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第一章 日常 ①

 今日は大根のお味噌汁にしよう。それから秋刀魚の塩焼きに大根おろしで丁度いい。魚を食べるのが下手な母親はきっと嫌な顔をするだろうけど、文句は言わせない。


 大根と秋刀魚の細長いパックが覗くスーパーの袋を抱えて、夕暮れにはまだ少し早い商店街を歩き抜ける。薄汚れた壁の目立つアパートの前まで来ると、階段の下にあまり顔を会わせたくない住人がいるのを見つけ小さなため息をつく。

 まぁ、この世で顔を会わせたい人間などいないのだから仕方ないが、同じアパートの住人は一層わずらわしい。吉住さんは階段の下の踊り場をせっせと箒で掃き清めていた。


 アパートの周辺にゴミが落ちていないのも、自転車置き場の横の小さな花壇の花がきれいなのも吉住さんの無料奉仕によるものであるのは知っている。

 別にそれを有り難いなどとは思わないが、それでも母親に窓から吸いさしの煙草を捨てるのはやめろと注意くらいはしている。

 朝夕、下を掃く吉住さんにそんな事で小言など言われたくない。誰のためだか知らないが、一心に踊り場を掃き清めている吉住さんをできれば無視したいけれど、その階段を登らなければ部屋には戻れない。


 彼女は今日も代わり映えのしない格好をしている。背中に届く髪はいつも黒いゴムで一つにひっつめて、丸眼鏡をかけてエプロンをしている。このアパートに越してきて、まだ三ヶ月だが、彼女がそれ以外の格好をしているのを見たことがない。

 吉住さんは専業主婦で、子どもはいないらしい。その地味な格好から、かなりおばさんだろうと思ったが話している時に見た丸眼鏡の下の眼はくりくりと動いて、人なつこそうで、意外に若いようにも見える。要するに年齢不詳。何が楽しいのか知らないがいつもにこにこしている。人を見れば必ず嬉しそうに挨拶をしてくる。たぶん誰にでもそうなのだろう。今時小学生だって誰彼かまわず挨拶などしない。


 引越をしたその翌日から、

「おはよう」とか「いってらっしゃい」とか「お帰りなさい」とか。

 あんたは私の何なんだ? と聞きたくなるほど声をかけてくる。

 母親の口からだってついぞそんな言葉は聞いたことがない。無愛想にそれでも一応高校生らしく律儀に挨拶を返す私を彼女はまた嬉しそうに見つめる。いつでもまだ声をかけたそうな眼をするので、つまらない話に引きずり込まれないうちにと愛想笑いをして早々に離れる。それでも背中に感じる視線に、だからその眼が馴れ馴れしいんだよと人知れず悪態をつく。専業主婦のあんたは暇だろうが、女子高生の私は忙しいんだって。話相手なら一0三号室のおばあちゃん、ちょっと惚けていそうだから、惚けとつっこみか。二0一号室の浅井さん、何をしているかわからない暗そうなおじさんだが、意外な組み合わせでいいかも知れない。


 いつ終わるとも知れない掃除を待つわけにもいかず、意を決して階段に向かう。

「こんにちは」

 重い気持ちを引き立てるように、自分から声をかけると吉住さんは箒を持ったまま顔をあげた。

「ああ、朋子ちゃん。お帰りなさい。夕食のおつかい? えらいわねぇ」

 心底感心したような眼で見つめる。

「高校生なのに、アルバイトも家の事もやって本当にえらいわねぇ。評判よ」

 初耳だけど、本当だとしたらその評判の出所はわかるような気がする。


 母子家庭で収入が安定していないために、アルバイトは欠かせたことがなかった。最近は駅前のドーナツ屋でバイトをしているのだが、数日前に余ったドーナツを貰って帰ったことがあった。それが迂闊だった。食べきれないので、偶然顔を合わせた吉住さんにお裾わけすると、ちょっと大げさとも思えるくらい喜んで、早速次の日には、手作りのジャムなどをお返しに持ってきてくれた。そういうつきあいは苦手なのだ。でも吉住さんはそうではないらしい。


「今日は、学校早いのね」

「はい、今日から期末テストですから」

「そう、テストなの? 本当にえらいわねぇ」

 スーパーの買い物袋に眼をやりながら言う。この人には何をしていてもえらいと褒められてしまう。子どもは褒めて育てろと誰かから聞いて実践でもしているのだろうか。別にこっちはしたくてしてるわけじゃないんですけど。

 適当に首を振って笑顔を作りながら階段を登る。すると吉住さんがとんとんと後ろから追いかけてくる。

「あの、朋子ちゃんのお母さんってお仕事、何しているの?」

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