただけなのに恐怖が全身を駆け巡り、ぴぎゃ、と短く悲鳴が漏れ、石化の呪いを受けたのか、体が動かなくなる。
その何かが手のひらを這いずり回り、くすぐり踊る。
なんだこれは舌か触手か。味見か舌なめずりか。それとも何かの器具か凶器か。串刺しか細切れか。
最期の恐怖を焦らされ、煽られ、ちょっとの刺激にも敏感になる。
一体何をしているんだ。何かのまじないか、儀式か。
強張る身体で念仏を唱え、訪れる死に身構えた。
この行為が、彼女が指で俺の手のひらに文字を書いてコミュニケーションを図ろうとしていることに俺が気付くのはもう少しあとのことだった。