架空の画家の、架空の八月六日の物想い
「ピカ。ドン」
アメリカと太平洋戦争の只中にあった日本のヒロシマに、原爆が投下されたのは、千九百四十五年、八月六日のことだ。たちまちの内に惨禍となったヒロシマで、辛うじて生き残った婦人が原爆投下の様を描写した言葉が、冒頭のそれである。
私の親友であるスペイン人画家、バルサタール・ブレイは、この婦人の言葉、「ピカ。ドン」に大きなインスピレーションを受けて一枚の絵画を、1年以上かけて仕上げる。
バルサタール・ブレイ。紺碧の瞳と薄い唇が印象的なその男は、画家としてデビューして以来、挑発と扇動、奇行を繰り返し、そのセンセーショナリズムな作風から別名「街娼の画家」とも呼ばれた男だ。
そのバルサタールが描いた絵画。戦争、科学の進歩、平和についての彼の考えが託されたその絵画は、「とある画家の、架空の八月六日の物想い」と名付けられた。
その絵画、シュールリアリズムを土台にして、ダブルイメージと呼ばれる技法、一つの絵から二つのイメージが想い起される技法を用いて描かれたものだったが、大きな議論を呼ぶことになる。
その理由は、原爆のきのこ雲と、倒れ伏す人々を描いたイメージが、目を離して見ると、アインシュタインが舌を出す例の肖像写真にも見えたからである。
バルサタールは大きな批判に晒された。「原爆礼賛」「犠牲者を踏みにじる絵画」「マッドな着想」などなど。数え上げればキリがない。
彼は所属していたシュールリアリズムのグループからも呼び出しを受け、「君は戦争賛美者か」「君は帝国主義者か」などと散々詰め寄られたという。
その騒動に嫌気がさしたバルサタールは、「架空の八月六日」を描いて以来、筆を持つのをやめてしまった。彼はスペインのカダケスの自宅に籠るようになり、人との接触をほぼ断つようになる。
この頃からバルサタールは私、評論家でもあり、詩人でもあるアーロン・デル・アモを自宅に招いて、口述の伝記を執筆するように、依頼してくれた。
私とバルサタールは昔からの親友であり、シュールリアリズムが台頭した二十世紀初頭から、幾度も共作、共演を重ねてきた仲だ。
バルサタールは幼少期の思い出から、画家を志したいきさつ、そして画家として全盛期を誇った千九百三十年代の話などを、様々な逸話を交えて、私に披露してくれた。
やがて口述筆記の伝記も佳境を迎え、例の「架空の八月六日」の話になると、バルサタールの鋭かった舌鋒はやや控えめになる。
彼自身なぜ、戦争の惨禍を描いた一方のイメージとダブらせて、もう一つのイメージ、アインシュタインの肖像写真を描いたのか、真相を話したがっていないようだった。
私がアインシュタインの舌出しは、「戦争に用いられる科学技術への嘲笑では?」と尋ねると彼ははぐらかしたし、私の「Why?」に決して答えようとはしなかった。
私の散々な追求に、バルサタール自身応じる気が一切なかったのかどうか、「それでいいよ。デル・モア」と半ば真意を覆い隠し、私へ記述を進めるよう促した。
やがて二人の最後の共同作業となった伝記の執筆が終わると、完全に彼、バルサタールは口を閉ざしてしまった。こう最後の言葉を添えて。
「デル・モア。人間恐ろしいことに、自分の役目が終わったと思う瞬間があるんだよ。それがあの『八月六日の物想い』を描きあげた時、僕に起こったんだ。だから僕はもう画家である必要がなくなったんだよ」
私はバルサタールの言葉の真意を、完全に汲み取ることは出来なかったが、彼の言わんとするところは、朧げだが理解出来た。
「自分の役目の終わり」「画家としての、あるいは表現者としての終焉」。それは私にも訪れるであろうものだったが、当時の私にはリアリティをもって感じられる言葉ではなかった。
それからやがて十年近い歳月が経ち、六十代後半に差し掛かった私は、再びバルサタールの邸宅に招かれた。彼からこのような手紙が届いたからだ。
「私の人生にも終わりが近づいている。例の絵画、『架空の八月六日の物想い』について君に真相を話したい」
そう手紙には記されていた。私自身かつてバルサタールが口にした、「表現者としての終焉」を予感していただけに、私は彼のもとへ駆け込まざるを得なかった。
だがカダケスのバルサタールの自宅を訪れた、私を待っていたのは、目を覆うべき惨状だった。彼の自宅は大きく炎上し、焼け出された彼、バルサタールは救急車で病院へ運ばれる最中だったのだ。
私は救命員の許可を得て、バルサタールのもとへと駆け寄る。そこで彼が口にしたのは、様々な騒動や議論をあえて呼びおこし、多くの問題作を作り上げてきた彼にしては、予想外の言葉だった。
「デル・モア。もし私が病院へ着く前に、命を落とすようなことがあれば、約束して欲しい。まず最初にスペインの美術館にある、私の絵画、『とある画家の、架空の八月六日の物想い』の前へ私を連れて行くと」
私はその言葉を深く胸に刻み込んだ。だが病院へ運ばれたバルサタールは、懸命の治療にも関わらず命を落としてしまう。これで「架空の八月の六日の物想い」に彼が託した真のメッセージとその真相はついに闇の中へと消えてしまった。
そんな折、バルサタールの夫人、アデリアが一通の書簡を私に手渡してくれた。何かあったら、私に託すように、バルサタールから言われていたという。
私は高鳴る胸の鼓動を抑え、書簡を開いた。そこにはこう書き記されていた。
「デル・モア。一人の画家としての僕は大き過ぎたので、多くを語るのは難しかった。だが一人の人間としての僕は平和を愛するシンプルな人間だ。例の『八月六日の物想い』の額縁をよく調べてみるといいよ」
その伝言を受け取った私は、美術館の許可を得て、「八月六日の物想い」の額をよく調べてもらった。するとそこにはもう一つの、もう一枚の絵画、小品が挟まれていた。
そこには一人の美しい日本人女性が描かれていた。駅で夫と別れを告げるそれは慎ましやかな女性の姿。
その女性はバルサタールが思い描いた、ヒロシマで惨禍に遭い、「ピカ。ドン」と原爆を表した女性だったのか、そうでなかったのかそれは私には分からない。
だがその慎ましやかな日本人女性を見るにつけ、私は、とある想いを強くせざるを得なかった。私の親友、バルサタール・ブレイは一人の人間としては、シンプルに平和を愛し、シンプルに人間を愛することの出来る男だったと。
そう私は物想いに耽ると、バルサタールの死後十年目、千九百六十五年の今日、八月六日にあの絵画、バルサタールの遺作となった「とある画家の、架空の八月六日の物想い」の前にまた今一度立ち尽くすのだ。バルサタールのあの言葉、「表現者としての終焉」を語った、あの言葉を思い出しながら。
「デル・モア。人間恐ろしいことに、自分の役目が終わったと思う瞬間があるんだよ」




