第十四話:あと十か月
約束をしてから、一週間。
昼休みの鐘が鳴ると、マリアネラはいつものように教本を閉じた。
王立学院では、学科によって選択する講義は異なるものの、同じ学年であれば共通して受ける授業も多い。
フェルナンドとマリアネラは、同じクラスだった。
そのため、婚約してからというもの、社交の場やリュミエール邸だけでなく、学院でも顔を合わせることが増えている。
もっとも。
婚約する以前から、同じ教室にはいたのだ。
ただ。
互いを意識していなかっただけで。
「マリアネラ」
教本を鞄へしまっていると、隣から声がした。
「何?」
「先日の件ですが」
「先日?」
「私の好きなものについてです」
「ああ」
マリアネラは、思い出したように頷いた。
「考えた?」
「一応」
「一週間もかかったの?」
「難題でしたので」
「好きなものを聞いただけでしょう」
「ですから、難題だったのです」
真顔で返され、マリアネラは呆れたように息を吐いた。
「それで?」
「本は好きだと思います」
「知ってるわ」
「そうなのですか?」
「あなた、休憩時間にもよく読んでるじゃない」
「なるほど」
「本人より私の方が知ってるってどういうことよ」
「では、静かな場所も」
「それも前に聞いたわ」
「……そうでしたね」
「他には?」
「他」
フェルナンドが黙る。
「また考えるの?」
「少々お待ちください」
「一週間考えたんじゃなかったの?」
「考えた結果が、今の二つです」
「少ないわね」
「申し訳ありません」
「謝られても困るわよ」
マリアネラは笑いながら、鞄を閉じた。
その顔を。
フェルナンドは、何となく見た。
「…………」
楽しそうに笑っている。
ただ、それだけだった。
「フェル?」
「はい」
「まだ考えてる?」
「……ええ」
フェルナンドは視線を戻した。
「もう少し、考えておきます」
「そう。見つかったら教えて」
「分かりました」
その答えに、マリアネラは満足そうに頷いた。
フェルナンドはもう一度だけ、彼女を見る。
何故そうしたのかは。
特に、考えなかった。
◇◇◇
「ルシア」
昼食を取るため中庭へ出たところで、イルムヒルデが一人の少女を呼び止めた。
ルシアが足を止める。
「……私ですか?」
「他にルシアがいる?」
「いえ」
「なら、あなたよ」
イルムヒルデが指した先には、マリアネラたちが使っているテーブルがあった。
イルデフォンソ、ニコラス、テオドール。
そして、フェルナンドとマリアネラ。
少し離れた場所には、いつものようにエルネストもいる。
「こちら、空いているわよ」
「え」
「一緒に食べましょう」
ルシアが明らかに困った顔をした。
視線が、マリアネラへ向く。
「……よろしいのですか?」
「何で私に聞くのよ」
「いえ、その……」
「座ればいいでしょう。ルディが呼んだんだから」
「……はい」
恐る恐る腰を下ろすルシアを見て、イルムヒルデも隣へ座った。
「そんなに緊張しなくても、取って食べたりしないわよ」
「分かっています」
「顔が分かってないわ」
「ルディ」
「何?」
「余計に緊張させてるわよ」
「そう?」
「そうよ」
ルシアが小さく笑った。
その笑いに、マリアネラも少しだけ口元を緩める。
以前なら。
こんなふうに同じ卓を囲むことなど、考えもしなかった。
だからといって、急に友人になったわけではない。
ただ。
挨拶ができるようになった。
同じ場所に座れるようになった。
今は、それで十分だった。
「ところで、マリアネラ様」
しばらくして、ルシアが彼女の手元を見た。
「何?」
「それ、先週の資料ではありませんか?」
「え?」
「今日配られたものは、表紙の右上に年度が入っています」
「…………」
マリアネラが紙を見る。
確かに。
一年前の日付が書かれていた。
「……本当だわ」
「先ほど先生が、昨年度とは税率が違うと仰っていました」
「…………」
「…………」
「ありがとう」
「どういたしまして」
イルムヒルデが、二人を見た。
「随分、普通に話すようになったわね」
「なってないわよ」
「なっていません」
