第二章
第二章 自然都市メリア
初めての訓練から三日後。俺はまだ生きていた。
杏華も徹夜でシミュレーター訓練をするほど鬼ではないようで、俺は何とか過労死を免れていた。それでも翌日の寝不足は避けられなかったが。
「起きろナマケモノ! 無駄に睡眠取りすぎよ!」
例の如く、ベッドの下から罵声が飛んできた。ナマケモノは一日に二十時間以上寝るんだよ。俺は四時間しか寝てないんだ。つまり俺はナマケモノではない。いつにもまして完璧な論述だ。これなら絶対に反論できないだろう。
「股間蹴り飛ばして去勢するわよ」
反論(物理)された。仕方なく起床し、梯子を下りる。
「あと残すはシングル射撃とペア射撃だけよ。さくっとクリアしちゃいましょう」
三日間の地獄のような日程により、もうすぐ実地に出れるくらい必須訓練を消化していた。これほど詰め込んでやっているのは俺達しかいないに違いない。一般人だったら確実に心と体がボロボロのバッキバキだろうからな。
「早く着替えなさいよ。あたしお腹ペコペコで死にそうなの」
素早く着替えるのにもこの三日間で慣れたものだ。寝癖を直す余裕もできたし。
「あー早く実地に出たいわ。訓練ばっかで飽き飽きしてたのよ。ま、今日でそれも終わりだけどね」
杏華は俺に背を向け、愚痴をこぼしていた。ああは言うものの、訓練には真面目に取り組んでいて、誰よりも努力しているのは、隣にいる俺が一番よく知っている。だからこそ俺も、こいつの足手まといにはなりたくないし、逆に助けてやれるように頑張っている。
制服に着替え終わり、身なりを整えると一緒に部屋を出た。
朝食を済ませると、早速七号館、シミュレーター室へと向かう。すでに六人ほど使用していて、俺達は右側最奥の二台を使うことにした。頭部横にある挿入口に学生証を入れ、起動させる。残りの必須科目がシミュレーターだけなので、アーマースーツを着る必要はない。制服のまま、カプセル状の装置に横になり、上部を閉めた。
仮想空間への転移が始まり、意識が引き込まれていく。目を覚ますと、純白の世界が俺を取り囲んでいた。上体を起こし、立ち上がるとウインドウを呼び出す。
「一発でクリアしなさいよ。でないと時間の無駄だから」
隣で同じくウインドウを操作している杏華が呟く。
「ペア射撃でまた会いましょう。それじゃ先に行ってくるわ」
杏華がボタンに触れると、姿が掻き消えるようになくなった。
「俺もまずはシングル射撃で四十五点以上取らないと」
シングル射撃の項目をタッチする。確認ダイアログに、はいと答えると装備ウインドウに切り替わった。メインアームはアサルトライフルでいいとして、サイドアームはどうするべきか。遠距離の的は出ないらしいから、機動性の高いハンドガンにしておくか。
間違いがないか確認し、OKを押下。ウインドウが消え、装備の実体化が始まった。
ハンドガンをメタリックなホルスターに収め、左脚に二か所のベルトで固定する。ポーチに予備の弾倉が入った黒のベストを着用し、アサルトライフルを手に持った。
「それでは、シングル射撃テストを始めマス。3、2、1……」
しゃらん、と鈴の音が響く。ピピッという電子音が鳴るのと同時に、視界に二つのターゲットが出現した。今回の的は赤で統一されている。どこかに当たればポイントとなり、五十点満点中、四十五点以上取れればこのテストは合格だ。
単射で視界の中の的を確実に撃ち抜いていく。右後ろからピッ、と電子音が鳴る。ターゲットが出る瞬間にはその場所でピッと音がなるのだ。
目と耳で判断し、三百六十度に現れる的を射撃する。右、真後ろ、左前、真上。次々と表示される仮想の的を、俺は何も考えずにただ黙々と撃っていく。
途中、ターゲットが青色のやつが出てきた。これは五発撃ち込まないとポイントにならず、しかも表示されている時間が赤色と同じ五秒というかなり鬼畜な仕様になっている。
視界左隅に現れた青色ターゲットを、連射にしたアサルトライフルで照準し、トリガーを引く。パパパシュッ! 三発目が銃口から吐き出された時、マガジンの中の弾薬が空になった。リロードでは間に合わないと思い、左脚のハンドガンをすぐさま抜く。左手だけで照準を合わせ、立て続けに二回トリガーを引き絞った。
軽い反動が肘と肩に伝わる。弾は的に命中し、青色が消滅した。ターゲットが出ていないことを確認しハンドガンをホルスターに戻す。空になった弾倉をリリースし、ベストに付いているポーチにしまう。新たな弾倉を隣のポーチから取り出し、ライフルに叩き込む。
再びターゲットが出現。だが、かなり遠い位置だ。五十メートルはあるか。小学校低学年のかけっこの記憶から、およそそのくらいだと推測した。
息を止める。適当にばら撒くよりも一発に集中した方が当たるのが、この三日間で分かったことの一つだ。右親指でセレクターレバーを単射に変更し、ホロサイトを覗く右目に全神経を注ぐ。
青白い弾が空気を切り裂いて飛翔していく。五十メートルの距離を一瞬で通り過ぎ、見事的に着弾。胸の内でよし! と言う。
赤と青のターゲットが同時に出現した。レバーを連射に切り替え、落ち着いて一つずつ対処する。後半になるにつれて青が増え始めていた。弾切れが起きないように、マガジンの中に数発残っていても、次の弾倉に取り換えていく。
あといくつターゲットが残っているのか分からなくなっていた。次々と現れる赤と青の的。それを撃ち抜く俺の銃。
俺を中心に、正面、右後方、左後方で同時にピッと電子音がした。まず目の前の青ターゲットに五発撃ち、体を左に旋回させる。左後方の的も青だった。サイトを覗いて照準を合わせ、トリガーを引く。そこで俺はようやく気が付いた。
同時に出た、ということは消えるのも同時。もし最後の一つも青だとしたら、五秒以内では絶対に間に合わない。どうする。最後の一つは諦めるか。それとも一か八かハンドガンで狙ってみるか。
男だったら無茶してなんぼだ! 俺はフォアグリップから左手を離し、代わりにハンドガンを引き抜いた。右手でアサルトライフルのトリガーを絞りながら、左手でハンドガンを的に向ける。
パシュ!、パシュ!、パシュ!。三発撃ったところで時間切れとなり、ターゲットが消滅してしまった。左手に意識が行き過ぎて、ライフルで狙った方も撃ち損じていた。今のが最後の的だったようで、シングル射撃テストが終了した。
「結果を発表しマス。――五十点中、四十七点。おめでとうございます、合格でスネ」
何とか合格することができた。これで杏華に怒られずに済むな。
それにしても四十七点か。二点は最後の部分だが、あとの一点はどこだ? 見逃したのだろうか。うーん、分からん。いずれにせよ合格したんだ。まずはそれを喜ぼう。
手に持っていた銃と装備品が消え、体が軽くなった。
「さて、ペア射撃か。ウインドウを頼む」
ホロウインドウが目の前に出現し、テストのタブに触れる。画面が切り替わり、スクロールでペア射撃の項目を探し出し、それを選択。待機中と書かれた新たなウインドウが現れる。これで杏華もペア射撃を選択し終わっていれば、同じ空間に戻ってくるはずだ。
すぐに杏華の姿が薄く表示され、だんだんと二人の空間が同一化していった。完全にリンクが完了すると、杏華がこっちに近づいてきた。
「ちゃんと合格したんでしょうね?」
「まあ、一応な」
「一応? あたしは五十点満点で完璧だったけど?」
お前の超人的な身体能力なら余裕だろうよ。一般人の俺と比較しないでもらいたい。
その時、ガイドの音声が聞こえた。
「ペア射撃テストを始めマス。あら、お二人はこれで必須訓練が終了なのでスカ。頑張ってくだサイ」
俺達の前に一つずつ、装備選択ウインドウが現れる。もちろん俺はさっきのシングル射撃と同様に、アサルトライフルとハンドガンを選ぶ。杏華の方に目をやると、俺と同じ装備の他に、背中の左側にショットガンを背負っていた。的に当てるだけなのに、近距離用の散弾銃とはどういう意図があるのだろうか。こいつのことだから、単に多くの銃を持っていればいいとか考えていそうだな。
準備が完了すると、早速ガイドがカウントダウンを開始した。
「ペア射撃テストを始めマス。3、2、1……」
しゃらん、と心地よい鈴の音が耳に届いた。いきなりピピピピッ、と四つの電子音が辺りで響き渡る。杏華と背中合わせで構えているが、背後の的は完全にパートナー頼りだ。全部一人で対処できるほど簡単には設定されていない。シングルの倍の百点が満点となり、九十点以上が合格ラインとなる。
どちらが足を引っ張っても絶対に合格できない。息の合ったコンビネーション、リロードのタイミング、そして自分がどの的を狙うのか。一つでも失敗すると、途端に全てが崩れ、立て直すのが難しくなってしまう。背中で杏華の行動を把握し、自分のベストな行動を重ね合わせていく。
「諒! リロード!」
俺の右肩にショットガンが逆さに載せられた。ポンプアクションタイプなので、左手でフォアエンドと呼ばれる部分を前後にスライドさせる。カシャッ! と音が鳴り、空のショットシェルが排出された。
俺にリロードを求めるということは、こいつは片手でショットガンをぶっ放してるのか。
まったく、常識が通用しない奴だ。いくら新型の銃で反動が小さくなったとはいえ、本来両手で構える物を、女の子が片手で操っているのだからな。
杏華のチート的な動作と射撃センスで、俺は眼前のターゲットだけに集中できる。次々とポイントを稼ぎ、いよいよ終盤に差し掛かった。
「あと五つよ!」
背後から再び声。こいつ残りの的の数まで把握してんのか!?
