第四章 記憶 ①
卒業式が近くなってくると慌ただしい。文集のための作文やら写真、卒業式の練習やら。
途中から転入してきた私などきっともっとも印象の薄い人間となることだろう。
だるい、面倒くさいと散々こぼしながらも、クラスメートたちは高校最後の日々をそれなりに楽しんでいるように見える。
この学校での思い出もろくにないのに、みんなの思い出につきあう日々に何となく疲れる。そしてため息をつきながら、誰もいない部屋に帰るのにも慣れた。時々階下で吉住さんと会う。吉住さんはいつだって私より余程元気で、変わりのない挨拶をしてくれる。
吉住さんのご主人の方はちらりとしか見たことがない。吉住さんよりずっと年上に見えるその人はお腹が出て頭もかなり薄くなっていた。
背広姿で控えめな会釈してくれた眼はどことなく優しげでただ一度会っただけのまり子さんのお兄さんを思い出させた。
吉住さんとまり子さんの活動時間は大幅にずれていたために、二人が顔を会わせることはほとんどなかったはずだが、それでもさすがに気づいているだろうと思う。
深夜や早朝に階段を上がる千鳥足が絶えて久しい事くらいは。けれど、吉住さんは刑事の一件以来母の事は二度と口にしなかった。刑事と言えばあれ以来、と言ってもその時も私が直接会ったわけではないが、とにかく現れなかった。
揉めて越してきたばかりのまり子さんが何かをやったとは考えにくい。まぁ売春だって立派な犯罪かも知れないが……。
きっとまり子さんがつきあっていた男がらみだろう。これまでも刑事と無縁で来たわけではない。
小学校の二年生くらいの時にも学校の帰りに刑事という二人組の男に呼び止めれられたことがあった。
年輩の男とそれよりずっと若そうな男。年輩の男が腰を折って、私に目線をあわせながら聞いた。
「お母さん、いつ帰ってくるか知っている?」
「知らない」
「どこに行ったか知らない?」
「わかんない」
「よくいなくなるの?」
「うん」
「お母さんのお友達の名前、誰か知っている?」
私は首を横に振る。刑事はじっと私の瞳を見つめ「嘘」を探し、やがてその目がわずかな暖かみを帯びて、哀れな捨て犬を見るような目に変わった。
小学生の頃は、よくまり子さんに置き去りにされていた。それ以前もあったかも知れないが記憶がはっきりしない。
漠然と優しくしてくれたおばさんやおじさん、怖いおばあさんの顔が浮かぶだけだ。
それから冷たいお茶漬けの味とか、一人で留守番をしている家にあった仏壇の見知らぬ写真がじっと私を見ていたこととか。いつとも何処ともわからない記憶の断片ばかり。
友人や知人の家に預けて行く事もあれば、そのままアパートに置いていく事もあった。どれも私にとっては仮の住処。
長屋のような大きなアパートで、どの家からも子供がはみ出しているような場所もあった。
陽のあたらない小さな部屋、ダイニングキッチンのあるこぎれいな部屋もあった。その部屋に住んでいた女の人は特に私を可愛がってくれた。尋ねてくる人もなかく、私も大人しかったし、女の人は昼間仕事をしていたから、部屋はいつも整然と片づけられていた。
女の人は、夕方、買い物袋を抱えて帰ると楽しげに二人分の食事を作ってくれた。私が待っていることが嬉しくてたまらないようだった。
無口な女の人の代わりに、食器棚に並ぶ茶碗や、たいして汚れない台所のそこかしこから寂しいという声が聞こえるような部屋だった。