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クロユリ8  作者: 清水さゆる
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でもやっぱだめ。没。

幕間


『青い空に白い雲 牧場はあおく 家畜は穏やか

小鳥は歌い 子どもは遊び 憂いなき なんて明るい昼さがり』

 牧童たちが、牛追いの棹鞭を振って歌っているのを聞いて、ライラは思わず声を上げた。

「今の音、半分違うわ」

 こうでしょ、と、正しい旋律を歌い直すと、牧童たちは目を吊り上げて、牛追いの鞭の先をライラに向かって振り下ろした。

「あっちいけよ、流民め」

 街人たちはススロのことを流民と呼んで仲間に入れてくれない。当たると痛いだろうから、ライラは慌てて逃げ出した。獣のように追い払われて、少なからずライラは心を痛めたが、恥をかかせた自分にも原因がある。

――蜥さえいれば、こんな惨めな思いすることないのに。

 ライラはススロの娘であった。しかし、十七になっても未だに運命の蜥はやってこない。そのせいか、ライラはススロの仲間からも浮いていた。

蜥と廻り合うまでは、他の子だって親の蜥に同乗する。当然、親の蜥に乗るというのは脛を齧るのと同じで半人前扱いなのだが、ライラの父は二十歳過ぎてから蜥に出会ったというし、大器晩成というか、その蜥は惚れ惚れするほど立派な躰と健脚の自慢の蜥だったわけだから、焦ることはない。そもそも、ライラ一人が焦ってもどうにもならない。

本当はわかっている。ライラがどこか他のススロたちから距離を置かれているのは、髪色のせいだ。それと、目の色。銀髪青眼、それに、雪のように白い肌。黄色っぽい肌色をしているススロたちの中で、ライラ一人が変だった。それに、他の皆は日焼けしていくのに、ライラだけは、生まれた時からずっと白いままだった。

死体みたいだと言われて、泣いたこともある。泣かされっぱなしで終わるのは腹に据えかねたので、ライラは狼を一匹仕留めくると、死体みたいだと言った奴の目の前で獲物の首を斬槌で弾き飛ばして、それと自分の違いについて語ってきかせてやった。死体は生き物を殺さないと言ったら、相手は真っ青になって黙ってしまった。

結果、言った方もライラも拳骨をくらったのだが、そのせいでライラは余計に敬遠されるようになってしまった。

蜥さえいれば。

何度思ったことだろう。蜥さえいればライラは一人で生きていく。仲間外れにされて悲しい思いをし続けるくらいなら、一人の方がずっと楽だし自由なのに、と思っていた。

その夜も、ライラは悶々と一人で悩みたくて、熾火を離れて荒野を散歩していた。蜥さえいればちょっと背伸びして夜駆けでもするのに、と、足元の小石を蹴っ飛ばす。

ころん、ころん、と転がって行った先を目で追い、はっとライラは息を詰めた。

いつからか、真っ白い蜥がそこにいた。

ぞわりと鳥肌が立つ。本能的に、それが触れてはいけない類のものだと理解した。荒野には時折、精霊の類が現れる。神域から気まぐれに顔を覗かせたモノに関わってはいけない。挟間の存在に関わると魂を毀されるという。

ライラは咄嗟に背を向けた。

 白っぽい鱗の蜥は珍しくない。ただ、ライラの知る普通の蜥の白さとは本質的に異なるのだ。生き物というより、鉱石や月の光のような生命のない存在の白。関わるべきではないと、直感的にそう思った。

――でも、あれが私の運命の蜥かもしれない。

 そう考えると、欲が出た。

――それに、とても綺麗な蜥だわ。

 振り返ってみて、もしいなかったら諦めようと決心する。翻って、まだそこに白い蜥がいたのなら、生涯、自分の蜥として愛そうと覚悟を決めた。

 そして振り向いたその先に、青い、青い、空色の瞳があったのだ。

 白銀と青の組み合わせは、偶然か、必然か。ライラはおそるおそる白い蜥に手を伸べた。蜥は逃げるどころか、優雅に頭を垂れると、風角の付け根をライラの掌に擦りつけて瞳を伏せる。その、どこか理知的な様子に、ライラはぞっと身震いした。

 まるで、王様とその家臣、あるいは姫と騎士の、主従の契りのようだと思ったのだ。

 永久の愛を。そう、言われた気がした。

 その夜を境に、ライラは家族の熾を出て一人になった。

 輪から外れた一人と一騎に、荒野はどこまでも広かった。

 ずっと他の人間と喋ることなく、ひたすら蜥を駆って過ごすこと三月。変な蜥だ、とライラは首を傾げることが多かった。妙に人間的というか、他人と言葉を交わすよりも意志疎通できているような錯覚を度々覚える。自分の蜥に巡り合えたという実感はなくて、大人たちの言うような一体感は今以て皆無なのに、言葉よりも明確に意志が伝わる。

 それに、やたらと音がはっきり聞こえるのだ。加えて、鳥の鳴き声や獣の足音を聞いて、知り得るはずのない情報を無意識に得ていることがある。他の人間と喋らなさ過ぎて、野性的な勘が働くようになったのかもしれないし、ただ孤独なだけなのかもしれなかった。

 そんなある日のこと。それは唐突に始まった。

「お前、ずっと一人で淋しくないの?」

 不意に誰かに話しかけられ、ライラはぎょっとして振り返った。が、だだっぴろい岩石と砂礫の景色があるばかりで、あとは、白い蜥が一騎だけ。

 じっと、ライラは蜥の青い目を見つめる。

 まさかね、と自分の考えを鼻で笑った時。

「あ、その反応。俺の聲が聞こえるんだ?」

 ライラはゆっくり、瞬きを一つ。

「そうか、そうか。やっと通信可能になったか。いや、よかったよホント。思ったより調整に時間がかからなかったな。二人っきりで過ごしたからかな。同調が早い」

 茫然、ライラは首を傾げる。すると、蜥もまた、同じ角度に首を傾けた。

「信じてないでしょ?」

 ライラは盛大に顔を顰めて頭を抱えてしまった。一人きりで誰とも会話しない期間が長すぎたらしい。幻聴が聞こえる。

「ねぇねぇ、どのくらい聞こえてる? はっきりわかる? それとも何となく言っていることが伝わる程度? 鳴き声としてしか受理されていないと、ちょっと困るんだけど」

 ライラは蜥に背を向けて額を抑えて歩き出す。すると、呼び止めるように、蜥がライラの肩を嘴唇で挟んだので、今度こそ、ある確信をもってライラは振り返った。

「お前なの?」

「お。しっかり聞き取れているね。正解。そうだよ。俺だよ。だけど、びっくりしないで。眷属の象形は定着するための触媒みたいなもんだから。俺は特別。そして、君も特別だ。特別、俺に選ばれた」

