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クロユリ8  作者: 清水さゆる
4/6

いっそ

3、


 アオォ……ン

 遠吠えは遥か彼方から。

――また、この夢だ。

 セルヴィアナは思い、目を開けた。多分、現実の自分は寝台に横たわって眠っているはずだ。妙に感覚が明晰で、それでいて、肉体的な重みが全く自覚できない。視界も意識も、とてもはっきりしていて、記憶も定かだ。

 全景の荒野。夕景、雲は金色に耀き、風の螺旋を翔け下りていく感覚。

 列を成す三百台の馬車の派手な行列。丘に立つ少女の姿がやけにくっきりと景色から浮いて見えた。

 それが自分なのだと、セナにはわかる。だけど、自分自身に対して、セナはかつて一度もこんな情愛を覚えたことはなかった。

 素敵だな、と思ったのだ。岩間に一輪、花を見つけた時に似た気持ちが沸き起こる。

 もっと側で見つめていたい。もっと近くに感じたい。もっと、もっと、一緒にいたい。

 愛しい気持ちが溢れて、セナは涙を零した。

 だって一緒にはいられない。いつか悲しい別れが待つ。この恋は実らない。実らせてはいけない。そもそも、住む世界が違うのだ。花の命が人の命に比べて短いように、同じ時間を生きていくことはできないのだ。人の視界において一輪の花が過ぎゆく景色の一部分にすぎないのと同じで、愛しても、愛しても、どんなに愛しても、永遠ではない。

――だけど、好きなんだ。とっても好きなんだ。

 手を伸ばす。触れてはいけないとわかっていても、どうしても、欲しくなる。愛したのなら、愛されたい。愛し合えれば、どんなに素敵だろう。

――ごめんね。だけど好きなの。欲しいの。愛して欲しいの。

 人が花を手折るほどには、簡単なことなのだ。しかし、手折られた側にとってはたまったものじゃない。どんなに立派な花瓶に挿して、丹念に水を与え続けても、地に根を張って生きるものの半分を切り離してしまっては、それはもはや、独立した命ではなく別物だ。

 それでも求めた。ひとつになるのを、夢見ていた。

――好き。大好き。好きよ。愛している。愛している、愛している。

 欲しい、欲しい、愛して欲しい。そうすればもっともっと、愛せるのだ。永遠だって叶えられる。終わりない愛をあげる。全部あげる。名前も姿も魂さえも、全て捧げる。

――だから、お願い。こっちを向いて。私を見て。

 振り向きかけた、その刹那。

――だめ!!

 鋭く叫ぶ。同時に、セナは息を詰めて飛び起きた。

 アオォォ……ォォオン……

 セナは暗がりの中、瞬きもせずに息を潜め、耳を澄ます。

薪の弾ける音や、馬たちの騒ぐ音。巡回の兵士の足音や車輪の転がる音。

 それらの音とは本質的に異なる、深い、優しい音を、鼓膜の奥底が憶えている。

 セナはいてもたってもいられなくなり、個別に与えられた天幕の戸布を割って夜空を仰ぐ。

 真円の、銀の月。満月であった。

 まるい、優しい、大きな、大きな、けして人の手では触れられぬ神域が天に在る。

 涙が溢れる。切なくて、恋しくて、懐かしくて、胸を抑える。こんなに苦しいのに、セナにはその理由がわからない。

 いいや、思い出せないだけ。魂の深部に刻まれている。肌が「彼女」の温もりを憶えている。月夜に輝く清らかな白い肌。眩いほどの夕景色の綺麗な髪。新緑の瑞々しい色をした健全な瞳。しなやかな四肢も、明るい声も、全部、憶えている。

この魂が憶えている。何故なら彼女は、荒野そのもの。

古き、尊き、あまねく命の母なるもの。

「マナ……」

この地にまだ神のおわしました頃、ある狼が月に恋をしたという。狼は幾千もの夜と昼を越え、火と風を飲み、氷の大地を抜け、月をどこまでも、どこまでも追いかけて行ったけれど、月はとうとう狼を振り向いてはくれなかった。

「マナ、ごめん!」

月があまりに冷酷だったから、狼は月を食べてしまった。以来、月のない夜には緋月狼が恋しい月を探し求めて荒野に降りてきて、惚れた相手を食べてしまうという伝説。

幻狼、あるいは月蝕の魔狼。神狼と、崇められることもある。

緋月狼マーナガルムと、呼ばれている。

だから、マナ。単純明快。そしたら彼女は不満そうに頬を膨らませた。もっとかわいい名前がいいと言う。セナとマナでお揃いだと言ったら、輝くほどに喜んだ。

かわいいものや綺麗なものが大好きで、拾い食いの悪癖があって、その毛並に顔を埋めると、優しい日向の匂いがした。

思い出が押し寄せて、心を壊しそうだ。

「マナ!」

 走り出す。裸足のまま、立場も運命も、自分が何者であるかさえも忘れて、セナは駆けだした。思いのままに、愛のままに、求めるままに。

「マナ、マナ!!」

 何度、助けてもらったことだろう。

 何度、縋りついて愛情と許容をせがんだことだろう。

 何度でも、彼女はセナを抱きしめた。いつまでも、抱きしめてもらえると思っていた。

「マナああああぁぁッ!!」

 アオォォ……ン

 絶叫、被せて、狼の遠吠えが反響した。

「もう、セナの馬鹿」

 声。触れる指先。立ち止まった背中に感じる温もりに、セナはじわりと胸の奥に熱を覚える。それは愛しさを通り越して、鋭く重たい罪の意識となって、セナの心の脆い部分に突き刺さった。

「あ……ああっ!」

 言葉になるのに失敗した想いが、かわりに涙となって溢れ出る。溢れて、落ちてはまた溢れて、閉じて抑えて埋めて、それでも、何としても溢れて止まらない。

 溺れて、息ができなくなる。それを人は愛と呼ぶ。

 痛い。いたい。会いたい。イタイ。

 死ぬほど好きだ。大好きだ。

「マナ、マナ!」

「そんなに大声で呼ばれたら、返事したくなっちゃうよ」

 小指と小指が絡んで、緋色の髪が風に揺れて、背中合わせ。変わらぬ温もりに包まれて、セナは、どうしようもなく少女に戻ってしまった。

「マナぁ……」

 ぼろぼろ剥がれて落ちていく。王になると宣告した日から積み重ねてきた全てが、見る間に瓦解していった。

 夢か、愛か。

 愛を選ぼうとして振り向きかけた瞬間。

「だめだよ。絶対、振り向いちゃだめだからね」

 世界で一番優しい拒絶に、いよいよもって心が軋んで死ぬほどイタイ。

「マナ、マナ、マナ! 会いたい! いやだ、マナに会いたい!!」

「そんなに求められたら、辛くなっちゃうよ……」

「なら一緒にいればいい! どうして私に忘れさせようとしたんだ!」

 叶わぬ恋ならなかったことに、と、あの人は言っていた。利己的なようで、思いやりがあるようでもある。わからない。ただ、都合のいいことだとセナは思った。なぜなら生きていかなければならないから。自分も相手も、その先の現実を生きなければならない。