俺は視界右端の青ターゲットを撃ち抜き、その後真正面に出現した物に照準を合わせる。そしてトリガーを引き絞った。しかし、四発でマガジンが空になり、慌ててハンドガンに切り替える。
次の瞬間、撃ち漏らした的の少し上に、新たな的が現れた。
色は青。だがハンドガンの弾倉には二発しか残っていない。どちらをリロードしても間に合わない。――直感で俺はしゃがみ込んだ。撃ち漏らした方にハンドガンの弾を一発当てる。
杏華。お前なら絶対にやってくれると信じてるぞ。
頭上からドシュッ!! と銃声が響く。そして俺が撃てなかった的に見事に命中した。百個目のターゲットだったようで、ちょうどテストが終了を迎えた。
「やっぱり、俺の読みは当たっていたな」
「なーにが、読みは当たっていた、よ。結局あたしに頼っているだけじゃない」
振り向いて立ち上がると、杏華が両手で構えたショットガンのフォアエンドを前後にスライドさせた。空になった12ゲージショットシェルが排出される。
「結果を発表しマス。……おお! 百点満点でスネ! 合格デス!」
「あたしが不合格になる時は、インフルエンザにかかった時だけなのよ」
「お二人はこれで実地に出ることが許可されマス。実地でもその射撃の腕前で、存分に活躍してくださイネ」
装備品、それと銃が手の中から消滅した。俺は一つ安堵の息をつく。
「ありがとうな助けてくれて。足を引っ張りたくはなかったんだけどな」
「助けた? 違うわよ。あたしの的だと思ったから撃っただけよ」
まったく可愛げのない奴だ。そこは、どういたしまして、でニッコリ笑顔だと評価が高かったんだけどな。そんなことを思っていると、唐突に杏華が右の拳を突き出してきた。一瞬殴られるかとヒヤヒヤしたが、どうやら違うらしい。
「今度はその助け、はないから覚悟しておいてよね」
そっぽを向き、そう俺に告げた。
「ああ、できるだけ頑張ってみるよ」
拳をコツンと打ち付けた。杏華は何も言わなかったが、伝えたい気持ちはその拳から汲み取れた。何だ、可愛げがないかと思っていたが、誤解だったようだ。
シミュレーターの上部を開け、俺は上半身を起こした。装置から降り、靴を履く。大きく体を伸ばし、現実の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
「やっと訓練が終わったわね。次の任務、早く来ないかしら」
いつの間にか隣に立っていた杏華がぼやいた。昨日もおとといも、訓練中に任務要請が出されたのだが、二日で必須訓練が終わっている人などいるはずもなく、その後どうなったかは分からない。誰か別の人が対処したのか、それとも放置されているのか、俺達には知る由もない。
「今から何する? とりあえずスーツでも着てスタンバっておくか?」
「そうね。着てからまた考えましょう」
シミュレーター室をあとにし、二号館へと向かった。ロッカールームに入ると、最初の訓練が始まる九時の三分前で、大勢の生徒が着替えのために集まっていた。慌てて準備している人を横目に俺は自分のロッカーにたどり着く。ロッカーを開けるとブレザーを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
一時限目が始まると、他の生徒の姿はほとんどなくなっていた。アーマースーツに着替え終わると、ちょうど杏華が更衣室から出てきた。手にはさっきまで着ていた制服を持っている。
「静かになったな。俺達、こんな余裕にしてていいのか?」
「その分、必死こいて努力してきたじゃない」
制服をロッカーにしまいながら、杏華は答えた。
「友達が学校で勉強してるのに、自分は家でゲームしてるような感覚で落ち着かないんだよ」
「あんたも小心者ねぇ。別に悪いことしてるわけじゃないのに」
「縛られる方が楽でいいんだよ。自由だと逆に何すればいいのか分からないしさ」
「はぁ……。これだから最近の百崎諒は……」
「最近の若者を批判する中年みたいな言い方すんな!」
わざとらしく呆れた顔が妙にむかつく。全国の俺と同じ名前の人、この度はうちのパートナーが大変失礼な発言をし、申し訳ありませんでした。
ロッカーの扉を閉めると、杏華が俺の方に向き直った。
「それなら私が選択肢を与えて縛ってあげる。1、部屋に戻って寝る。2、訓練する。3、あたしとチョメチョメする。さあどれ?」
「3」
最近あまり眠れてないしなぁ、1にしようか。いや、まだ射撃が下手だし、2にしておいた方がいいか。くそう、やっぱり俺は優柔不断だな。
「3ね。あたしとチョメチョメしましょう」
はっ!? 俺はいつの間に3を選んでいたんだ!? まったく気が付かなかった!
「そのチョメチョメとは……」
『全生徒に告ぐ。新たな任務要請が出された。出発できる生徒は、至急ヘリポートへ向かうように。繰り返す――』
突然の放送で杏華の声が遮られた。待ち望んだ状況が到来し、杏華がニヤリと口角を吊り上げる。んで、チョメチョメって何なんだ。早く教えてくれ。
「きたわね! あたし達が一番乗りよ!」
俺の手を取り、ダッと駆け出す。急に引っ張られて肩が抜けるかと思った。部屋を飛び出し、階段を二段飛ばしで下りていく。おいおい、手を離さないと危ないぞ。俺が! いやいやそんなことより。
チョメチョメって何なんだよおおおおぉぉぉぉ――――っ!!
学校の敷地内、南側。出撃用ヘリポート。
息を切らせながらやってきたその場所には、すでに大型のヘリコプターが配備されていた。通常のヘリとは違い、プロペラが二つ前後に付いている。塗装はやはり黒。後部が上方向に大きく開かれていて、たぶんそこから搭乗するのだろう。
運転席の近くに一人の女性が立っている。近づいていくと誰なのかはっきりと分かった。
「おー、百崎君に神林さん。パーティーの時はどうもありがとう」
入学記念パーティーと先生方の紹介で司会を務めていたポニーテールの女性だった。
「前から気になっていたんですが、あなたは何の先生なんですか?」
「え? ああ違う違う。私はこの学校の専属パイロットよ。今から飛び立つこれも私が運転するの」
そう言うと、親指で後ろの機体を指した。
「自己紹介してなかったわね。私は菅原美貴よ。今後ともよろしくねー」
「はい、よろしくお願いします」
二人で頭を下げた。顔を上げると、菅原さんはヘリの後部を指し示し、
「さあ早く乗って。もうすぐ出発だから」
「分かりました」
俺達は後部に回り込む。搭乗口は傾斜がついていて乗りやすくなっていた。中に入ると、壁一面に必要な道具、武器、防具が全て揃っており、出撃のための準備ができるようになっていた。
「すげぇ、何だこれ……」
あまりの広さと装備の数に俺は驚きが隠せなかった。それと同時に、本当に異世界に旅立つんだという実感と、興奮が胸の内からこみ上げてきた。
「じゃあ、早速準備しましょう」
杏華の声で準備がスタート。仮想空間でも使用していた、アサルトライフル、ハンドガン、ポーチに弾倉の入ったベストをまず揃える。それからバックパックと呼ばれる大きなリュックサックのような物に予備の弾薬、弾倉、水、食料、その他様々な物を詰め込んでいく。あらかた入れ終わると、試しに持ち上げてみた。……かなり重い。これを背負って歩くと思うと、少し鬱になる。
杏華の様子はどうかと見てみると、かなり軽装で、最低限必要な弾倉しか身に付けていなかった。周りにバックパックの類は見つけられない。
「お前、まさかそれで行くつもりじゃないよな?」
「え? もちろんそのつもりだけど」
「いやいや、お前もバックパック持っていけよ。足りなくなるぞ?」
「嫌よ。重いし動きにくいし。それにあたしが無駄に弾をぶっ放す下手くそに見える?」
「いや全然」
「食料だって、草とか動物とか食べられそうな物くらいどっかそこら辺に生えてるでしょ」
「お、おう……」
こいつなら昆虫だろうが、コンクリートだろうが本当に食べそうで怖い。俺は説得するのを諦め、自分のバックパックにもう少しだけ余分に食料を入れることにした。
準備を始めてから十分ほど経ち、俺達と同じく必須訓練を終了した他の生徒がちらほらと見受けられた。数えてみると六組、十二人いる。俺達と合わせて、この機体に乗ったのは十四人となった。
一つの任務に対し、出撃する人数は上限二十人までと決められている。今回の場合は必須訓練を完了した生徒が少ないために、二十人に達しない可能性がある。あと数日もすればほとんどの人が終わり、毎回早い者勝ちになるのが目に見えてはいるが。その分多くの任務が要請されるので問題はないと思うけど。
『時間になったから出発するよ。揺れるからしっかり踏ん張っておくように!』
機体内に菅原さんの声が響き渡る。音を立てて後部が閉まると、外からプロペラの回転音が聞こえてきた。直後、浮遊感が生まれ、目的地に向かって飛び立った。
「あー、ドキドキしてきた。この緊張感味わうの久しぶりだわ」
「チキンハートすぎるわね、まったく。男ならどしっと構えておきなさいよ」
「それができれば苦労はないんだがな。にしてもお前には緊張する瞬間とかあるのか? 全然そんなふうには見えないんだけど」
