表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

一冊目

 古びた硝子の引き戸に倦怠そうな顔と低い空が映っている。蝉の声は八月にもなって尚まばらで、圧されるような曇天に屈して溜息を吐き出した。今年の長梅雨は異常というほかなく、なんとなく陰鬱な心持で例の扉を開いた。クーラーが入っているわけでもないのに心地よく感じるのは湿気を管理しているせいだ。でなければ本たちがやられてしまう。圧し掛かるような本棚が形作る、人ひとり通るのがやっとの薄暗い通路の先に、ここ、金枝堂古書店の主はいる。俺は無造作に棚から一冊抜き取った。この天気ではいつ雨が降るか分からぬから、いつも外に出しているワゴンも中に入れてしまって店内は余計に狭い。近頃はちいとも夏らしくなく、どうにも調子が出ない。少女はそう聞くと、「先生は」と呟くように言った。

「暑ければ暑いでけだるいと言うのでしょう。おかえりなさい」

 手元の本から顔も上げない。氷でできた楽器があれば音色はこのようであろうというような、玲瓏にして強張るところのない、染み入るような声。本人にそう言ったなら、「芭蕉のようですね」とでも言いそうで、つまり褒め甲斐がなさそうなので、胸に留めるだけにしている。

 彼女は飾り気のない木の机をカウンター代わりにして座っている。客を待っているというよりは、ただずっと本を読んでいる。この文学少女――紫織はこの古書店の主である爺さんの孫という人物だ。

「それでも夏には夏の良さを味わいたいものだ」

 無い物ねだりの反論に彼女はようやく顔を上げた。黒髪を後ろでくくったのが二つ、狐の尻尾のようになっているのを指先でくるくると弄ぶ。

「ではこの家でも隅々案内しましょうか」

 紫織はいたずらっぽく目を細めた。彼女はよくこうして俺が分かりかねることを言う。これは彼女なりの遊びだ。今回もいまいちピンと来ないので、それはどんな意味だと訊いた。

「どこかの扉が夏へと通じているかもしれません」

「ハインラインか」

 隣に座って本を開こうとすると、紫織が横目に俺の顔を覗き込んで言った。

「開けば別の世界へと旅立つ入り口となる。本もまた『夏への扉』でありましょう」

「扉は分かるが、夏というのがわからないな」

 彼女の『遊び』に付き合ってやろうと本を開く手を止めて隣を見やった。ごく近い距離で紫織と目が合う。何だか気まずくもあるが、動じない彼女から目を逸らしたら負けという気がして、仄暗い瞳を覗き込んだ。

「物語は艶美な触腕で私たちを誘惑し、捕らえ、虜にする。物語の見せる表情の一つ一つに一喜一憂し、物語はまたそれに応えて表情を変える。戯れているのか、踊らされているのか、わからないままで、私たちは幻想の世界に遊び、胸ときめかせる。燃え上がり、滾るような、昂りは、それは……きっと恋に似ている。シャルロッテを想うヴェルター。憎むほどに激しく狂おしい想いを抱き続けたヒースクリフ。この輝かしくさえある熱気が、真夏の太陽のようでなくて、いったい何でありましょう」

 濡れた瑪瑙の瞳、高潮して見える頬、湿った唇。夢見心地のような口調。それは本当に恋をするような――またはもっと貪欲な、官能的に近い――どこかうっとりとした顔で俺を見上げてくる。恋よりも酩酊に近い、と思った。

「冴え冴えと月が笑うような、薄ら寒い夏へと通じていることだってあるだろう」

 紫織は少しむっとしたように口を結んで後、それはどんなふうな、と訊いた。俺は先ほど開き損ねた、古き日本の夏へと通じる扉……一冊の文庫本の表紙を見せて言った。

「俺が読もうとしていたのはラフカディオ・ハーンさ」






あとがきめいたなにか


 今回の「一冊目」はロバート・A・ハインラインの『夏への扉』。これはSF入門としてよく名前のあがる本ですね。いわゆる時間もので、構成が素晴らしく、カタルティックで最高にエンターテイメントしています。そういえば最近新訳が出ていたような。「文化女中器」は名訳だと思うんですが、どう変わっていることやら。

 主人公の飼い猫ピートの可愛さは異常。


 ラフカディオ・ハーンは帰化後の名を小泉八雲、古き良き日本の文化を愛した人で、怪談や奇談をまとめた名著を数多く残しています。角川文庫版の『怪談・奇談』は天野喜孝が表紙を描いていますね。

 柳田國男なんかもそうですが民俗学系には心躍る秋涼いちるでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