 でもそれは、お互い人間だからこそ。一度きりの人生、時間だけは平等だ。終わりのある命を生きているから、幸福に生きるために忘れるという決断ができるのだ。

 そんな勇気はない、とセナは泣いた。

 忘れてしまうことが幸せなことだと割り切れるほど、まだ大人じゃない。

「何故だ、マナ。私は間違ったのか?」

「間違ってない、そういうわけじゃないの。セナは正しいよ」

「それなら、どうして黙って消えようとしたんだ!」

「だって、セナは人間だもの」

「関係ない、私たちは親友だ。そうだろう?」

「だって、私は緋月狼だもの」

「じゃあ、私が人間をやめるから! だからお願いだ、一緒にいてくれ!」

「だめだよ。セナは人間。人の間で、人の時間を生きるの」

 ぐ、と涙を飲み込み、セナは天を見上げた。

――月蝕……。

 清らかな白い光が、半分以上、夜に食われている。

 黒い色は魔物の色。逃れられない運命の色。魔物はひとり取り残されて涙する。

「食べてもいいから! だから、お願い、私を一緒に連れていって。おいていかないで。もういやだ、もう絶対にいやだ。いやだ、ひとりはいやだ。マナと一緒じゃなきゃ、いやだ。マナのいない世界なんていやだ。それでも生きていかなきゃならないなんて、いやだ」

「そんなこと、言っちゃだめだよ」

「いやだ!!」

 セナは涙を散らして叫ぶ。

「マナがいなくなるなんて、絶対いやだ!!」

「大丈夫だから。私、見てきたよ。セナはちゃんと二本足で歩いてきたよ。でも、二足歩行は四足に比べて倒れやすいから、繋いだ手は、放しちゃだめだよ」

「だったら、側にいてくれ! マナ!」

「私の手はね、偽物なの」

「そんなことない、ちゃんと温かい」

「それはね、セナが温かいからだよ。私はセナの真似っこしているだけ。私はニセモノ。イキモノじゃない。命の円環の外側にいる者だから、本当はいちゃいけないんだよ。こんなふうに触れ合っちゃいけなかったのかも。泣いているセナを見て、今は、そう思っているの」

「そんなことない! マナはちゃんと私の隣に在ったじゃないか! 一緒に歩んできたじゃないか! 私たちの絆は本物だ! マナと過ごした日々はなくならない!」

「セナ……ありがとう。ごめんね」

「謝らないでくれ、頼むから!」

「私のせいだね」

「マナのおかげだ!」

 マナがいたから、セナは人間でいられた。英雄にもなれた。何より、愛を知り得た。

マナがいたから、東のクロユリと呼ばれるようになった自分の生き方を肯定できたのだ。全部、全部、マナが隣にいたからこそ。

「私が好きにならなければ、セナはきっと女の子でいられたね」

「そんな人生、望んでいない! マナがいたから! マナのことが好きだから、私は今日まで闘ってこられたんだ! マナのことを愛したから、私は、こんなに楽しく生きてきた!」

 月はいよいよ影とまぐわう。

「私も、楽しかったよ。それに、嬉しかった。セナのこと好きになって、本当に、嬉しかったの。好きになるって、素敵なことだね。でもね、人間は人間を好きにならなきゃいけないの。私を好きになっちゃ、いけないの」

「好きになることが、悪いはずがない」

「好きなるのと、呪うのって、似ているわ。どちらも相手の魂を毀してしまう。私はこれ以上、セナを毀したくない。ちゃんと人間として幸せになってほしいの」

「あげる、全部、マナにあげるから! 心も命も魂も、全部、マナのものにしていいから!」

「ごめんね、愛しているわ。だから、受け取れない。これから私がすることは、いけないことなの。セナとの約束を破ってしまうから、もう、一緒にはいられないの」

「いやだ、マナ!!」

「私は荒野に還る。セナも、人に還るんだよ。さよならは言わない。だって悲しい気持ちになるから。さよならのかわりに、愛をあげる。愛している、セナ」

ついに影が月を捉える。その全てを包み込んで、世界は一瞬、虚無になる。

「私はセナを愛している。だから、永遠に別れるよ。幸せだったの。だからセナにも、幸せになってほしいな」

 月が緋く輝きだす。

「セナのこと、大好きだよ!」

「マナ!」

 ついにセナは振り返った。

 刹那。

 彼女の指先から焔が上がる。緋い、緋い、夕景の光。

「マナ!!」

 愛しているから、ともに生きることは叶わない。

 荒野の女神は最後に笑って……

 笑って消える。この現実の、景色から。

アオォォォオオン!

 大地を震わすような大輪唱が一面、響き渡る。

一瞬、平衡感覚が狂わされてよろめく。

 額を穿つような、そんな重厚な遠吠えだった。

 緋い月から影が退いていく。一瞬のうちに恋心を攫って、夜が過ぎていって、視界は滲んで涙が落ちた瞬間。

「ルヴィア!」

 逼迫した声に、セナは弾かれたように顔を上げた。猛然と蜥が一騎駆けてくる。減速させることさえなく、降りて地に足つける間もあらばこそ、全身全霊、シズマが両手を伸ばして、勢いのままこちらに飛び込んだ。

 抱きしめられて荒野の地面を二人、絡まったまま転がる。

「ルヴィア、ルヴィア!」

 肋の軋むほど抱きすくめられ、セナは微かに呻いた。それでも、シズマは放さない。

「ルヴィア……俺はっ……」

 シズマは息を詰まらせ、喉を震わせていた。その青灰色の髪の先端がぷるぷる震えているのを見つけて、セナはそっと彼の後頭部を抑え込む。

「どうして、ここに?」

「こっちの台詞だ、ルヴィアの馬鹿野郎」

「私は野郎じゃない。苦しい、放してくれ」

 しかし、シズマはいよいよ絞め殺す勢いで腕に力を入れてくる。呻くような声を上げながら、シズマはしばらく無言で震えていた。が、やがてそっと腕の力を抜いて顔を上げる。生まれて初めて巣穴から出てきた仔狐よろしく、おっかなびっくり、空色の瞳でこちらの様子を伺っていた。