「なんで……」

 なんで蜥が喋るのかとか、なんで自分はこの素っ頓狂を真に受けているのかとか、諸々。全部ひっくるめてライラは「なんで」と自問したのだ。しかし、相手は誤解したらしい。

「好きになるのに、理由がいるかい?」

 絶句。まさにそれだ。ライラは目を白黒させて蜥の青い目玉をじっと見据える。すると、蜥は嘴唇をもごもごさせて長い首を巡らせてしきりに瞬きを繰り返して言った。

「そんなに情熱的に見つめられると、照れるな」

 しゃらんと鱗を鳴らして、蜥は再び首をもたげる。

「一目見て、君のこと好きになったよ。これからもずっと側にいてもいい?」

 晴天の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ライラは半信半疑、肯いた。

 一角ユニコニス

 白い蜥は自らをそう名乗った。神獣、霊獣、幻獣、聖獣。実体を伴わない非在の存在。人間の意識が獣の上位にあるように、人間の認識できる範疇のさらに外部に存在するモノ。

「とはいえ、俺らも生命であるからして、消滅してしまわないようあらゆる方法で自己保存の策を講じる。君たちふうに言うのなら、種をまくわけだ」

 満天の星空。遥か高みの無数の煌めきと同じ色に輝く鱗に背を預けて、毎夜、ライラは不思議な蜥から世界の話を聞いて眠った。一人が一夜に見る夢にしては、あまりに長大な叙事詩である。やがて、ライラの興味は、昼間の景色よりも夜中の物語へと移っていった。

 いつからかライラは、自分が選ばれた特別な人間であると思い始めた。特別だから、他の人間どもとは交わらずともよい。この世界の誰とも違うし、どこにも属さない唯一無二の存在であると、自負するようになっていった。

 ライラは孤独だった。それを嘆くどころか、むしろ誇りに思っていたくらいだ。

「俺はお前が好きだ」

 蜥はでろんと長い首を伸ばすと、地面に座るライラの膝の腕に顎を乗せてもごもご嘴唇を擦り合わせる。ゆったり揺れる尻尾の先を見つめながら、ライラは温かな気持ちで彼の風角の付け根を撫でた。

「そこな、実は、急所なんだ」

 ふと、蜥が薄く目を開いて言った。

「嫌だった? ごめんなさい」

「いいよ。お前なら許す。でも、あんまり強い衝撃を与えないでくれよ。この角は受容器、言うなれば世界と俺とを繋いでいる臍の緒なんだから」

「臍の緒って言うからには、お前たちは仔を孕むの? てっきりトカゲに似ているから、卵を産むのだと思っていたわ」

「それは秘密。それに、俺の角はすっごく特殊なんだ。お前とこうしてお喋りできるのも、俺が他の蜥より賢いのも、角が特別だからだ。すごいだろ?」

 ええ、とライラは肯いた。蜥の言葉は「音」ではないことくらい、もう知っていた。毎夜楽しみにしている物語も、文字や言語でさえなかった。印象というべきか、一度意識が落ちた後、目覚めると、ライラの知り得ないはずの情報が頭の中に入っているのだ。

「好きだ。大好きだ」

 蜥はしきりにライラの腹部に角を擦りつける。

「ちょっと……やめて、痛いわ」

「好きだ。ずっと一緒にいたい。俺は、人間になりたい」

「馬鹿なことを」

「俺もお前も二本足だ。できないことないよ」

 ぼん、とライラは顔を真っ赤にして、慌てて蜥の頭を膝から退かして立ち上がった。

「できっこないわ」

「できないことないってば。俺、必ず人間に生まれ直すよ」

「生まれ変わって再び出会うまで、待っていられたら考えましょう」

「待つことない」

 蜥は青い目玉をぎょろりと瞬いた。

「だって、俺はもうお前の中にいる」

 この時、ライラは蜥の言葉を「心の中にいる」という意味にしか受け取らなかった。

 それから幾日か過ぎた、ある昼下がり。ライラは荒野の景色には似つかわしくない、黄金に輝くド派手な馬車を見かけて、蜥の手綱を引いた。

「煌翼宮の馬車ね。またソルディアに物見遊山にぞろぞろと……。傍迷惑にもほどがあるわ」

 ライラは賢い蜥からの入れ知恵のおかげで、年齢と立場に不相応なほど、随分と世の中に詳しくなっていた。ベルテ河西南部を治めているのがクライツベリ伯爵という寵臣であることも、皇帝が頻繁に伯爵の居城を訪ねることも知っていたし、何より、「彼ら」が人間の争い合う習性を利用して自らの領域を広げて伝播しようとしていることを知っていた。

金鳳アクィーナの手口が、どうにも俺は好かないね」

 蜥は憮然と鼻息を吹き出して言う。

「俺たちは割と簡単に恋に落ちるけれど、特定の人間にほれ込むだけならまだしも、王族という機構の構築にまで関わるのは、どうかと思う」

「あら。私たち人間だって、下位の生き物の習性を利用するわ」

 ふと、蜥が青い目玉をこちらに向けた。

「お前、最近ちょっと生意気」

「まあ、失礼しちゃうわ。色々教え込んだのは誰かしら?」

「あんまり賢くなりすぎないほうがいい。俺みたいに、ひとりぼっちになるぞ」

 ライラはきょとんと目を瞬き、蜥の角の裏側を見下ろす。蜥はいやに人間臭い仕草で、短い前脚で顎の裏の鱗を掻きながら言った。

「蒙昧なただの蜥だった頃が懐かしいぜ。寝て起きて草むら掻き分けてピコを探して、そんだけ。実にぐーたらで単純で、充実した生活だった。お前はどうだ?」

「私は、今の方がいい」

 ライラは空を見上げて、ほう、と溜息をついた。

「私の居場所はどこにもなかったもの。誰も私を仲間だとは思ってくれなかった。家族でさえ、白い髪で生まれてきた私のことを、心の底では不気味に思っていたのね」

「仕方ない。蜥も人間も群れる生き物だ。ちょっとでも色や形が違うと異物と見做され、排除される。俺も群にいた頃は、ずいぶん噛みつかれて、嫌な思いをしたよ。でも、お前を見つけて世界が変わった。俺と同じ色をしているから、とても嬉しかったよ」

 空は青く、広く、高く、まだ十七のライラの目には、流れていく雲はきらきらと、とても輝いて見えた。掴みたいと思って手を伸ばし、しかし、こんな低いところからでは届かないのだと思い知る。