「あのねぇ、あたしだって緊張くらいするのよ。でもその緊張してる自分すら楽しむから、絶対に分からないと思うけどね」
「要約すると二重人格ということで、OK?」
「自分を客観的に見てると言いなさい」
その後、俺と杏華は雑談を続けた。それがいい感じに俺の緊張をほぐしてくれて、助かったとは口が裂けても言えない。まさかとは思うが、こいつ分かってて俺と喋ってくれたのか? ……いや、ありえんな。単に暇だったからだろう。
『現場到着一分前よ。みんな準備して』
菅原さんの声が再び響き、場の空気が一気に張り詰めた。いよいよ初めての任務だ。どんな世界が俺を待っているのか楽しみになってくる。バックパックを背負い、最後の確認を済ませた。
とてつもなく長く感じた一分がようやく過ぎ、ヘリがホバリングに移行した。
『フロンティア・ゲートに到着したよ。あなた達の幸運を祈ります』
機体後部が徐々に開き、冷ややかな空気が流れ込んでくる。
『最後に――死なないことが一番大事です。それだけは忘れないでください』
菅原さんの言葉に、未知の世界ということを再認識した。これから降り立つ所は平和なこの世界なんかではなく、気を抜けば一瞬で命に係わる出来事が頻繁に起こる世界だ。
後部が完全に開ききると、
『それでは皆さん、行ってらっしゃい!』
一際大きな声で俺達の背中を押した。
後部の一番近くにいた生徒から、晴れ渡った青空へと飛び出してゆく。次々と空を舞っていき、ついに俺達が最後となった。
「あたしの背中はあんたに託すわ。背後から攻撃なんてされたらただじゃおかないから」
「だったら俺の前はお前に託すぜ。安心して歩けるようにな」
「任せなさい。どんな敵だろうと粉砕してみせるから」
自信に満ちあふれた顔で俺の顔を覗き込んでいた。この根拠のない自信はいつもどこから来るんだろうか。でもそんな杏華の顔を見ていると、不思議と不安な気持ちが薄れていくことも確かだった。
風圧で目がやられないようにゴーグルを装着。これは暗視機能も付いていて、夜間活動にも使えるように設計されている。
「それじゃ、行くわよ!!」
同時に、ヘリから飛び出した。重力が俺の体を引っ張り、地上へと落下していく。怖いという感覚は微塵もなく、むしろスカイダイビングが楽しいと思うようになっていた。訓練の成果がしっかりと出ているのが分かって嬉しくなる。
地上にぽっかりと空いた円形の穴が見える。あれがフロンティア・ゲートだ。直径五十メートルほどが漆黒の闇で切り取られ、その範囲にある物は全て黒一色に染まっている。
アーチと呼ばれる、腰を突き出した弓なりの姿勢で、地上までの百メートルを降下。ゲートに突入する。光が遠のいていき、視界が一気に黒で埋め尽くされた。
周りの景色が消失し、どのくらい落下しているのかまったく分からなくった。このまま永遠に続くんじゃないか、と頭の片隅で考えていると、ようやく眼前に一筋の光が差し始めた。まばゆい光に俺は目を細める。全身を包み込んだ次の瞬間――
――俺は再び青空を舞っていた。
しかし、眼下に広がるのは、うっそうと生い茂る樹海だった。間違いなく俺の住む世界ではない。ちゃんと異世界にやってきたんだ。
「あそこに降りるわよ!」
杏華が少し開けた場所を指差した。体勢を変え、着地地点に移動。垂直に下りていき、反重力球を右手で取り外す。重力場を発動し、緩やかに大地に降り立った。
足の裏で草を踏みしめる感触を味わいながら、周りを見渡す。見上げるほどの樹木、草、苔、ツタが複雑に絡み、まさに俺の思い描いていた樹海像とピッタリ一致していた。
ゴーグルを顔から取ると、視界がより鮮明になった。
「さあ、行動開始よ!」
ベルトに取り付け、背負っていたアサルトライフルを背中から外し、手に持った。
この世界での目的、それはある物体の破壊だ。俺達の世界とパラレルワールドを繋ぐ穴、フロンティア・ゲートを消滅させるには、その物体――コネクション・マテリアル――を破壊しなければならない。なぜかというと、もしゲートが主要都市に出現した場合、交通機関や家屋、業務などに多くの被害が出る。だから、そんな状況が長く続かないように、被害を最小限、短期間で済ますために俺達が存在しているわけだ。
どうして俺達みたいな若者が、異世界に行くのかを話すと、まあ簡単に言えば25歳までしかゲートを通過することができないからだ。それ以上の年齢の人がゲートに飛び込んでも、抜けた先は自分達の住む世界で、パラレルワールドには行けないらしい。フロンティア養成学校が誕生したのにも、そういった経緯がある。
「ねぇ諒、降下中に街が見えなかった?」
「悪い、俺にそんな余裕はなかった。どっちだ?」
杏華は顎に手を当ててしばし考え込んだあと、「こっち」と指を差した。
「行ってみよう。動いて情報を得るしかないからな」
街があるとすれば間違いなく人がいる。その住民から有益な情報が得られるかもしれない。レーダーとか探知機とか、生憎そんな便利アイテムは持ってないんだ。
杏華が先行し、俺はあとから付いて行く。 木々のざわめく音や小鳥のさえずりが絶え間なく聞こえ、銃を持つ手にも自然と力が入る。訓練では的にだけ目を向けていれば良かった。しかし今は、あらゆる方向に目を配り、常に集中している必要がある。いやはや、これはかなり精神を擦り減らすことになるな。
その後、十分くらい歩いたが、景色はまったく変わっていなかった。
「本当にこっちであっているのか?」
「あってるわよ! ……たぶん」
さすがに十分で景色が変わるほど狭くはないか。諦めて進もうとしたとき、杏華が左手を上げた。俺はその場で立ち止まる。
「水の音が聞こえるわ」
耳を澄ますと、樹木が風で揺れる音に混じって、かすかに水の流れる音がしていた。
「ああ、聞こえる」
「行ってみましょう」
木々の間をくぐり抜け、さらに進むと、徐々に水の音が大きくなった。間違いなく川が流れている。
「あった! 川よ!」
俺達のいる所は崖の上だった。何十メートルも下で川が激しく流れ、向こう岸までは五、六メートルの距離がある。周りに橋は見当たらず、こちらとあちらを行き来していないことが推測できる。
――背後から何かが近づいて来ているのに気が付かなかった。
川を発見して、周囲の状況確認がおろそかになっていた。完全に俺のミスだ。
木の陰から、直立二足歩行をした毛むくじゃらの動物が現れた。猿人、の言葉がしっくりくるその動物は、次第にその数を増やし、あっという間に俺達は囲まれてしまった。
その数、十人以上。それぞれ手に棍棒や弓矢を持ち、まるで紀元前の人間のようだ。声とは到底言えない、音のようなものをしきりに発している。仲間への合図か、それとも威嚇の音か。
じりじりとした緊張感がその場を支配する。どちらも行動を起こさず、こう着状態が続く。不用意に発砲するのは、学校の規則で禁止されているのだ。
「どうする。このままじゃ埒が明かないぞ」
顔は前を向いたまま、小声で杏華に話しかける。
「どうしようもないわよ。後ろの川でも飛び越えてみる?」
俺としても無暗に殺しはしたくない。平和的に解決できるのなら、それに越したことはないのだが。
俺達の逡巡を掻き消すように、群れの中の一人が雄叫びを上げた。一斉に武器を構え、こっちに向かって突撃を開始する。俺は右手の人差し指に力を込めた。
「諒! 飛び越えるわよ!」
杏華の指示を聞いて背後を振り向き、崖に向かって助走を始める。矢で背中を撃たれる危険もあったが、構わずに踏み切った。重力場の補助で、走り幅跳びの距離が何倍にも伸びる。余裕で向こう岸に届き、なおも走り続ける。
矢が頬を掠めた。冷や汗が全身から吹き出し、心臓が跳ね上がった。
近くの木の裏に滑り込む。間一髪で寸前まで俺のいた所を矢が通り過ぎていった。心臓の鼓動を無理矢理押さえつけ、何とか精神を落ち着ける。
「あはははっ! 上手くいったわねー!」
隣の木に寄り掛かった杏華が楽しそうな声を上げる。こんな状況なのに笑ってるとか、どんな度胸してるんだ。
そうしている間にも、矢が次々と木に刺さり続けている。さすがにあいつらでは川を飛び越えることはできないだろう。じきに撤退するはずだ。
「あんな奴に貴重な弾丸を使うなんて、もったいなくてできないわよ」
「相手にできる数じゃなかったしな」
「あたしだったら余裕で倒せてたわよ! ……わよ」
余裕の割には語尾に元気がないな。嘘がバレバレだぞ。
再び雄叫びが聞こえると、矢の音がピタリと止んだ。しばらくしてから顔だけ出して様子をうかがうと、もう猿人の姿はなくなっていた。
「先に進みましょう」
俺達は掩体にしていた木から離れ、歩き出した。どうやらこの世界の文明は、それほど高度なものではないらしい。もちろん、遠く離れた場所では高層ビルが乱立している、という可能性もなくはないが。
周囲への警戒を一層強め、草木を掻き分けながら樹海を探索していく。このままどこにもたどり着けずに野宿するはめになるのか。いや、そのための準備はしてきたから、別に困ることはないけど。ただ眠る時に少し床が硬いだけだ。
