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【前書き/後書き更新追加分かれ道編】 以外とこれが最重要だったりする 【行ける 5話】

宜しくお願い致します。



【【奥学院必須科目】】


【解説】クンダリニーヨーガ




【クンダリニーを上昇させる方法:ムドラー】


次にかなり効果があるものとしてはやはりムドラーがあります。氣を上昇させるという意味で一番効果的でいいのはムドラーです。ムドラーはバンダをしっかりやって無理やり強引に物理的にエネルギーを上にあげてやってしまおうとやるのがムドラーです。それをもうちょっとお手柔らか目にやるのがアーサナとか呼吸法とか氣を使う気功などです。ムドラーはもう本当に強烈にしかもかなり強引にガッーっと無理矢理上げて上げてしまおうとするものです。ムドラー自体は結局バンダーも組み合わせなわけですけど、それらの組み合わせを細分化して部分的でパーツ的に簡潔に下の方から言う足の方に溜まってるエネルギーをグワーッと上げていくには蓮華座が有効で、ムーラーダーラのエネルギーを上げるにはムーラーバンダまたはアシュビニームドラーでひたすらクイックイックイッって肛門を締めて緩めてを繰り返し締め続けるやり方。次は性器からエネルギーを上げるやり方はシャクティチャーラニームドラーをやるけど同じ名前で色々なものを指しているのですがその中の一つの行法として性器の引き締めがある。ムーラバンダは肛門を締めるけどシャクティチャーラニームドラーは性器のあたり辺の筋肉をグッっと引き締める。またはそれをアシュビニームドラーみたいにクイックイックイッってやったりする。これで性器からエネルギーの上昇が起きる。次はお腹からの上昇、お腹のバンダで横隔膜を引き上げるウッディヤーナバンダ、あるいはそれを出し入れを繰り返すアグニサーラクリアをする。そして喉のバンダはかというと普通の一般的なバンダはエネルギー上昇の為ではなくて引き留めに使う、ここからエネルギーを上げない様にする為に使う。1つは実際はこのムドラーはエネルギーの上昇と同時に心臓にエネルギーを入れることを狙ってる。ヨーガ的に言うと心臓イコール真我へのアクセスポイントなんです。なのでこの扉を開かなきゃいけなくてここにグッっとエネルギーを集中させる。それが1つの意味でもう1つの意味はいきなりエネルギーを上げるとちょっと急激に頭にエネルギーが行き過ぎて危険極まりないくてきついんです。なので喉からエネルギーが上げないようにする為なんですね。それから更に喉のパンダは実はもう一つ意味があり中央氣道と左と右の氣道があるわけですが喉のバンダをしっかりとやることで、氣を右にも左にもずれずに真ん中に入れてしっかりあげるっていう狙いがある。それからもう一つ付け加えるとナボームドラーっていうのがあり舌を上に押し当てる事をする。これはつまりここに舌を使った道を作る。これはグッっと舌を上に押し当てるだけいいものです。エネルギーが上がり易くなるっていう道をつくる為です。これらが 細分化したムドラーの説明ですね。それらの組み合わせによってムドラー行法ができてます。ちょっと話戻しますけど、特にムドラーを中心とした行法をしっかりやることでクンダリニーの上昇を促しますよ。


「クンダリニーエネルギーを効果的に上げるもの」

肯定的意識

バクティ

経行

蓮華座

逆転のアーサナ

ムドラー

以上です。



【アムリタの発生】


次にエネルギーの上昇からブラフマランドラへの流入したら喜と呼ばれる嬉しくてたまらない状態が生じてそのあとにアムリタ(不死の甘露)と呼ばれる新たなるエネルギーが発生する。ヨーガや仏教ではよくアムリタって言葉が好まれアムリタってそんなもの境地があるんじゃないとかイメージ的に感じるかも知れないが