ぴたりと重なる。
「…………」
「…………」
今度はマリアネラとルシアが互いを見る。
イルムヒルデが笑った。
「息まで合ってきたじゃない」
「合ってないわよ!」
「合っていません!」
「ほら」
「ルディ!」
少し離れたところで、その様子を眺めていたニコラスが笑う。
「賑やかになったね」
「そうですね」
フェルナンドが答える。
「嫌?」
「いいえ」
フェルナンドは、ルシアへ何かを言い返しているマリアネラを見た。
「……嫌ではありません」
ニコラスが横目で彼を見る。
「ふうん」
「何です?」
「何でもないよ」
口元だけが、妙に楽しそうだった。
◇◇◇
数日後。
午後の講義を終えたマリアネラは、イルムヒルデとともに廊下を歩いていた。
「次は法学だったかしら」
「ええ。今日は判例研究よ」
「テオ、また教本を忘れていたわ」
「また?」
「朝、あれほど確認したのに」
「ルディも大変ね」
「姉というものは大変なのよ」
「双子でしょう」
「私の方が姉よ」
「数分じゃなかった?」
「数分でも姉は姉よ」
「テオと同じこと言っただけなのに、何で私が睨まれるのよ」
そんな話をしながら角を曲がったところで、マリアネラの足が少しだけ遅くなった。
前方に。
フェルナンドがいた。
その周囲には、数人の女子学生がいる。
珍しい光景ではない。
リュミエール公爵家の嫡男。
整った容姿。
学院でも優秀な成績を収めている。
婚約者がいると公表された今でも、彼に話しかけようとする者がいなくなったわけではなかった。
「…………」
マリアネラは、そのまま歩く。
別に。
何ということもない。
フェルナンドが誰と話そうが、彼の自由だ。
契約にも、学院で異性と会話をしてはならないなどという条項はない。
そもそも。
ただ話しているだけだ。
「フェルナンド様は、次の学院競技会にも出られますの?」
「まだ決めておりません」
「ぜひ。昨年も素晴らしい成績でしたもの」
「ありがとうございます」
女子学生の一人が、楽しそうに笑う。
フェルナンドも、いつもの穏やかな表情で答えていた。
「…………」
マリアネラは、もう一度そちらを見た。
「マリアネラ?」
「何?」
「どうしたの?」
「何が?」
「……機嫌悪い?」
「悪くないわよ!!」
廊下に、少しだけ声が響いた。
周囲の学生が振り返る。
「…………」
「…………」
イルムヒルデが目を瞬かせた。
「そう」
「何よ」
「何も言ってないわ」
「顔が言ってるわよ!」
「何を?」
「知らないわよ!」
「理不尽ね……」
イルムヒルデはそう言いながら、ちらりとフェルナンドの方を見る。
そして。
もう一度、マリアネラを見る。
「…………」
「何よ!」
「何でもないわ」
イルムヒルデの口元が、ほんの少しだけ上がった。
「お人好しなうえに、面倒な子ね」
「どういう意味よ!?」
「嫌いじゃないわよ」
「だから何の話!?」
イルムヒルデは答えず、そのまま歩き出した。
「ちょっと、ルディ!」
マリアネラも慌てて後を追う。
◇◇◇
「マリアネラ」
次の講義が始まる少し前。
席へ戻ってきたフェルナンドが、隣に座るマリアネラへ声をかけた。
「何」
「……どうかなさいましたか?」
「何が?」
「先ほどから、少し機嫌が悪いようですが」
「悪くないわよ」
「そうですか」
「そうよ」
「…………」
「何よ」
「いえ」
フェルナンドは一度、教本へ視線を落とした。
以前なら。
そこで終わっていただろう。
本人が違うと言うのなら、それ以上尋ねる必要はない。
けれど。
「本当に?」
「なんでもない!!」
「…………」
フェルナンドが瞬く。
「分かりました」
「ならいいわ」
マリアネラは勢いよく教本を開いた。
フェルナンドも、自分の教本を開く。
だが。
数行読んだところで、隣を見る。
明らかに機嫌が悪い。
少なくとも。
いつものマリアネラではない。
「…………」
何故だろう。
昼までは、普通だった。
午後の講義が終わったあと。
自分は何をしていた。
女子学生に声をかけられた。
学院競技会について聞かれた。
それから。
「フェル」