傾斜のきつい苔の付いた岩場を登りきったとき、俺は眼下に広がる光景に思わず息を呑んでいた。ゲームやアニメ、二次元の中でしか見たことのないような、ファンタジーな街並みに暮らす人々の姿がそこにはあった。
「すげぇ……」
自然と調和するように、木造の家屋が立ち並ぶ。活気があり、まるで俺達の所まで声が聞こえてきそうだ。どんなに見ていても飽きることのない、素晴らしい風景に俺達はしばし見惚れていた。
「……あたし、この学校に入学して本当に良かった」
杏華は、感動で今にも涙が出そうな顔をしていた。
「俺もだ」
学校でどれだけ勉強しようと、こんな体験は絶対にすることができない。俺達、フロンティア養成学校の生徒三百人だけが、こんなにも美しい光景を目の当たりにできるのだ。
俺は辺りを見回し、街への入り口を探す。今立っている高い丘の上から右手に降りていくと、人為的に造られた道に出られそうだ。その道を歩いて行けば、正規のルートで街の中に入ることができるに違いない。
「杏華、あっちに街へと続く道があるぞ」
「…………」
「聞いてますかー? 世界一美人なお嬢さーん?」
「んあ? ああ、ごめんごめん。目に焼き付けていたわ。それで、道があるんでしょ? なら行くしかないわ!」
こいつ、観光する気満々じゃねーか! 任務はどうした、任務は!
俺達は丘を下り、道に出た。土がそこだけ剥き出しになっていて、人が何度も通っている跡があった。住人に不審感を与えないように、アサルトライフルをベルトに繋げ、背負う。道に沿って進み、街に足を踏み入れた。
様々なお店が、お客を集めるために声を張り上げ、俺達の世界の都会とはかなり異なる喧噪だ。時々、不思議そうにこちらを見る人がいて、やはり俺達はこの世界では浮いた存在なのだということをひしひしと伝えてくる。俺だって街中で腰布一枚の人が歩いてきたら不審に思うだろうし。場違いな人が浮くのは、どの世界でも同じことだ。
「美味しそう……。でもお金ないしなぁ……」
杏華がよだれを垂らし、果物店の前で立ち止まっていた。
「だから観光に来たんじゃないっての! 有力な情報を聞きに来たんだろ!?」
「はっ!? そうだった!」
俺は果物店の売り手である、四十代のおばさんに尋ねる。
「すみません。この辺で黒い塊みたいなのが目撃された、という話を聞いたことはありませんか?」
「そうね……。……うーん、ごめんなさい。聞いたことないわ」
「そうですか、ありがとうございます」
お礼を言って、その場をあとにする。杏華が未練たらしく何度も果物店の方を振り返っていた。どんだけ食いたかったんだよ。
その後、手当たり次第に尋ねて回った。しかし、誰からも有力な情報を得られないまま、時間だけが過ぎていった。俺達の質問の仕方が悪いのか、この世界の人がインドア派なのか。場所が少しでも分かれば、しらみ潰しに探し出すことができそうなのだが。
「ん!!」
街中をぶらりと散策していると、杏華が大きな声を上げた。
「どうした? 諸葛孔明のようないい考えが浮かんだのか?」
「あたしのお腹が十二時三十分を告げたわ」
「腹時計かよ!」
そういえば今が何時なのか分からずに昼飯も食べていなかったな。
「昼飯食べるか? お前のために少し多めに持ってきたんだ。食べられる物なんてそうそう見つからないからな」
「いいえ、我慢するわ。あたしの判断で持って来なかったのに、あんたの食料を食べるわけにはいかないもの」
「別に遠慮しなくてもいいんだぞ?」
「まずはあの人からカツアゲして……」
「それはダメだ!」
慌てて杏華を押さえつける。異世界だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ。本当にいつ暴走するか分からないな、こいつは。
「じょ、冗談よ。あたしがそんな外道なまねするはずがないでしょ」
「こんな時にジョークを挟むな。俺の心臓に悪いわ」
ていうか、冗談じゃなくて本当にやろうとしてなかったか? 気のせいか?
「とりあえず、どこか休める所を――」
曲がり角を右に曲がったとき、俺はドンッと何かにぶつかった。
「痛たた……。もー何なのよ!」
目の前には若い、十歳くらいの小さな女の子が鼻を押さえて立っていた。
「ごめん、俺の不注意だった」
「どこに目を付けてるの! 節穴なの!? 慰謝料を要求する!」
……何か面倒くせぇ奴に絡まれたな。どうするべきか。
着ている白いワンピースが少女の可愛らしさを際立たせてはいるが、言動のせいでその可愛らしさが台無しになっている。俺のパートナーとどっこいどっこいの残念さだ。
「俺達お金を持ってないんだよ。その代わりに何でもするから許してくれ」
じぃぃぃ、と俺の顔を見上げてくる。かなり疑っているようだ。それは無理もない。全身黒ずくめの変人にしか見えないだろうからな。
「本当なの……?」
「もちろんだ。何でもいいから言ってくれ」
「お姉ちゃんを救って」
「いいよ……って、え?」
まさかの重い話!?
エレナと名乗った少女は、俺達を自分の家まで案内してくれた。ポーチ付きベスト以外の装備を外し、椅子に腰掛ける。リビングと思われるこの部屋はきれいに掃除されていて、土足で歩くのが躊躇われるほどだ。
「私のお姉ちゃんがもう三日も帰ってきていないの。絶対事件に巻き込まれているに違いないのよ」
テーブルの向かい側に座ったエレナが話を始めた。
「そのお姉ちゃんは何をしたあとに失踪したんだ?」
「あの日は、薬草を取りに二人で森に向かったの。帰りに遺跡のそばを通って帰ってきたけど……。眠って朝になったらすでにお姉ちゃんはいなくなってたの」
「何か変わったこととか、なかったか?」
「…………。あ、そういえば遺跡の頂上に変な黒い塊みたいなのが浮いてた」
俺は正直、任務に無意味な出来事を引き起こしたんじゃないか、と落ち込んでいた。右も左も分からない異世界で、どうにか事態を丸く収めようとした結果が、今のこの状況だ。出会ったあの瞬間、違う言葉を発していたら、と何度も思った。
でもこの少女、エレナの話を聞いて、逆に良い方向に転んだ。俺達の探している物の手掛かりが掴めるかもしれないのだ。
「遺跡について詳しく聞かせてくれ!」
「街から北へ出る道を歩いて五分くらいで着くよ。別に何もない本当にただの遺跡だけど、それがどうしたの?」
「俺達は黒い塊に用があってここまで来たんだ。遺跡にあると分かった以上、行かなければならない」
「私のお姉ちゃんはどうしてくれるの!」
体をテーブルの上に乗り出して俺に問い詰めてくる。
「う……、探してはみるさ。君だってそれ以上情報はないんだろ? だったら俺達も探しようがない」
エレナは体を戻し落ち着くと、そのまま黙り込んでしまった。会話が止まり、重い空気が部屋に流れる。どこにあるか分からないものを探すなんて不可能だ。砂漠の中から一粒の砂を探すのと同じだぞ。俺達は神様じゃない、普通の人間なんだ。そんな都合の良い奇跡は起こせない。
と、今までまったく喋らなかった杏華が、
「お姉さんはその遺跡にいるわ」
口を開いた。
「どういうことだ? 根拠はあるのか?」
「ないわ。美少女の勘よ」
期待した俺がバカだった。
「勘でも何でもいいの! お姉ちゃんが帰ってくるなら! お願い!」
「任せなさい」
杏華は口元にニヤリとした笑いを浮かべた。いつもの意味不明な自身だ。
出発前にバックパックからゼリー状食料を取り出し、ようやく昼食タイム。杏華は思ったより頑固で、俺の渡したのをなかなか食べようとしなかった。無理矢理口に突っ込んでみると、観念したのかやっと食べてくれた。
俺達は装備を整え、家をあとにする。エレナは玄関まで見送りに来てくれた。
「必ず連れて帰ってくるから。あんたは安心して待っていなさい」
杏華がエレナの頭を優しく撫でる。くすぐったそうにしてから、うん! と大きく頷いた。初めて見せる心からの笑顔だった。
「じゃあ行ってくるわ」
手を振り、別れた。初めて異世界に来て、まだ要領も掴めていないのに、他人のために動くことになるとは予想もしていなかった。波乱万丈な任務になりそうだ。
「諒、気付いた?」
遺跡に向かう道を進みながら、杏華が唐突に話し始めた。
「気付いた……? 何に?」
言葉の真意が分からずに、俺は首をかしげる。気付くところなんてあっただろうか、と記憶をさかのぼっていく。ああ、そういえばあの子、右目の下に泣きぼくろがあったような……。
「彼女、両親が死んでるわ」
「…………え?」
意外な言葉に俺は思わず絶句していた。杏華が話を続ける。
「私達がいた部屋の片隅に写真立てがあったじゃない?」
「あった気もするが、よく覚えていないな」
「あったのよ。四人で写った写真と、大人の男性の写真、それに女性の写真がね」
「だからって死んだとは限らないだろ?」
「四人で楽しそうにしている写真ならまだ分かるわ。でも本人がいるのにわざわざ写真立てに、一人で写った写真を入れておくかしら」
「入れない……かもしれない」
四人で写った写真はエレナ、姉、父、母ということか。そして父親だけのと、母親だけの写真。だが俺は、どうしても杏華の推測が納得できない。考えすぎではないかと思う。一人で写った写真=死、とはあまりにも短絡的すぎでは?