イメージではなくて物理的に実際にあるんですね。

クンダリニーと同じでクンダリニーもなんとなくあるんじゃなくて性的なエネルギーが昇華した形のエネルギーであるわけで同じ様にアムリタも嬉しくてたまらない状態が生じてそのあとにアムリタが物理的に発生する。今風に言えば脳内麻薬とかβエンドルフィンとかに近いかも知れないが完全に同じではない。甘露は後頭部のちょっと下の方の奥あたり、シヴァ結節よりも上のちょっと奥にシヴァランドラって言う場所があってそこからジワジワって甘露が出てくるんですが、一応主力として出てくる。それと頭頂部の前あたりのちょっと奥からもジワジワって出てくるし、眉間のちょっと奥あたりからもジワジワって出てくるし、目の奥あたりからもジワジワって出てくるし、チャクラからもジワジワって出てくるので出てくる場所は色々あります。この甘露のパターンはだいたい4つの段階があります。氷の様なアムリタ、水の様なアムリタ、歓喜のアムリタ、光のアムリタって4つあります。最初は冷たい水の様な感覚で実際に冷たい、逆に冷たくはないが頭の中にトロトロした液状の様なものを感じる場合もある。これがアムリタの最初の段階です。その次に更に覚醒すると歓喜に変わり喜びのエクスタシーになりエクスタシーを含んだ液体の様なものがジワーって頭の中心あたりから出てくる。更に覚醒すると光の滴の様なものがポタポタとかポッたんとか瞑想中とかに視覚的に見える様になる経験をしますが一番微細なアムリタです。歓喜のアムリタつまりものすごく気持ちいい甘露の発生っていうのはよく経験する。よく経験するというよりも、自由に意思の力で発生できるし発生させようと思えば発生できます。あるいは発生させる手がないとしても、いろんなきっかけで発生することはよくある。例えば空を見ると発生する、太陽を見ると発生する、自然を見ると発生する、なにか食べると発生する、なんか飲むと発生する、呼吸をすると発生する、寝起きで背伸びすると発生する、髪を切りに行って後頭部をカットされると発生するとか発生の仕方が全部違うし発生する場所とかも違うし同じ言葉で快感とかエクスタシーと言っても気持ちよさの種類や質がちょっとづつ違うんです。もっと違う言い方をすればあらゆるエネルギーを取り込んだ時に甘露になりエクスタシーになる。 エネルギーを取り組んだ瞬間に感動になるシステムができるので、このシステムが十分に働いている時はあらゆる刺激、あらゆる感情、あらゆる体に生じる内的、外的な衝撃やショックが全部歓喜、智慧、常軌の悦に変わります。触るだけで変わる、あるいは心の悲しみ、苦しみにしろ、怒られたなどが生じたとしても、そこにぐっと集中すれば全部歓喜に変わってしまう。頭は非常に冴えて非常にクリアな意識になり半サマーディー状態と言う様な高い意識の世界にずっと突っ込んでるよう浸かっている様な状態になります。修行だけやっても徳がないとこの歓喜のアムリタは発生しません、アムリタとはそうものです。それが1つの要素不足になります。だからなんか甘露っぽい液体状のものが頭に発生する様になったけど、でも全然気持ちよくないっていう人がいるとしたら徳が全く足りないんだと考えて下さいね。そうなるとねもうそっから先が進まないんです。実はこのエクスタシーっていうのはすごく重要な意味があるりクンダリニーのプロセスである純粋さと神聖なエクスタシーを極度に高めていって悟りを得て行くんです。。でも全然気持ちよくないっていう人がいるとしたらそのやり方ができないって言う事だから修行には徳が非常に必要で重要です。なので日々小さな事からコツコツと徳を積むことも絶対必要。徳って言うのは簡単に言うと教えどおりちゃんと生きてれば日々の小さな徳は普通に積めます。例えば人に対する優しい言葉もそうだし、人を助けたり、募金したり、些細な手伝いや真理に基づいたアドバイスを誰かにしてあげるともそうです。そういったコツコツと小さい徳を積んでなにか積めるチャンスがある時はしっかりと大きな 徳を積む事。もう1つは徳を漏らさないということにもっと心を傾けるようにする。どうでもいいような喜びは追い求めない、そう言うのは完全に徳の漏れである。だからと言って極端にストイックになれとは言わない。やっぱり余計な楽を求める心をどんどん制御していったらいいね。だから積むと同時に徳を漏らさないということも日々しっかりと心がける必要がある。もう1つ言うならば神やブッダの祝福をいかにして受けられるかですね。神やブッダからの祝福をもらうのと自分でしっかりと徳を積み上げる。どっちも必要ですね。どっちもちゃんと積み上げて、それが我々の財産になる。あともう1つ別枠で上げるならば慈愛というか菩提心だね。結論としては自らの徳と神や神聖なる祝福と他者への慈愛この3つはお勧めです。それが 歓喜の甘露のアムリタを生む材料になるのかな?って感じはするけど、材料をもとにエネルギー的な行法を繰り返せば素晴らしい歓喜と共に悟りに近づく。

「アムリタを発生させるには徳、神聖、慈悲が必要」




【アムリタの降下と充満】


次にこの甘露は前に落ち、 真ん中に落ち、あらゆる 氣道を流入する。つまり氣道というのはまさに血管のように体をいろんなところを縦横無尽に流れてるので、頭で発生した甘露が様々な部分に氣道を介して通って浸透していくわけですね。全く関係ないところにも落ちたりするんですけど、最初の段階では体の前面の方側の氣道を落ちていく。前面の氣道の道は途中の口腔内の上唇のあたりで道が途切れているので、上唇のところで前面の軌道のラインがちょっと途切れてるので舌をグッと口腔内の上に押し当てることによって流れ通り易くなるんですね。本当であれば最終的には中央の氣道に氣を入れたいんだけど、それは大変なことでここに気が入ったらもう聖人や聖者と言ってもいいぐらいの話ですよ。だから最初は通りやすい前面側 ルートから行きアムリタがチャクラの世界を浄化する。よくヨーガとかスピリチュアルとかでチャクラが開きましたとかチャクラが活性化したとか言うけど、本当の意味でチャクラが開く、本当の意味でのチャクラの浄化やチャクラの開発は頭からアムリタが発生しそれを物理的にチャクラに充満されてそこでやっと始まるんですね。当然チャクラ自体は気道の集まりすぎないので、一般の人も普通にチャクラ使ってるし、例えばその人は一般的な意味で心を良くしたとか、何か自分の心の詰まりを乗り越えたりしたら、確かに少しはチャクラの浄化が起きるでしょうし、でも本当の意味でのチャックの浄化、チャクラの穢れが取れて、そこのチャクラ本来の持ってる力とか智慧が輝き出すにはシステムとしての甘露が必要だって言う事です。それはチャクラだけではなく、チャクラから派生するような感じで体中の氣道を浄化していく。それは最初の段階では何もないところに一滴、二滴、あるいは三滴と甘露が落ちるような感じで経験したりします。今ここが気持ちよくなった、甘露が落ちたような気がするとかそういうとこから始まるんだけど、最終的には充満するのでどこに落ちたってよりは全体が甘露の海で溢れだすそういう状態になっていきます。下から上昇する熱のクンダリニーエネルギーになり、それから頭から降下する甘露の非常に気持ちいいエネルギーこの 両方のエネルギーがグワーッグワーッと燃え上がり、ボタボタドボドボ落ちる、ひたすら燃え上がり上からはひたすら降りる。つまり甘露がチャクラとか氣道を流れつつ、一番下まで落ち一番下まで降りたらまた炎が燃え上がるのでまたが甘露が発生するのでまた一番下まで降りる。この繰り返し繰り返しが瞑想でもやるわけだけど、修行が進んでくると本当にこれが起きる様になる。これによって徹底的に氣道が浄化されていくんです。この甘露が下まで降りた甘露はどこに行くんだって言うとどこにも行きません。ただ溜まっていきます。溜まっていき最終的には体中が甘露で飽和状態になる。

