鋼ではない心
消えない記憶って、あると思う。
単なる過去の断片じゃなくて、今の自分を形作っている、そんな大事な記憶。
…あの日のことは、今でもはっきり覚えてる。
母さんが旅立った日。
そして俺が、突然ひとりぼっちになった日。
時間が全てを癒すと思っていた。
でも、10年経っても、最後の瞬間に見た母の目は忘れられない。
弱くて、でも強がっていた。
母はいつもそうだった。痛みを隠して、俺に心配させなかった。
だが結局、父が戻るのを待てずに逝ってしまった。
父は科学者だった。
俺が6歳の時、全ての財産と希望を持って国家プロジェクトに参加すると言い、家を出た。
「人類の未来を守るためだ」と言って。
でも戻らなかった。
母にも俺にも、何の連絡もなかった。
その離別は、もともと体が弱かった母にとって致命的だった。
数ヶ月後、寒い狭い部屋で、薬もなく、誰もいない中で母は倒れた。
俺だけがいた。まだ死の意味も分からない年齢で。
誰にも言わなかった。
強かったからじゃない。
怖かったんだ。
連れていかれるのが怖くて、母の匂いが残る家から離れたくなかった。
大人たちの同情の目も嫌だった。
だから俺は静かに暮らした。
学校にも行かず、誰とも関わらず、ただ玄関の階段に座って空を見上げ、風の音や落ち葉の音を聞いていた。
――そんなある日の夕方、太陽が沈みかけていた。
「お兄ちゃん……私、ママと迷子になっちゃったの。」
顔を上げると、小さな女の子がいた。
4、5歳くらいで、ツインテールの髪。泣きそうな目を必死にこらえていた。
片腕のない人形を抱えていた。
俺は戸惑い、何も言えなかった。
だが彼女は隣に座って、公園で迷子になった話を始めた。
小さくても肝が据わっている子だった。
俺は彼女を交番に連れて行った。
やがて母親が駆けつけて彼女を抱きしめた。
俺は帰ろうとしたが、小さな手が俺の服を掴んだ。
「お兄ちゃん、名前は?」
「……ハガ。」
「私、ナズミ!また遊びに来るね!」
俺はうなずいた。
まさか本当に来るとは思わなかった。
だが翌日も、その翌日も、彼女は来た。
そして毎日。
ナズミが小学校に入る頃、俺が学校に行っていないことに気づいた。
そして彼女の中で大きな計画が生まれた。
「じゃあ、ハガお兄ちゃん、明日から私が勉強教えてあげる!」
俺は驚いた。
自分のことはほとんど話していなかったのに。
ナズミと仲良くなるほど、捨てられる恐怖が強まった。
だが彼女は毎日、ノートやペン、お菓子を持ってきた。
「字が読めないとダメだよ!」と言って、ひらがなから教えてくれた。
彼女は俺の小さな先生になった。
彼女は年下なのに、とても大人びていた。
俺の両親のことも聞かなかった。
ただそばにいてくれた。
その日々は幸せだった。
そして俺は決めた。
仕事を探そうと。
生きていくために。
ナズミの隣にい続けるために。
だが俺はまだ7歳。
小さくてドアノブにも届かない。
どこに行っても笑われた。
「子供なのに働くの?」
「学校はどうしたの?」
俺は答えなかった。
親がいないことがばれたら、施設に連れて行かれると思った。
何度も失敗して、暗い家に帰った。
そこには母が待っている気がした。
ある日、薄暗くなった頃、古い線路沿いの修理工場の前で立ち止まった。
油まみれの服を着た老人が車の下にいた。
俺は声をかけられなかった。
「仕事探してるのか?」と無愛想に言われた。
俺は返事を飲み込んだ。
「……うん。」
老人は俺をじっと見て言った。
「親はどこだ? こんな子供を働かせてるのは誰だ? 本当のことを言え。警察を呼ぶぞ。」
限界だった。俺は泣いた。
「誰もいない……母は死んだし、父もいない……どこにも行きたくない! ここにいたいだけだ!」
老人はしばらく黙って見ていたが、やがて手を拭き、工場のドアを開けた。
「入れ。手を洗え。それから道具の拭き方を教えてやる。」
それから俺はタカシの工場で働き始めた。
夕方にはナズミが来て、学校の勉強や宿題を教えてくれた。
忘れられない日々。
そして、俺は知っている。
どんなに未来が暗くても——
俺の幼少期に光をくれたナズミに、感謝してもしきれない。