「まあ死んでいようがいまいが、あたしには関係のないことだけどね」
話はそこで終わり、俺達はただひたすらに歩いた。葉が立てる音だけが辺りに響き、身の危険は感じられない。せっかく訓練して銃の扱い方を身に付けてきたのに、未だに撃つ機会がないのは、良いのか悪いのか。
数分後、石でできた遺跡が見えてきた。道は二手に分かれていて、右に折れると遺跡に続いている。
「頂上にコネマテなんてないじゃない!」
遺跡を見上げ、杏華が大声で叫んだ。確かに周りを見渡しても、全然それらしき物は見当たらない。エレナが嘘をついたのか、はたまた別の場所に移動してしまったのだろうか。
「もおー、腹いせに中荒らしてやるわ」
ズンズンと大股で歩み寄っていき、大きくくり貫かれた入口に足を踏み入れた。俺も後に続く。内部はひんやりとしていて、少しほこりっぽい。光の差す所が入口しかないために薄暗いが、暗視ゴーグルを使うほどではない。
外見からして結構広いとは思っていたが、想像以上だった。高さ五メートルはある。中央奥が他の場所より数段高くなっているが、何か意味があるのだろうか。装飾の類は一切なく、四隅に火が灯せそうな台が置かれているだけだ。
「何もないわねぇ、つまんないわ。荒らせそうな物くらい置いときなさいよ」
杏華が奥の高い所に立ち、いらいらが混じった声を発する。近くの壁を蹴り、ストレスを発散し始めた。
「おいおい、壊すなよ?」
「乙女の蹴りで壊れるほどもろくはないでしょ。豆腐で建設されていたら話は別だけど」
「高野豆腐か」
「あれ美味しいのよね。噛むと汁が…………ん?」
「何だ?」
杏華は壁をまじまじと観察。なめ回すようにじっくりと見ていき、時折壁に耳を当てて何かを聞いている素振りを見せる。
「……風が通ってる。奥に空間があるわ」
「本当か? でも開く装置なんてあったっけ?」
もしかして、開けゴマで開くタイプの壁なのか? この世界には魔術的な物が存在しているのだとしたら、それもありえなくはない。
「分かんないから、手っ取り早く爆破しちゃいましょ」
「勝手にやっていいのかよ」
「こんな役に立たない建造物なんか、誰も気にしないわよ」
杏華の言われるがままにアサルトライフルを床に置き、俺はバックパックを降ろすと、最背部の荷室からケースに入ったプラスチック爆薬を取り出した。縦横十センチ、厚さ三センチの遠隔操作可能なタイプのやつで、人間一人が通れる程度の穴なら簡単に開いてしまうほどの威力がある。
壁に貼り付け起動させると、手に持った起爆スイッチのランプが赤く点灯した。遺跡の外に退避し、十分な距離を取る。
「景気よくいっちゃって!」
カバーを上に上げ、スイッチを強く押す。瞬間、轟音が響き渡った。
「爆破ってテンション上がるわー」
「爽快感がたまらんよな」
こうして二人は爆弾魔となったのであった……。
冗談はさておき、粉塵が薄らぐのを待ってから遺跡の内部に戻る。中央奥の壁にぽっかりと穴が開き、向こう側が覗けた。壁の向こうは階段があり、下へと続いている。見えるのは途中までで、その先は暗闇のために肉眼では確認できない。
俺達はゴーグルを装着し、暗視モードに変更。視界が緑色に染まり、物の形がはっきりと見えるようになる。
「さぁて、世界の深淵を見に行きましょうか」
穴を通り抜け、階段を一歩一歩下りていく。気を引き締め、五感をフルに使いながら慎重な行動を心掛ける。最下部に着くと、進めそうな場所が三か所あった。
「どっちへ行く?」
「前でしょ」
杏華の即決によって、前の通路を進むことになった。通路の高さは二メートルほどしかなく、手を伸ばすと簡単についてしまう。横幅もそれほど広くはない。
「床の一部が沈んでトラップが発動! みたいな展開はないのかしら」
「さすがにないだろ。あれはアクション映画の中だけだ」
「ビームが迫ってきて、体が分断されるのが印象に残ってるわ」
「ああ、その映画知ってるかもしれん」
結局何事もなく通路を過ぎ、大広間にたどり着いた。最初に目に飛び込んできたのは、巨大な壺だった。部屋の真ん中に鎮座している古びた壺は、俺の身長よりもデカく、何が入っているのか確認できない。
「これは……」
壺の周りに散らばっていたのは、木が焼けて炭になった物のようだった。巨大なこの壺で一体何を煮ていたのか、全然考え付かない。
裏側に回ると、ボロボロに朽ち果てた階段が備え付けられていた。これに上って作業をしていたのだろうか。俺の体重プラス荷物の重さでは、さすがに耐えられないな。上がるのは杏華に任せよう。
「杏華、ちょっと何があるか覗いてくれないか? 俺の重量だとバキッといきそうで怖い」
「雲より軽いあたしに任せなさい」
そぉーと、右足を階段に乗せる。ピシピシ、とやばい音がするが構わずに左足を二段目に置く。そろりそろりと上っていき、頂上から壺の中を覗き込んだ。その瞬間、杏華の顔が、驚愕と恐怖の入り混じったものに変わっていった。
「は、白骨死体が……」
「ホントか!?」
この巨大な壺で人間を煮ていたとでもいうのか。拷問か、それともまさか食べていたりした……? その光景を想像して、全身に悪寒が走った。
「ごめん嘘。腐った水しか入っていないわ」
「…………」
「あれ? もしかして信じちゃった?」
「壺の中に突き落としてやろうか」
「ごめんごめん、勘弁して」
杏華は階段から下りる。まったくひどい茶番だった。こいつはたまに変なボケをかますのを何とかしてほしい。分かりやすいボケならまだいいが、ガチの演技でやられるとほぼ見分けがつかないのが困る。
「ここにもう用はないわね。さっさと別の場所を捜索しましょう」
来た道を引き返す。通路と広間の境界を杏華が越えた瞬間、石の隙間に一筋の光が奔った。みるみるうちにそれは四方に広がり、壁、床、天井の隙間をくまなく埋め尽くす。光り輝く、美しい網目状の通路に変貌を遂げた。
「すご……」
「きれい……」
幻想的なシーンをぶち壊す、ビィィィィンという音が俺の後ろから聞こえた。
強い光を放つレーザーが通路を格子のように塞いでいる。縦横五本ずつの光線が、侵入者を追い払うが如く威圧感を与えてきて、そして今にも迫ってきそうだ。
「え、リアルにトラップ? マジできちゃった?」
「ああ、そうらしい!」
本当に迫ってきた。
「走れ! 全力で!」
一目散に駆け出した。行きではなく帰りにトラップが発動するなんて、聞いたことも見たこともないぞ! 侵入者撃退のためではなく、捕らえた者を決して逃がさないための罠だったのか!
