第一章 日常 ③
部屋にはいってもしばらく高揚した気分は収まらなかった。笑いと怒りと。
吉住さんに言った事は嘘ではない。現に母は今まで二度も売春防止法違反で捕まっている。けれど、吉住さんが今、二階に住む人は売春婦ですと警察に駆け込んだところで、母を捕まえる事はできない。売春は現行犯逮捕しなければいけないのだから。
私は奥の部屋へ行くと丸まっている布団を勢いよくはいだ。布団をはがれても体勢をかえない。母親は枕を胸に抱きしめて丸まっている。頭を少しだけ持ち上げて薄目をあけて不服そうに言う。
「なによぉ。寒いよぉ。布団かけてぇ」
「いつまでごろごろしてんのよ! いい加減起きたら!」
「いいのぉ。まだ眠いんだからぁ」
「ちょっとあんた、今度は何やったのよ? 今日、刑事が来てたって下の階の吉住さんに言われちゃったじゃないのよ。もうやっとここに落ち着いたばっかりだって言うのに」
「えー知らないよぉ。だって来てないよぉ。ずっと寝てたもん」
ようやく母親は身体を起こす。髪は風速三十メートルの中を疾走してきたようになっている。化粧をしていない顔はいくら若く見えても年を感じさせる。この人をお母さんなどと呼んだら、「お母さん」という言葉に申し訳ないような気がする。だから、極力この人を呼ばないで済むようにしている。
ちなみにこの人の名前はまり子さん。そのまり子さんはまだぼーっとして娘である私を見上げている。
「だからぁ」
あーもうこっちまで変なしゃべり方になって一層いらいらする。
「だからね、ここにこないのがかえってやばいんでしょ。周りに聞き込みされてるって方が。あんた張り込まれてるかもよ。しばらく大人しくしてた方が身のためよ」
冷たく言い放すと、ようやくまり子さんも事態が飲み込めてきたらしい。
困ったような顔をする。それから
「珈琲、飲みたい」
と言う。
はいはい。台所に向かい、買ってきた秋刀魚を冷蔵庫にしまう。大根を流しにおいて、まり子さんのためにインスタント珈琲をいれる。
一日に最低でも三回、私はまり子さんのために珈琲をいれる。最初は何で私があんたなんかのために珈琲入れなきゃなんないの? と口にしていたが、やがて他の事と同じように諦めた。
「朋ちゃんがいれてくれた珈琲が一番おいしい。うーんおいしいよぉ」
まり子さんは幸せそうな顔をする。いついれてもそういう顔をする。
夜中に帰ってきて、寝ている私をゆり起こし、珈琲が飲みたいと言う。
寝ぼけていた私はやがて起こされた理由が理解できると怒りに眠気も吹っ飛んだ。
「ちょっとぉ、ふざけてないでよ。そんなもん自分でいれて」
「だってぇ、お湯ないよぉ」
「あのねぇ、お湯くらい湧かせば。やかんに水いれて火にかけるの、わかった? 明日も学校なんだから」
布団を頭からかぶろうとする私にしがみついてくる。
「朋ちゃーん、珈琲ー。お湯わくまで待ってるの寂しいよぉ。朋ちゃんの珈琲が一番おいしいよぉ」
あのねぇ……。あーもう、はいはいわかりました。だからそこどいて下さい。結構重いんだけど。あんた最近中年太りしてきたんじゃない。もうそろそろ潮時よ。
そんな風に私はまり子さんに珈琲をいれてきた。だからもうとっくに諦めている。何を話し合うにしても、とにかく珈琲を一杯飲ませなければだめなのだ。
インスタント珈琲の蓋をあけ、スプーンも使わず、まり子さん専用のカップに珈琲とお湯を適当に注ぐ。私のいれた珈琲が一番おいしいなどと言うのは嘘だ。まり子さんは喫茶店で高級な珈琲を飲んでも家でインスタントを飲んでも同じように満足そうな顔をする。銘柄が変わっても気づきもしない。
一度試しに珈琲にココアを混ぜて出してみた事がある。まり子さんは色を見て一瞬不審気な顔をしたが、最後まで飲み干して、底に溶けずに残っているどろりとしたココアを見て、また首を傾げていた。けれど、結局何も言わなかった。まり子さんの「おいしい」は絶対あてにならない。