以上「アムリタの降下と充満」でした。


軽安(きょうあん)

この飽和状態になると体が至福の塊になる。最初のエクスタシーっていうのはちょうど詰まってるところがクンダリニーとか甘露とかによって通る時のエクスタシーです。これは物凄く強烈な悶えるような歓喜です。足の裏をこちょこちょくすぐって「くすぐったい」って感じだけど、あれにエクスタシーが加わったと思って下さい。「やめてくれ〜もう勘弁」っていう感じのエクスタシー。これが詰まっているところを強烈に通す時のエクスタシーです。そうではなくて甘露が体を満たすエクスタシーっていうのはもうちょっと静かというかヘロヘロっていう感じのとろける様な歓喜。ちょっと矛盾になるけど静かで強烈なエクスタシーです。刺激は強くないんだが歓喜自体は非常に強い。それによって体中が浄化され氣道は滑らかになり心と体をなめらかになる。この滑らかになるって表現は元々のインドの言葉は分からないけど経典ではそう言う表現をしている。オートバックスな言葉なのかは知らないしそう表現されてるんだけど、非常にマッチしたことぐらいまさに「滑らか」。滑らかでどういうことですか?と言われるかもしれないけど、滑らかっていう表現が本当にあってる感じです。それに伴って 心と体も滑らかになる。心の滑らかさっては融通無碍的(融通無碍ゆうずうむげ・意味∶行動や考えが何の障害もなく自由で伸び伸びしていること)感じって言うか非常に自由な感じになる。このクンダリニーヨーガの観点から言うならば結局のところあらゆる苦しみは肉体的苦しみにしろ精神的苦しみにしろ気の詰まりです。ということは氣道に浄化されさえすればあらゆる苦しみは本当になくなる。体を滑らかさっていうのは氣道の滑らかさの延長ですけども、実際にね武道などに於いてはその境地を目指しているのかもしれないしこれは実際感覚的ですけどもまるで太い鉄骨の一本の筋が通った軟体動物になったかの様な感じがある。筋はちゃんと通ってるんですよ筋は取ってんだけど、関節がない様な体の区切りはないような滑らかさがあるんだね。私はもともと空手や自衛隊にいたので徒手格闘とかの武道とか好きだったけど、ヨーガとか始めてからはそっちにあんまり力を入れてはいないけど、極めるとしたらその「滑らかさ」だったら必須になるんだろうなって思います。それによって身体の気怠さとと落ち着きのなさは消え失せる。心の怠惰さと興奮状態も消える。これは瞑想の邪魔となるものとして、体の気怠さと落ち着きのなさ、心の怠惰さと興奮状態ってあるんですね。この両者ともが消える。ある段階からその状態から経験する。私も瞑想が苦手な時がありました。 例えばすぐ寝てしまう、欠伸が直ぐ出る、逆に雑念ばっかで全く深く入れない、足が痺れて落ち着かないなど、しかしある時からは座ればズバッとその状態になりました。これはまさに軽安の段階です。この軽安の段階となるともう体を感じられなくなる。だからこの軽安の段階っていうのはある意味かなり強烈な経験です。体中がもう歓喜で飽和状態になって体がないので私の体はどこ行ったんでしょうか?(笑)それくらい軽いんです。普通に瞑想して、「あぁ今日は体が軽いな」こんなんじゃないレベルですよ。もうない全く感じられない。しかもそれは空気を含んで清々しいエクスタシーで満たされた状態。これは悟りではないけども、おそらく普通の人がもしこれを経験したら悟りと勘違いしてしまうほどの何のひっかかりもない心身の非常に軽快で寂静の状態だと感じます。その軽安の状態に入ったらこれはしめしめと思って下さい。カチッて感じで体は固定され心も固定され努力しなくても雑念が湧かないし愚鈍な状態にもならないしいろんな状態にもならない。非常に瞑想に適した心身の状態になります。ですので瞑想し放題というか、それ自体が素晴らしい瞑想の入り口になるし更にそれが超えると飽和状態から溶け込むような形でサマーディに入る。