俺はバックパックを背負っている分、通常よりやや走るスピードが遅い。ちらっ、と振り返ると、差が縮まってきているのが分かった。マズい、このままだと追いつかれてしまう。
「もう少しよ!」
分岐前のエリアまで残り十歩。レーザーとの差は三十センチ。
杏華が先に脱出した。五、四、三、二――。
最後の一歩で俺は、地面を思いっきり蹴った。体が宙に浮き、通路の外へ飛びだす。空中でアーマースーツのつま先がレーザーに触れ、ジリジリと焦げ――
――そこでピタリと動作が停止した。
俺は勢いよく倒れ込み、床の上を豪快に滑った。
「大丈夫!? バラバラになってない!?」
「……何とか手足は繋がっているようだ……」
後ろに振り向くと、レーザーは通路の端で一切動かなくなっていた。やがてだんだんと細くなり、ついには消滅した。網目状に張り巡らされた通路も、ビデオの巻き戻しのように光が失われていく。発生地点まで戻り、視界を白く染めていた光は完全に消え去った。
「いいヘッドスライディングだったわ」
杏華が俺に手を差し伸べる。
「小学校の頃、野球をやっといて良かったよ」
がっちりと手を掴み、起き上がった。まさか野球で培った動きが、こんな異世界の地下で役に立つとは。人生何が起こるか分からんな。
「いやーそこら辺のジェットコースターよりスリルがあったわね! ドキドキしたわ!」
「安全が保障されないアトラクションなんか御免だけどな」
こいつの楽観的な性格は正直羨ましい。どんな出来事も楽しい方向へ持っていけるのはある意味才能だ。
「さて、残る道は二つだけど、右と左、どちらに行くべきかしら?」
「安全な方にしてくれ」
「……左! 君に決めた!」
ビシッ、と左手の人差し指を突きつけた。どこかで聞いたことのある台詞のような気もしたが、思い出せない。まあいいか、それほど大事でもないし。
俺達は新たな通路を歩む。いつまたトラップに掛かるか不安で、心臓の鼓動が速い。緊張で体が強張っているのが自分でも分かる。しかし、行きはやはり何も起こらなかった。
「牢屋……?」
左右にずらっと並んだ鉄製の牢屋が、俺達を迎え入れた。
「脱獄しやすそうな牢屋ねぇ」
「本気で捕まえておくわけじゃないんだろ。とりあえず入れておこうみたいな?」
それほど太くない、せいぜい三センチ程度の鉄棒が縦に組まれているだけの牢屋だ。
「…………誰か……いる……の……?」
奥の方から弱々しい声が聞こえた。突然の不意打ちに二人同時にビクッ、と体が震える。
「やめてよー、変な声出さないで」
「明らかに前から聞こえただろうが。俺のせいにすんな」
杏華は見るからに歩くスピードが緩んでいた。もしかしてホラーには耐性がないのか? 完璧人間のこいつにも弱点があるのが分かって、俺は少し顔がにやけた。これまで散々連れ回されて、過酷な肉体運動を強いられてきたからな。逆襲の一つでもしてやらねば。……そうだな、今度お化け屋敷にでも連れて行こうか。
「おい、ビビッてるのか? 歩くのが遅いぞ?」
「し、慎重に捜索してるのよ! ビビッてなんかいないわ!」
語尾が震えてる。絶対に怖がってるな。俺は試しに杏華の左脇腹を突いてみた。
「ひゃい!!」
五センチくらい浮かび上がった。
「あんた殺す……」
アサルトライフルの銃口を口に突っ込まれた。セレクターレバーを連射に切り替え、トリガーに指を掛けている。頭が吹き飛ぶ一秒前です。
「はぁてはぁて、うはぁないどぅえ! あやはぁるくぅら!」
「ああん!? 土下座よ! 謝るだけじゃ許さないから!!」
即座に土下座モードへ移行。地面に額を擦りつける。
「すみませんでした。金輪際このようなマネはいたしません。どうかお許しを」
「ダメです♪」
何で!? ちゃんと土下座したのに! 鬼! 悪魔! ゴリラ!
「さぁてぇ、どこに穴を開けてや――」
――ガシャン。
杏華の声を遮るように、再び奥から物音がした。
「ちっ、仕方ないわね。今日のところは勘弁してあげる」
「ありがとうございます!」
杏華が前を向いたのを確認して、俺は立ち上がった。凶暴な生物に襲われて死ぬ確率よりも、こいつに蜂の巣にされて死ぬ確率の方が高いかもしれん。
音のした方向へと歩を進める。一番奥右側の牢屋の中に女性がうつ伏せに倒れていた。右手で出入口の扉を掴んでいる。おそらく、先ほどのガシャンという音は、扉を揺すったことで発生した音だろう。俺達に存在を発見してもらうために。
「大丈夫ですか? 生きてますか?」
俺は声を掛けて反応を見る。女性は床に両手をつき、ゆっくりと体を起こした。元気とは到底言えず、明らかに衰弱しているのか見て取れた。それでも無理矢理笑顔を作り、こちらに顔を向ける。
「はい……大丈夫で……す」
「あなたはエレナの姉のマリナさんですね? あたし達はエレナに頼まれて、あなたを探しに来ました」
「エレナが……? 妹は無事なんで……すか?」
「ええ、あなたを探すのに必死になっていましたよ」
「それは……良かった……。それだけ……が心配で……心配で」
「早く帰って、エレナを安心させてあげましょう」
だが扉には南京錠が掛かっており、鍵がなければ開きそうにない。
「諒、持ってて」
アサルトライフルを手渡してくる。俺が受け取ると、杏華は左手を上から背中にまわす。固定している機械がスライドし、ショットガンが肩の上に飛び出した。グリップを握ると留め具のロックが解除され、背中から取り外された。
「今から錠を破壊するので、離れていてもらえますか?」
「あ、はい……」
マリナが扉から最も遠い位置に移動したあと、杏華は両手で構えたショットガンを南京錠へと向けた。バシュン!! 12ゲージのショットシェルが炸裂する。右手でフォアエンドを前後に動かし、排莢・装填。立て続けに二発目、三発目を撃ち込んだ。こいつの持つショットガンは、排莢口が銃の左側にある左利き用のやつらしい。
「これなら壊せるでしょ」
錠は散弾によって大きく変形していた。杏華が扉を蹴り飛ばすと、細い部分がちぎれて南京錠が地面に転がった。ショットガンを背中に戻し、牢屋の中に入る。
「立てますか?」
マリナは必死に足腰に力をこめて立ち上がるが、ふらふらしておりまともに歩けそうにない。杏華が肩を貸して体を支える。
「……すみません」
「気にしないで」
俺は杏華にライフルを返した。今度は代わりに自分が先行して歩く。後ろの二人の様子を見ながら、あまり速くなり過ぎないように進むペースを調節する。
「またトラップが来るんじゃないか?」
通路の直前で立ち止まる。もしまたレーザーが現れた場合、前とは違って走り抜けることができない。しかし他に道はなく、確実にここを通らなければならないのも事実だ。
「あたしは手が離せないから、あんたが身を犠牲にして調査してきて」
「犠牲にはしないけどな」
余計な不安を振り払い、意を決して俺は通路へ突入した。
…………何も起こらない。さっきは境界を越えた瞬間に発動したのに、数歩歩いても変化がない。安堵の息をつき、さらに進む。とりあえず杞憂に終わって良かった。
「何も起きないぞ」
半分ほど進んだところで、二人の方に振り返る。
「じゃあ、あたし達も行きましょう」
ゆっくりと歩みを再開する。通路に入ろうと杏華が右足を浮かせた、その時――。
二人の目の前に、光の壁が広がった。途端に俺からは姿が見えなくなる。
罠のタイミングが全然分からん! 俺の安堵を返してくれ!
「大丈夫か!?」
「あたし達より自分の心配しなさい!」
案の定光の壁は、俺の方へと迫ってきていた。でもレーザーとは異なり、その速度は驚くほど遅い。人が歩くくらいのスピードだ。急いで後ろを向き、
「え?」
反対側からも壁が来ていた。
挟まれる――。脳裏に未来の光景が浮かび、全身から冷や汗が噴き出す。前も後ろもダメ、破壊も不可能、助けも来ない……万事休すか。
いやあれが、ある。こういう遺跡の石には、絶対に押すと動くやつがあるもんだ。そして通る人を無差別に攻撃するのなら、何かトラップを停止させる手段がなければおかしい。いつもこの遺跡にやってくる人が、罠で死ぬなんてことはありえないからだ。
「どこだっ……!」
目に全神経を注ぎ、周りを見渡す。些細な違いも見落とさない。
徐々に迫り来る光の壁、それに伴って速くなる心臓の鼓動。集中が極限に達し、時の流れが緩やかになる。
「――――――!」
杏華が何か言っているが、そこまで理解できるほどの余裕はない。
ちらちらと視界の端に壁が入り込む。焦りが一層増し、精神が削られる感覚に襲われる。俺は冷静をどこまで保っていられるのか。
「くそっ、頼む!」
残り二メートル。
待てよ。仮に色の違いだったら、暗視ではまったく区別がつかないぞ。ランタンとか、明かりを持っていることを前提に設計されたとしたら、それの可能性もゼロではない。
だが辺りを照らす道具も、色を見分ける方法も今は持っていない。
一メートル。
「ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――ッ!!」
ついに心を押さえきれなくなり、意味もなく壁を叩いた。
ドンッ! むなしい音が鳴り、すぐに空気の中に混じり消えていく。
!?
