久太郎、異世界を知る
ナイフが振り下ろされる瞬間、獣くさい生暖かい風が吹き抜けた。同時にのしかかる重さから解放された。
風が吹き抜けた先の闇の中で悲鳴が上がるも、その場にいた俺も賊も何が起きたか理解できず呆気に取られている。
「やめろやめろっはなせっうおおおおっやめてくれぇぇっ!!」
悲鳴には聞き覚えがあった。俺の上に座っていた奴の声だ。風があいつをさらっていったんだ。一体闇の中でどんな目にあっているのだろうか。否が応でも恐ろしい想像が頭に浮かんでしまい鳥肌を抑えられない。
俺が――おそらくほかの賊も――恐ろしい考えを巡らせている間に、もう悲鳴は聞こえなくなり、かわりにバリバリと何かを貪る音と、かがり火を反射して光る双眸が闇に浮かんでいた。
誰もが驚きと恐怖で動けずにいると、風が吹いてきたであろう方向から今度は声が聞こえてくる。
「おぉーい、ゼヴゥ……どこ行ったんだーいぃ……」
かすれた弱々しい声で何かを叫んでいる。
次は一体何が来るってんだ。誰かの唾をのむ音が異様に大きく響いた。
「うー……あら、皆さんお揃いで。ドモドモ」
のそのそやって来たそれがかがり火に照らされ、こちらの緊張とは裏腹に呑気なセリフと共に姿を現した。
「狼が一匹こっちのほうに来たんだと思うけど、誰か……ふぅぅ……知らない?」
またがっていた狼から危なげな足取りで降り、どさりと荷物を置いて、世間話のように気軽に声をかけてくる。
初め、そのしゃがれた声とフラフラと足元の定まらない様子からおばあさんかと思ったがよく見ると妙齢の女性だった。なんだかもっさりした変な髪形している。
何が来るか身構えていたが、狼と一緒ではあるが女だと正体が分かったことで心に幾分か余裕ができたようで、そこかしこからため息が聞こえてくる。もちろん俺も含めて。
それに俺にとっては待ち望んだ助けかもしれない。
彼女が鬼か蛇か分からないが、どうせこのままでは俺は死ぬ運命だ。なら、賭けてみる価値はある。
もし、たまたま通りかかっただけのただの女性なら巻き込んでごめんなさい。もし、バッドアスな悪女なら賊を懲らしめてから俺を好きにしてくれ。
賊が安堵で気を抜いている隙をついて、女性の足元まで一気に転がってすがり付く。
「あってめぇこらっどこ行く気だ!」
頭領が罵声を浴びせてくるが全く無視して、女性に助けを懇願する。目を潤ませて、最大限に庇護欲を誘っておこう。
「ふもっふももも! ふんがふんがっ!」
言葉にならない言葉を上げつつ、近くで女性を見上げると、変な髪形と思っていた頭の盛り上がりは犬耳であった。違和感なく頭になじんでいるのでアクセサリーとかではなさそうだ。いわゆる獣人ってやつなのかな。
それにしても顔色が悪い。彼女に助けを求めるのは間違いだったか。
「あー、なんかめんどーなとこに来ちゃった感じ?」
ものすごく面倒くさそうな声で見下された。
「むーむーむがーーふっ!」
いや、人助けに面倒くさいとか関係ないでしょ! 命かかってんだから! 功徳積んどいたほうがいいよ。死後大変な目に遭うから! 経験者からの助言は聞いといたほうがいいって!
「ほら、ゼヴ行くよ……出ておいでぇ……」
俺の上に座っていたやつを吹き飛ばした風の正体、ゼヴと呼ばれた狼が暗闇から姿を現し、こちらに歩いてくる。その口にピーターハーンを咥えて。
それを見てか、そばに控えていたもう一匹の狼が駆け寄っていく。二匹して袋を引っ張り合っている。
「ふごごご! ふごっふごっおふっふごうぅ!」
あれ、俺のなんです! ほしいならいくらでもあげますから! まず俺を助けてみません? おたくのワンちゃん欲しがってますよ?