「体がアムリタで飽和状態になりそのあとにサマーディに入る」



【サマーディ】

エネルギーの力によってつまりエネルギーの充満によってサマーディっていう状態に入ります。サマーディっていうのも入り口に過ぎない。これはいろいろ勘違いされてんだけど、サマーディそのものは実は良くも悪くもないんです。リミッター解除してニトロブーストで行っちゃいますという感じです。よくいろんなヨーガとかの表現でサマーディが最後みたいに言われてたけどただの入り口にすぎない。最終的には私達のエネルギーは中央氣道に入らなきゃいけないんだけど、中央氣道に入ることが本当の意味でサマーディと言ってもいい。この中央氣道っていうのは頭のてっぺんから大脳を越え、喉を越え、内臓を越え、会陰部までドーンと走ってる真ん中の氣道です。つまり背中側でもなく前側でもなくど真ん中。もちろんこれは解剖しても出てきません。後ろのスシュムナーはまだ理解しやすいけど。スシュムナーって背骨に沿ってあるから、背骨の中を流れてる神経系と関係があるのかなっていう推測がしやすいわけだけど、この真ん中の氣道は現代的な医学的見地や知見から言うとわけがわからない。ヨーガ的な人体科学と現代西洋医学的な人体科学を絶対に合わせようとする考え方があるけど、確かに結構合うとこある。例えばチャクラと言われるとこにはかなり神経組織が集まってたりとか合う部分はあるんだけどやっぱりストレートには合わない。特に高度な世界になってくると合わなくなってくる。この中央官なんかまさにそうですね。真ん中の氣道っていうのは本当に経験しないと分からない。ここには普通はエネルギーや意識などは入れなくなってしまっているものを何とか入るようにするのが修行でもあるんだね。それこそ古の賢者が求めてやまなかったことなんです。だからと言ってこの段階で解脱というわけではない。解脱というわけではないが本当の意味の聖人聖者入り口にようやく入っていくという段階ですね。



【楽空無差別】

そのサバディーから一切は空であり実体がない。つまり空性の智慧の悟りです。純粋になるありのままの智慧を得る。これと甘露によって生じる強烈なエクスタシーこの2つを混ぜ合わせる。それを楽空無差別とかいうわけですが、ものすごい至福と一切は空であるというのが一つであるって言うことを悟るんですね。 というかものすごいエクスタシーの中に空性を見つけ見つかる。二元的なものの究極のところに実は空性があるという真実を悟るんです。その時にこの世はすべては幻だったと、苦も楽も好きも嫌いも、すべては一つだっていうことをありのままで悟るんですね。

「歓喜と智慧は最後に合一する」



【生きながら死ぬ】【毎瞬生まれ又毎瞬死す】


そして我々は死ぬ時に何が起こりかって言うと、死す時には必ず中央氣道に全エネルギーが流入するんですよ。その入ったエネルギーがどんどん心臓に集まる。しかし心臓への道が閉ざされてるので、それが解かれなければならない、左右のナーディがチャクラのところで中央氣道に結ばれているみたいになっている。それによってぎゅーっと中央氣道が狭まっちゃっているのでこれがちゃんと解かれないとそこに氣が入らないけどでも死ぬ時は自然と解かれる。実際に中央氣道にエネルギーが入った時には必ず煙のような湯気の様なモヤモヤしたビジョンが見えます。経験で言うと本当に煙が出るって言うよりも空間自体が歪みます。ふにゃーって歪むビジョンでした。次に陽炎の様な、カゲロウのようなゆらゆらしたビジョン、次は蛍の様な光、ホタルが飛び交うようなビジョン、それからろうそくの様な灯のようなビジョンが見えます。 そのあとに空間を満たす4つの光が現れる。まず全てが全体を照らす様なパーっと爽やかな白い光に満たされ、、それと同時に上の方から白いエネルギーが降りてきて、その後でギラギラした輝くような真っ赤な光に満たされ、それと同時に下の方から赤いエネルギーが上昇し、それが白いエネルギーと心臓で一つにまとまり、全エネルギーと全意識が心臓に没入します。この瞬間にサーっとブラックアウトするような暗闇に包まれ、最後に透明な輝く光に包まれそういうことが起きます。この瞬間に死のプロセスが始まります。これは普通人体が死を迎える時に自然に起こる現象なんですけど、クンダリニーヨーガにおいてはある意味、無理やり中央氣道を開きそして心臓にエネルギーを集めることによってこの死のプロセスを生きながらにしてやってしまう。例えばサマーディって瞑想の究極状態ですけど、別の意味としては死のこともサマーディと言うんですね。サマーディってある意味で言うならば生きながら死ぬことなんですよ。つまり肉体はそのままだとしても死の時と同じような意識状態に入る、これがサマーディなんです。それをちゃんと準備を整えてやってやった場合、何が起きるかというと死のプロセスをたどります。そして死のプロセスの後に一瞬クリアライトに入り、また逆流のプロセスをたどって生まれ変わるプロセスを生きながらして経験するんですね。つまり生きながらにして生まれ変わる。我々は日々修行したり、生き方を変えていくことによって どんどん良くなっていくことはできる。しかし劇的な変化はない。例えばよく子供の頃食べてすぐ寝たら牛になるって言われたけど。食べて直ぐ寝て起きたら牛になってるって言うことはない。つまりは転生いうのを跨がないとそういう劇的な変化ないわけね。しかし死んだ時ってある意味タイミングのチャンスなんだね。良くも悪くもチャンスなんだけど、それは死んだ時っていうのは一旦、固定的なカルマから解放されるので、それによって人から地獄に落ちるとか人からというか人間から神になるとか、そういうことは可能になるわけですね。話を戻しますよ、この死のプロセスを生きながらにしてやってしまうことによって、もちろん ボディは変わらないかもしれないけど、カルマ 的には大いなる変革をすることは可能なんですね。まさに文字通り生まれ変わる。それは死んで戻ってきた時には別人になってるっていう可能性がある。つまり 死を跨らずにして劇的なというか、そうすることは可能だ。しかしそれは劇的に変化して動物になりましたではしょうがない訳で。本当は出来るんですがやると修正するのがかなり難しい事です。動物や人間に蓮華座は組めないと思いますが。つまりこれが逆に言うと心の修行を欠いたクンダリニーヨーガの怖いところですね。