「ルヴィアが、俺の腕の中にいる……」

 希望と絶望が凄まじい速度で入れ替わって揺れているシズマの瞳。その青の中に映る自分の姿を覗き込みながら、セナはそっと彼の白い額に唇を寄せた。

「追いかけてきておいて、何を今更」

 すると、やおらシズマが動いた。少し乱暴なくらいセナの身体を真下に組み敷き、唇を重ねる。息が上手くできなくて顔を背けても、まだ求める。縋りながら、追い詰めながら、幾度も繰り返す。その度に、セナの頬に温い雫が落ちてきた。

 やがて、シズマは落ち着きを取り戻して、顔を上げると、肩で息をしながら歯を食いしばっていた。

 こんな顔もするのか、と、セナは純粋に驚き、普段は飄々と薄く笑ってばかりいる頬に触れた。その手を握り込み、シズマは再び息を殺して瞳を揺らした。

「……追いかけても、追いかけても、届かないことだってあるんだ」

 必死に声を殺して、危うげな呼吸をしている。

「それはきっと、高望みしたからだ。地に足着いて、低いところを生きている限り、同じ目線の高さで、同じ景色を見るべきだ。違うか?」

「ああ、そうだな。その通りだ。普通が一番、幸せさね」

 シズマはどっと息を吐き出して、そのまま気絶するようにしてセナの上に倒れ込んだ。

「ルヴィアも、もうちょっと目線を下げるべきだ。例えば、俺とか」

「私は高望みなんてしたことないぞ」

「……本当に?」

「誓って」

「たとえば、叶わぬ恋をしたりしたことは?」

「ザルツァーだけだ。それが最初で最後の恋だった」

「本当に?」

「お前が二度目になる可能性がないのなら、な」

「本当に、それが現実か?」

「何を言っている?」

「いや……だとしたら、この世にルヴィアを愛せるのは俺だけだということになるから」

「お前は私を愛せるか?」

「お許しいただけるなら」

「許す」

「……本当に、許すのか? ルヴィアの心はあいつのものじゃないのか?」

「あいつとは、誰のことだ? ザルツァーか? それともジエンか?」

 ふと、シズマが深い色の瞳でこちらを見た。言いかけ、しかし、躊躇うように唇を引き結ぶ。シズマの中でどんな駆け引きがあったのかセナには計り知れなかったが、やがてシズマは決然とした眼差しを向けて訊ねた。

「いいのか? 緋月狼マーナガルムじゃなくて」

「それは何だ?」

「……いや、忘れてくれ。頼むから、忘れてくれよ」

「最初から知らないものを、忘れようもないじゃないか」

 シズマは、やけに慎重に瞬きを一つ。

「そう、だな。存在しない。いないんだ。俺たちは現実を生きるべきだ」

 二度目の瞬きは、確かめるように。

 そして三度目。

「ともに生きよう! 一緒に生きよう、ルヴィア!」

 見たこともない明るい晴天の色に輝きだしたシズマの瞳の中にある己もまた、初めてみる貌をして笑っていた。

 祝福されて、愛された女の貌が、彼の瞳の中に在る。

 愛している、と、セナがようやく口にしかけた時だった。

 闇の彼方、山麓のほうから地鳴りが聞こえた。夏とは言え、山にはまだ残雪が白く堆積したままだ。その意味するところは……。

「ああ、ちくしょうめ」

 セナは唸り、黒く笑う。

「一世一代の告白をじゃましやがって」

「あー……何か、俺たちらしいと言えば、らしいよな」

「おい、いつまで私を下敷きにしているつもりだ。重いぞ」

 セナはシズマを押し退けて立ち上がると、腰の手を当て憤然と鼻から溜息をついた。

「続きは仕事のあとだ」

 恐ろしげな音を遠く竜骨山脈に聞きながら、セナはこの戦役の最終的勝利を確信した。

 隣に立って同じ方角を見つめているシズマに、拳を突き出す。シズマは不遜な笑みを浮かべると、無言で拳を軽く突き合わす。

 セナは魔性と言われる笑みを浮かべた。

「勝ったな」

「おう、勝ったぞ」

 厚かましいほど不敵な笑みとともにシズマは応え、それから、ふと、真顔になる。何事かと身構えて言葉を待っていると、真剣な目をしてシズマが言った。

「あのさ、続きを期待しても?」

「呆れた」

 セナは口をへの字に結んだ。

「働き次第では、褒美を取らせる」

「粉骨砕身、閣下のために尽くす所存でございます」

 そしてシズマはとても晴れやかに、素直に笑って、セナの頬にそっと唇を寄せるのだった。

   ■

燈夕月十五日。

 ルブロ皇帝軍十万が行軍を開始。北領側より侵攻を試みる。対するイスガル・北領同盟軍は湖水地方北部に集結し、迎撃に備える。

 夏期、山越えが順調であったためかルブロ軍は予想より速く北領側の山麓に到達するが、不幸にも雪崩に遭遇し全軍の三割を損失。加えて、聖皇国皇帝危篤の急報を受け、ルブロ皇帝は南下を諦め、撤退を指示。

 奇しくも、月蝕の夜のことであった。


翌、澄天月八日未明。

 聖皇国皇帝崩御。

 ルブロの撤退により、イスガル攻囲のための出撃を見送った連合軍にとって、皇帝の崩御は致命的であった。ライセに集結していた第三次列強派遣軍は解散し、終戦。アルギーニの仲介で講和が成立、イスガル軍はベルテ河西岸部から引き揚げ、北領湖水地方の独立が容認される。また、セルヴィアナ・イズローの戴冠は保留となった。

   ■

 イスガル、シエド王城の地下牢にシズマはいた。

今度は投獄されたわけではなく、見舞いの立場なので、鉄格子の前で後ろに手を組みふんぞり返って、囚人を見下ろしていた。

独立の叶った北領では、凱旋した兵隊たちを労い、盛大な祝宴が開かれた。目抜き通りには花籠と国旗が提げられ、生ける宝石、氷星エレオノラ姫が輝くばかりに着飾り、凱旋した帰還兵たちを直々に労った。

当然、シズマはこの戦役をともに戦った盟友として、イスガルの新王も祝宴に招待したのだ。ところが、イスガル側から丁重かつ突拍子もない返事が返ってきた。

セルヴィアナ・イズローは禁錮中につき、代理としてマリエラ公妃とその婚約者、マリエンド伯サザリー・モルテイルが出席するという。

エレオノラが言うには、署名は確かにセルヴィアナの直筆であるらしい。そうでなければ、シズマは軍部の反乱を疑ったかもしれなかった。いや、こうして現実を目の当たりにした今でさえ、信じがたく思っている。