動いた。隣の石との摩擦で、その動きは微々たるものだったが、確かに動いた。
無我夢中で石を奥に押し込む。ずずず、と独特の擦れる音が響き、五センチずれた。
体まで十センチの所で光が弾け、細かい粒子に変わる。アーマースーツに光の粒が当たり、ちりちりと表面を溶かしていく。俺の世界の技術では、物理防御は上げられても、魔法などの異能力への防御はないに等しい。光の粒子がもう少し大きかったら、スーツを貫通していただろう。
「はぁ……はぁ……」
一気に緊張から解放され、どっと疲れが押し寄せてきた。呼吸が荒くなり、脳が悲鳴を上げている。少し休まないと、さすがに体がもたない。
「どうしたの? 何があったの?」
杏華が声を掛けてくる。不安そうな表情を浮かべていた。自信に満ちあふれたお前でも、そんな顔をするんだな。ちょっと意外だ。
「壁に潰される寸前に、この石が動くのを発見して。藁にもすがる思いで押したら、この通りさ」
「よかった……」
杏華は目を伏せ、溜めていた息を吐き出した。
「心配してくれるのか。お前にしては珍しいな」
「死ぬほど心配したんだから――」
猛獣のよりも凶暴なこいつにも、優しい一面があるとは。感動で涙が出てきそうだ。
「――バックパックを。道具や弾薬がなくなったらあたしが困るし」
………………もうやだこの人……。
「じゃあ先に行くわね。手を離さないでよ」
俺とすれ違い、二人は出口に向かう。通路の外に出たのを確認して、一度壁から手を離してみた。ミリ単位で石が元の位置に戻っていく。
完全に戻りきったが、再びトラップが発動する様子はなかった。小走りで通路を抜ける。
「あら、何もなかったの?」
マリナを座らせ、休憩を取っていた。
「ああ、おかげで俺はまた日の目を拝むことができそうだ」
「ねぇ、諒。マリナに水と食料を分けてあげて。エレナの話から推測して、三日は食事を取っていないはずだわ」
「分かった。けどこんな暗闇で彼女に見えるのか? 階段の上まで行った方がいいんじゃないか?」
「……そうね。あんたの言うとおりだわ」
杏華はマリナに近づくと、声を掛けた。
「階段を上ると、明るい所に出られます。そこまで頑張りましょう」
マリナの左腕を肩に回し、立ち上がる。階段を一歩一歩踏みしめ、体力を振り絞って上っていく。三日間、わずかな光すらない牢屋の中で過ごすのは、相当な精神力を必要としたはずだ。そしてそれ以上に、何も食べずに三日を生き延びたことの方が驚きだ。普通の人では、到底できない。ましてや階段を上がるなんて、不可能に近い。
後ろを振り返り、彼女の様子をうかがう。顔は苦痛に歪み、歯を食いしばっている。しかし、目は死んでいない。むしろ絶対に生きてやる、といった闘志がその目からは伝わってくる。
階段の最上段まで行き、爆破した穴をくぐり抜ける。光が差し込み、緑が大半だった視界が白に変わっていく。ここまで来たら暗視ゴーグルは不要だな。通常モードに切り替え、俺は頭から外した。
「眩しい……」
マリナは目をつぶった。暗闇に慣れた目では、この量の光でもかなりきついのか。
「目を慣らすためにも、休憩にしましょう」
杏華は彼女を座らせた。精神がいくら大丈夫でも、肉体は限界。立派な根性があってもあだとなるだけだ。
俺はバックパックを降ろし、五百ミリリットルの水筒とブロック状の栄養食品を取り出す。
「これ食べてください。見たことないと思いますが、危ない物ではありません」
一瞬戸惑ったが、素直に受け取ってくれた。茶色のブロックを摘み出し、一口かじる。
「美味しい……」
二口、三口と食べ進めていく。ちゃんと食べてくれて安心した。水筒のふたを外し、彼女の近くに置く。
「水です。遠慮しなくていいですよ」
マリナはこくりと頷き、水筒を手に取った。三日ぶりであろう水分をのどに流し込む。辛そうな表情が和らぎ、穏やかな顔になる。元気が復活し、二本目のブロックを頬張った。
もぐもくと咀嚼、ゴクリと飲み込み久しぶりの栄養を胃に送る。
「ありがとうございました」
数回に分けて水を口に含んだ後に、マリナは水筒を床に置いた。それから深々と頭を下げる。いやはや、妹のエレナとは正反対の礼儀正しい少女だ。
「それじゃあ、出発しましょ」
俺は水筒をバックパックに入れ、ゴミになった袋も回収しようとした時、不意にマリナが口を開いた。
「あの、この袋……いただいてもよろしいですか?」
伸ばしていた手を止め、彼女の顔を見る。大きな青色の瞳が、じっと俺を見つめていた。
「え? いいですけど」
そう答えると、マリナは灰色の袋を両手で包み、胸の前に引き寄せた。
「大切にします」
優しく微笑んだ。女の子の笑顔はやっぱりいいものだな。心が癒される。
俺はバックパックを背負い、アサルトライフルを取り上げた。
「どう? 立てる?」
杏華が尋ねる。
「おかげさまで。自力で歩けそうです」
「良かった。じゃ、後ろから付いてきて。無理はせず、ヤバかったら声を掛けるのよ」
「はい」
杏華は話が終わると、今度は俺の方に近づいてきて小声で耳打ちをした。
「念のために彼女を見張っておいて。先頭はあたしが切るわ」
マリナに気付かれないように、小さく頷く。
遺跡の外に出た。太陽光が全身に降り注ぎ、暖かな空気が頬を撫でる。俺達の世界でいう春の季節のような気温だ。こんな日には、美しい桜の木に囲まれてお花見をしたいものだな。この世界に桜があるかは分からないが。
「オ前ラ、何者ダ?」
美しいとは程遠い、猿人の群れと対峙した。川の時と同じ外見の猿人だった。
しかしあの時と違うのは、群れの一番後ろに巨大な奴がいることだ。体長は三メートルはあり、胸のところには黒いひし形の物体が埋め込まれている。あれは……コネクション・マテリアルか!? なぜあんな場所に? ていうか、どうやって体内に?
俺が頭をひねっている間に、部下らしき普通の猿人が距離を詰めてくる。その数、ざっと十五人。結構多い。
「マリナさん、遺跡の中に隠れていてください」
背後を振り返らずに伝える。「分かりました」という返事と共に離れていく足音が聞こえた。
「何者か? ですって?」
杏華が群れに向かって歩み寄っていく。話し合いでもするつもりなのか。
遠目から会話を傍観していたかったが、生憎俺にはこいつの背中を守る義務があるからそれはできない。一緒に猿人達へとにじり寄る。
「ソウダ。一体何者ナンダ」
「そうねぇ……ヒーロー、とでも言っておきましょうか」
「世界ノタメニ戦ウ、アレカ。オ前ガ?」
「そうよ」
部下の猿人が俺達の周りを取り囲み、ついに逃げ場はなくなった。
二人の会話は続く。
「ガハハハッ、イイゾ。気ニ入ッタ。ソノ話、信ジテヤロウ」
「じゃあ、一つ教えてくれるかしら」
杏華が右手の人差し指をピンと立てる。
「良カロウ。言ッテミルガイイ」
「この遺跡に若い女性を閉じ込めたのは、あんた達?」
「アア、オレ達ダ。イツモオレ達ヲ見下シテイル、憎キ人間ヘノ警告ニ使ウタメニナ」
「…………そう」
「今カラソノ女ヲ、人間ノ前デ殺ス。二度トオレ達ヲ見下スコトハナクナルダロウ」
「人間が仕返しにきたら?」
「我ガ力ヲ持ッテ、返リ討チニシテクレル」
会話が止まり、辺りが静まり返る。張り詰めた空気が流れ、ピリピリとした雰囲気だ。これからどうなるのか、まったく予想できない。
「分かったわ――」
「? 何ガダ?」
「――…………あんた達がぶっ倒すべき敵だってことがね!」
堂々と啖呵を切った。俺も巨大な猿人の方を向いていたが、慌てて杏華と背中合わせになる。ここから先は、いつ襲ってきてもおかしくはない。ライフルを持つ手にも力が入る。
「ヤッパリ面白イ奴ダ。コノ状況デモ、ソンナ大口ガ叩ケルトハ」
「ビッグマウスがあたしの魅力でもあるのよ。ところで、そろそろ顔も覚えてきたことだし、プレゼントをあげようかしら」
すぐ後ろでポーチを開ける音がした。何かを取り出したのだろう。
「花火よ。白い閃光がとってもきれいなの」
花火? 白い閃光? 杏華の言っている意味が分からない。
「ホウ、デハ見セテミロ」
「光に見惚れて目をやられないようにね。その間にあたし達が攻撃するかもしれないから」
言葉の意味をそのまま受け取るのではなく、裏にあるメッセージを考えたら、すぐに分かった。