「死のプロセスを経験して生きながらにして生まれ変わる」



【化身の生成】

もう一つのプロセスとして、幻身とか化身とか陽身とか言われる純粋なエネルギーによってできた霊的な体 っていうのを作ります。それは甘露と言われる頭から下りる白いエネルギーと下から上るトゥモというもののエネルギー。つまり自分の中における昇華された男 性的エネルギー、女性的エネルギー、つまり陰陽エネルギーの混ざり合いによって神聖なる受胎を行う。これは面白いことにインドのクンダリーニ、チベットのトゥモヨーガそして中国の仙道、ここに共通する修行なんですね。これによって神聖であるエネルギー体が育っていく訳です。陽身とか化身というのは何もしなかったらただのエネルギー体でこれは幽体とは全く違います。幽体それは誰でも持ってるものだからです。化身って普通に手があって足があってそういうのができるんじゃないですエネルギー体なんです。エネルギーの塊なんです。でもこれは自由自在なエネルギーの塊です。つまり私達のイメージ次第、エネルギーの訓練次第でどんな形にでも変化できる。この神聖なエネルギー体を良い形というか神やブッダの様な良いイメージに変化させしかもそれに神聖なるアイデンティティを付けて形成していく。だからここにおいての修行っていうのはマントラや観想(特定の対象に向けて心を集中しその姿や性質を観察すること)などのイメージの修行と、それプラス、エネルギーの修行どっちが欠けてもまずい。イメージの修行だけでエネルギーの修行がなかったら、それはただの妄想になってしまう。別に化身はできていない。ただイメージで遊んでるだけです。そうではなくてイメージの修行がなくて、エネルギーの修行だけ進んだらエネルギー体はできたが、それが確固たる神聖なるアイデンティティを持たないので、失敗の危険性が高まる。自分の心が穢れてたら、穢れた形でそれが現象化してしまう場合がありますよね。例えば私みたいにマンガやアニメをいつも読んでた場合しかもそれをすごい熱意を込めて強く込めて読んでる場合、そのマンガに関連するイメージは根付いてしまう場合がある。それで修行したらマンガの主人公みたいな可能性があるね。可能性ね。だからそういう意味ではイメージって怖いな。 自分の中における神聖なる受胎というエネルギー的プロセスに加えて、「生起の瞑想」つまりそれは自分が神に変化する変幻する瞑想とかをひたすら行う。こだわりはそれに合ったマントラの瞑想とかひたすら行う。これによって自分の化身のアイデンティティを確立させるわけですね。ここからこの先っていうのは実際は本当に長いです。まずは化身を一体つくるそれを今度は増やしていく作業が必要なんです。最終的には無数の化身ができるようになるで、これを増やしていく作業っていうのは、例えば四無量心で慈悲の心であるとか、あるいはエネルギーの強さとかによって確立されるわけですね。その化身を増やす、生きてる間からそれを使っていろんな世界に旅して色々な世界を見てくることが出来るんですね。この世界って仏教でよく三千大千世界とかいうように、この宇宙というのは様々な世界、要素があって、人体っていうのは小宇宙です、小宇宙って言うのは大宇宙とパラレルの形でこの人体の氣道の世界が構成されています。その小宇宙である我々の人体の中をエネルギーが自由に動き回るのでそれに乗って自分の化身が動き回ることによって、我々 異世界つまり小宇宙である私達の人体の中に隠されている地獄、動物、餓鬼、阿修羅、天界、あるいは神やブッダの浄土に行ったりとか、過去世あるいは未来に飛ぶとかあるいは死後の世界に行ったりとか、違うパラレルに行ったとかそういった異世界の経験を実際に瞑想で実体験できますってことですね。それなりクンダリニーヨーガの場合は積極的にそういった異次元の世界を経験することによって、この宇宙全体の仕組み みたいなものを経験的に知るんですね。つまり教えで学んで知るんではなく、自分の実体験としていろんな世界のことを知ることが出来ます。我々は普段はリミッターや封印やデータにロックをかけられてる。この人間界の限られた世界でしか経験しかできません。よってリミッターかけられてるから生まれてから教え込まれた常識の中での智慧しか教えられていないので中々育たない訳ですね。そのリミッターを外されて色々な異世界の経験をする事によって私達の智慧の幅が広がり物事の見かたがより真実の見かたに近づく事が出来ます。それと自分の過去世や死後の世界も分かったりしますので教えではなく本当にカルマの法則とかの仕組みだとか正しい生き方をしなければならないとか間違った生き方をして苦しんでいる人への慈悲とかのものが曖昧なものにするのではなく本当に心から理解する事が出来る様になります。地獄に落ちる場合にどのように落ちるのかというと恨みつらみの人の顔とかが浮かんでくる、「あの野郎本当に許せない 」って感じで地獄に落ちる。そして気がつくと体をザクザク切られてる、それを何度も何度も経験すると幾らなんでも理解する訳ですね、憎しみや恨みなどって良くないなって思う訳です、自分自身が体験するので教えられてる訳ではないので切実に体験し身につまされる事でかなりショッキングな出来事な訳です。こう言うのがクンダリニーヨーガの良さなんですね。これらによって魂が勝手に理解するんです。憎しみって本当に駄目だったって思う訳です、その他の感情も同じ様に経験する事によって智慧が高まるんです。あとはこのリミッターが外れる事が慣れないとめちゃくちゃ怖いです、今まで予想も全くしなかった世界に入っていく訳だからあまりにも超越なショッキングな出来事を経験しますしこの世界よりも遥かにリアルに見えますしリミッターが外れてるからこの世界に魂の経験の可能性の中でもごくわずかの一部に限定された自分自身が企画立案し設計したシナリオを経験するしか私達はしていないんですね。麻薬、酒などでリミッターが外れる場合があるけれども、ものによっては一時的にリミッターが外れる場合があるけれどもあれは無理な強引なやり方でいずれ神経と脳にかなりのダメージを残して生と死の間に彷徨う形になるので死後も彷徨い続けるのでかなり危険極まりないんですね。酒乱なんて酒のリミッターが外れて死後に酒欲しさに生きた人へ憑依して自分自身が浴びる様に飲み続けるので酒乱やアル中はその人ではなくその中に憑依した元人間のエネルギー体ですね。話を戻し私達が酒や薬物などでのリミッター外しとかはあまりにもいいとは私は思わない。深い意識に於いてよりリアルに見え形として現れるんですね。なのでそっちの方がリアル過ぎて真実って言う感じがするし、ましてやこの世界の幻影的な幻想世界に気付き始めるんです。あれ?なんかおかしいみたいにね。私達が今まで真実だと思っていた世界って言うのはあれ?幻なんじゃない?って気付いてくるし、気付かされる現象が幾度も現れるんですね、どう言う訳か。気付き始めると、ですが。だからこのクンダリニーヨーガって言うのは単にエネルギーによって解脱してしまうヨーガではなくて正しい経験を沢山する事に私達の悟り、智慧を深めることが出来るんです。これらがクンダリニーヨーガのメリットです。皆さんがもう一人の神聖体を完成させていたならばある意味不死になる、肉体は死にます、肉体は死んでもその神聖な体はもれなく残るのでその体を使い色々な世界に行ったり色々な世界の肉体に乗り移ったりまぁ憑依ですが、クンダリニーヨーガ的な解脱の道です。