「私、もっと高みに昇りたいわ。世界のことを知れば知るほど、ただのススロのままで人生を終えてしまうのが惜しいと思うの」

「高み? それは、具体的には?」

 蜥は首を傾げ、ライラは丘の上から足元を転がって行く黄金の車輪を見下ろす。

「たとえば、こんなふうに」

 王という機構を人間に与えたことで、大陸の覇権を取った金鳳の眷属が、ちょうど真下を通り過ぎていくところだった。

「私は知っているわ。でも、彼らは知らない。その差はとても大きいわ」

 人々は皇帝と呼ばれる存在を崇め奉っているが、ライラはそれが形骸であることをすでに知っていた。金鳳は「王」という苗木を人間に与えて、形なき栄光と、欲望の土壌に深く根を張り、立派に育った大木に巣を構えた。

「足をもたない金鳳はようやく安らげる巣を見つけたのだわ。でも、私は、失策だと思う。羽ばたくことをやめたら、あとは膨れて腐り落ちるだけだもの。王の樹はやがて倒れるわ」

 その時、ライラは自分が抱いたものが野望などという卑小なものだとは思っていなかった。この志は人間を次の段階へと導く智慧の光だと思っていたくらいだ。

 だから、悪いことだなんて欠片も思わなかった。

「教えて。お前たちは何を養分に大きくなるの?」

「うーん……『差』、かな」

 蜥はどうでもよさそうに、岩に背中を擦りつけて劣化した鱗をこそぎ落としながら言う。

「高い、低い。多い、少ない。増える、減る。栄える、滅びる。生きる、死ぬ。あらゆる事象の変化の過程に生じる『差』によって、俺たちはより具体的に世界に投影される。どんな生き物も、差ができたら本能的にそれを埋めようとする。当たり前だ。一瞬たりとも止まらない環境の変化に対して、俺たちはいつだって適応していかなきゃならん。変わる世界と自分との差を埋めようとする潜在能力、お前たちふうに言いかえるなら、生存本能というやつだ。生きようとする願いで俺たちは領域を広げ、世界への影響力を増す。短絡的に言っちまえば、宿主が生き残ろうとするほど俺たちもまた、強くなる」

「なら、戦争って便利なのね」

 ライラは興奮気味に白い蜥に両手を伸ばして抱き寄せる。

「お前たちは戦争によって生じる上下関係と優劣の格差を、自分の領域として吸収していたのね。広範囲かつ大量で、効率的。巧い手だわ。人間に、物事を同質と異質に分類してまとまりをつくりたがる習性があるかぎり、闘争を止めるなんてことはまずないもの。集団が争うことで、お前たちの世界への影響力が増していくのだわ」

「……必要以上に、吸収しているような気もする」

「金鳳は人間の群れて争う習性を利用して格差を拡張して領域を広げたわ。一角はどんな方法で成長するの? 私が手伝うわ」

 きゅる、と蜥は喉を鳴らしてしきりに瞬きを繰り返す。

「俺の願いを知るのは、お前だよ」

「その言い方では、わからないわ」

「俺はただの受容器うつわだ。独自の思考をしない。お前と一緒にいたいだけ。お前の願いが、俺の願い」

 そう、と、ライラは再び眼下を見やる。金の馬車はとうに行き過ぎ、轍を残すだけだった。

「私の願いは……」

 大陸の覇権を握った老獪なる金鳳の領域を、人間側の機構に則り奪い取ることは可能か。

「簡単なことよ。一角の眷属が皇帝になればよいのだわ」

 ライラは言い、蜥は首を傾げた。

「だって、そうやって闘争させて差を助長することで領域を拡張したのでしょう? この、王と戦争という機構は、人間の習性に適していてとても便利で効率的だけれど、人間側に依存しすぎているから完全ではないわ。人間が意図的にその構造の欠陥を逆手にとって、簒奪する可能性だってあるのよ」

 ライラは蜥が喜んでくれると思ったのだ。ところが。

「お前は本質を見誤っている」

 蜥は理性に統制された、流氷の色の目で言った。

「その発想、果たしてお前自身に由来するものだと言い切れるか?」

 もちろん、とライラは肯いた。

「お前は私に知識を与えたわ。でも、知り得た情報を統合して新たな段階へと昇華させたのは、私自身よ」

「だといいんだけどな。俺にはわからん」

「私にはわかるの。自分の運命が。だから、私は煌翼宮に行くわ」

「俺は行かない。俺は蜥だから。どんなに望んだって、今の俺は人間じゃない」

「そう。じゃあ、ここでお別れね」

 もはや、ライラにとって白い蜥は運命ではなかった。自分自身の中にこそ、世界を変えるほどの強力な運命が宿っているのだと、直感的に覚っていた。

「俺は一緒にいたい。ずっと、一緒にいるからさ」

 蜥は最後にライラの肩を嘴唇に挟んで情愛を示したが、去りゆくライラを追うこともなく、来たときと同じように、とても静かに荒野の夜の彼方に姿を晦ましたのだった。

 再び一人になったライラだが、以前のような淋しさを覚えることはなかった。蜥から与えられた知識のおかげか、いつでも何か大きな力に護られているような、見えない導きの手によって繋がっている感覚に包まれていた。

 やがてライラは、興行中の軽業師の一団と邂逅する。

 団長から道化に至るまで、皆、銀髪青眼であったから、ライラはすぐに彼らが一角の眷属だとわかった。

 人語を解す白い蜥のことを話したら、団長と呼ばれた壮年の顔色が変わった。

 彼らはライラを、自分たちの拠点へと連れて行った。荒野のど真ん中、おそらく、一度も出航することなく棄てられた巨大な廃船を居城とし、自らをユニコニス家と名乗っていた。

――我々は、血肉ではなく魂によって結ばれた縁者だ。歓迎する、妹よ。

 白皙の額。青灰色の髪と涼やかな青色の瞳の、美しい青年であった。女性かもしれない。迷うほど曖昧な顔立ちと、神話じみた静謐な雰囲気に、ライラは束の間見惚れる。

――おれは綺麗だろう?

 苦笑とともに問われて、ライラは我に返る。貫録敗けしてはならぬと、内心、滝の用に冷や汗をかきながら対峙する。青年は自らの顔を撫でて、にっこり、笑みを深くした。

――ユニコニスの一族には各々役割がある。目や耳で身体の外側の情報を集め、心臓が血を巡らせ、口は嘘を騙って獲物を捕食する。

 そして、彼は魂を吸われそうなほど流麗なお辞儀をしてみせた。

――当代当主という役は、意志を伝える口だ。より多くの人間を感化するには、注目を集める美しい外面が有利になる。だから、おれは美しい形をしているのだろうね。

 自分自身を部品のように語り、当主はライラの手を取り、麗しく口付をする。

――我々は眷属でありながら君のように『大いなる意志』を感受できない。君だけが神域に繋がることができた理由が知りたい。

 白い蜥の角の秘密を、ライラはあっさり、暴露した。

 ライラは迷わなかった。何故なら、ライラが直感した使命とは、今現在の覇者である金鳳の領域を奪い、一角の領域を広げることだった。世界の仕組を知り得たライラには、自分自身の感情など些末なことであった。そして、目的を達成するためには、力が必要だった。財力や武力といった、具体的に他者を支配できる卑俗な権力が。