「はい」
「さっきから何?」
「……いえ」
「見るなら堂々と見なさいよ」
「では」
「本当に見るな!」
「どちらですか」
「知らないわよ!」
「…………」
ますます分からない。
少し離れた席で。
エルネストが、妹を見ていた。
次に。
フェルナンドを見る。
そして、先ほど廊下でフェルナンドを囲んでいた女子学生たちを見る。
「…………」
もう一度、妹を見る。
「……いや」
小さく呟いた。
「まさか」
ヴァレンティン家の人間が、感情を上手く隠せないことは知っている。
何しろ自分もヴァレンティン家の人間だ。
怒れば声に出る。
不満があれば顔に出る。
それでも。
まさか。
「エルネスト」
隣の列から、イルムヒルデが小声で呼ぶ。
「はい」
「気づいた?」
「……何にでしょう」
「なら、いいわ」
「待ってください」
「何?」
「イルムヒルデ様は、何に気づかれたのですか」
「さあ?」
「その顔で誤魔化すのは無理があります」
「あなたも人のことは言えないわよ」
「私は何も」
「ずっと二人を見てたでしょう」
「…………」
「ほら」
エルネストは黙った。
その前方では。
マリアネラが教本をめくる。
いつもより少しだけ、勢いよく。
隣ではフェルナンドが、そんな彼女を気にしている。
「……まさか」
エルネストは、もう一度だけ呟いた。
◇◇◇
その日の帰り。
「フェル」
学院の正門近くで、イルデフォンソが声をかけた。
ニコラスとテオドールも一緒だった。
「何でしょう、殿下」
「マリアネラ嬢はどうした」
「分かりません」
「分からないのか」
「本人は、何でもないと」
「何でもない人間は、あんな声を出さないと思うけど」
ニコラスが言う。
「私も、そう思います」
「じゃあ何があったんだろうね」
「それを考えています」
「最近、考えてばかりだな。お前」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
テオドールが即答する。
フェルナンドは少しだけ眉を寄せた。
「午後の講義までは、普通でした」
「その前は?」
イルデフォンソに聞かれ、フェルナンドは記憶を辿る。
「女子学生に話しかけられていました」
「ふうん」
ニコラスの口元が上がる。
「何です?」
「何でもない」
「最近、その返答をよく聞きますね」
「便利だからね」
「マリアネラにも言われました」
「何を?」
「婚約者という言葉を便利に使っている、と」
「…………」
「…………」
「何です?」
「いや」
イルデフォンソが顔を逸らす。
ニコラスは肩を震わせている。
テオドールだけが、三人を見比べた。
「それ、普通に嫉――」
「テオ」
イルデフォンソが遮った。
「何?」
「黙っていろ」
「何で?」
「いいから」
「理不尽だなあ」
「お前の姉の気持ちが少し分かった」
「姉上はいつも理不尽だよ」
「あとでルディに伝えておくね」
ニコラスが笑顔で言う。
「やめて」
フェルナンドは、そんな三人を見ながら。
結局。
何故マリアネラの機嫌が悪かったのか、分からないままだった。
◇◇◇
それから。
学院での日々は、少しずつ形を変えていった。
大きな変化があったわけではない。
朝になれば講義を受け。
昼になれば食事を取り。
午後にはまた教本を開く。
ただ、その中に。
以前にはなかったものが、少しずつ増えていた。
昼食時。
フェルナンドが先に席へ着けば、隣の椅子が自然と空いた。
マリアネラも、そこへ座ることに何の疑問も抱かなくなった。
マリアネラが講義で面白い話を聞けば。
あとでフェルナンドに話そうと思うことがあった。
フェルナンドも、読んでいた資料の中に領地経営に関わる記述を見つければ。
マリアネラならどう考えるだろうと、ふと思った。
ルシアも。
最初こそイルムヒルデに呼ばれなければ同じ卓へ来なかったものの、やがて自分から挨拶をして席へ着くようになった。
「マリアネラ様、今日の課題は終わりました?」
「半分」
「昨日、今日中に終わらせると仰っていませんでした?」
「予定は変わるものよ」
「それを世間では、終わらなかったと言うのでは?」
