ヴァルプルギスの夜に
逃げ込んだ路地で、ミリカとひとしきり笑う。
緊張から解き放たれた安堵感からか、笑いがとまらない。
「あはは……! やりすぎだよ、ミリカ」
「だってドリィったら、情けない声出して……ぷっ、ははは!」
「もー! 笑うなって」
確かに変態おじさん達に絡まれたとき、ミリカより僕のほうが情けない声を出してしまった気がする。うぅ恥ずかしい。
「ふぅ……」
「……はぁ」
あらためて辺りの様子を確認する。
誰も追いかけてくる気配はない。
変態おじさんたちも、衛兵も。
人混みで僕らを見失ったのだろうか。路地裏から見える大通りは、明るくて騒がしい。あちこちで笑いや怒鳴りあう声が響き、それどころではないのかもしれない。
逃げ込んだ路地も薄暗くて人通りはまばら。けれど家路を急ぐ親子連れが歩いていたり、店じまいをしている店主さんが見えたり。ここならひと安心できそうだ。
「でも見た? 私の棒術! イザって時のために訓練してたんだー」
笑顔でぶんっと杖を回すミリカ。
「そんな訓練してたの!? いつ? 屋根裏で?」
「ま、ときどきねー。じっとしてると身体が鈍っちゃうし。腕立て伏せに腹筋と背筋。それと……掴まりながらのスクワット」
「え、えぇ……?」
お日様みたいな笑顔を浮かべる幼馴染みに唖然とする。
普段、僕より鍛えてるんじゃないの……?
脚があまり動かない事なんて、ミリカにとっては少しハンデが増えただけ。そう思っているのかもしれない。
負けん気の強さで、二人を叩きのめした。変態おじさん達の思い通りになるものか! という気概は本物だった。
「片足でもバランスとタイミングさえ合えば、やっつけちゃう」
「役に立たなくてごめんね」
少し拗ねて言ってみる。
もしかしてミリカ一人で撃退できた?
「ううん。一人じゃ無理。あのとき本当はね怖くて……。ちょっと震えてた」
ミリカはすぐに首を振った。
「そう……なんだ」
「だからドリィが来てくれて、嬉しかった」
「あ、うん」
いろいろ言いたいことはあったけど、もういいや。
ミリカの顔を見たら、不安や胸騒ぎなんて消えていた。
「ありがとね」
ストレートにお礼を言われて少し照れる。
「私ね、ドリィが二人に連れていかれちゃうって思ったら、すごく怖くなって……。それで勇気が湧いてきた。ここはやるしかないかなって」
それは僕だって同じだった。ミリカが心配で来たのに。逆に助けられてしまったみたいでバツが悪い。
「でもさ、相手が強かったらヤバかったよ」
「そのときは、そのとき」
相手が武器を持っていたり、強かったりしたら逆上されていたかもしれない。運が良かったと思うしかない。
あの場なら悲鳴をあげたってよかった。野次馬の誰かや冒険者が助けてくれた気がするし、街の衛兵さんだって仕事をしていたのだから。
でもまぁとりあえず、ピンチは切り抜けた。
いつしか、逃げ込んだ僕らを、道行く人たちは見向きもしなくなっていた。
建物の壁に背をつけて、ずるずると座り込む。家を失くした浮浪児みたいに、二人で膝を抱えて縮こまる。
世界から取り残されたみたいな、不思議な気持ちになる。
見上げると建物の屋根で、夜空が細長く切り取られていた。
そこに大小二つの月が浮かんでいる。青白くて大きな月、赤黒くて小さな月。それらが目玉みたいに見下ろしていた。
「……なんで、あんな場所にいたのさ?」
「行ける気がしたから」
「え?」
「ドリィのとろこまで」
ミリカはじっと暗い壁を見つめながら言った。
「無茶だよ、いつもそんなに歩けないのに」
「だって、動けたんだよ! 脚が……それで」
僕は驚いて息を飲んだ。
「本当に!?」
ミリカは杖を使って歩ける。けれど十分も歩くと、途端に足が石のように重くなる。すると休まないと身動きがとれなくなる。買い物に出掛けて座り込んでしまい、何度か背負って帰ったことがある。
だから出歩けるのは下宿している建物の近くだけ。公共の水場や、買い出し、近所のお店や屋台ぐらいまでのはず。
なのにミリカは大通りにいた。
ギルドはもう目と鼻の先。屋根裏部屋からギルドまで、ミリカの足なら二十分はかかるはずなのに。
「わからない。でも、あのねドリィ。村にいたときは、脚に力が入らなくなって、だんだんそれが広がって……。全身に広がれば死ぬかもっていわれてた」
「うん」
それは知ってる。
だから僕らはこの街にいる。
酷い家から逃げ出したという理由以外にも、何か治療できるアイテムを見つけたかったからだ。
古代遺跡のあるリューグテイルの街で、魔法薬でもなんでもいい。ミリカの病気を治したいと思ったから。
「この街に来てからね、時々目の前がチカチカして、気合いを入れると、途端に脚が動く感覚があるの」
「それ初耳だよ……! それってもしかして、病気が治りかけてるってこと!?」
思わず気色ばんだ。もしそうなら凄い!
