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架空の画家の、架空の八月六日の物想い

作者: keisei1
掲載日:2015/08/06

「ピカ。ドン」



 アメリカと太平洋戦争の只中にあった日本のヒロシマに、原爆が投下されたのは、千九百四十五年、八月六日のことだ。たちまちの内に惨禍となったヒロシマで、辛うじて生き残った婦人が原爆投下の様を描写した言葉が、冒頭のそれである。


 私の親友であるスペイン人画家、バルサタール・ブレイは、この婦人の言葉、「ピカ。ドン」に大きなインスピレーションを受けて一枚の絵画を、1年以上かけて仕上げる。


 バルサタール・ブレイ。紺碧の瞳と薄い唇が印象的なその男は、画家としてデビューして以来、挑発と扇動、奇行を繰り返し、そのセンセーショナリズムな作風から別名「街娼の画家」とも呼ばれた男だ。


 そのバルサタールが描いた絵画。戦争、科学の進歩、平和についての彼の考えが託されたその絵画は、「とある画家の、架空の八月六日の物想い」と名付けられた。


 その絵画、シュールリアリズムを土台にして、ダブルイメージと呼ばれる技法、一つの絵から二つのイメージが想い起される技法を用いて描かれたものだったが、大きな議論を呼ぶことになる。


 その理由は、原爆のきのこ雲と、倒れ伏す人々を描いたイメージが、目を離して見ると、アインシュタインが舌を出す例の肖像写真にも見えたからである。


 バルサタールは大きな批判に晒された。「原爆礼賛」「犠牲者を踏みにじる絵画」「マッドな着想」などなど。数え上げればキリがない。


 彼は所属していたシュールリアリズムのグループからも呼び出しを受け、「君は戦争賛美者か」「君は帝国主義者か」などと散々詰め寄られたという。


 その騒動に嫌気がさしたバルサタールは、「架空の八月六日」を描いて以来、筆を持つのをやめてしまった。彼はスペインのカダケスの自宅に籠るようになり、人との接触をほぼ断つようになる。


 この頃からバルサタールは私、評論家でもあり、詩人でもあるアーロン・デル・アモを自宅に招いて、口述の伝記を執筆するように、依頼してくれた。


 私とバルサタールは昔からの親友であり、シュールリアリズムが台頭した二十世紀初頭から、幾度も共作、共演を重ねてきた仲だ。


 バルサタールは幼少期の思い出から、画家を志したいきさつ、そして画家として全盛期を誇った千九百三十年代の話などを、様々な逸話を交えて、私に披露してくれた。


 やがて口述筆記の伝記も佳境を迎え、例の「架空の八月六日」の話になると、バルサタールの鋭かった舌鋒はやや控えめになる。


 彼自身なぜ、戦争の惨禍を描いた一方のイメージとダブらせて、もう一つのイメージ、アインシュタインの肖像写真を描いたのか、真相を話したがっていないようだった。


 私がアインシュタインの舌出しは、「戦争に用いられる科学技術への嘲笑では?」と尋ねると彼ははぐらかしたし、私の「Why?」に決して答えようとはしなかった。


 私の散々な追求に、バルサタール自身応じる気が一切なかったのかどうか、「それでいいよ。デル・モア」と半ば真意を覆い隠し、私へ記述を進めるよう促した。


 やがて二人の最後の共同作業となった伝記の執筆が終わると、完全に彼、バルサタールは口を閉ざしてしまった。こう最後の言葉を添えて。



「デル・モア。人間恐ろしいことに、自分の役目が終わったと思う瞬間があるんだよ。それがあの『八月六日の物想い』を描きあげた時、僕に起こったんだ。だから僕はもう画家である必要がなくなったんだよ」



 私はバルサタールの言葉の真意を、完全に汲み取ることは出来なかったが、彼の言わんとするところは、朧げだが理解出来た。


 「自分の役目の終わり」「画家としての、あるいは表現者としての終焉」。それは私にも訪れるであろうものだったが、当時の私にはリアリティをもって感じられる言葉ではなかった。


 それからやがて十年近い歳月が経ち、六十代後半に差し掛かった私は、再びバルサタールの邸宅に招かれた。彼からこのような手紙が届いたからだ。



「私の人生にも終わりが近づいている。例の絵画、『架空の八月六日の物想い』について君に真相を話したい」



 そう手紙には記されていた。私自身かつてバルサタールが口にした、「表現者としての終焉」を予感していただけに、私は彼のもとへ駆け込まざるを得なかった。


 だがカダケスのバルサタールの自宅を訪れた、私を待っていたのは、目を覆うべき惨状だった。彼の自宅は大きく炎上し、焼け出された彼、バルサタールは救急車で病院へ運ばれる最中だったのだ。


 私は救命員の許可を得て、バルサタールのもとへと駆け寄る。そこで彼が口にしたのは、様々な騒動や議論をあえて呼びおこし、多くの問題作を作り上げてきた彼にしては、予想外の言葉だった。



「デル・モア。もし私が病院へ着く前に、命を落とすようなことがあれば、約束して欲しい。まず最初にスペインの美術館にある、私の絵画、『とある画家の、架空の八月六日の物想い』の前へ私を連れて行くと」



 私はその言葉を深く胸に刻み込んだ。だが病院へ運ばれたバルサタールは、懸命の治療にも関わらず命を落としてしまう。これで「架空の八月の六日の物想い」に彼が託した真のメッセージとその真相はついに闇の中へと消えてしまった。


 そんな折、バルサタールの夫人、アデリアが一通の書簡を私に手渡してくれた。何かあったら、私に託すように、バルサタールから言われていたという。


 私は高鳴る胸の鼓動を抑え、書簡を開いた。そこにはこう書き記されていた。



「デル・モア。一人の画家としての僕は大き過ぎたので、多くを語るのは難しかった。だが一人の人間としての僕は平和を愛するシンプルな人間だ。例の『八月六日の物想い』の額縁をよく調べてみるといいよ」



 その伝言を受け取った私は、美術館の許可を得て、「八月六日の物想い」の額をよく調べてもらった。するとそこにはもう一つの、もう一枚の絵画、小品が挟まれていた。


 そこには一人の美しい日本人女性が描かれていた。駅で夫と別れを告げるそれは慎ましやかな女性の姿。


 その女性はバルサタールが思い描いた、ヒロシマで惨禍に遭い、「ピカ。ドン」と原爆を表した女性だったのか、そうでなかったのかそれは私には分からない。


 だがその慎ましやかな日本人女性を見るにつけ、私は、とある想いを強くせざるを得なかった。私の親友、バルサタール・ブレイは一人の人間としては、シンプルに平和を愛し、シンプルに人間を愛することの出来る男だったと。


 そう私は物想いに耽ると、バルサタールの死後十年目、千九百六十五年の今日、八月六日にあの絵画、バルサタールの遺作となった「とある画家の、架空の八月六日の物想い」の前にまた今一度立ち尽くすのだ。バルサタールのあの言葉、「表現者としての終焉」を語った、あの言葉を思い出しながら。



「デル・モア。人間恐ろしいことに、自分の役目が終わったと思う瞬間があるんだよ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 歴史に基づいた丁寧な筆致ながら読みやすかったです。 画家の苦悩、なにものかを創作し、生み出す者の限界とそれを悟ることの残酷さを突きつけられるように思いました。 [一言] 語り尽くさず、けれ…
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