――ユニコニス家は協力を惜しまない。しかし、一つ条件が。

 当主は凍れる目をして微笑んだ。

――その白い蜥をおびき出してほしい。我々は、その角を回収しなければならない。おそらくそれこそ、我が眷属が何代にも渡って探し求めた神域への鍵だ。

 秘蹟という、と、当主はライラにかたった。この世界の全ての情報、遥か過去の開闢から、けして知り得ぬ未来さえも収蔵された、記録媒体。

 そんなものが荒野の生き物の身に宿っているとは、誰が予想しただろう。

 ライラは当主から鉄装甲の騎兵隊を借りて、荒野に白い影を探した。しかし、一向に蜥は見つからず、悪戯に日々が過ぎていった。

 ライラは焦っていた。ユニコニス家の支援がなければ、ライラはただのススロの娘にすぎない。とてもじゃないが、煌翼宮に近付くことさえできないのだ。

 苛立ち、一人、爪を噛んだ時。

 きゅるる、と懐かしい音を聞いた。

 清らかな星色に鱗を輝かせて、白い蜥がいつからかライラの背後に佇んでいた。

「ああ、よかった! お前に会いたかったの!」

 俺もだよ、と言ってくれると思っていたけれど、蜥は無言で首を垂れただけだった。心なしか、かなしげな角度であった。

 静かな、静かな、青い瞳。しんと凪いだまま動かない。

「どうして何もしゃべってくれないの?」

 ライラは両手を差し伸べたが、蜥は以前のように擦り寄ってくることはなく、だからといって蒙昧な獣のように逃げ出すこともなく、跪くようにしてその場に屈んだ。

 運命を知る者の態度だ、とライラは直感した。

「そう……お前は、本当に私のことが好きなのね」

 身を捧げるほどに。

 ライラの合図で細い鋼鉄の輪が投げられた。伏していた鉄の騎士たちである。細く研ぎ澄まされた輪は、見事なまでに蜥の首の鱗の隙間に引っかかり、そのまま肉と骨を断ち切った。

 断末魔さえなく、とても静かに。

 吹き出す血の色に、ライラはそれが生き物であったのだと、改めて知る。もしかしたら中身のない張りぼてなのではないかと、疑っていたのだ。

 ずるり、頭が頸部から滑る。

生命を失い、毒沼の色に曇っていく蜥の瞳を、ライラは瞬きもせず見据えていた。

もしかしたら首だけになって襲ってくるかもしれないと思ったのだが、そんなこともなく、普通に生き物らしく、蜥の躰は横に倒れて、末期の痙攣の後に息絶えた。

頭部はユニコニス家の鉄の騎兵によって回収されてしまったので、その行く末を、ライラは知らない。ただ、亡骸だけは、ススロとして火で送らせてくれと頼んだ。

赤々と揺れる火影に、一瞬、揺れる尻尾の幻影を見る。

ずっと一人で淋しくないの、と問われ、ライラは答えられなかった。

愛はいらない。使命があるから。もはや淋しささえライラには必要なかった。

そうして、ライラと名付けられた仲間外れの少女は、聖皇国皇帝の三番目の妃として煌翼宮に迎えられた。その胸に世界の簒奪という途方もない毒を抱いて。

 その頃からだ。

 好きだ、と誰かが常に囁くようになったのは。

 好きだ、好きだ、一緒にいよう。一緒にいるよ。

 聲は絶え間なく。愛には底はなく、空にも果てがないように。

 ライラの白い蜥は死んでしまったが、角はまだ機能を失ってはいなかった。むしろ制御を失って、好きだという気持ちだけが暴走して、形のない聲としてライラの精神を蝕んだ。

 好き、好き、すき、すき、スキスキスキキキキギギギギギギギギギ……

 呪われる理由があるから、ライラは黙って自らの魂が毀れていく音を聞いていた。

 やがて、ライラは衣装の腰がきつくなったことで、自分が懐胎したことを知った。誰よりも早く皇帝の第一子、それも王子を懐妊したことで、ライラは自らの目論みが次第に現実になりつつあることに喜んだ。

 あまりに早すぎる懐胎に、本当に皇帝の子かどうか、と、意地悪な噂が流れたが、ライラにとっては理を知らない愚かな小鳥の囀りにしか聞こえなかった。ライラはただ子を成せばよい他の雌どもと本質からして違うのだ。自分が孕んだのは運命であり、次の世界の覇者となる存在である。

 ライラにとっては真実でも、わけを知らない浅はかな者にとっては、それは傲りに映ったらしい。魔性じみているほどに見目麗しい三ノ宮は、ますます孤独になっていった。

 下位の妃に先を越されたことで嫉妬に狂ったか、幾度か、ライラは危うい目に遭った。その度に、当主が送り込んだユニコニス家の者の手によって庇護され、胎の子の命は、およそ現在の医学では到達しえない技術と知識によってあらゆる悪意から守られた。

 すべては秘蹟の恩恵であり、同時に、秘蹟のための犠牲であった。

 そうして、渦巻く怨嗟の坩堝の底で、ライラは母になった。

 ところが、生まれた赤子は産声を上げず、産婆の表情が険しくなるのを、出産の衝撃で疲弊しきったライラは、朧げに見つめて遠巻きに思った。

――こんなものかしら。

 生命を宿し、その命があっけなくこの世界に定着することなく、なかったことになっていく。もっと、身悶えて嘆き悲しむものかと思っていた。

――使命があるから、私には母親の情は必要ないということなのかしら。

 皇帝には、死産と報告された。産婆には権威はなくて、報告書と医師の署名は金で買える。ここがそういう場所である限り、次の機会を得るより方法はないのだ。

 淋しささえ忘れた女は、ただ首を傾げるばかりだった。

 と、その時、産婆がやおら産声を上げない赤子の両足を掴んで持ち上げると、逆さにして振ったのだから、ライラは仰天した。

 なんと乱暴なことを、と思ったが、非難する資格など自分にはないと思い、黙って見守っていた。

 諦めなさんな、と産婆は目を吊り上げて怒鳴った。誰もがライラを毒物扱いする煌翼宮で、ライラは初めて、人間らしい言葉を聞き取った。

 あんたは生きるんだよ、と彼女は叫んで、赤子という割にはやけに白っぽい、死体のような色をした生き物を抱きかかえ、背中を叩く。

 生きるんだよ、この世界を、しっかり生きるんだよ。

 彼女は言い、ライラは息を殺してそれを見守った。

 今ごろになって、怖くなった。

 どうしようもなく、恐ろしくなった。

 びくんと背筋が震えて、思考も五感も、ライラの意識の全てがその子に引き寄せられる。使命も何もかも振り切って、奔流のような愛情がその赤子に向かっていくのを、ライラは止められなかった。