「たぶん……違うと思う。すぐに感覚は消えちゃうし。でも今日は、ドリィの帰りが遅くて心配になって……。いてもたってもいられなくなったとき、その『感覚』がわかったの」
ミリカのいう『感覚』、フィール。
それは古代遺跡のあるリューグテイルの街で、スキルに目覚める者がしばしば味わう感覚だ。
僕も『相手のよいとこ発見!』スキルを明確に意識し始めたのは、ここにきてすぐだから。
「それ、もしかしてスキルなのかも」
「スキル? 冒険者ギルドにいる人や、魔法使いのスキルみたいな……?」
「そう。もしかして、何か……身体を動かす系のスキルで」
誰かが道の前で立ち止まった。
男の人だった。
顔はよく見えない。でも腰に剣をぶら下げている。衛兵かさっきのおじさん達かと焦ったけれど、違っていた。
革の鎧と武器を身に付けた冒険者だ。
普段あまり見かけない雰囲気だ。僕の所属するギルドの人じゃないのだろう。
「君たち、こんなところで何してるの?」
親切で声をかけた、という風を装っているのがすぐにわかった。探りをいれるような優しい声色が逆に不信感を煽る。
「今から帰るところです」
ミリカが咄嗟に答えた。
「いこう」
僕は立ち上がり、ミリカの手を引っ張って立たせた。
がくん、とミリカの身体が崩れる。
「ミ……」
「あ、脚に力が……!」
名前を呼ぼうとして口をつぐむ。知られるとマズイ気がしたからだ。
「どうして!? さっきまで普通に……」
脚に力がはいらないのだ。焦るミリカを抱え、その場を急いで立ち去ろうとする。
「どうしたの? ねぇ君たち。もしかしてお腹空いてるの? だったら、何か食べさせてあげようか?」
男の人は執拗に声をかけてくる。丁寧で親切な喋り口だけど、嫌な感じがする。
「いりません、さよなら」
「遠慮しないで、ね? いっしょにいこうよ」
「行かないってば!」
感情に呼応して発動したスキル、『相手の良いとこ発見!』が目の前の人を鑑定する。
――§¶†キ‰……
なんだ……これ?
頭のなかに浮かぶ文字が化けていた。ザーッという砂嵐のような雑音がする。
路地で行く手を遮るように、男に回り込まれてしまった。
物々しい音を響かせる剣の柄が目に留まる。さっきの変態おじさん二人とは違い、武装している……!
