異世界への大いなる第一歩
夜の帳が下りた山林に異質な風が立ち始めた。木の葉を揺らす程度だったものが徐々に強くなり、枝を揺らし、幹を軋ませ、木々が悲鳴のような音をあげる。森の生き物たちが異変を感じ取り、その場から我先に逃げ去っていった。
ついには突風となった風が竜巻のように渦を巻き、雷光を煌めかせ、その中心に小さな白い光点が現れた。
石粒ほどだったその光が急激に肥大し、周りの空間をも飲み込んでいき、人が入れるぐらいまで大きくなったかと思うと、急に電源を落としたように風も光も消え去ってしまった。
球体の形に合わせて、木や大地がぽっかりと切り取られた空間に座り込む一人の男が。
男はゆっくりと立ち上がり、
「何ここ、なになに? どうなってんの? なんも見えない、暗い、怖い!」
急な明暗差に順応できず、眩惑に苦しんでいた。
◇
暗闇にもようやく目が慣れてきたので、周囲を探る。
どうやら森の中に飛ばされたらしい。なぜか服装は死んだときのままのスウェット上下で、少し肌寒い。
木々の隙間からかろうじて見える月の高さから察するに真夜中ぐらいだろうか。あれが地球の月と同じものならの話だけど。いや、そもそもあれは月なのかしら。
野鳥や虫の鳴き声はどこからか聞こえてくるが、人家の明かりや人の気配は全く感じられず。
どえらいところに飛ばしてくれたもんだ。もうちょっと時と場所を選んでくれてもいいだろうに。
このまま森を抜け出せなかったら……いや、悪く考えるのは良くない。ビーポジティブ。
何か助けになるものはないかと改めて周りを見渡すと、月光をキラリと反射する見慣れたものが。
「ピーターハーンだっ!!」
鼠を見つけた猫の如くピーターハーンに飛びつき、貪る。
うめぇうめぇ……でもなんでこんなところにピーターハーンが?
ああ、そういえば転生する前にピーターハーンを貰ったんだっけ。服とかと同じで身に着けたものや持っていたものは一緒に飛ばされたってことかな。
でも、あのときは空っぽにしたはずなのに盛り盛りに入っている。俺と同じで新しい世界だから新しい命もらったのかも。
どんな理由であれ、異世界でもピーターハーンを食べれる、こんな幸せなことはない。もうけもうけ。
なんだか違う世界で食べるピーターハーンはいつもよりおいしく感じるなぁ……いくらでもいけちゃうね。
……。
…………。
………………。
げ、げふぅ……腹いっぱいだ。
いったい何枚食べただろうか。
おかしい。食べきりサイズのピーターハーンなのに、ファミリーパック以上食べても中身がいっこうに減っていない。どうなってるんだ。
袋の中に手を突っ込んでみる。中は見た目通りのおおきさっぽい。手が粉まみれになっただけだ。
今度は袋を逆さに。
すると、ピーターハーンが出てくるわ出てくるわ。
見る間に足元にピーターハーンが降り積もっていく。
ど、ど、どうなってるんだ。ピーターハーンがたくさん食べれることはうれしいが、これはちょっと不気味だ。
何か転生するときにピーターハーンに摩訶不思議な力が宿ったのか、それとも俺がピーターハーンを複製する能力に目覚めたのか、ピーターハーンの神様からの贈り物か。
考え込んでいるうちにもピーターハーンの滝の勢いはとどまることを知らず、ピーターハーンの海は俺の膝まで迫っていた。
このままではピーターハーンに埋もれ、窒息死してしまう。一旦袋の口を閉じなければ。
またピーターハーンが死因なんて、一体死神がどんな顔するやら……って俺はその死神に不老不死にしてもらったんだから死ぬ心配はいらないんだった……ん?
不老不死?
何か心にひっかりを感じ、不老不死にしてもらったときの死神の台詞を思い出してみる。
『そんなに好きなんだ……ああ、なら念願のご利益として不老不死属性つけてあげるよ』
『んじゃ、えいっと。はい、不老不死。これで餓死することはないでしょ』
不老不死にしてもらうのも何かすごくあっけなかったよなぁ……実感もなかったし。まるで別の何かに施したみたいに。それに俺には能力はくれないって言ってたしなぁ……。
もしかしてピーターハーンを不老不死にしたんじゃ……まさか、な……ハハハ。
いやだって、モノに対して不老不死っていうだろうか? 普通、不滅とか不朽っていわないか?
