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クロユリ8  作者: 清水さゆる
3/6

これはこれでいいんだけどねw

2、


レバント丘陵、イスガル・北領同盟軍宿営地にて。

 ジエン・グランツェはすこぶる不機嫌であった。原因は明確で、連合国軍が行軍を開始してこちらに向かってきているという、極めて緊張の高まる最中、またしてもクロユリ様が引き籠もり癖を発症したためだ。

 以前もそうだった。彼女は追い詰められて思考が煮詰まると、頭の中の焦げ付きを洗い流すかのように、髪を洗う。だいたい、口数が少なくなって髪の毛を弄り出したら、引き籠もりの前兆である。

 今回も、作戦会議中ずっと髪を弄っていたので、ジエンはいや~な予感がしていたのだ。連合国軍十三万。先んじて、ナギェロッソ隊がレバント丘陵に宿営地を構えていた。北領からの援軍の到着が間に合うかどうかが、作戦の要であった。

 他人を頼るな、自力で何とかするべきだ、という意見が半分。何のための同盟か、信じて待つべきだ、という意見が半分。定刻になっても意見はまとまらず、一旦解散となった後、セルヴィアナに呼び止められてジエンは彼女個人のための天幕に連れ込まれた。

 髪を洗えと言う。

 今やイスガル軍の命運を担う参謀官である。副官ではないので拒否できる立場にあるのだが、セルヴィアナは当然、洗ってもらえるものだと疑わずに上着を脱いで長椅子に仰向けに寝そべってしまったので、仕方なく、ジエンは湯と盥を持ってくるよう下級兵に言いつけた。

 禁欲的な角度にきっちり畳まれた上着と、無防備に手足を投げ出して薄く口を開いて茫洋とした目をしている姿が、あまりにかけ離れていて、ジエンはぎこちなく視線を逸らす。

 やがて湯と盥が到着すると、彼女はご機嫌に腹の上で手を組んで目を閉じた。

――この、クソアマが! 雌犬が! 阿呆、間抜け、考えなし、男女!

 期待するように微かに笑んで仰向けになっている。触れただけで顔を顰めるくせに、こんな姿を晒す浅はかさを、ジエンは内心、さんざん罵倒した。

――泣かすぞ、ばか。

 たとえば今、衝動に任せたとして、どうなるだろう。ジエンは考え、じっと見下ろす。

 きっとセルヴィアナは泣かない。怒りもしない。ただ淡々と、涼しい顔のまま再び戦場に立つだけだ。それがわかっているから、ジエンは大人しく彼女の髪を湯に浸した。

「ジエン」

 不意に、セルヴィアナが名を呼んだ。彼女は薄く目を開き、その目尻に雫が浮かんでいることに気付いて、ジエンは思わず見入った。

「少しだけ、私の話をしていいか?」

「いつになく淑やかなご様子で大変結構でございます。実に姫らしゅうございますな」

「厭味を言うな。私だって、弱気になることがあるんだ」

 まるで女だ、とジエンは思った。セルヴィアナがとても小さく、庇護すべき脆弱な生き物のように見えて、焦る。全軍がクロユリの勝利を信じている。こんな貌をしている少女を、ただでさえ緊張している兵士たちの前には出せない。一方で、ただの少女を見下ろして、優越感とも幸福ともつかない、妙な熱を覚えた。

「夢を見るんだ。奇妙な夢」

「女性は占いと同じくらい、夢の話をします」

「こんな様では、女扱いするなと、言えないな。ふふ。皆には内緒だぞ」

「畏まりました」

「昔の夢を見るんだ。と言っても、うんと幼い頃じゃなくて、ごくごく最近の夢で、妙に明晰で、まるで自分の記憶を遡行しているような感じなんだ」

 セルヴィアナは自らの手を翳し、心もとなさそうに指先をさまよわせる。その手を取って握り込みたい衝動に駆られ、ジエンはそれを寸でのところで押し殺した。

「父上の亡くなった日、私は、玉座の父上に会う直前まで誰かと一緒だったんだ。誰と一緒だったのか思い出そうとして、振り向こうとすると、声が聞こえるんだ。振り向いちゃだめだよ、と、少女の声がする。そこで目が覚める。あるいは、ルースでの戦闘の夢も見る。聖皇国の軍勢を前にして、私は怯えていたんだ。誰かが私の手を握ってくれて、嬉しくて、顔を確かめようとして、やはり、同じく振り向くなと言う。あの戦闘で、私は初めて自軍の兵士を殺した。たくさん、たくさん、殺してしまった」

