第三章 進路 ①
郵便受けいっぱいになった封筒を抱え、スーパーの袋とカバンを抱えて階段を登ろうとすると、吉住さんの部屋のドアがあいた。
「お帰りなさい」
吉住さんがにこにこして声をかけてくる。
私は吉住さんを少し見直していた。母が売春婦だと意地悪に言ってしまったのだが、それからも吉住さんの態度は少しも変わらなかった。その上歩くスピーカーだろうと勝手に思っていたが、他の人にも言ってないらしい。よく人と立ち話をしているようだったが、意外と聞き役なのかも知れない。
相変わらず、「おはよう」とか「行ってらっしゃい」とか声をかけてくる。
丸い眼鏡の下のよく動く人なつっこそうな瞳は変わらない。今日も私の抱えているスーパーの袋を見て、
「毎日、えらいわねぇ」
心底感心したように褒めてくれる。
吉住さんに対して反感を感じる事はもうほとんどない。慣れたというだけだろうけれど、私も素直に対応している。いつもの事だったが、吉住さんに、えらいわねぇと褒めてもらうと、最近は幼くなったような面映ゆささえ感じる。
あいまいな笑顔の私に吉住さんは手に持っていた紙袋を差し出す。
「あのね、郵便受けにはいりきらなくて、いっぱいだったから」
余計な事してごめんね、とでも言いたそうな困ったような照れたような表情で、差し出された紙袋の中には、厚めの封筒が三冊ほどはいっていた。私宛にきた専門学校や大学の案内資料だろう。
「ありがとうございます」
頭を下げると荷物を持ち直して紙袋ごと受け取った。
「高校三年生だものね。大変よね」
手当たり次第に資料請求していたために、このところ毎日、次から次へと案内資料が届いていた。
封筒は、郵便受けにはいりきらなくて、時々無造作に壁に立てかけられていたりする。 軽く会釈をして階段を登りはじめると、
「がんばってね」
吉住さんの声が追いかけてきた。
冬休みにはいった。冬休みにはいるまでの数日はとても長く感じられた。明日からは毎日バイトに行く。
今はたぶん生活が変わった方がいいのだろう。毎日、日課のように、学校帰りにスーパーに寄って特売のものを少しだけ買う、週に四回、バイトにも行く。
実際には食べたり、食べなかったり、寝たり寝なかったりしていたわけだけど、死んだりもしない。やっぱり時間は流れていく。
とりあえず、珈琲を入れようと、インスタントの瓶を手にして、残り少ない事に気づく。忘れずに買っておかなければ。珈琲が切れている事にまり子さんは我慢ができなかった。たとえ嵐の中だろうが買いに行かされた。
冷え切った手にカップの熱さが心地いい。少し我慢するくらいがいい。まり子さんは熱い珈琲が苦手で、ぬるくなったのをごくごくと飲む。そんな事を思いだしながら珈琲をテーブルに置いた。そのテーブルの上には、進路のための資料が読みかけのまま乱雑に置かれている。最近はいつもこうだった。テーブルにまともに食事を並べなくなったせいで、ただの机になってしまっている。
休みが明けたら、すぐに進路を決めなければならない。もしも受験だったならバイトどころではなかったかも知れない。けれど、受験はしない事にした。それにどちらにしてもバイトをしないわけにはいかない。