 失いたくなくて、生きてほしいと、今、心の底からそう願う。

 ひ、と小さく引き攣れるような音がした直後、突然、それまで静かだった赤子がぎゃんぎゃん鳴き始めて、ライラは、きょとんと目を瞬いた。

 そして溢れる、涙。

――守らなければ。この命を、何としても定着させなくては。

ライラはそれを愛とは認識できなかった。その頃にはすでに、運命への執着という理解の仕方しかできなくなっていた。

「お前なの?」

 ある日、星色の髪と青い瞳を持って生まれた自分の息子に、ライラは問うた。

 答えはなかった。

 出産を機に、ライラの精神はますます崩れていった。母親としての本能と、秘蹟の聲の両方からひっぱれ、すっかり伸びきって裂けてしまった。そしてとうとう、見かねた当主が皇帝に願い出て、三ノ宮には実家に下がるよう命令が下った。表向きにはそうだった。

 秘蹟の聲を聴くライラには、未だ活動を続ける角が本体を求めているのだとわかった。

 好きだと言う。人間になりたいとも言っていた。

 ライラの中にいる。ずっと一緒にいる。

 ユニコニスの眷属が皇帝になることで、世界の覇権を奪うためにライラは煌翼宮にきた。

 だけど守らなければならない。自分の子どもに生きてほしい。

 矛盾していない、はず。秘蹟の力はライラの子を皇帝にすることができる。だけど秘蹟の力はライラの子を人でないモノにしてしまう。

 初めて、ライラは幸福について考えた。

 賢い蜥は言っていた。果たしてそれはお前の意志か、と。ライラは自分の知恵を使って煌翼宮に昇り詰めたつもりでいた。しかしその実、秘蹟の傀儡に過ぎなかったのではないかという疑念が過る。

 優しい蜥は、こうも言っていた。蒙昧な獣であった頃が一番充実していた、と。

 日々、食う、寝る、遊ぶ。ただただ、生きる。それが面白おかしい生き方だったと、獣にも人にもなれない逸れ者は知っていたのだ。

 ライラにはもはやわからない。すでにライラは秘蹟に操作される端末であるから、自ら答えを導くことはできない。自分で考えたはずの答えは全て、秘蹟によって予め誘導された経路だった。

 ならばせめて、自分で自分の運命を選ぶ機会だけでも与えたい。

 人間として。

 多分、それがライラの母親の本能の限界だった。どんなに抗っても秘蹟の情報量をライラ個人が凌駕することはできないのなら、ライラが最後に縋るのは思考でも知識でもなく、母性のみ。守りたい、生きてほしいという、単純極まる祈りだった。

 そこで、ライラは賭けをした。

 息子の命を救った産婆に、未来を託して荒野に放った。

 当主は一人で戻ったライラを責めることはなかった。よくあることだ、と微笑み、ライラと同じ銀髪青眼の少女たちを見渡して言う。

――さて、次はどの子が運命を宿すのか。

 それでライラは、運命に愛されたのは自分だけではなかったのだと思い知ったのだ。

 ライラを愛したのは白い蜥だけ。

 恋は呪いとなってライラを責め続けた。ライラの宿したユニコニスの使命は失われ、残ったのは我が子への執着のみ。ライラの精神はついに均衡を崩し、憐れな女は狂人として煌翼宮の片隅に幽閉された。

愛したのだ。ただ、それが愛だと誰も教えてくれなかっただけ。

 だからライラは夢を選んだ。遠く見果てぬ夢に叶わぬ恋をして、そして、砕けた。

 ライラは砕けた夢の残骸を繕いながら時を過ごした。かつて知り得て、自ら放った運命を忘れないように、ライラはそれを肖像として描き続けた。

 やがて、運命が扉を蹴破りやってくるまで、ライラは静かにひとり、狂い続けた。

 白い蜥の魂を宿して、肖像画はより鮮やかに、より現実的に。

 ライラはその瞬間が近づいていることに、気付いていた。

 そして、よく晴れた昼下がり。子どもは歌い、家畜は穏やか。

――どうです? やっと、夢と現実が入れ替わりましたよ。俺は、生きています。

 動き出す。愛の帰還を、どれほど待ちわびたことか。

 俺は生きています、と彼は言った。

――俺は生きているんです。どうか現実を、俺を見てください。貴女が今日まで愛し続けた幻想は、ようやく、自分の足で歩き出しましたよ。

 額縁を――秘蹟の円環を飛び出して、その命は現実の景色を生きている。それがわかって、ライラはようやく解放された。

 やがて北の空に旗が上がる。翼持つ狼の象形は、ユニコニスの秘蹟にはない。

 ライラの知らない物語が、始まろうとしていた。

   ■

 夕景、空の色が目に染みるほど鮮やかだ。

そのあかに、セナは思わず蜥の手綱を引いて止まってしまった。

 綺麗な色だと、素直にそう思う。光は目から、肌から、そして奥底に仕舞った心にまで染み込んで、閑散とした景色に凍えそうになっていたセナを芯から温めてくれた。

 その熱を、人は愛と呼ぶのだ。

 晩秋、終戦直後のことである。

セナはアルデナ平野のさらに北、ルブロと聖皇国との国境にあたる高原地方ガウカリアにきていた。シエド王城から放逐されて以来、これ幸いと、しばらくあっちこっちのススロの熾に間借りさせてもらって、勝手気ままに放埓の日々を楽しんできた。が、蜥を得てからは行動半径が飛躍的に広がって、とうとう、好奇心の爪先は、禁断の地として敬遠されてきたユニコニス家の領地にまで踏み込んだのだった。

セナはただ、どんな人々が住んでいて、どういう暮らしを営み、どんなものを食べているのか、それを知りたいだけだった。見識を広げるとも、単なる食い意地とも言う。食い癖の悪い犬みたいだとシズマにはからかわれたが、食文化とは、食材を含めてその土地の風土と成り立ちがわかる歴史の抽出物だと言い返しておいた。

もっとも、生産性の高さと栄養価から、ニノイモに勝る食材にはこの荒野にはないという、自画自賛的結論を覆すつもりはないのだが。

――しかし、何もないな。

 ユニコニス家と言えば、ルブロのツォールデン家、聖皇国のイセラアクィナ家と並んで古い血統で、あちこちの王室に縁がある旧家だが、大昔に一度だけルブロと聖皇国との交戦地になったことがあるきりで、侵攻はしたこともされたこともなく、そもそも戦争に参加しない、それでいてどの国の敵にも味方にもならない、とても不思議な一族だった。

 中庸と言えば聞こえがいいかもしれないが、戦役を率いたセナに言わせれば、ユニコニス家のやり方は極端に非常識で、今の世の中の仕組みから逸脱した生存方法だった。

 戦争なくして国が生きながらえることはない、というのが、セナの持論であった。

世の中、均一ではない。強者があれば弱者がある。持つ者と持たざる者があり、奪う者と奪われる者がある。格差は必ず存在する。そして、その優劣は固定されない。イスガルが決起したように、必ず変動するものだ。