なら、なぜこのピーターハーンは湯水の如くあふれてくるのだろうか?
一体全体どうなっているのか……ピーターハーンを見つめる……。
自らの不死性を確認するため俺は一つの賭けにでる。
ピーターハーンの破壊を試みるのだ。もしピーターハーンが不老不死属性を得ていたならば破けても再生するかどんなこともしても破けないか、とにかく不思議な力が働くはずだ。何事もなく破けてしまえば俺の不老不死が証明される。
馬鹿なことをしようをしているのはわかっている。もしピーターハーンが不老不死属性などなければ、貴重な、大好きな食料を無駄にしてしまうのだ。自らの不老不死かピーターハーンの不老不死か。どっちの結果にせよ自分にはマイナスしかない。
でも、確かめざるを得ない。これからの人生に関わる重大なことだ。
意を決して、袋を両手で握りしめ力を込めた。
ふぐぬぬぬぬぬ…………ぅうう、いや、まだ諦めるな。引っ張っても開かないぐらい硬い、糊付けが過ぎた個体ままある。
今度は袋端のギザギザに沿って縦に引き裂いてみよう。これならいけるはずだ。
ふぐぬぬぬぬぬぅぅぅぅ…………ぅぅぅうううわわわあああぁぁぁ!!
地面に叩きつけて踏みつける。何度も何度も何度も。こんなことあるはずない。嘘だ。有り得ない。破れろ壊れろ千切れろ消えてなくなれ――!
俺からのどんな仕置きを受けようとも、そこには何も変わらない新品同様のピーターハーンが。
信じられない、信じたくない。
いくらピーターハーンが大好きでも永遠の命とは比ぶべくもない。
俺の不老不死の体で異世界の神となり、悠々自適酒池肉林のハッピーライフを過ごす夢はどうすれば……。
絶望だ。ピーターハーンの海に倒れこむ。
見知らぬ世界の森の奥に放り出されて、唯一の希望も勘違い。頼れるものは駄菓子のみ。
出鼻をくじかれ、何もやる気が起きないし、動く気力もない……もう寝てしまおう。不貞寝だ、不貞寝。
死神は徳を稼いで来いと言ってたが、自分の明日すらおぼろげなのに、他人を助けるなんてできるわけないだろ……。
――キィーーン。不思議な音が脳裏に響いた。
不意に首輪が絞まり、息が出来なくなる。
なんで急に……何が起きて……?
半ば無意識で首元を掻きむしると硬いものが引っかかる。
そうだ首輪だ。死神にもらった、綺麗な首輪。
『装着車が悪いことをしようとすると、首輪が絞まるようになってるから』
遠のきつつある意識の中、死神とのやり取りが走馬灯のように――死後の記憶なのに――フラッシュバック。
俺が何か悪いことをしたっていうのか。行き先の見えない将来に不安を感じて、無気力になっただけじゃないか。それすらも悪というのか。
その通りだと言わんだかりに首輪がまた一段と絞まった。
ふしゅり、と勝手に息が漏れる。
最後の一息だったみたいで、気道のお腹と背中がくっついたわ。完全密着隙間なし。
こりゃだめだ。息できねぇもん。死ぬ死ぬ死んじゃう。手で外そうとしてもビクともせず、余計に喉元へ食い込んでくるし。なんか頭がふわふわして、気持ちよくなってきた。これが天にも昇る気持ちってやつか。
最後の一息で魂まで吐き出しちゃったようだ。
異世界転生即死RTA、多分俺が一番早いと思います……。
と、昇天しかかえた魂と意識が体内に引き戻された。
息ができる! 助かった!
なんでか知らんが首輪が緩んだらしい。
欠乏した酸素を求めて一心不乱に呼吸する。
あぁ~空気がうまい。森の中のマイナスイオンをたっぷり含んだ空気だから格別だ。
生きてるって素晴らしい……って、あれ、なんだか息苦しいぞ……え、また? 嘘、嘘でしょ?
緩んでいた首輪がまた絞まり始めた。
なんでなんで、俺をどうしたいの、殺したいの、生かしたいの、ただ気まぐれで苦しめたいだけなの!?
なんでこんなことするのもうゆるしてゆるして、ぐるじ、ぐるじぃ!!!
嗚咽や体液をまき散らして抗議するも、首輪はただ寡黙に俺の首を絞め続けるのみ。
暗闇の中にいるはずなのに、視界が白く染まっていく。何が見えているのか、何も見えていないのか。
意味のないことだと分かっていても、手が喉を掻きむしってしまう。
いっそ喉を掻き破って穴を開けてしまえば、息が出来るのではないか。
そうだ、そうしてしまえ。死ぬかもしれない?