「なかなか刺激的な眺めだな」

 シズマは言葉とは裏腹に眉根を寄せた。セルヴィアナは格子の向こうで白の囚人服の裾を持ち上げ、深く頭を垂れている。男性の、踵を揃える起立正礼ではなく、腰を折るたおやかな女性のお辞儀である。こんな状況でも、シズマはその凛とした角度に束の間見惚れていた。

「……捕らわれのお姫様を救い出すのはやぶさかではないが、その前に、理由を知りたい」

 するとセルヴィアナは顔を上げ、いつもの冷然とした目をして答えた。

「戦役には勝利したと言えよう。しかし、私は戦闘によって多くの兵を失った。こと、レバントにおいては精鋭のほとんどを死なせてしまった。その責を問われるべきだ」

「軍部によって投獄されたというのなら、同盟国の総司令として異議を唱える」

「そこまで波乱万丈ではない。単純に、現状、イスガルには元帥に処罰を下せる王がいないので、元帥権限をもって、私は私を有罪にした」

 ぐう、と呻いてシズマは額を抑える。

「ルヴィアは上に馬鹿がつくほど真面目だ」

「仕方なかろう。軍規に従い、王の赦免があるまで謹慎する」

「王って、お前……あのな、王も囚人も同一人物だぞ。どうすんだ、この状況。ルヴィアが釈放されないと戴冠はできないし、戴冠しないとルヴィアはそこから出てこられない」

「困ったな」

 悪びれもせず彼女は言う。それでシズマも、ようやく彼女の思惑を理解するに至った。

「戴冠しないつもりか?」

「アルギーニはイスガルの女王戴冠に反対している。そして、世界中がイスガルへの支援を断った中で、唯一出資を申し出た国として、発言権がある。そのアルギーニに、ならぬと言われれば、イスガルは私を戴冠させるわけにはいかない」

 シズマは盛大に顔を顰めた。

「そういうの、下々では『言うだけ亭主』って呼ぶ」

「逆らったとして、もうイスガルにはこれ以上戦うことはできない。西岸部は失ったが、開戦前の領土は保障され、賠償金を得ることもできた」

 それから、セルヴィアナはふと遠い目をして微かに表情を和らげる。

「地に足着いて、雨風凌げる家と、暖炉と、食卓と、穏やかな家庭。そういう未来を望む。イスガルが次に向かうべき景色は、もう戦場じゃないんだ」

 こめかみを突きなら、シズマは唸る。

「それは、軍部の決定か?」

「私の独断だ。だが、軍上層部は私を戴冠させたがっている。そして聖皇国に再度挑み、奪い返されたソルディアを再びイスガルの領地にする野望を諦められずにいる。しかし、私は統帥星章を国に返上し、階級を全て剥奪されている。他でもない、敗けたら降格だと将官たちを脅したのは私だからな。私が敗けたら、私も降格処分だ」

「ルヴィアは、もう戦いたくないのか?」

「戦うかどうか決めるのは私だが、死ぬのは兵士だ。私は敗けた。それが現実だ。駆け抜けて、ついに膝を折ったことを認める。しかし、まだ生きている。イスガルはこの敗北から立ち上がり、過去の英霊たちの夢ではなくて、現実的な幸福を目指すべきだ」

「平和と富国、という解釈でいいか?」

「大人になるとは、諦めを知ることだ」

 それに、と、彼女は微笑む。その冴えた眼差しの隅っこに、涙が滲んでいた。

「夢は、夢のままに」

 シズマはじっとその色を見つめ、やがて小さく溜息をついた。

「俺としては、このままルヴィアを監禁してしまってもいいかなと思っている」

「悪くないな。私の戴冠を何としても遂行して残った軍勢で再戦を挑んで全滅するという最大の火種が、少なくとも一つ消える」

「まだあるぞ。敗北の責任を全部ルヴィアに被せて、罪深き悪の象徴として処刑してしまい、イスガルを乗っ取るという手も使える」

「弱ったイスガルに湖水地方が復讐するか。そうならないことを祈る」

「最後に一つだけ提案する」

 言って、シズマはイスガル軍部から、なんとしても連れ出してきてくれと、脅されたんだか、泣きつかれたんだか、とにかく強引に握らされた鍵束を取りだして彼女に見せた。

「結婚しよう」

「飛躍しているぞ」

「全部かっ飛ばして、それが俺の最初にして最終の決断だ。もう譲歩しねぇぞ」

 シズマは有無を言わさず鉄格子の鍵を開けると、中に腕を突っ込んでセルヴィアナを引きずり出した。

「何の解決にもならない」

 彼女は眉根を寄せて憮然とこちらを睨んだが、シズマは真っ赤な舌を出して応戦した。

「これが皆の望みの最大公約数だ」

「……お前の望みがもっとも含有率が高い結論だな」

「そうでもない。ともに生きるという未来がある。旧北領とイスガルの連合王国という可能性を、元帥閣下にご提案する」

「ルブロに対する防衛と、聖皇国からの完全なる分離が両立する、合理的提案だ。北領の首長がイスガル王を兼任することで、王位継承問題からアルギーニを弾き出せるな」

「前向きに検討していただきたい」

「生存のための具体的方策として、受諾する」

 呆れたような、でも、明らかに嬉しそうに彼女は溜息をついた。

「いつがいい?」

「すぐにでも。ここまできたなら俺は待てる。気が向いたらでも構わない。ただ、ルヴィアは素直じゃないから、きっと『はい、喜んで』とは言ってくれないだろうな、とは思っているし、そういうところがかわいい」

「では、待つといい。華燭の間で待て」

「逃げられたりして」

「それが嫌なら、今すぐ私を格子の中へ戻せ」

「別にいいぞ、逃げても。世界の果てまで追いかけて、必ず捕まえるから」

「そんな事言って、どうせお前、すでに包囲を固めているのだろう? きっと今頃、城の外には正装の兵隊が並び、賓客が詰めかけて、すでに退路を塞いでいるはずだ」

「二度も同じ理由で振られるほど、俺は間抜けじゃない。降伏を勧める」

「そこは、幸福を約束してほしかったな」

 セルヴィアナは笑う。

始めて見る表情に、シズマはとても素直に、「あ、かわいい」という極めて短絡的な感想を抱いた。つられて、シズマも笑う。人間の、一人の少女の貌で微笑む彼女に、シズマの幸福は全て集約されるのだ。

かくして、シズマは再び華燭の間でセルヴィアナを待つことになったのである。

随分と長く待たされたものだ。駆け抜けた日々が、今では全部夢のように思える。

夢かもしれない、と、不安に駆られた。月蝕の緋い色が脳裏を過る度に、本当はもうこの世界に彼女はいないのではないかと、脈絡もないことを考えて、焦る。シズマが焦燥を抱くのは、今なお自分だけが緋月狼の記憶を保持しているからだった。