「化身を創り様々な世界を体験し様々な智慧を得て生と死から自由になる」




【全ナーディの浄化】

これから先には2つの道がある。一つはそのまま意識を抜け出させ解脱の境地に至る道。もう一つは全ナーディの完全浄化。土管の中が全部ゴミや土で詰まっています。これが私達のナーディの状態でそこを一生懸命通そうとする。解脱というのは要はあちらの世界側で私達がいるこちらの世界側からあちら側に道を通さなければならない。道が通ったら解脱の道が出来たという事です。あとはその道を使って通って行き解脱の世界へいけば良い。では通せばどんな穴でもいいのかって言うと、とりあえずはいい。ただそれが狭かった場合、例えば直系30cmに対して直径1cmぐらいの穴が通ったとする。そのパターンで解脱した人がいるとして、そういうか細い道でニルヴァーナに通ったとしてもこの人はある意味解脱者です。でもこれはあくまでもイメージとして捉えて欲しいんだけど、そんなか細い通った領域に意識がある内は解脱者なんですがでもちょっとでもエネルギーが通った穴がずれたらいきなり豹変します。こういうタイプの修行者って実は結構いるって言うもんじゃないかなり居ます。そんな人ってどういう感じになるかって言うと瞑想してる時だけ聖者。あるいは調子のいい時だけは聖者。しかしこの人生を生きてる中で、そっちの通ってない詰まってる方にエネルギーが行っちゃった場合、普通の人と何ら変わらないような状態になってしまう。でもこの人がもしただ解脱すればいいや、死んだら生まれ変わりたくないからニルヴァーナに行ければいいやって思ってんだったら問題はない。小さくてもいいから、か細くてもいいからこの道を死守して他はどうでもいいから、この道だけは穢さない様にして生きて死ぬ、そしたらこの人はニルヴァーナ。ただ自分だけが救われればいいんだったら、か細くてもいいから一本の道通っちゃえばいい。ただしこの場合はデメリットが大きいです。1つは仮に成功したとしても、それは完全の解脱ではないので。解脱っていうのは実は一つでありませんし、いろんな段階があります。輪廻から脱出してしまった状態が解脱なんだけど、それは完全に脱出してるのかというのは曖昧なんだということ。どういう事かってというと、また別の言い方をすると一般に言う解脱っていうのはスイッチオフなんです。 つまりスイッチに辿り着いてスイッチをオフにしました。ハイこれ解脱です。でもこのタイプの解脱は長続きしない、またいずれ何かのスイッチが入ります。勝手に入るこれによってまた私達はこの輪廻の世界に戻ってくる。戻ってきたらどうなりますでしょうか?これが問題なんです。つまり穢れを残したままで、とにかく最低限のとこだけやって行っちゃってるから、戻ってきたらまた穢れの現実がある。つまり一旦解脱して戻ってきたらまた穢れた人として始まります。だから、このタイプの解脱っていうのは本質的じゃないんだね。もう1つはそれでも解脱できたらいいんだけども最悪なのはそのタイプのやり方を目指して解脱できなかったらこれは最悪です。このタイミングつまり下の穢れが残った状態で死んだ場合、この人はまた低い世界に落ちる。これはクンダリニーヨーガの欠点でもあるんです。全ナーディの完全浄化って言うのはそうではなくて空気が送るで、さっきの土管の話で言うと、土管の中をオールクリアで何のシミもくすみもないほどに浄化しようって考えるんです。これが成された場合はエネルギーが下がっても別に大丈夫になる。例えば よくあるパターンとしてエネルギーが上がってる時はすごく心が安らいでいい感じになる。でもエネルギーが下がると悲惨なそんな状態になる。怒りっぽくなったり、いろんな悪いのが出てくる。それはつまりまだ 下が汚いってことだから、最高なのは下も綺麗にすれば上がろうが下がろうが大丈夫なんです。こういう形で下から上までのあらゆる氣道を通していく。これが理想的。理想的とはいえですよ、とはいえ普通それは100% 通すっていうのはなかなか難しい。 ある程度は通るけども、やっぱり穢れが残る。じゃあどうすれば100%通るのかというと、まず浄化ってなんなのかというと、まず自分が持ってる経験があって経験したものを浄化する、どういうことかって言うと、例えばあるシチュエーションになった時にどうしても怒ってしまう、これを何度も何度も繰り返すと、それによってそういう時は怒ってしまうっていう習性が身に付くわけだけども、それをちゃんと教えとか、修行とかによって反省して改善してこういう状況でも怒らないで相手を許した方が素晴らしいんだっていう悟りを得る。