この苦しみから解放されるなら死んだほうがましだ。ほら、爪をたて喉を割いてしまえ。楽になりたい……でも力が入らない。自分の思い通りに動かない……意識が遠のく……。
「カハァッ!? ハッヒューヒュー……」
チカチカする視界の中で、気がつけばまた首輪が緩み息ができるようになっていた。
浅くて速い呼吸音と心臓の早鐘がいやに耳に響く。
恐ろしい考えが頭をよぎった気がするがそれはもうどうでもいい。今は息ができるんだ。それでいいじゃないか。
吸って吐いて、吸って吐いて…………って、まただ……もう、いいよ。
再三、首が締め付けられる。
なぜこんな目に会わなければいけないのか。
もしかすると、死神の甘言に乗せられてやって来たここは異世界などではなく、地獄ではないのか……ああ、それですべて合点がいった。
ここは暗闇の中で人間を苦しめ続ける無間地獄なんだ。あいつは初めから俺を転生させる気なんてさらさらなく、ただ苦しめる気だったんだ。
この苦しみを永遠に味わわなければいけないという最悪の真理に俺は辿り着き、絶望するのだった。
◇
どれくらいの時間が経っただろうか。1分、1時間、1億年か。
どれくらい首輪が絞まり、緩みを繰り返しただろうか。
何度も苦痛を与えられ続けたせいで心はとっくに無気力になっているのに、締め付けられるたびに未だ体は反射で首を掻きむしってしまう。そのせいで首元がひりつく……いや、正確には痛みの感覚はとうにないのでなんだか熱を持っているなぁ、ぐらいの感じだ。
喚き過ぎたせいで声も出ず、喉は荒れ、涙も枯れた。もう心身ともにボロボロだ。
でも、一つだけ良いことに気が付いた。
地獄の底にあっても夜空は綺麗だということだ。
生前は地べたに寝っ転がって夜空を眺めたことはなかった。
真ん丸お月様は目がかすむぐらいに明るくて、数えきれない星々はいろんな色で輝いている。どの光も美しく神秘的で心が洗われるようだ……生死の淵にいるせいでなんだか感慨深くなっているのかもしれない。
センチメンタルな感情が呼び水となって様々な感情が胸に去来する。
勉学、仕事、人生をうまくできなかった自分への怒り。責め苦を受け続けなければいけないやるせなさ。つまらないことをしてしまった後悔。楽しかったこと。それがもうできない悲しみ。些細な悪事への罪悪感。
負の感情がぐるぐる混ざり合って一つの言葉となる。
「ごめんなさい」
と。
誰に、何に対してでもなく、ぽつりと口から漏れた。
カチリ、とスイッチの切れるような音がした。
そして、首元の重圧が消えた。
突然の出来事にしばし、呆けて空を眺め続ける。
月のうさぎを探してみたり、星の数を数えてみたり、星を繋いでピーターハーン座を新たに作ってみたり。
……。
…………。
………………。
………………首輪が絞まらなくなった!?
また数瞬の絞まるまでインターバルかと思って、身構えていたが、本当に止まったようだ。
何がどうなって止まったんだ?
時間か、回数かそれとも――。
思い返して、確信した。
言葉だ。それも謝罪の言葉、ごめんなさい、だ。
なーんだ、スイッチ切れるじゃん。永遠の責め苦とか、ビビらせやがって。ちっぽけなアクセサリーのくせして人間の生殺与奪を握れる思ったら大間違いなんだよ!
ふんす、と仁王立ちして、むんず、と首輪を両手で握りしめ、
「こんなもの引きちぎってくれるわ!」
と啖呵を切って、えいや、と力を込めて、キィーーン、と再び首輪が絞まった。
「え、嘘、なんで、終わったでしょ、なんも悪いことしてないじゃん、なんでなんでなんで……あ、ごめんなさい、ごめんなさい、あれ、これでスイッチ切れるはずじゃあ……なんでぇぇぇ、ぐぇぇぇ……」
命を賭して首輪について分かったことがある。
首輪は悪いことをしようとするか、良いことしようとする努力を放棄すると絞まる。
首輪を外そうとしても絞まる。
少なくとも人間の力では外せない。
ごめんなさい、と謝ると絞まりが解除される。正し、一定の回数は絞めつける。
これらのことをしかと心に刻み付けた。