 あんなに一緒だったのに。否、あんなに一つになろうとしたからこそ、緋月狼は非情なほどにセルヴィアナの前から忽然と姿を消した。その記憶からさえも消えることで、彼女を解放し、この現実の景色から削除された。

 その仕組について、ユニコニス家の姉妹たちは多くを語らない。なぜなら、シズマ自身はユニコニス家の者として承認されていないからだ、と彼女たちは言っていた。

 あれは、アルデナ平野の勝利後、ちょうどレバントの開戦の前夜のことであった。宿営地の天幕に、ふらりと「ルイーゼ」が現れた。エレオノラ姫の使いだという彼女の言葉を信じたエイラーンが、あっさり中に入れてしまったのを、シズマは咎めるわけにはいかなかった。事情を知らなければ、年端もゆかぬ人畜無害な少女である。おまけに可憐な美少女である。涙ぐまれて、どうしても、と縋りつかれれば、願いを叶えてやりたくもなるのだろう。実際、彼女らほど危険な密偵はいないと、シズマは悪い意味で一目置いていた。

――預言を差し上げますわ、お兄様。良い方と悪い方、どちらからがよろしくて?

 毒色の瞳で小首を傾げる少女に、シズマは「良い方から」と答えた。

――聖皇国皇帝の死期が近づいています。

 ライセの軍勢がイスガル軍の目前に迫っているという情報も入っている。シズマは考える余地もなく、イスガル軍の支援に向かうつもりであった。なので、ふうん、と聞き流すにとどめておいた。真に受けなかったわけではない。ルイーゼたちが嘘の情報を提供する理由はなく、エレオノラ曰く、ユニコニス家の者達は全てにおいて無私であり、各々、自らに付与された「使命」を果たすためだけに動いている「部品」にすぎないのだという。だから、彼女達の言葉に人格はなく、故に、信憑性が高いのだ。皮肉なことだと思う。

――興味がなさそうですね。聖皇国皇帝の座に返り咲く機会ではなくて?

 それを望んでいるのはユニコニス家であって、自分ではない。そもそも、何故、第三王子などという可能性の低そうな者に投資したのか謎である。生母の身分が低かったから、などいうお座なりな理由で納得するほど、今のシズマは無知ではない。おそらく、ユニコニス家とやらの情報力をもってすれば、もっと効率的に一族の者を皇帝に据えることができたはずである。迂遠かつ犠牲の多い方法を、敢えて選んだ理由が知りたかった。

――それは事故があったためです。本来なら、お兄様は記憶を継承するはずでした。その事故のせいで、ユニコニスの秘蹟は、危うく消滅しかけたのです。

 未来が記された記録媒体を持つというユニコニスの一族。シズマとしては半信半疑であったが、彼女達の言葉から察するに、その未来図から外れそうになると、軌道修正をかけているのだという。そうだとしたら、それは「未来」ではなくて、ただの虚言だ。

 第三王子が皇帝にならなくて残念だったな、と、シズマは片頬で笑った。ところが。

――お兄様は盛大な勘違いをなさっておいでです。お兄様の名は、聖皇国の皇帝として秘蹟に示されたわけではありませんよ。

 では、己は一体何者なのか。シズマは興味本位で訊いてしまった。訊くんじゃなかったと、今では後悔している。

――お兄様は極点です。歴史の分岐点とも呼ばれています。横から見れば同じところをぐるぐる回っているようでも、人類の歴史というのは、確実に終末に向かって進行しているのです。その幾重にも重なる輪の終点、あるいは、これから始まる輪の始点。その座標として、解読されたのです。皇帝にならずともよいのです。ただ、一つの時代を……煌翼の金鳳アクィナ・セレイラを終わらせることが使命なのです。

 ルイーゼはにっこり笑い、「では、悪い方も」と言った。

――セルヴィアナ・イズローという王の名は秘蹟にありません。イスガルという国名も残りません。もしかしたら、次の戦闘で彼女が喪われるのかも。

 青ざめ、シズマは振り返ったが、ルイーゼはただただ、微笑むばかり。

――記憶を継承していないお兄様には理解できないかもしれませんが、緋月狼はすでに円環の外の存在。これ以上の汚染は看過できません。次は我ら一角獣ユニコニスの時間です。

 シズマはルイーゼの言葉を咀嚼してみるが、そもそも食べ物だとさえ認識できないものを齧ってみても硬くて飲み込めない。あまりに大きく高すぎて、流れる雲のようだったと思った。霞は食べても栄養にはならない。要するに、掴めない。

 掴めないものに手を伸ばすより、今すぐ掴むべき手がある。

 話はわかった、とシズマは肯いた。わかっていないでしょう、とルイーゼはにっこり、笑みを深くする。

――理解せずともよいのです。秘蹟に忠実でさえあれば。

 そして、ルイーゼは完全無欠のお辞儀をしてみせたのだった。

 セルヴィアナを待ちながら、シズマはふと、その時のことを思い出していた。

 閉ざされている扉を見つめて過去を振り返る。以前、あの扉を蹴破る勢いで居丈高に開け放ち、彼女は緋色の髪の乙女を連れてやってきた。

 その瞬間、シズマは高揚と同時に敗北を覚ったのだ。彼女たちを引き裂くことはもうできないのだ、と。故に思う。果たして、これは正解か。

 ひょっとしたら自分は、誰かが大事に守ってきた可能性を壊してしまったのではないだろうか。そんな不安を覚えた時だった。

 ばん、と。

 天さえ破る勢いで乱扉が開かれる。

そして、人々を、常識を、世界を睥睨し、魔物の貌で彼女は笑う。

ここまでは記憶と同じ。

 過去ではない証に、セルヴィアナは一人だった。それに、軍服姿ではなかった。白百合を思わせる衣装に、宝石の蝶が胸元に羽を広げる。朝露に見立てた水晶と真珠が彼女の尖った肩に、華燭の明かりを受けて煌めいていた。

 楚々と微笑んでいればいいものを。

 彼女はにたり、口角を引き上げる。戦闘の気配を纏ったまま、粗暴に脚の見えるほど裾を手に巻き上げて闊歩する。

 何故だか裸足だった。

 天真爛漫を通り越して、奔放にして無双。それが王冠に続く道でなくても、彼女はいつだって王道を、我が道を征くのだと思い知る。自信過剰に突き進む。それでこそのセルヴィアナだと人は言う。彼女が流した涙の数は、どの史書にも記録されない。