目線とうめき声でアピールし続けるが、俺の再三の要求にも応じる様子はない。
「わふっ、わふっ、わふーん、がおーん」
それなあらば、と一縷の望みで狼たちに向けてわんわん訴えてみると、ちらりとこちらを見た。が、すぐさま興味を失ったようで、2匹でピーターハーンの袋を噛んだり、出てきたピーターハーンを奪い合ったりしている。
やっぱり駄目だよなー。所詮は畜生なんだよなー。わかってたわかってた。
「んじゃお邪魔しましたぁ……はぁ……」
無慈悲に俺を置き去りにして立ち去ろうとする女性に、待ったがかかった。
「おいおい、ちょっと待った。見逃すわけにはいかねぇな」
ひと際図体のでかい賊がニヤつきながら、こちらに近づいてくる。
「大丈夫大丈夫、あたし口は固いほうだから……なーんも見なかっ……ウプッ……」
手で口元を覆い息も絶え絶え蒼い顔で答える女性。
今にも吐きそうな雰囲気で言っても全然説得力ねぇなぁ……なぜかすでに瀕死のこの女性に、助けを求めたのは間違いだったみたい。犠牲者を一人増やすだけの結果になりそうだ。俺の助けを求める声のせいで彼女を巻き込んでしまって本当に申し訳ないことをした。俺と同じく運がなかったと思って諦めてくれ。
「そうはいかねぇな。俺たちもちょっと溜まってるんだわ。いい体で相手してくれや、へっへっへっ」
吐き気を抑えるためか前屈みになったせいで意図せずアピールされている彼女の胸元を覗いて舌なめずりする賊。
この期に及んで賊の意地汚さを見せつけられ、嫌になる。
「そういうの、いいから……いま……それどころじゃ……ない、から……ゼヴ、ループス……ちょ、背中貸して……」
土気色になった顔で俯いて、賊の顔も見ずにあっちへ行って、と手を払い、代わりに狼たちに助けを求める彼女だが、お菓子に夢中な2匹はやっぱり無視。そもそも彼女の言葉も通じているのか。
眼中にない扱いを受けたことに腹が立ったのか、賊がわざとらしく足音を立てこちらにそばに寄ってくる。
グロッキーな彼女はそれに気を配る余裕もなく、俺がうーうー唸って警告するも気づかない。
唸り続ける俺を素通りして賊はあろうことか、女性の腹を救い上げるように殴りやがった。
「黙った言うこと聞いてりゃいいんだ、よっ!」
体が浮くほどの勢いで殴られ苦しそうに呻き、よろよろと2、3歩歩いて膝から崩れ落ちる彼女。
その様子を満足そうに笑う賊。周りの奴らも同じようにニヤついている。
なんでそんなことが平気でできるんだ。そんな顔でいられるんだ。彼女が何をしたっていうんだ。ずっとそうだ、俺のときだって。人を傷つけることに何の負い目も感じないのか。この世界では理不尽に暴力をふるうことは普通なのか。俺が間違っているのか。
女性は痛みに体を震わせている。
苦しいよな、ほんとすまん。自分の責任でもあると思うと罪悪感で辛い。ああ……ジジにもこんな思いをさせてしまっていたのかな。
何かしてあげれることはないかと這い寄って声をかけようとしたが。
「オロロロロッッ!!」
たまらず吐いてしまった。
もともと体調悪そうだったもんな、仕方ない仕方ない。頭頂部のケモノ耳も力なくしなしなになってしまっている。
嗚咽と吐しゃ物を交互に漏らす彼女の背中を撫でてやる。楽になるまで吐くと良い。
ただこれだけ近いと吐しゃ物がびちゃびちゃと地に溜まる音と独特の酸っぱい匂いがこちらまで届いてくる。危うくこっちまでもらってしましそうだ。いや、駄目だ吐くなこらえるんだ。
吐き気に苛まれながら彼女の介抱を続けること数分、吐くものの吐き、荒かった呼吸も穏やかになり始めた。
しかし、ちょっと気になったことがある。漂う吐しゃ物のすえた匂いに混じって、いや、それよりも強くアルコール臭が漂っていた。
――あれ、もしかしてこの人……。
「……ああ、ありがと、楽になったよ」
彼女が俺の撫でる手を払って急にすくりと立ち上がった。
「自分だけすっきりしてよぉ、俺たちもすっきりさせてくれよ、なぁなぁ」
立ち上がった彼女を見て、下卑た笑いを浮かべ、股間をまさぐる賊。
彼女は先ほどのまであんなにふらふらだったのが嘘のように、賊にずかずかと近付いていく。
――うん、やっぱりそうだ……。
彼女の変貌に気付いていない賊は従順になったと思ったらしく気を良くして、彼女の胸に触れようと手を伸ばした。
「んじゃちょっと味見っと……う、うぎゃああああああああ!!!!」
逆に女性に頭をわしづかみにされてしまった。逃れようともがいているが彼女のアイアンクローはビクともしない。普通の女性では考えられない怪力だ。
「おいこら、どーしてくれんだよ……せっかく飲んだ酒全部吐いちまったじゃんか!!」
唾を吐き捨て、蒼ざめていたはずの顔は怒りで赤く、彼女は完全にブチギレていた。
――この人、病気でも虚弱でもなくただただ酒に悪酔いしてただけや……心配して損した気分だ……。
「おらぁ!! 人が親切で見逃してやろうとしてたのによぉ……」
大の大人をわしづかみにしたまま、地面叩きつけた。果実をつぶしたようなぐちゃりという嫌な音が聞こえてくる。
地面に半分埋まった賊は完全に沈黙していたが、小刻みに痙攣していたので死んではいない……だろう。
「ざけんじゃねぇ!!クソアマがぁ!!」
「なにしてくれとんじゃあ!!」
「なめやがってよぉ!! 覚悟せぃ!!」
仲間をやられた賊が口々に悪態をつき、武器を構える。
「こっちの台詞じゃあ!! アタシから酒を奪った罪はファンドルドラゴンよりも重いんだよ! ループス、あれ持ってきな!」
呼応するように彼女も叫び返し、狼を呼ぶが、彼らはリラックスしたように伏せてピーターハーンをモッチャモッチャと堪能している。あとファンドルドラゴンってなに?
