二冊目
智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。解説は不要であろう、夏目漱石『草枕』の一節である。この後には、とかくに人の世は住みにくい、と続く。
俺という矮小なる人物は、波風立てず流されず、通す意気地もなくして来し方人の世を生きてきた。誰もがそうするように一通り憂き世に幻滅した大学生活を終えて後、ただ世に出でざらんためばかりに物書きをして食うている。
しかしそこは、人の世よりもなお住みにくかろう、人でなしの国であったのだ! 自分の本も出せず、誰が読んでいるのか分からぬような文芸雑誌に寄せるようなのの、ペラいくらの稿料だけではとても食えず、アルバイトなどしながらどうにか扶持をつないでいた。
そんなわけだから、紫織が俺を先生と呼ぶのはつまるところ、作家先生という意味である。あまりにむず痒いのではじめは止めさせようとしたのだが、彼女はこの身の程知らぬ呼称を気に入ってしまったようだった。
休題、俺は現在のところ金枝堂古書店(に隣接する紫織の祖父の家)に居候して、店番やら在庫整理やらちょっとしたものの査定やら、果ては家事まで手伝いをしている。給金はない。代わりに飯と寝床を面倒見てくれるので文句など勿論ない。本屋のバイト代など安いものなので、待遇は破格と言っていいくらいだ。
「いわゆるヒモですね」と紫織はにべもない。俺は反論のしようがないので、いつか一発当てて美味いもんでも食わしてやるから覚えておけと言うと、
「中華がよろしいでしょう」
と答えた。そして――今思えばずいぶん珍しいものを見たようだが――「楽しみにしていますね」と嬉しげに目を細めた。
もう一年が経つ。紫織も高校生になった。俺は相変わらずだ。今日も今日とて紫織と並んでレジスターもない机にかけて店番をしている。といっても暇な時間が多く、たいていは本を読んで過ごし、物書きの仕事のあるときはそっちに手をつけたりもする。気ままなものだ。焦りを感じていないかといえば嘘だが、今という時間が心地よくもある。
「そういえばお前、中華料理が好きなのか」
いつかの言葉を思い出して問うた。ところが紫織は何のことやらという顔をして、特別好きというほどでもないですが美味しいものなら何でも食べますと答えた。
「俺が一発当てたら中華が食いたいと言ったのはお前だろう」
そう言うと、紫織はああとようやく得心した様子だ。そうして俺をからかう目つきになって、
「小説であてた後は中華と決まっているんです」
とやはり分からぬことを言った。いつもの「遊び」が始まったようだ。何かの暗喩だろうか。中華、中国、小説。いまいちピンと来ない。
「『満漢全席』でも来ませんか」
次なるヒントはいかにも直接的だった。実際喩えでもなんでもない。
「……分かった。実にくだらん」
「あの時分かってもらえなければボケ殺しというものです」
南條竹則のずばり『満漢全席』という本がある。この中の『東エイの客』というのが、主人公の書いた小説が賞をとった賞金で、四十人集めて中国へ飛び、念願だった満漢全席をやる話になっている。実に話の大部分がひたすら飯を食っているか酒を飲んでいるという、ある意味凄まじい小説である。次から次へと豪華絢爛な食事が運ばれて来、これを食す。また食す。延々これである。
「満漢全席とまでは言いませんが、美味しいものを贅沢鱈腹食べてみたいですねえ、先生」
今の俺にはとてもそんな金などあるはずがない。
「ラーメンでよければすぐにでも食わせてやれるんだがな」
「ああ、それもいいですね。なんだか無性にラーメンが食べたくなってきました。美味しいらしい店をこの間教えてもらったのですけれど、どうですか。店番なんかジジイに任せて」
気まぐれに二人で出かけてラーメン一杯では格好がつかぬ。俺も少しは甲斐性のある男にならねばなるまい。俺の情けない顔色を読みとったのか、くつくつと肩を揺らして、おさげの片方を指でくるくる弄びながら言った。これはどうやら彼女の癖らしい。
「楽しみにしていたのですから、きちんと付き合ってくださいまし」
立ち上がってさあ早くと俺を急かす。どうやら本気でラーメンを食うためだけに出かけるようだ。
彼女のことは今でも正直よく分からぬ。この先もすぐには分からぬだろう。
あとがきめいたなにか
二冊目は南條竹則の『満漢全席』。表紙にも中華料理小説と銘打ってあります。私の読んだ集英社文庫版はタイトルの満漢全席をやる『東エイの客』に加え、『麺妖』『餃子地獄』など短編がいくつか収録されていました。
これがまた、ページを繰れば繰るほどお腹のすく本で、交えられるユーモアさえおまけに見ゆる、圧倒怒涛の料理描写! 満漢全席は無理でも美味しい中華料理を腹いっぱい食ってみたくなりますナ。中国は無理でも中華街で……さもしい気分になってきました。この辺で。