これによって、その人の氣道は1つガバって大きくなる。自分の経験は限られてるわけだから。だから人の経験をまるで自分のことの様に思うわけ、他者を見ると他者もいろんな形で苦しんでる、それでみんな違う プロセスで苦しんでる。自分が持ってる穢れと他者が持ってる穢れが違う。他者を本当に自分のことの様に考える。自分のことの様になんでも当てはめて自分のことのように考える。自分自身の様に他者の幸福を願う。あるいは自分自身の事の様に他者の苦しみを悲しみそれを救いたいと思う。これどういうことかと言うと、例えばある友達が嫉妬心で苦しんでる、もの凄く人に嫉妬しちゃって一人で苦しんでる、それを見て自分のことの様に思う、まるで自分が嫉妬で苦しんでるからの様に本当に嫉妬って苦しいと本当にもう何とかしたいって心から思って、それで頑張れって、一緒に考えようと、どうやってこの嫉妬を無くしたらいいかなって。これをまるで自分のことの様にやることによって自分の経験になる。自分がまるでその嫉妬を持ってたかの様に、それを無くして捨てて悟りを得たかの様な経験は自分のものにできる。これはつまり経験を積み重ねて、その本質を悟っていくプロセスでこれを一気に何人分もやってると同じだ。一つの人生に於いて多くの人の経験を自分のものとして、つまりイメージで言うと、まさに巨大な穴を開けながら上に上がっていく様なプロセスです。これをやることによって、その人は器は広大となり、 無限の智慧が身につくし 、ものすごいキャパシティが身につく。これを何生も何生分も生まれ変わってやり続けるのが仏教でいう菩薩道なんですね。それはまさに何生も生まれ変わっていろんな世界で自分の氣道を広げていく道なんです。この果てには完全なナーディので浄化があります。最終的な結論として言うと、この状態が仏教の最終地点と言ってもいい。無住処ニルヴァーナって言う奴です。無住処ニルヴァーナって言うのはこの世にもニルヴァーナにも居場所がない。つまり穢れがないから輪廻にいられない。それは何なんだって話になるわけだけどこれは繰り返しですけど、言い方を変えるならばナーディの完全に浄化された状態。それは一般的なナーディとも違う。そしてもちろんこの輪廻とも違う。それをイコール如来とも言ってもいいんですけど。最終的な境地でもあります。もちろんそれは自由です。皆さんが将来早く解脱したい思うのか、あるいはみんなを救えるだけの大いなる存在になろうと思うのか。これはヴィヴェーカーナンダとラーマクリシュナの話でもそう言う話があるけど簡潔だけ言うと、ラーマクリシュナがもう病気でもうすぐ亡くなりそうだっていう時に一番弟子1番ヴィヴェーカーナンダは焦ったわけ、だから焦ってこんな偉大な師に巡り会ったのに、私はまだ何も達成してないじゃないかと、それで一生懸命もう死に物狂いで修行して、ある時その師のラーマクリシュナのところに行ってお願いしたわけ、どうか私に自由に何日間でもサマーディに入れるような力をくださいとお願いしたらラーマクリシュナはそれを叱ったんですね。なんてことを言うんだ、お前はまだそんなこと言ってるのか?お前はなんて小さいやつなのだ。私はお前が多くの苦しむ人々がその木陰に入って安らげるバンヤン樹のような大いなる存在になると私は思っていた。それなのには今自分の解脱 だけを求めてる。恥を知れと叱ったんですね。ヴィヴェーカーナンダは師の心、 つまり師が自分に求めているもの単純に解脱した聖者になるんじゃなくて、多くの人の苦しみを引き受けて、みんなを乗せてあげられるような大いなる船になることを心の広い菩薩になることをラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに願ってたわけです。それを師の心であると知ってヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナが亡くなったあとは菩薩道の見本みたいなものですね。仏教では菩薩像だけど理論としては菩薩道って素晴らしいんだけど、菩薩がどういう生き方をしたって言う詳しい話ってあまりないんです。ヴィヴェーカーナンダの話ってまさに菩薩道の話なんです。徹底的に救済しか考えてない、もう徹底的に身を粉にして人を救うために走り回る。それによってヴィヴェーカーナンダは命を燃やしつくし39歳ぐらいで若くして亡くなるわけです。話を戻すけど、そのようなどんな人の苦悩を背負っても大丈夫なぐらい、自分のナーディを完全に浄化すると、これが菩薩の道です