「あぁ、二人とも可愛いね。じゃぁ、お金をあげようか?」
「……っ!」
猫なで声にゾッとする。
その人の目は熱病みたいに虚ろなのに、ギラギラと気味の悪い光を宿していた。
怖い……! 何をされるかわからない恐怖が込み上げる。
ミリカも同じらしかった。腰に回した腕に力が入るのがわかった。
慌てて辺りを見回す。
二人で話しに夢中になって、気がつかなかった。
夜の帳が降り、街は昼間の様子とは一変。異様な雰囲気に包まれていた。
男の人と女の人がべったりくっつきながら闊歩し、桃色に輝く看板を掲げた店をめざし、男の人達が下品にゲタゲタ笑いながら入ってゆく。
喧騒はいつしか甘ったるい媚びた声と、欲望の熱を帯びたものに変わりつつあった。
逃げなきゃ。ミリカを背負ってでも。
男が手を伸ばしてきた。
「触るな!」
「チッ、いいから、来いって言ってんだよ!」
突然その人は豹変し、声を荒げた。
月明かりで顔が見えた。目を血走らせ、口を狼のように歪めている。
背後に逃げる、大通りに逆戻りするしかない。
背中を見せたら刺されかねない。でも戦ってどうにかなる相手じゃない。
ミリカを守るんだっ……!
けれど大通りへと通じる路地の入り口に、人影が見えた。
ゆらりと、逃げ道を塞ぐように現れたその影は、幽鬼のようだった。
禍々しい赤い光が、まるで陽炎のように揺らいでいる。
仲間――!?
心臓が冷たい手で掴まれたような気がした。
挟み撃ちされたらおしまいだ。
もう、逃げ場はない。
「……まったく、見ていられません……」
その声には聞き覚えがあった。
「え……」
呆れたような、高揚したような、小さな声は早口で。
月明かりが丸い二つの光を撥ね返した。
手には杖を握っていた。先端に輝く水晶。
「ま……魔女……? なんの、何の用だ!?」
背後で男の人が怒気を孕んだ声で叫ぶ。
つまり、仲間じゃない。
あれは間違いなく、僕が知っている魔女――
ガッ、と杖で地面を突く。途端に、赤い花が咲くように足元から花弁が幾重にも広がった。
マリュシカさん……!
「貴方……。地上に舞い降りた……天使に……。触れようとしましたね……」
「なんだ、おまえは!? どこの魔女だ!?」
「……言いたくありません。……獣と言葉を交わしてしまいました。……気持ち悪い……汚らわしい……最悪……」
僕はミリカを抱くように壁際に避けた。
魔女と冒険者が路地で対峙している。
マリュシカさんの放つ言葉の抑揚に呼応するかのように、赤い花弁の輝きが、路地裏の地面を覆ってゆく。
まるで雪の結晶のような紋様を描きながら、地面を伝い、建物の壁にまで這い上がる。
「この光……?」
「魔女さんの……魔法だ」
ミリカの声に僕は、そう応えるのが精一杯だった。
マグマのような赤い輝きが、まるで植物の根のように、周囲を侵食して行く。その光景に僕らは目を奪われていた。
「魔女の戦闘結界、ヴァルプルギス・セグメンツ」
マリュシカさんは早口でそう呟いた。
「ふ、ふざ……けるな! こ、こんな! こんな場所で魔法を使うつもりか!? 俺は……Aランク冒険者……! 『泥船亭』の――」
「興味ないので、消えてください」
怒っている。
あの、マリュシカさんが。
表情は見えない。でも月明かりを反射するメガネの奥で、瞳が怒りに燃えるかのように赤く輝いている。
すでに路地は『魔女の夜宴の分領境界』として、マリュシカさんの支配下にある……!
つまりここでの敵対行動は――
「っしゃぁ!」
男が剣を抜いた。
「……抜きましたね。では、正当防衛です」
一歩、男が踏み出した瞬間。
ゴォッ……! と頭髪が燃えあがり、衣服のあちこちから発火。赤い炎に包まれた。
「――ッぎゃ、あ……!?」
男は立ったまま燃え上がった。
でも、それはほんの瞬きほどの時間だった。
炎は一瞬で消え、膝から崩れ落ちるように座り込む。
「あ、あ……あぁあああ!?」
無くなった頭髪と、燃えてボロボロになった衣服に呆然とし、真っ黒な顔で目を白黒させる男の姿があった。
「……『人間松明』魔法。……感謝なさい。髪と服で済ませたのは、天使の御前だからです」