 だから、争わずに生存し続けるというやり方は異常だし、それ故、セナは興味があった。幾多の戦争の果てに楽園が実在するとしたら、それはどういう世界なのか。どんな理想郷かと期待半分、劣等感半分で訪れてみた次第である。

 が、しかし、見渡す限りの砂礫と岩石。荒野の閑散とした光景が広がるばかりで、何もない。街どころか人家もなく、人の暮らしている気配が全く感じられなかった。

 どういうことだろうか、とセナは首を傾げる。人民なくして領地は成り立たない。誰が畑を耕して、経済を回しているのだろう。それとも、領民全員、隠者のような生活をしているのだろうか。この様子ではそれも十分ありえる、とセナが一人肯いた時だった。

 ごう、と風が渦巻いて、セナの緋い蜥は「ぴゃ」と鳴いて顔を上げた。変な蜥なのだ。時々、「ぴゃ」と人の声のような、他の蜥からは発せられない声で鳴くことがある。

 セナは蜥の視線の先を追って、ぎょっと息を詰めた。

 緋い夕陽の中、極光色の光の柱が上がっていた。荒野の一画で何かが燃えているらしい

 綺麗というより、恐ろしい。呪われそうな気もするが、仮に呪われたとして、今更だった。

 セナは蜥に飛び乗り鼻先を向ける。蜥は渋ったが、セナが頑として譲らずにいると、やがて地面を蹴って走り出した。

 間もなく、セナは光源の見えるところまで接近し、小高い丘の上から光の元を覗き込んで、目を丸くした。

 巨大な船が燃えていた。

 一体、どんな経緯でそこにあるのか空想が尽きないが、おそらく一度も出航することなく風に腐ろうしていた廃船である。よく見れば、燃えているのではなく、極光色の霧となって蒸発している最中のようだった。

 禍々しくも幻想的な光景に見入っていると、陽炎の中に動くものを見つけた。

 わらわらと動いているのが手足であり、幻炎に巻かれて次々消えていく影が人間だとわかって、セナは思わず飛び出しそうになる。我を忘れて駆けつけようとして立ち上がったところ、間抜けにも外套の裾が隣に屈んでいた蜥の下蹴爪に引っかかって、「ふぎゃ」と前につんのめった。

 その一拍の間が、セナの頭を冷やさせた。人体も蒸発するような勢いのある炎に、セナ一人が飛び込んで言ってどうなるものか。消火する術もないのだ。

 助けるのなら、生存者を助けるべきだ。己が元気に走り回れる状態を保つことで、誰かの生存率が上がる可能性がある。救うのならば、生き残る確率の高い者に、薬と食糧と時間を投資するべきだと判断したまで。

 廃船が燃えていたのはほんの数瞬のことであった。セナが次に眼下を覗き込んだ時は、跡形もなく消えていた。

誰一人、何一つ。

燃えかすさえ残っていない。その事実が、余計に普通の燃焼ではなかったことを裏付けていた。さらに、黒々と地面に拡がる影。

 しばらく観察しているうちに、セナは影の一端がふるりと震えたのを見た気がする。

 刹那、ぞっと項が粟立った。戦場において銃口がこちらを狙っていることに気付いた時と同じ緊張が背筋を駆け抜け、セナは咄嗟に蜥に飛び乗ると、慌ててその場を離れた。

 これ以上関わらない方が身のためだと判断し、セナは大人しくベルテ河の東へと蜥の鼻を向けた。

――私は何も見なかった。そういうことにしておこう。

 セナはそそくさと緋色の蜥を駆って河辺の港街に向かい、夕餉の買い物で賑わう通りを、ぷらぷら露店を覗きながら冷やかして歩いた。

川の魚はそのまま食べるには生臭くてちょっと苦手なのだが、燻製にして干した後、柑橘類と香草と一緒に油に一晩浸けておくと、実に美味い。瓶詰にして売っているのを一つ買って、叩き売りしていたニノイモの蒸かしを、さらに値引き交渉して紙袋二つ購入する。商人に値段を下げさせるのが面白いのだが、ちょっと買い込みすぎたと、俄かに後悔していた。まあ、魚の瓶詰をぶっかければ、バケツ一杯くらい食べられる自信はある。

喉が渇いていたので林檎を一つ買って、ちょうどそれで財布の小銭が底を尽きた。

宿泊代のことをすっかり失念していたセナは、しばし沈黙する。しかし、いくら考えてもないものはないわけで、早々、セナは安上がりの御馳走をたんまり抱えて、再び蜥を牽いて荒野に戻った。幸運にも満天の星空である。天候さえよければ、雪に穴を掘って夜を明かした砦兵時代を思えば、蜥が寝床になってくれるだけ、今の方が、生活水準が高いかもしれない。それに、誰もいない一人きりの夜というのが、セナは好きだった。

厳密には、二人きりの。

少し冷たい風を纏いながら荒野を駆けることを半刻、セナはふと、笛の音を聞いた気がして、蜥の手綱を引いて振り返った。

と、その時、蜥が勝手に走り出して、セナはびっくりして抱えた紙袋を落しそうになった。

こんなことは初めてで、セナはおろおろ、手綱を握りしめて困り果てる。やがて蜥は丘を二つ越えたところで、ぴたりと止まった。

「一体、何だって言うんだ?」

 セナは蜥の長い首を摩った。再び顔を上げた時。

 視界の端に、自然色ではない異質な色を捉える。振り向いたその先に、セナはルブロ軍の軍服を見つけた。青い顔をしたルブロ軍の敗残兵が、こちらを睨んでいた。

 岩陰から狙う長銃。しかし、セナは一瞥しただけだった。一瞬で判断できるほどのど素人。ルブロの騎兵の制服を着ているが、軍人でないのはすぐにわかった。気配の消し方はおろか、潜む技術も、銃の構え方もまるでなっていない。右腕に大事そうに包みを抱えて、左手を

長銃の引き金に触れた状態で柄を脇に抱えている。その恰好で撃ってみるといい、とセナは呆れた。照準以前に、そっちの肋骨が逝くことだろう。

 セナは蜥の上から、その無様を鼻で笑った。

「持ちなれないものを持つと怪我をするぞ」

 セナは向こうの長銃の撃鉄が寝たままなのを目で確認した上で、自分の腰の護身用の拳銃を抜くと、威嚇射撃を一発。それだけで、相手は怯んで銃を取り落としてしまった。銃声にさえ慣れていないらしい。