「菩薩の道を歩き全ナーディを完全浄化し至高の境地へ至る」




【まとめ】


クンダリニーって誰でも持っています。しかし普通は

あまり使われていないというか眠っていました。あるいはそれが悪く使われた場合、煩悩のエネルギーとして使われてしまう。あるいは中途半端に目覚めた場合も、単純に非常にわがままになったり、煩悩を苦しむだけかもしれません。しかし正しいやり方でクンダリニー言われるエネルギーのもとになってる徳を積んだり神への帰依、信仰を持つことで、上から恩寵のエネルギーを頂きちゃんと戒も守って修行したりするとクンダリニーが覚醒し、背骨の中にあるスシュムナーという氣道を駆け昇りブラフマ結節を破り、ヴィシュヌ結節を破り、シヴァ結節を破ってクンダリニーがブラフマランドラに集中すると喜びに包まれる「喜」と言う状態に至り、そのあとに【アムリタ】と言われる新たなるエネルギーが発生する。甘露がチャクラとか氣道を流れつつ、一番下まで降りる、一番下まで降りたらまた炎が燃え上がりまた甘露が発生する、甘露が発生したらまた一番下まで降りてまた炎が燃え上がりまた甘露が発生するを繰り返す。これによって最終的に体中が甘露で飽和状態になり、更にそれを超えると飽和状態から溶け込むようにサマーディに至り、そのサマーディから純粋なるありのままに見る智慧を得るとあるいは大変な歓喜を得る。人生そのものがエクスタシーになってしまう。これが一つのクンダリニーヨーガの到達点です。それプラスより高度な段階として、そのエネルギーから生じるもう1人の自分っていうのをある場合は1人ある場合は複数または無数に作り出し、その化身によっていろんな経験をしたりする事が出来る。そして他者のことを自分のことのように思う、自分のことのように他者の幸福を願う、自分のことのように他者の苦しみを悲しみそれを救いたいと思う、それをやることによって多くの人の経験を自分のものとしてその人の器は広大になり無限の智慧が身につきものすごいキャパシティが身につく。これを何生も何生も生まれ変わって、いろんな世界で自分の氣道を広げていく、その果てには完全なナーディの浄化がありますよ。そして仏教の最終地点といってもいい 穢れがないから輪廻に入れないし居られない、慈悲があるからニルヴァーナにも入れないし居られない、無住処ニルヴァーナと言う最終的な境地に到達する。これがクンダリニーヨーガの全てで如来です。




「あとはひたすら実践あるのみ」



菩薩道を実践したい人のために著しました。浅学非才で諸学者の好む文章が記せないため、経典と賢者の言葉に準拠して、菩薩の実践を誤りなく正確に記そうと思慮しました。けれども、菩薩道は広大であり、私のような知力の劣る者には、その奥底は理解しがたく、矛盾や無関係などの過失の集積になってしまいました。諸賢方よ、お許しください。

これによって生じた善があるならば、その善によってすべての衆生が勝義と世俗の二つの菩提心を起こし、輪廻とニルヴァーナのどちらにも住することなく、救済者である観自在菩薩と等しい境地に至ることができますように。




AmritaChannel からの略式引用



https://youtube.com/@amritachannel?si=OS3oeI6RC0s58IoB


松川先生有り難う御座います。




ここまで御読み頂き有り難う御座いました。

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― 新着の感想 ―
【軽安】の項 それによって体中が浄化され氣道は滑らかになり心と体をなめらかになる。この滑らかになるって表現は元々のインドの言葉は分からないけど経典ではそう言う表現をしている。オートバックスな言葉なのか…
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