――そうか。俺だけが、知り得るのか。

 そのかなしみも、よろこびも、過去から未来までの全てをシズマだけが理解できる。今更ながらに気付いた途端、骨の髄がびりりと痺れるほどの歓喜が駆け抜けた。

 不意に、セルヴィアナの身体が大きく前に泳いだ。男装が板につきすぎて、ドレスの裾の捌き方を忘れたらしい。さすがは残念公女、これ以上ない時と場所でやらかしてくれたものだ。踏んづけて躓いて、瞬間、シズマはその身体を抱き止める。

 ああ、やっと落ちてきた。そう思った。

 引っ張るほどに、追いかけるほどに、あんなに頑なに拒絶してきたというのに、今では確信犯的に笑っている。一週回っていっそ素直だ。真っ赤になって慌てふためいているのも、それはそれで面白かったというのに。

「わざとだな? 靴はどうした?」

「軍靴ばかり履いてきたもので、踵の高い靴が窮屈でな。我慢ならないほど痛くなってきたから、途中で脱ぎ捨てきた」

 悪びれもせず彼女は言う。

「あー、うん……もう、いいや」

 ぷっつん、シズマは思考を投げ出して、かわりに、今この腕にある現実を抱き上げる。夢のような現実である。けして取り落とさないようにしっかり両腕に抱えて、あらゆる形式と常識をすっ飛ばして、バルコニーに続く大窓を蹴り開けた。

 快晴。青い、果てない、澄み渡る空の青。

 批難と喝采、あるいは仰天と祝福のど真ん中、二つの未来が結ばれる。

 誓うのは、愛ではなくて未来。投げかけるのは花束ではなく、ともに生きる可能性。

 北部湖水地方とイスガルの融和、または、イズロー家の姫君とイセラアクィナの聖なる血統の元第三王子との結婚。ひっくるめて、イース連合王国と名乗ることに、二人で決めた。

「だけど、本当にいいのか?」

 シズマはセルヴィアナを隣に降ろすと、華々しくイスガル旗と天狼旗を振って歓声を上げる民衆へと愛想よく手を振りながらそっと訊いた。

 結局、イスガルの王冠は真紅の天鵞絨の台に鎮座したままだった。

「今の私に王冠を……英雄たちの夢を戴くことは許されない。私は、夢ではなく愛を、お前を選んだ。口惜しくないかと問われれば複雑だが……王冠に辿りつけなったことで、私は楽園に辿り着けたように思うんだ」

 そして、信じがたい――と言っては、きっと彼女が怒るだろうが、今日に至るまでの拒否っぷりが嘘のように、セルヴィアナがそっと肩に頭を預けてきたので、シズマは嬉しさ余ってバルコニーの手摺から飛び出しそうな勢いである。

「……俺、今なら飛べる気がする」

「飛ぶな。地に足着いているのが、一番幸せだ」

「ああ、もう、俺、何でもできそう。ルヴィアが望むなら白亜の壁に青銅の屋根の、金の装飾も麗しいムダ金注ぎこんだ立派な城を造ってやるのに」

 シズマの言葉に、セルヴィアナは薄く笑った。

「私はいらない。その城、聖皇国の新皇帝の即位祝いとして贈ってやろう」

「意地悪だな」

「講和条約締結の際に、私の退役と引き換えにどさくさに紛れて、言葉巧みに七星候たちを煙に巻いて新皇帝を煌翼宮から弾き出した狐殿に比べれば、かわいいものだ」

「確かに、ルヴィアはかわいい女だよ」

「お前は、ひどい男だよ。エルフレールは泣いていた」

 セルヴィアナが微かに目を眇めた。

 講和の結果、イスガルは西岸部から撤退し、セルヴィアナ・イズローは敗戦の責任を問われ軍から除籍された、ということになっている。実際には、シズマが皇帝の継承権を完全に放棄し、相討ちとはいえ結果的にソルディアをイスガル軍から奪い返した勝利者、クライツベリ少年伯と結託して、第二王子をあらゆる政治の場から排除したのだ。そして、調停を買って出たアルギーニが、イスガルの王位継承にこれ以上関与しないことを約束する条件として提示してきたのが、クロユリの軍勢の凍結であった。セルヴィアナ・イズローを軍属から外し、二度と戦場に立たないことを誓約させたのなら、西岸部の返還以上の領土割譲は求めないと彼らは言ってきた。

 その具体的な方法として、シズマは彼女に結婚という案を提示した。

 賢い彼女は、自ら地下牢に引き籠もると言い出した時点で、全て理解していたのだろう。

 彼女は言う。夢を諦めさえすれば、現実的な幸福に至ることができるのだ、と。

「俺は、ルヴィアの夢を横取りしたくはないよ」

「イスガル王を兼任するが、戴冠はしないという意味か? 無欲なことだ」

 しかし、彼女は皮肉げに唇を釣り上げた。

「そして、賢い。さすがだな。お前が王冠を求めたら、せっかくの台本が水の泡だ。イスガル全土の安寧を願って泣く泣く戴冠を諦めた東のクロユリの心中を察してお行儀よくお座りしているかわいい狗どもを、無駄に刺激するべきじゃない」

 シズマは苦笑し、黙って肯いた。実際、クライツベリ少年伯は最初、セルヴィアナの身柄を要求してきた。第二王子との結婚である。無論、シズマは肯かなった。アルギーニも難色を示した。クロユリの軍勢の生き残りを制御できるのはセルヴィアナだけであるから、それを奪ってしまえば、反ってイスガルに再戦の口実を与えてしまうと、彼は言う。

 王冠は夢なのだ。イスガルという国が見た栄光の結晶だ。

「夢は夢のままのほうが美しい。仮に私が戴冠したとしても、それが現実になった瞬間に人々の心は離れていく。だから、これが正解だ」

 それに、と、ぎこちなくはにかみながら、彼女がそっとシズマの手に触れてきた。

「ここは、案外、居心地がいい」

 不意打ちの甘い言葉に、シズマは脳裏にぼん、と熱の弾けるのを覚えた。

 凍えていた彼女の心がついに解けだしたことを知り、目頭が熱くなる。

「幸せにするよ。必ず、幸せにするから」

 シズマは思い余ってセルヴィアナを抱きしめてしまう。

 全国民の見守る最中であったことを、すっかり失念していた。

   ■

照葉月二十七日。

 独立北領とイスガルが統合、イース連合王国と名を改める。イズロー家第二公女にしてイスガル第一位王位継承者であるセルヴィアナは、大恋愛の末、聖皇国第三王子を夫に迎え、イスガル王継承権を譲渡。第三王子はイスガル王としての戴冠は辞退した上で、正式に聖皇国皇帝継承権を放棄し、イース王を自称。大陸に唯一の無冠の王として統治する。