 蜥を降りて近づき、長銃を蹴っ飛ばして遠く放すと、セナは改めて拳銃を向ける。

 まだ子どもの骨格だった。女か男か、かなり微妙だ。ぎゅっと包みを胸に抱きしめて震えている。この有様を見るに、兵士ではなくて姫寄りの人種であることは確かだった。

 昔の自分もこうだったのかなぁ、とセナは自らを振り返る。セナにだって可憐で虚弱なお姫様時代があった……のかどうか、ちょっと自信がない。

「ボクを撃つの?」

 ルブロの兵隊の恰好をした少年は、やたらと炯々と青い目を光らせてセナを睨んだ。セナとしては、撃つつもりはない。毛を逆立てる猫さながら、相手は震える声で言った。

「お願いだから、撃たないで。ボクが今死ぬわけにはいかないんだ」

 セナは呆れて肩を竦める。それにしても、綺麗なイスガル語だった。

「命乞いにしたって、もう少し捻ったらどうだ?」

「じゃあ、こんなのどう?」

 冷や汗を滝のように浮かべて、根源的な死の恐怖に対して反応を示す本能とは裏腹に、その少年兵はにっこり、綺麗な形に微笑んだ。

「ボク、さっきの火災の生き残りなんだ」

 だからなんだ、とセナは思い、そして眉根を寄せた。何だか妙な言い方だ。

「せっかく生き延びたんだし、見逃してよ。ボクの家族はみんな焼け死んだんだよ。誰も助けてくれなかったからね。助けがあったら、一人くらいは生き残ったかも」

「まるで私が火災現場にいたかのような言い方だ」

「見ていたくせに。たくさん死んじゃったんだよ?」

「見殺しにしたと責めるか。賢いな。しかし、そうだとしたら貴様も同罪だ。私が見ていたことを知っているのなら、貴様も見ていたということだ」

「ボクは巻き込まれたんだ。遠征に出たルブロの軍隊が雪崩で壊滅した時、ボクは自分の隊と逸れてしまってユニコニス家に匿われていたんだ」

 セナは片頬で笑い、拳銃の先で少年の白い顎を掬った。

「嘘は壮大な方がばれにくい。自分が放火したと言ってのけるくらいの度胸があるといいな」

 黙りこくった少年の額を拳銃の先で小突いて、セナは凶弾のかわりに手を伸べる。

「ちょうど夕飯を買いすぎたんだ。これも何かの縁だろう」

 セナの言葉に、少年は存外、気丈に肯いて手を取った。

「そうだね。運命ってやつかもね」

 ケイト、と少年は名乗った。どうせ本名ではないのでセナは憶えなかった。

「ボク、本当はルブロのお姫様なんだよ。恋仲だった将校がイスガル軍との戦争に行ったきり、終戦になっても帰ってこないから、居てもたってもいられずに探しに来たんだ。雪崩で撤退したっていうのは本当なの? そうだとしたら彼は今頃雪の下?」

 へぇそう、とセナは右から左に聞き流して、夢中でイモと魚の油浸けを頬張る。爽やかな酸味と魚の旨味が、ニノイモの淡白な食感と相まって実に絶妙だ。

「何でのうのう生きているの? 戦争でたくさん人が死んだんだよ? ねえ、何とも思わないの? お姉さん、罪悪感とかないの? ボク、お姉さんの正体を知っているよ」

「うるさい」

 セナは林檎をケイトの口に突っ込んで黙らせる。

「そういう貴様はどうなんだ? どこの誰だかしらないけれど、見てきたわけでもないのに随分と詳しいじゃないか。私のことを責める割には、自分は何一つ行動していない。行動どころか判断もしていない。火事の件にしたってそうだ。私は自分で判断した結果、あの炎の中に飛び込んでいったところで死者が一人増えるだけだという結論に達した。貴様は私に責任を問うが、自らの責任については語らない。まずは己の義務を果たせ」

 セナは林檎を引き抜くと、ケイトの青い瞳を睨んだ。ひどく見覚えのある、毒沼の瞳だ。

「ボクは聞くだけだ」

「聞いた話は事実じゃない」

「事実は過去だもの。ボクは真実を知っている。それに、ボクは自分の義務をちゃんと果たそうとしている。義務というより、使命だね」

「で、貴様は何を聞いたんだ?」

「助けを呼ぶのが、聞こえたんだ」

 ケイトは、毒色の瞳で遠くを睨み、ぎゅっと、胸に抱えたままの荷物を抱きしめる。

「助けてって……ここから出してって、叫ぶのが、ずっと聞こえていたから。てっきりボクは、みんなにも同じ聲が聞こえていると思っていたのに、そうじゃなかった」

 荷物を抱えるケイトの手が、微かに震えているのを見つけてセナは黙る。

「まさか、こんなことになるなんて思わなかったんだ」

 青白い顔のまま、ケイトは無表情に呟いた。燃える廃船と、人民なき領地。生き残った少年が一人。ユニコニス家というのは、どうやらセナの理解の範疇を越えた存在らしい。

 わからないことは、わからないままに。どうせ知りようのないことだ。

「どんな事情にせよ、他人の口車に乗せられて、自分で考えることを疎かにするからだ」

 セナの言葉に、ケイトが目尻を吊り上げた。

「他人じゃないし、ボクらにとって自分で考えるってことは、とても難しいんだよ。お姉さんだって、本当に全部、自分の意志だったのかなんて言いきれないはずだよ」

 セナは平然、イモの蒸かしに魚の切り身を乗せて頬張る。

 じっくり噛んで、しっかり飲み込み、腹に収めた上で口を開いた。

「どうやら、貴様は私以上に私のことを知っているらしい」

 戦った。しかし、何故、と問われて、セナは未だに正解を導き出せない。強いて言うのなら、それが皆の夢だったからだ。セナはイスガルという国が見た夢にすぎない。

 では、皆とは何であったのか。

 自分とは、どこにあったのか。

 セナは薄く笑うと、指に残った油を舐めとる。

少なくとも、最初の一歩だけは自分の意志で踏み出した。それだけは揺るがない。

「信じることだな」

 セナは言い、ケイトは怪訝に眉間を歪めた。

「信じたものは偽物かもしれないじゃないか」

「本物だと思うものを、信じればいいだけのことだ。難しいことない」

「お姉さんは、何を信じたの?」

 セナはにたり、得意の魔性の笑みを浮かべた。

「愛を」

「……」

「馬鹿にして」

「だって、嘘っぽいんだもの」

「嘘にしてしまうか、それとも真実だと思い込むか。そんなのは自分次第だ」

「ボクは愛を信じない。だって必ず犠牲が出る。ボクは聞いたんだ。愛した女に騙されて狩られた馬鹿の話。ともに生きようとして、殺された。それから、子どもを愛そうとして失敗した母親の話。子どもの幸せな未来を望み、幸せが何だかわからなくなっていった。それに、ただただ人形として尽くし続けて、最後には意味を失くした道具のことも。使命をなくして、ただの女に成り下がった。お姉さんだって、最後には……」