花火、白い閃光、目をやられる。つまりフラッシュグレネードだ。最初に言った、顔も覚えてきたというのは、敵の位置を把握した、の意味であろう。攻撃するかもしれない、は意味の通り攻撃、射撃をするに違いない。
杏華の一連の言葉の真の意味は、『フラッシュグレネードを上に投げるから、周りにいる猿人を目がくらんでいる隙に倒せ』。
左手で杏華の背中を叩き、意味を理解したと伝える。
「それじゃ、とくとご覧あれ!」
俺は目をつぶった。そして猿人のいた位置を脳内でイメージする。
二秒後、体を九十度右に旋回させ、ストックを肩に当てる。イメージした位置に照準を合わせると、トリガーを引いた。三発撃ち、左隣の猿人に銃口を移す。再度三発放つ。
銃撃の音が連続して響く中で、時々うめき声が聞こえてくる。初めて実戦で撃ったが、あまり気持ちのいいものではないな。
左回りに水平射撃を繰り返し、七人目を撃ち終えると目を開いた。俺の視界に入っていた奴は見事に全員倒れていた。
一拍遅れて、杏華も撃つのをやめた。
「あれぇ? 気づいたら周りの人が倒れていたわ。不思議ねー」
死体――数人はまだ息があったが――の中央に立ち、わざとらしい演技をする。うざい、さすが杏華うざい。相手を苛立たせる能力世界五位は伊達じゃないな。
一歩前に踏み出し、ボスの猿人をキッと睨みつけた。遊びや茶番は一切なく、本気で殺そうとしている目だった。
「マ、待ッテクレ。話ヲシヨウデハナイカ」
「いいわよ。あんたが死んでから存分にしてあげる」
アサルトライフルのホロサイトを覗き、残りの弾五発を全てばら撒いた。音速で飛翔した弾丸が、猿人の胸のコネマテに命中する。よく見ると、弾は当たった瞬間吸収されるように消えていた。それから当たった所を中心にして、表面に波紋らしきものが広がった。
「グウウゥ……!」
苦しみ出したが、杏華の攻撃は止まらない。ライフルを投げ捨て、左太股からハンドガンを抜き、間髪入れずに引き金を引く。一発も外すことなく、マガジン内の八発を撃ち尽くした。遊底が後端で停止して、機関部が露出した状態になる。
「グオオオォォォッ!」
ハンドガンを手から離す。左手が動くのと同時に、背中のショットガンがスライドした。グリップを握り取り外すと、フォアエンドを右手で掴む。ダッ、と地面を蹴り、猿人との距離を一気に詰めた。銃口を上向け、強力な一撃を放つ。
「あんた達の」
バシュン!! 二発目。
「バカな行動がっ」
三発目。
「彼女をどんなに!」
四発目。
「苦しめたのかっ!」
五発目。
「思い知りなさい!!」
六発目。
装弾数六発のショットガンを空になるまで撃ち、杏華の猛攻はようやく終わった。
「ガアアアアアアァァァァァァ―――――ッ!!」
歯を剥き出しにして、咆哮。大きく見開かれた目には、驚愕と混乱の色があった。
胸のコネマテにひびが入り始め、少しずつ広がっていく。全体まで広がると、バキンッと音を立てて割れた。内部から黒い霧がどばぁ、と噴き出し、猿人を取り囲んでいく。
形を変え、密度を変え、うねり、伸び、縮む。不規則に変化する霧の塊は、まるで命を持っているかのようだ。
やがて動きは緩やかになり、ついには止まった。そして霧が薄まっていき、様子が分かるようになる。猿人は普通の体長に戻っており、ガクリと膝をつくと、うつ伏せに倒れ込んだ。コネマテはもう胸に付いてはいなかった。
前衛の仕事を済ませた杏華が帰ってくる。
「お疲れさん。無双した感想は?」
「なかなか良かったわ。気分がすっきりしたし」
「これから先、お前にフルボッコにされる奴らがかわいそうだよ」
「そういう運命にした神様を呪うことね」
そのあと、杏華はハンドガンとアサルトライフルを拾い、新たな弾倉を装填した。遺跡の内部に退避していたマリナを呼び、俺達は再び街に向けて歩き出した。
「早く入りなさいよ。妹が待っているのに」
「はい……。ですが、どんな顔をして会ったらいいのか分からなくて……」
無事に家までたどり着いたが、彼女はなかなか入ろうとしない。玄関の扉の前で立ち止まったまま、一分が過ぎようとしていた。
「笑顔でただいまを言えばいいのよ」
マリナは頷くと、ゆっくりと扉を開けた。
「た、ただいまー!」
恐る恐る出した大声が、家の中を駆け巡っていく。数秒後、リビングの扉が開き、ばたばたと足音を響かせてエレナが姿を現した。
「お姉ちゃん……?」
「ただいま」
「お姉ちゃん!」
腕を広げ、勢いよく抱きついた。強く強く抱擁し、お互いの体温を確かめ合う。
「ごめんね。心配させて」
マリナはエレナの髪を撫で、何度も謝っていた。
微笑ましい光景に、俺の涙腺も緩くなる。自分も当事者なだけあって感動は人一倍だ。
「うう……、お姉ちゃん。……良かった。ひくっ、……良かったのぉ」
エレナは目に大粒の涙を浮かべ、号泣している。それほどまでに姉が好きで、大切で、かけがえのない存在だったのだろう。
「初任務、大成功で終われそうね」
隣で杏華が呟いた。二人を見つめるその瞳には、どこか羨望のようなものが混じっている気がした。
「今日は気持ち良く眠れるな」
そう俺が言うのと同時に、体が沈み始めた。足元にフロンティア・ゲートが出現して、この世界からの別離が始まったんだ。抗うことはできず、身を任せるしかない。
ゲートをくぐれば、俺達の世界に帰れる。そして二度とこの世界を訪れることはない。
「あー、こんな大事な時で悪いけど、あたし達もう帰らなくちゃ」
二人は抱擁をやめ、こちらに顔を向けた。指先で涙を拭う。マリナは俺達の状態を見て目を丸くしていた。無理もない、人がずぶずぶと沈んでいく経験なんてあるはずがないからな。
「それは、本当ですか……?」
「ええ。この美しい世界にもっといたかったんだけどね」
「もうお姉ちゃん達に会えないってことなの?」
エレナが急に寂しそうな表情になった。
「奇跡でも起きない限りたぶん、ね」
「そんなの……嫌だよ。お姉ちゃんを助けてもらって、まだお礼もしてないのに」
目を伏せ、必死に頭を横に振る。出会って数時間しか経っていない俺達に、そこまで思い入れが深いとは意外だった。
「一つ聞いてもいい? あなた達の両親、もういないでしょ?」
マリナは一瞬驚いた顔を見せる。少しの間のあと、答えた。
「……はい。三年前に亡くなりました。ですが、どうしてそれを?」
「写真を見てちょっとそんな気がしただけよ」
杏華は俺に向かってどや顔を決めてくる。そういえばあったな、その話。
体は腰まで沈み、いよいよ時間がなくなってきた。最後の別れを済ませなければ。
「俺はお二人のこと、一生忘れません」
おっと、言い忘れていた。
「マリナさん。俺のあげた袋、捨てないでくださいね。約束ですよ」
ふふっ、と微笑みスカートのポケットから灰色の袋を取り出した。
「もちろんです。私の宝物ですから、これは」
死ぬまで手放さないと約束してくれた。
「ねぇ、エレナ」
相変わらず顔を伏せたままだったが、杏華に優しく声を掛けられて、やっと顔を上げた。
「何……?」
「お礼の代わりに頼みたいことがあるんだけど。いい?」
「うん……」
「マリナを、姉を大切にして生きること。それがお礼の代わりよ。できるわね?」
寂しそうな顔が一変して、いつものきりっとした顔に変わる。
「うん……。うん! 絶対! 絶対守る!」
どうやら別れのふんぎりはついたようだな。
エレナは杏華の前で膝をつき、手を伸ばした。がっちりと握手をする。
俺達はすでに胸まで沈んでいる。時間はもう、ない。
「お兄ちゃんも、ありがとう。わがまま言って、ごめんね」
今度は俺の方に手を差し伸べてきた。小さなその手をしっかりと握る。感覚を、温もりを忘れないように。
そして手が、離れる。
「それじゃ、本当にお別れね」
首だけを地面から生やし、杏華が最後の言葉を発した。
「お元気で」
口がゲートを通過し、声は一切二人に届かなくなる。
マリナは深くお辞儀をし、エレナは俺達の頭をくしゃくしゃと撫でた。耳が通過し、音ももはや聞こえない。
目が通過する寸前で、エレナが口を動かした。
ま た ね
再び会えないと分かっていても、さよならとは言いたくない。そんな彼女の気持ちが、頭を撫でる手から伝わってきた。
完全にゲートに入りきると、撫でられる感覚は消え去ってしまった。
直後、闇の中での自由落下が始まる。
思い出を胸に抱きながら、長いゲートをただただ落ちていく。
言葉を交わすことなく、無言のまま――。