 以降、セルヴィアナはシエド王城から去り、二度と戦場に立つことはなく、治政にも関与することはなかった。


剣霜月十五日。

公妃マリエナ姫とサザリー・モルテイル伯爵が結婚。二年後にめでたく嫡男を授かり、エドァルドと名付けられる。イズロー家直系嫡男の誕生を待った上で、セルヴィアナ第二公女夫妻はイスガル王位継承権を完全に放棄、公妃夫妻の第一子を第二代イスガル王と定める。それからさらに二十年の後、長らく主を待ち続けたイスガルの王冠は、公妃夫妻の第一子エドァルドがようやくにして戴冠することになる。

また、講和成立後、和睦の証としてエルフレール姫が聖皇国皇帝の正妃として迎えられるが、皇帝夫妻は煌翼宮から隔絶された離宮に住まわされ、そこで静かに生涯を閉じた。

   ■

 最初の婚約発表から五年。

冬には珍しい、よく晴れた夕暮れのことであった。

 氷雪と砂礫を蹴り上げて、蜥が一騎、荒野を駆けていく。大変珍しい赤銅色の鱗に、翠玉の瞳の亜種だった。その背に騎乗する、黒い髪の女。荒巻く風にはためく流民ススロの外套は、一滴青を落としたようなしっとりとした黒一色。頭の上で一つに結わえた夜色の髪が、馳せる獣の尾のように生き生きと躍動していた。

 その尻尾を掴まえようと、煤けた皮手袋が伸びてくる。

 彼女は四騎に追われていた。追っているのは馬であり、乗っているのは髭面の目の吊り上ったごろつき風情の男たちだった。彼らは、アナだのメスだの、卑猥な暴言を逃げる女に浴びせながら、長い髪の毛を掴まえて引きずり落とそうと試みるのだが、際どいところでぴょんぴょん跳ね回る毛先に翻弄されるばかりで、なかなか思うようにならい。苛立ちがついに最高潮に達して、一人が斧を振り上げて投擲した。

 重々しく、野蛮に夕陽を反射する刃先。しかし、それはやおら弾かれて軌道を大きくはずれ、深々と地面に突き刺さった。

 眼前を横切る黒い雷撃。馬は慄き、急停止して立ち上がる。

 猛然と駆け抜けていく影が一つ。夕陽に閃く斬槌の刃先。風の空隙に、一拍遅れて降り積もった雪の切片がさんざめく。

 一瞬の煌めきの彼方を駆けて行く二頭の蜥を、誰一人、止めることはできなかった。

「ルヴィアよ」

 緋い蜥が珍しいのに対して、後から現れた黒い蜥の方は、騎手の人間の方が珍しい配色をしていた。人目を惹く銀髪に、晴天の青い瞳。

怜悧な目元を弱冠呆れた角度に下げて、彼は言う。

「余所の男に色目を使うのは控えていただきたいものだ。それと、少しは落ち着け。な? 成人した淑女の嗜みにしては、ちょいと粗暴すぎる趣味だ」

「趣味じゃない。収入があるから、これは定義上、仕事だ」

「そういう問題じゃない」

「何だ、嫉妬か? 私はお金を持っている男は好きだぞ。獲物として」

 にたり、黒色の外套の襟元を緩めて魔性の笑みを浮かべる。

「文無しの俺に対する当てこすりのつもりで野盗ごっこをしているのなら、夫として小遣いの請求をするぞ、お姫様」

「王とは公僕と知れ。ただでさえ血税を戦費に消耗した後だ。倹約は美徳と心得よ」

「……あのな、ルヴィア。言っていることは立派だがやっていることが残念すぎる。泥棒はよくない。ましてや刃傷沙汰にまでなるようなら、下手くそだ」

 しかたないじゃないか、と、黒髪の女はつんと顎を突き出した。

「まるで話にならない。女だからって馬鹿にして」

「悪いが、俺がやつらの立場なら無視するぞ」

「藁が火薬臭いから中に銃を隠しているだろうと言ったら、いきなり怒って刃物を振り上げた。慌てて逃げ出したのが、追ってきた。しつこい男は嫌いだ。だいたい、無駄に追い回すことない。せっかく銃を隠し持っているなら、狙撃すればよかったじゃないか」

「うん。俺が武器の密輸をしようとしていて、突然女のススロがやってきて秘密を暴露されたらだな、とっつかまえるね。そして、ひん剥いて黙らして埋めるね。女だからね」

「馬鹿にして」

 そうは言うものの、彼女は手綱を握るその手にちゃっかり皮の財布を握りしめていた。交わしたのは言葉だけではないらしい。物理的交渉の結果、戦利品を奪って逃げたのなら、それは立派な強盗である。

「悪銭身に付かずという。世間知らずなお姫様には説教が必要か?」

 すると、彼女はぴん、と眉を跳ね上げ、それから艶然と目を細めて財布に頬を寄せた。

「小遣い、欲しいんだろう?」

「っとに、あーいえばこーいう。口が達者で結構」

「私は、達者なのは口だけじゃないことを示す必要があるようだ」

「何? 誘ってんの?」

「美味い肉と、溢れるほどの泡酒が欲しい」

「……暗喩かな?」

「直接的な意味だ。ばか」

 不意に、黒い方の蜥が歩を止めた。少し先まで言って、緋い蜥も止まり、首を巡らせて戻ってくる。

「どうした? 真面目くさった顔をして」

 夕陽の作る光と影の真ん中で、彼女はとても穏やかに笑う。

「ルヴィアは、幸せか? 今の自分が、好きか?」

「急にどうした? 好戦派の狗たちに咆えられたか?」

「それは、まあ、からかった俺に原因が……あ、上手くやっているよ。多分な」

 男は言い、苦く笑ってこめかみをつついた。

「今のシエド城には湖水地方殲滅戦時代からの古株と、よく吠えるクロユリの軍勢と、俺が引っこ抜いた元聖皇国軍所属の奴らと、さらに北領の新参と、イスガル新世代の優等生な新米将校がごっちゃになっているからなぁ。もう、てんやわんや、毎日お祭り騒ぎさね」