「ルシア」
「はい」
「随分言うようになったわね」
「……申し訳ありません」
「褒めてるのよ」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
「たぶん」
そんな会話を聞きながら、イルムヒルデが笑う。
ビクトリアも、廊下で会えば立ち止まって挨拶をするようになった。
まだ、ルシアのように同じ卓を囲むことはない。
けれど。
以前のように互いを避けることもなくなった。
それでいい。
急ぐ必要など、なかった。
気づけば。
一か月が過ぎていた。
◇◇◇
「そろそろ、本格的に予定を組み始めましょうか」
休日。
リュミエール邸の応接室で、ベアトリスがそう言った。
テーブルの上には、いくつもの書類が並べられている。
フェルナンドとマリアネラは、その向かいに並んで座っていた。
「予定?」
マリアネラが尋ねる。
「婚礼のよ」
「……ああ」
「まだ先だと思っていたでしょう?」
「少しだけ」
正直に答えると、ベアトリスが笑った。
「式そのものはまだ先よ。でも、リュミエール家の婚礼となれば、準備することはいくらでもあるもの」
招待客。
式場。
衣装。
警備。
当日の進行。
そして、婚姻後の生活に必要なもの。
「マリアネラさんのお部屋も、少しずつ整えなくてはね」
「私の……」
「以前、見てもらったでしょう?」
「ええ」
フェルナンドの私室に近い場所に用意された部屋。
婚約者になったばかりの頃、一度だけ案内された。
あの時は。
ただ。
将来自分が使う部屋なのだと聞いただけだった。
「好みがあれば遠慮なく言ってちょうだい。家具も壁紙も、まだ変えられるわ」
「……分かりました」
マリアネラは頷く。
ここに住む。
そのことは。
最初から分かっていた。
フェルナンドと婚姻を結べば、自分はリュミエール公爵家へ入る。
契約を結んだ時から。
何ひとつ、変わっていない。
なのに。
学院で毎日のように顔を合わせるようになったからだろうか。
以前よりも。
少しだけ。
想像できてしまった。
朝。
同じ屋敷で目を覚ます。
食事の席で顔を合わせる。
学院へ行く時も。
帰る場所も。
同じになる。
「…………」
隣を見る。
フェルナンドは、ベアトリスから渡された予定表を読んでいた。
「フェルナンド」
「はい」
「あなたも、希望があれば今のうちに言っておきなさいね」
「特には」
「そう言うと思ったわ」
「問題があるでしょうか」
「ないけれど。マリアネラさんと暮らすのよ? 少しくらい考えてみたら?」
「…………」
フェルナンドが黙った。
マリアネラと暮らす。
当然のことだ。
婚姻するのだから。
だが。
言葉にされると。
それまで漠然としていたものが、急に形を持った。
学院で。
隣の席にいる。
昼食でも、隣に座る。
リュミエール邸へ来れば、向かいに座って茶を飲む。
それが。
毎日になる。
「……そうですね」
「何?」
「いえ」
フェルナンドは、もう一度予定表へ目を落とした。
嫌ではない。
むしろ。
「…………」
「フェル?」
「何でもありません」
「最近そればっかりね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいわよ」
マリアネラは呆れたように言う。
ベアトリスは。
そんな二人を見て。
何も言わずに微笑んだ。
「婚姻まで、あと十か月ね」
ベアトリスが、何気なく言った。
マリアネラの手が止まる。
「……十か月」
「ええ」
一年後。
そう聞いた時には。
随分先のことのように思えた。
けれど。
もう。
十か月。
フェルナンドも、予定表から顔を上げた。
十か月後。
マリアネラは、この屋敷で暮らす。
自分と。
「…………」
視線が重なった。
どちらからともなく。
すぐに逸らす。
婚姻は。
契約を履行するために必要なもの。
二人の間で交わした条件を。
実行に移すための始まり。
ただ、それだけのはずだった。
婚姻まで。
あと十か月。
一年と聞いた時よりも。
その言葉は。
ずっと近く感じられた。




