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第二章 別れ

 こんな日が来るのはわかっていた。遅すぎたくらいに。


 期末が終わって冬休み目前のある日、いつものように学校から帰るとまり子さんがいなかった。

 テーブルの上に現金が十七万。

「家賃」

 まり子さんのメモ。

 卒業までの三ヶ月分の家賃のつもりだろう。一ヶ月五万ほどだから十五万。二万多いのは、まり子さんの気持ちだろうか。それともあの人の事だから家賃の金額をはっきり覚えてなくて適当な金額を置いていったのかも知れない。


 あの人はもう帰ってこない。

 消えたいくつかの衣類とタンスの引き出しにあったはずの預金通帳で確信した。十七万円の現金だけを残してあの人は出ていったのだなぁと、夕暮れの部屋でため息をつく。

 一人だと、ため息がはっきりと聞こえる。それでも、カバンを置くといつもと同じようにバイトに向かった。


 帰ってもまり子さんがいないのはわかっていた。バイトの日、家に帰るのは十時頃。普段ならこの時間、まり子さんはミントで騒いでいるはずだった。けれど、今は……何処だろう? もう、わからない。

 

 店に電話したわけでもない。そんな無駄な事はしたくなかった。それに探す気力もなかった。探せば自分の傷口を広げるばかりだとわかっている。今更ながら、私は傷ついているのだと不思議な気持ちがする。もうさんざん傷ついたと思っていたけれど。


 明日、家賃は前払いで払ってしまおう。まり子さんの置いていったお金を見ると、情けないような気持ちになってくるから。怒って当然かも知れないのに、家賃を残していってくれた事にほっとしている自分が情けない。怒る気力も湧いてこない。台所に立って珈琲をいれる。とにかく珈琲を飲もう。


 次の日、身体がだるい。だるくて仕方がない。学校を休んでしまおうかと思ったけれど、もうすぐに冬休みだった。進路の事で片づけなければならない事もいくつかあった。

 

 しばらく天井を見て、それから時計を見て、ゆっくり起きあがる。朝は珈琲だけにしよう。

 珈琲を飲みながら、まり子さんのメモを見る。

「家賃」

 わかりきっているけれど、裏返したところで他には何も書いてない。


 まり子さんは売春なんぞやってたわりに字がきれいだ。寺の娘だからだろうか。まり子さんの実家は東北の小さな町で、そこそこ名の通ったお寺だった。

 一度だけ、とても小さい時に連れていってもらった事がある。広い庭に配置された石やたくさんの木の間には大きな蜘蛛たちがそれぞれの巣を張り獲物を待っていた。


 寺はまり子さんのお兄さんという人が継いでいた。まり子さんと私はけして歓迎されていなかったと思う。まり子さんはお金の無心にいったのだから仕方のない事だろう。

 家を出るまでも散々迷惑をかけて出たらしく、性懲りもなく金の無心に来るまり子さんが歓迎されるはずもなかった。小さな私に声をかけてくれる人もなく、まり子さんの親、私の祖父母さえいたのかいないのか、広い寺の一室をたった一晩あてがわれただけだった。それでも気の優しそうな兄という人だけが、妹のまり子さんを突き放せきれなかったらしく、結局次の日、駅まで私たちを見送ってくれた。


 汽車に乗る前にまり子さんに封筒をしっかりと握らせて、

「この金を無駄にするな。もう、帰ってくるな」と言った。

 まり子さんはその大きな瞳にきれいな透明な涙を浮かべて

「お兄さん、ありがとう」

 頭を下げて大切そうにその封筒を押し頂いた。


 汽車が走りはじめる頃、私のおじさんにあたるだろうその人は初めて隣にいる私を見つめた。帰ってくるなと言ったその人の目が潤んでいた。


 しかし、まり子さんは真っ直ぐ帰ってそのお金を納まるべきところに納めるような人ではなかった。なぜまとまったお金が必要だったのか、その理由はまだ小さかった私にはわからないけれど、長らく音信不通だった実家に泣きをいれるほどだったのだから、よほどせっぱ詰まっていたのだろう。けれど、そんな時でさえお金がはいるとまり子さんはすっかり気持ちが大きくなるらしい。途中下車して温泉に寄って美味しい物を食べて機嫌良くそのお金を費やした。

 

 封筒のお金が減ってきてようやく焦りはじめ、まり子さんは馴染みの男を電話で温泉に呼び出してつかった分を穴埋めしたのだった。

 寺の娘がなぜ売春をするような女に育ったのか不思議だ。その事を思うと私はまり子さんを知らないのだなぁとつくづく思う。そして知らない方がいい事もいっぱいあるのだと思う。


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