第三章 進路 ②
高三の二学期というとんでもない時期に転入してきた生徒を担任も扱いかねていた。
成績は悪くはないが、科目によってばらつきが大きい。好きな科目と嫌いな科目の成績の差は半端なものではなかった。国公立は無理だろうと思われた。しかし、学ぶ事がけして嫌いではなさそうな、無口な生徒に担任は東京の有名な私立大学の文系を勧めてくれた。
聞いたことのある大学の名を勧められて、行けるなら行きたいと思った。が、やはり無理だった。とても入学金や学費を払えそうにない。
学費を免除してもらえる程、優秀でもない。それでも何とかクリアできないかと探しているうちに『新聞奨学制度』という制度がある事を知った。
学校に通っている間、新聞販売店の寮などに住み込み、朝夕刊の配達や集金などをする。四年制の大学なら四年間、きちんと最後まで勤められれば、立て替えられた入学金や学費の返済が免除される。家賃もいらない上にわずかだが毎月お給料ももらえる。
しかし、途中で投げ出せば立て替えてもらった学費のすべてを返済しなければならなかった。
新聞配達は中学生の時に経験があった。楽ではなかった事を思い出す。四年も新聞配達を続けるのはとても無理だろうと思った。勉強はしたいがその先が見えない。
漠然としていて、大学に行っても挫折しないと言い切る自信がなかった。その時に、お金を返すあてがない事が怖かった。借金をする事もお金のために意に添わない仕事をするのもイヤだった。
高校を受験する時、まり子さんは、
「働いたらぁ」
いとも簡単に言った。勉強嫌いの子どもに脅しを言ってるわけではなく、本気だとわかっているからこそ私は心から怯えた。
高校に行きたかった。今の暮らしから少しでも上に行くために、人並みに生きていくために、まり子さんと違う生き方をするために、私には学歴が必要だった。確かに、働いて自立してまり子さんの側を離れるのも一つの生き方ではあったけれど、それよりももっと何かを学びたい、多くのクラスメートたちと同じように高校へ行きたいという気持ちの方がずっと強かった。
学校以外に私は自分の行くべき場所を持たなかったし、安易に夢を描けるほど無垢でもなかった。小学校の時はまり子さんの奔放な生き方に振り回されていたせいで、あまり学校には行けなかった。中学でやっとできた友人たちが当たり前のように高校進学の話をしている中で、自分が進学できないかも知れないと思うと悔しかった。
私立には到底行けないのはわかっていたから、公立の普通高校一本に絞って受験した。地元では人気のある高校だった上、一つしか受験できなかったのだから、もしも落ちたら途方に暮れるしかなかったわけだけれど、落ちる気がしなかった。
「落ちる」などという事は恐ろしすぎて考えなかっただけかも知れない。
私は合格したけれど、一緒に受験した友人の何人かは不合格となり、彼女らは泣く泣く第二志望の高校へと進路を変えた。一緒に行こうと約束して、その約束を守れなかったのは友人の方だった。そして合格して初めて、自分もその岐路に立っていたのだと気づいた。私の場合は第二志望は高校ではなく、就職だったけれど。
高校に合格した事にまり子さんはやはり何の感心も示さなかった。私はバイトを続け、学費も必要なものもほとんど自分で捻出してきた。
二年くらいならできるかも知れない。新聞奨学制度のパンフレットを見ながら、ため息をついた。あまり気がすすまなかったが、他に進学できる道はなさそうだった。短大は最初から私の考えにはなかった。大学に行くなら四年、でなければ専門学校と決めていた。四年制の大学の資料も取り寄せるには取り寄せたが、大きなリスクを背負っても学びたいという意欲が湧かなかった。
専門学校の資料を毎晩一人で読み漁るうちに、ようやくここならと思うところが見つかっていた。