第一章 日常 ④
テーブルに熱い珈琲を置くとその香りに誘われるようにまり子さんがようやく起きあがってくる。
外国の映画なんかでよくベッドまでだんなさんが珈琲を運んでくれるシーンあるでしょ。そういうのに憧れてたんだよねー。
まり子さんはたまにそんなことを言う。珈琲を運んでくれたかどうかはわからないけれど、そんな小さな幸せを捨ててきたのはあんたでしょ、と思っていてもさすがに口にはしない。
それは思いやりなんかじゃなく、私が大人になっただけだと思う。これもあんたが選んだ生き方でしょ。そして巻き込まれている私。
「で、一体、何したの?」
向かいに座ってまり子さんを睨む。
「はぁ?」
おいしそうに珈琲をすすっていたまり子さんが不思議そうに目をあげる。
「はぁ、じゃないでしょ、はぁじゃ」
「うーん?」
小首を傾げる。あのね、娘に媚び売ってどうすんのよ。
「だからね、刑事がうろついてるんだって。まり子さん、何したのよ。今度は」
「えーと」
宙を見てる。
あーもう、その目線がもう怪しい。まさか薬やってんじゃないでしょうね。やめてよね、もう。それとも、年寄り相手に結婚詐欺? まさか未成年に淫行じゃないでしょうね。娘より若い男相手にするのはやめてよね。
あれこれ思いを巡らせて、知らぬ間に眉間に深いしわを寄せている私の前で呑気な顔が笑う。
「わかんない」ニッコリ。
頭が痛くなる。引っ越して三ヶ月、ようやく落ち着いたこの街で、この学校で卒業を迎えられると思っていた。期末が終われば冬休み、そしてあとは三学期を残すのみ。ちゃんと高校だけは卒業したい、それが願いだった。
「とにかく、しばらく大人しくしているのよ。男とホテル行くのもダメ。仕事はミントだけにしてよ」
ミントは友達に紹介されて引越と同時に勤めはじめたスナックだった。まり子さんは三十八歳だが、店ではもっと若く言っているらしい。幾つと言っているのかは、怖いから聞いてない。気まぐれな人だから、毎日は行ってないが、客には人気があるらしく、年増でも結構オーナーから甘やかされ、待遇もよく居心地がいいらしい。
まり子さんも水商売だけは肌にあうらしく、一度勤め出すと引越でもしない限り同じ店に居着く。 猫のような人なのだ。
「大丈夫よぉ。悪い事なんかしてないもん」
珈琲を飲み終わったまり子さんが両手をあげてのびをする。
「今日の晩御飯なにぃ?」
「魚」
素っ気なく応えると
「えーーーー」
途端に不満げな声を出す。珈琲カップを流しに片づけようとしていた私は振り向きざまにまり子さんを睨む。
「うーーー」
まり子さんが唸る。
だから、猫は黙って魚食べていればいいの。