第六章 家庭 ①
まり子さんは何もかも忘れてしまったように見える。過去の事は滅多に口にしない。数ある別れの中で、修羅場が一度もなかったわけではない。
まり子さんは一度結婚もしている。それは一年にも満たないほんの短い間だった。初めて父親と呼べる人ができて嬉しかった。九州出身だと言うその男は私の見たこともない景色の話をよくしてくれた。
「スイカ畑がずーとな」
男が建設現場で鍛えられた太い陽に焼けた両腕をいっぱいに広げる。
「こう、ずーと続いているんや。見たらびっくりするで。それを好きなだけ食べられる。うちの畑やからなぁ。腐るくらいあるからなぁ。食べきれんから、牛にやるくらいや」
男の瞳が遠い故郷のスイカ畑を見ている。
「夏はな、川で泳ぐんや」
「魚いる?」
「魚なんかうようよいてる。手でいくらでもつかめる」
故郷を出てから、関西で長く一人暮らしをていたという男は人なつこい顔をしていた。真っ黒に陽に焼けた顔で笑った細い眼が優しげだった。
仕事も休んだ事がなかった。仕事を休まないというのが自慢だった。そんな男だったから私が学校を休む事もけしていい顔をしなかった。だからその男と暮らしている間はきちんと学校に通う事ができた。
自転車を買ってもらって乗れるようになったのもその頃だった。男は野球が好きで、働いたあとは真っ直ぐ帰って、私を膝に座らせてビールを飲みながら野球を観戦するのが日課だった。
私が男の子だったら間違いなくグローブとバットを買い与えていただろう。
まり子さんは相変わらずスナックで働いていて夜中まで帰らなかった。
だから、夏祭りも、花火もいつも男と二人だった。日曜日には動物園だの、川遊びだのと私を連れて歩いてくれた。
ある朝、眠っている私を興奮した様子の男が揺り起こすので、何事かと思うと、雪が降ってる。雪が積もっていると言う。
顔を出すと薄く雪が積もっていて一面が白く光っていた。驚いている間もなく男が雪だるまを作ろうとせかす。雪が少なかったから、小さな可愛らしい雪だるまができた。少しずつ溶けて情けない姿になって行くのを惜しんでいると、仕事から帰った男がやっぱり惜しそうな顔をしながら、また雪が積もったら一緒に作ろうと大きな手で私の頭をなぜた。