「あぁ、もう、まったく!!」
狼の態度にぷんすか怒り、仕方なく自分の荷物から2つの何かを引きずり出した。
一見するとそれは金床のようだった。黒く重そうな鉄の塊。それに数個の輪っかがまるで持ち手のように付いていた。
彼女はその輪っかに指を通して軽々と持ち上げ、両手それぞれにグローブかメリケンサックみたいに構えた。
「おーし……死にたい奴からかかってきな!」
ガンガンと拳にはめた鉄の塊を打ち鳴らし、賊を誘う。
さすがにその異様な物体にたじろいだものの、抜いた得物をしまうわけにもいかず数人の賊が彼女に襲い掛かっていった。
人数差はあったものの彼女が負けるイメージは湧かなかった。
見上げた彼女の背中はゲボを吐いていたときの頼りないものではなく、怒気をはらんで鬼神の如きオーラをまとっているように感じたからだ。とても常人とは思えないかった。
3度鈍い音が響いた。襲い掛かった賊と同じ数。彼女が賊を殴りつけた音だった。
人間が宙を舞うのを初めて見た。トラックにはねられたらこんな感じなのだろうか?
ぶん殴られて吹き飛んだ賊が、木に当たったり、地面を滑ったりして止まった。起き上がってくることはなかった。壊れた人形のように四肢があらぬ方向に向いていた。
人間離れした力業を見せつけられ、賊どもは顔を引きつらせていた。膝を笑わせ震えていた。得体の知れないものに襲われる恐怖を再び味わっているのだろう。
ふはははは、怖かろう怖かろう。泣き叫んでもいいのだよ。ざまあみろ、因果応報ってやつだ。いいぞいいぞもっとやっちまえ!
立場が一変し俺は優越感に浸っていた。彼女が敵か味方かなんて関係ない。俺の力でなくても関係ない。俺を殺そうとした奴らが震えている姿を見れればそれでよかった。
「な、な、なにびびってんだ! たかっ、たかが、お、おんなひとりだぞっ!」
部下を鼓舞するように頭領が叫んだ。が彼の声も震えていた。
それでも頭領の一喝で少しは気力が戻ったらしく、手の武器を握りしめて奇声を上げ、彼女へ立ち向かってくる。
彼女はそれを見て、猛獣のように尖った歯をむき出しにして笑った。
俺はあるゲームを思い出していた。昔の武将を操って一兵卒をなぎ倒していくゲームだ。まさにその通りの光景だった。
ある者は顔面に鉄塊を叩きつけられ吹き飛び、ある者は突き出したナイフごと腕を砕かれた。
ハンマーのように鉄塊が振り下ろされ、頭蓋をかち割る。頭がボールのように地面で数度バウンドした。
刃がこぼれ火花が散り、鮮血が降り注ぐ。骨を折る音。肉をすり潰す音。叫び声。
気づけば立っている賊は一人になっていた。そいつからはもう戦意は感じられず、目に涙を浮かべ恐怖に震えていた。
もうこの場にいることすら恐ろしくなったのか、得物を投げ捨て森に向けて逃げ出した。
彼女はその姿に落胆したようだが、見逃すわけではなかった。
鉄塊を振りかぶって走る賊めがけて投げつけた。
数秒後、鉄塊と人間と木のサンドイッチが出来上がり、賊は全滅した。
蹂躙は終わった。
流れ出た血がかがり火を反射してぬらぬらと怪しく光り、生臭い匂いが充満している。そこかしこからうめき声が聞こえ、ここは地獄の底のようだ。
この地獄を作り出した獄卒が次の獲物へと目を向ける。それすなわち俺のこと。
返り血に濡れた彼女はふしゅりと荒く息を吐いた。
賊への逆襲の高揚感から一転、俺は冷や汗が噴き出て、寒気に包まれた。
どうやら俺の受難はまだ終わっていなかったようだ。