「舞踏会は苦手だ。私は今後も荒野に引き籠もることにする」

 女は、蜥の緋色の鱗を撫でて微笑む。嬉しいのか、蜥はシャランと鱗を鳴らした。淡く波打つたびに、細かい鱗が夕景の空を砕いて撒いたような色に輝く。

「群を追われた逸れ狼という生き方も、嫌いじゃないよ。むしろ楽しい」

「不幸だと、人は言う。軍旗を担って戦場に青春を費やした少女は、ついに王冠をいただくことなく荒野に放逐された」

「幸福な女だと言う人もいるぞ。戦争に敗けた王の末路としては悲惨だが、夢に破れた女の末路だと考えると、前者に比べてずいぶんと甘いじゃないか。寛大なるイース王に愛されて、東のクロユリは女に戻った。これを幸福と言わずして何と言う?」

「俺は……」

 男は女の黒髪の先端に触れ、指に絡めて引き寄せる。

「俺は、悪い事をしたと、思っている」

「それは自信を持って否定してやる。お前は私を救った。レバントでは命を救われたし、その後もあらゆる悪意から私を守り抜いて、解き放ったではないか。感謝の言葉が必要なら、いくらでも。全て、望むままに」

 しかし、男は凍れる瞳をして首を横に振った。

「救済か、隷属か、わからなくなった。ただ、たすけたかった」

「十分、助けてくれたじゃないか。今だってそうだ」

「……俺の気を引くためにわざと危険に身を投じているのだと、そう思うことにしている」

「自惚れも甚だしいが、これは趣味だからやめないぞ」

「よーく、わかるよ。昔の自分がそうだったから。そして今は、その時感じていた『面白い』っていう感覚の正体が、薄々わかってしまったから、何だか恐ろしい。あの頃の俺は、自分がこの世界に生きているという感覚が、とても薄かった」

 女は笑顔を消し、薄く口を開いて、しかし何も言わずに押し黙る。じっと静かな夜の色の瞳で見つめて、やがて言った。

「今は違うのか?」

「今は、この世界に生きているんだと思っている。失うものがあって、守るものがあって、繋がりがあって……生きている。生きる責任がある。昔の俺は、良くも悪くも自分の未来を大切にしなかった。極論、生きていようが死んでいようが、どっちでもよかったんだ。今は、生きていたいと願うよ。ルヴィアと一緒に、時を重ねたい」

 お前はどうだ、と言う代わりに、男は引き寄せた髪の一房に口づけをした。

 するりと逃げていく毛先を、無理に手繰り寄せることはしなかった。

「欠けているのは、最初からだ」

 女は言い、斜陽に目を側める。

「補填する方法がわからない」

「埋めることない。俺はその欠損を、愛している」

 男は片頬で笑って、降参するように両手を上げた。

「ルヴィアがその緋い蜥を連れてきた夜、俺は、ぞっとしたよ」

 男はじっと緑色の目をした蜥を見つめる。何やら意図的に蜥は振り向いて、きゅる、と笑うように喉を鳴らした。

 蜥は魂の片割れだという。王冠に背を向けた不完全の王は、流民となって荒野を放浪していた。ススロの恰好をしながら蜥を持たない半欠けの旅人の元に、ある日、どこからともなく緋い蜥がやってきたのだ。

 概ね、ススロと蜥の出会いは唐突だ。蜥の方から気に入った人間の元にやってくる。

「鳥肌立つほど、綺麗な蜥だ。まるで、神様みたいだと思ったよ」

 男は屈託なく笑う。綺麗だと思ったのは本音だからだ。熾火に照らし出された、緋い鱗と麗しい黒の組み合わせに、髄の奥がふるえて、なかなか鎮まらなかった。

 本当に何も憶えていないのか、とは、男はけして口にしない。確かめたところで、互いの欠損が埋まるわけでもなく、意味がないからだ。いや、無意味だからというのは、言い訳だ。本当は恐れていたのだ。不滅の愛が仮に真実だとして、それでも彼女の抱く虚は埋められない。真正直に敗北を思い知るには、些か大人になりすぎた。それに、臆病になった。ともに生きる喜びを知るほどに、いつか広がりすぎた虚が彼女自身を飲み込んで、愛する者の存在しない世界を生きていかなければならない苦悩を思うと、嘘をついている方が楽だった。

「お前は、私から奪ったつもりでいるのか?」

 逆光、彼女は笑う。男はその影を虚だと言う。女は、自分の影を魔物だと思っていた。

 その魔物のことが、今では結構好きだったりもする。名前が変わったのだ。月蝕の夜を境に、魔物には「秘密」という名前がついた。

「だから、私が幸せかどうかに固執しているのか? なら、安心していい。私は何も失くしていない。栄光が戦場でのみ見える蜃気楼に過ぎないことくらい知っていた。王冠は夢であって目的じゃない。そして、夢はちゃんと保存されて託された。人並みに愛を与えられ、ようやく、私は英霊たちの夢の道ではなく、現実の景色を生きている」

 だから幸せだ、と女は言う。男は凍えた目をして片頬で笑った。

「略奪した覚えがあるもので」

「何も奪っていない」

 女は男に手を伸ばし、愛おしそうにその頬を撫でる。

「むしろ、奪われたのはお前のほうかもしれないぞ。月蝕の魔狼は惚れた相手を喰ってしまうというからな」

「……本望だ」

 男は女の手を取ると、甲に唇を押しあてながら様子を伺う。肯く代わりに彼女の指が僅かに跳ねて、男は、改めて許されていることを確認していた。

「そう言えば」

 たまりかねたように、女が手を引っこ抜いて顔を背けた。

「三日前に、ルウェンさんに会ったよ。一緒に熾を囲って、鳥鍋を食べた」

「美味かっただろう?」

「あれは絶品だな」

 ふと、男はしょんぼり肩を落とした。少し演技過剰なくらいだった。

「俺はもう何年、食べてないんだろうなぁ」

「美酒と美食と美女に囲まれて毎夜過ごしているくせに」

「酒は好まない。飯は大勢で同じ鍋を囲むほうが美味い。惚れた女は半野良状態。俺こそ不幸だな。実にかわいそうだ」

 ちらちら横目で様子を伺っている男に、女は眉根を寄せた。

「そんなかわいそうなお前に朗報だ。鳥鍋の作り方、習ってきたぞ」

「……朗報だと、いいんだけどな」

「決死の覚悟があるのなら、毒見役として食わせてやらんでもない」

「覚悟はないけど、愛がある」

「よし、いい度胸だ」

 名前も立場もなくして、女は実に豊かに笑う。彼女は楽園の在り処をすでに知っている。首から下げて片身離さず身につけている、大きな疵の残る金の鍵。ともに生きる誓いとともに、しっかり胸にしまってある。

 二人、夕暮れの光の中に幸福を歩み出す。

 晴天の青の色に咲く夜の黒。相容れぬはずの色が荒野の景色に融和する。

 夢か、愛か。

 愛を選んだ女に、荒野はただ広く大きく、祝福の色に輝いていた。


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