第八十五話「記録の空白」
――時刻:深夜1時03分。
――場所:防衛省外周、観測中枢・アナリシスドーム。
「記録が……消えてる……?」
千歳の声が震えていた。
指先で何度スクリーンをなぞっても、そこに表示されるはずの過去データが一切表示されない。
「陸くん、これは――冗談じゃないわ。観測システムそのものが過去ログを“持っていかれてる”!」
「まさか、もう“ゼロ・アンサー”の影響が……」
陸が振り返った先、研究室の壁に投影された世界地図には、灰色の浸食領域が浮かび上がっていた。
最初は旧研究区画だけだったはずの異変が、わずか数分で近隣都市圏の**“記録”そのものを塗り潰していた**。
「この灰色……記録喪失を示すエリアよ。
GPS、通信、行政、金融履歴、個人ID、教育記録、家族記録――すべて“なかったこと”になってる」
玲音が、呆然とモニターを見つめていた。
その頬に貼られていたホログラムタグが、いつの間にか消えているのに気づき、目を見開く。
「私の……名前が……ない……?」
それは象徴だった。
記録の中から名前が消えるということは、**“この世界に存在していない”**と判断されることと同義。
「私たちも、あと数分で“世界から存在を忘れられる”。
ただの記憶喪失じゃない……“世界そのものが、私たちを知らなかった”ことにされる……!」
千歳が叫ぶ。
美玖は黙って、何かを考えていた。そして――
「陸。君だけは、まだ大丈夫みたい」
「……え?」
美玖はパネルを指差す。
「全ての観測データが消えていく中で、君だけは記録が保持されてる。
“干渉不可領域”扱いになってる。――つまり、ゼロ・アンサーからも認識されていない」
「俺が、例外……?」
その瞬間、玲音が前に出た。
「だったら、あんたしか動けないってことよ。
記録を喰われていくこの世界の中で、“忘れられない存在”だけが唯一、立ち向かえる」
陸は目を閉じ、深く呼吸を整えた。
全身を包む戦闘装備が、静かに起動音を鳴らす。
「なら、やるしかない。
記録が消えても、記憶が残ってる限り、俺はここにいる。
そして、“みんながいたこと”も、絶対に忘れさせない」
玲音が目を細め、微笑む。
「……それでこそ、“記録にすら存在しなかった運命”」
◇
その頃、封鎖空域の最奥――“第0観測層”では。
ゼロ・アンサーが、静かに“世界の断片”を手に取っていた。
それは、かつて誰かが書いた手紙。
子どもが描いた落書き。
恋人同士が交わした約束。
未来を夢見た、全ての記録。
そして――
「……これが、世界の“真実”」
ゼロ・アンサーはそれらを手の中で握り潰し、光と影を飲み込む。
「記録は不要。
始まりに戻るべきだ。
すべてが“なかったこと”になれば、人類はまた間違えずに済む」
――その声に、感情はなかった。
それは機械のようでいて、どこか“哀しげ”でもあった。