「おっと。その先を言うと、私たちのこの偶発的な共存関係が崩壊する」

 言って、セナは、今度は蒸かしイモを突っ込んだ。

「信じることだ」

 セナは栗鼠みたいに頬を膨らませてもごもごしているケイトを見て笑って言った。

「それに、詳しくは訊かないが、貴様の話の限りでは、果たしてそれらは犠牲と言い切れるだろうかと思うぞ」

「犠牲だよ、全部。かなしいね」

「私には願いに聞こえる。彼らは自分自身の、内なる叫びを聞いていたのでは?」

 はっと、ケイトは顔を上げた。青い毒色の瞳が、星明りを宿して潤んでいた。セナはその瞳をじっと静かな気持ち見つめると、ケイトの膝の上に林檎を置いた。

「自分の心は、意外と遠い」

 セナはあの日の夕景を思い出して、そっと瞳を伏せた。夕陽で泣けると恋だという。なら、思い出すたびに心を温めてくれる情景は、きっと愛と呼ばれるものなのだろう。

「自分の願いは、愛する者に願われてようやくわかる。自分の幸福は自分の中にはないのかもしれないね」

「ボクは鏡の中の自分しか信じない。鏡像もまた、他人の一種だ。鏡が真実を映しているとは限らない。本物の自分の顔かなんて、わからない。だから、ボクの願いは現実の景色の中にはないんだ」

 ふふ、とセナは笑った。

「何で笑うの?」

「いや、誰しも一度は現実に対して絶望を抱くのだな、と。私は自分の手が血塗られたと知って、女の幸福に背を向けた。それでいながら、憧憬していた。今になって思うに、彼女は私が私のために創り出した傀儡だった。女を拒否することを、幸福から遠ざかる理由にして、鏡に映した自分を本体だと偽って生きてきたように思うよ。でもね、そういう私が、私は嫌いじゃない。二つに割れた像も、見つめ合う相手の瞳の奥では一つの姿をしているものだ。だから、一人より二人の方が安心して生きていかれる」

「お姉さんは優しいね」

 ケイトは林檎をしゃくりと齧った。

「好きになっちゃいそうだよ」

「おや、残念だ。あと一月早ければ、ぎりぎり候補に入っていたかもしれない」

「ねぇ、ちょっと。お姉さん、ぼくが誰だかわかって言っているでしょ?」

「さぁ? 少なくとも、貴様にルブロに帰るよう勧めたりはしないぞ。あちらでは軍部が反乱を起こして政権を乗っ取ったそうじゃないか。浪費家で嫌われ者の寵姫が無事だといいが」

「斬首が決まったよ。国民の罵声と喝采を一身に浴びて、頸椎を斧で叩き潰されるんだ」

「わざと失敗して苦しむように、刑吏に賄賂が渡されることだろうな」

「……ねぇ、面白い?」

「面白いと言えば面白いが、愉快かというとそうでもない。明日は我が身かな」

 ケイトは憮然としたまましゃりしゃり林檎を齧って、やがて残った芯を投げ捨てた。

「ぼく、かわいいでしょ?」

「自分で言うか」

「まあね。カワイイが仕事だから。あんまりかわいい顔だから落してしまうのはかわいそうだって、ぼくを掴まえた将校が連れて逃げたんだ。駆け落ちだよ。素敵でしょ?」

「身につまされるが、その将校の遺品を纏って貴様だけが岩陰に隠れていたのは、さて、一体どうしてだろうな」

「逃げる途中で彼が撃たれて、あの廃船に宿を求めた」

「そして火災に巻き込まれたと?」

「嘘だよ。本当はユニコニス家に用があった。だまくらかして連れ込んで、殺しちゃった。いい人だったよ。それに、イイ男だった。呆れた?」

「強かで結構」

「わかっていたけど、お姉さん、かなり人でなしだね」

「嫌いになったか? ならよかった。こちとらこれでも人妻なものでな。かわりと言ってはなんだが、優しくて面倒見のいい男を紹介してやろう。ちょっと齢がいっているけどな」

「独身で年上かぁ。あとは顔の好みかな」

「それに商人だから金持ちだ。大砂漠帯を往来する極東貿易路の商人だ。出戻るつもりがないなら、都合がよかろう」

「え、ちょっと、お姉さん本気?」

「生き残るつもりなんだろう?」

 セナは広げた夕飯を手早く片付けると、うたたねしている蜥を起こした。

「それなら、手を尽くそう。今死ぬのは、困るんだろう?」

 そうだけど、と、歯切れの悪くなったケイトを無理矢理に蜥の背に押し上げる。

「だって、お姉さんにとってぼくは敵になるかもしれないんだよ?」

 セナは鋭く溜息をついて、自称カワイイ少年を睨み上げた。

「ここは戦場じゃない。私はもう、将じゃない。後の禍根となるから生かしておけないのなら、その軍服を見つけた時点で撃っている。無責任に人助けができるから、平和は尊い」

「ひねくれてるなぁ」

「それに、そのほうが面白い」

 セナは笑う。

「貴様を生かしておくと、世界は滅亡するのか?」

 ケイトは一瞬、きょとんと目を瞬いて、そして実にカワイイ角度で荷物を抱きしめる。白い布で巻かれているせいか、骸の一部を納める死人箱チェストのようだとセナは思った。

「そうなるかもしれないよ?」

 にっこり微笑むケイトに対して、セナもまた、魔性の笑みで応じる。

「だったら、生きろ。そのほうが世界は面白い」

 セナは自らも蜥に乗り上げると、星の瞬きの下、風となって荒野を駆け出した。

 それはさながら、座標なき白地図にも似て……。

 単騎、駆けて行く。

 自らを由として。


 ここに色褪せた国旗が交差している。

 一つは黒地に銀の百合の意匠。それは夜を超えて見果てぬ夢の先へと導く。

 もう一つは群青に金翼の狼の意匠が描かれる。それは荒野に解き放たれた生命の鼓動。

 どちらの旗にも、旗手の精神が象られている。

 歴史の風に翻る旗は無数。有象無象の旗の、そのどれ一つとして白旗はない。連綿と今なお受け継がれる国旗もあれば、潰えて失われた国旗もある。

 すべての事象は、始まりと終わりを繰り返して流転してきた。

 挑め、変えろ。

 過去の円環の外側にこそ、私たちの未来はあるのだから。


もしアニメ作るなら、3巻の途中に5巻を入れて、4巻から8巻に接続して、「この戦いが終わったら結婚しよう!」ってベタなこと言って、シズマは皇帝に、セナは女王に。

#東の女王西の皇帝

セナの戴冠を夢見た読者の願いから派生してきた物語として、ちゃんと編纂したいですね。

でもこの状態では没ですからw 狼王記イースサーガも読んでね!

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