「それは違います、閣下。我々はそのようには思っておりません。閣下が導く栄光に憧れ、自らの夢へと到達しようとして、突撃したのです」

「……その夢、果たして、真実だろうか」

「無論です」

「私のまやかしに騙されて命を落としたのだ」

「しょっぱい現実より輝かしい夢を生きろと言ったのは、閣下ですぞ。お忘れか?」

「そう、だが……」

「もとより、サルマリアの狗どもは、閣下の嘘八百に喜んで踊らされた馬鹿どもです。閣下は、軽騎兵の流儀でいく、という言葉をご存知か」

 いいや、と彼女は考えなしに髪を盥に浸けたまま首を振ったので、ジエンはいくらか水滴を浴びてしまう。多少、顔を顰めて、彼女の頭を両手で挟んで固定した。

「まあ、士官学校さえ出ていない元帥閣下は、知らなくて当然ですな」

「馬鹿にして」

「女は馬鹿なほうがかわいいです。軽騎兵の流儀というのは、栄光か死か、転じて、乗るか反るか、という意味です。我々はすでに、閣下に首ったけですよ」

「……それでも、仲間が減ったら、悲しいよ」

 ぽとん、と彼女は手を額の上に落した。

「一人で抱えなきゃいけないのに、私はあの日、誰かに寄りかかっていたんだ」

 セルヴィアナの声が、微かに震えていた。

「一人で背負わなきゃいけないと覚悟して……でも、私は誰かとずっと一緒にいたんだ」

「閣下は立派にその責務を果たしていらっしゃいます。サルマリア砦時代からずっと閣下とともに戦ってきた我々が、そのお覚悟を証明できますとも」

「違う、違うんだ。そうじゃない、本当はそんなんじゃない。いつだって私は怯えていた。重すぎる現実に耐えかねて、とうの昔に膝を折ってしまっているんだ。だけど、私を支えた人がいた。こわくて、本当にこわくて、泣いてしまった私を抱いて……一緒に強くなろうねって、言った人がいたはずなんだ。確かに一緒にいたんだ!」

 ぐ、と喉を詰まらせ、セルヴィアナはそれきり沈黙する。唇が白くなるほど噛みしめて耐える様に、ジエンはとうとう、我慢できなくなった。

「閣下、失礼いたします」

 抑えがたい衝動を抑えに抑えて、辛うじて頬に唇を触れさせる。

 やった側から、ジエンは後悔していた。手を触れたら抱きしめたくなる。口付したらもっと深く求めたくなる。求めてしまったら、放せなくなる。喪失の瞬間を想像しただけで恐怖を覚える。そんなことになるくらいなら、いっそこの手で、と思いつめたところで、盥の水面に映る自分の顔と目が合ってしまった。

――何て腑抜けたツラしてやがるんだ。

 雨に濡れてしょぼくれている捨て犬みたいな顔を晒す己を自覚して、ジエンはそっと顔を背けた。こんな顔では、守るどころか守られる側だ。

「一緒にいたはずなんだ」

 切なく、彼女は喉を震わせた。

「夢を見るたびに、どんどん記憶が曖昧になっていく。サルマリア砦に、私は一人で送られたはず。だけど、肌が、彼女の温もりを覚えているんだ」

「彼女? 女ですか?」

 うん、と無言でセルヴィアナは肯く。

「私は自分の記憶を信用できない。ジエンには心当たりはあるか?」

「さあ……記憶にありませんが」

「私とずっと一緒にいたはずだから、どこかに痕跡があるはずだが、いくら探しても出てこない。どこにも見つからない」

「……あの、閣下。お言葉ですが、閣下の夢が仮に過去の記憶を遡っていたとして、その者はとてつもなく重要人物ということになりますよ。何せ、サルマリア砦時代からルースの戦闘にまで付き添われたのでしょう? これだけイスガルの歴史に関わっておいて、どこにも記録が残っていないというのは、妙ですな」

「最近では、私が自分の心を慰めるために創り出した架空の存在だったのではないかとさえ疑っている」

「ああ、よく、小さい子どもが一人遊びをする、あれですか。一人二役を演じてままごとをするのを、見たことがありますよ」

「私は頭がおかしいのか?」

「頭のネジはぶっ飛んでいらっしゃいますが、閣下は正常です。ただ、いたのかいないのかはっきりしなくて悩むくらいなら、いなかったのだということにしてしまうほうが、お気持ちは楽になるかと」

「ひどいことを言う」

「ひどいとは心外な。忘れているのは自分ではなく閣下ですぞ」

「……そうか。ひどい、よな」

 しまった、とジエンは唇を引き結ぶ。

「もし閣下のおっしゃるような人物が実在していたとして、こんなに閣下に思われて、閣下を悩ませて、それでいて閣下の御側を離れたのだとしたら、相手にも非があります。ちゃんと別れを告げるべきです」

「もしかしたら、さよならを言われたことさえ、私は忘れているのかも」

「忘れているなら告げていないも同然です」

「暴論だな」

「暴論でも屁理屈でも、閣下が納得してくだされば自分は別に正論である必要はありません」

 ジエンは青艶も美しい黒髪を水面からあげると、水気を拭き取り、香油を挿してやる。

「ん? いい香りだな」

「閣下も姫の端くれなら、もう少し髪に気を遣って香油くらいつけてもよろしいかと。顔、胸、脚と同じくらい、髪は異性を惹きつけます」

「……ちょっと待て。香油と言ったか? そんなものを持ち込んだ覚えはないぞ」

「自分の私物です」

 絶句するセルヴィアナを見下ろして、ジエンは平然、言ってのけた。

「こんなこともあろうかとご用意しておきました」

「まさか私の髪を洗う機会をずっと伺っていたのか?」

「ご自分でさせておいて、今更ですぞ。あと、閣下は戦局が芳しくないと髪を洗う変な癖がおありのようなので」

 再び言葉を失うセルヴィアナに、ジエンはニタリ、彼女曰く、下衆な笑みを浮かべた。

「他にもイケナイもののご用意がございますが、ご覧になりますか?」

「貴様、死罪を賜る覚悟はあるな?」

 そんなもの、とジエンは鼻で笑ってやる。

「最初に畏れ多くも閣下を組み敷いた時から、すでにできております。ただ、その質が変わったにすぎません。閣下から賜る死ならば、愛にも等しいですよ」

「作りすぎだ。不合格」

「……閣下の口説き文句に対する評価基準がわかりません」

 セルヴィアナは身を起こすと、自分の髪の一房を手にとり、鼻をすんすんさせた。

「気分次第だな」

 どうやら気に入ったらしい。

 ジエン・グランツェは知っている。セルヴィアナという人物には未だ少女の面影が残ることを。そして、それこそが本来の彼女の姿であることを。

 王になると彼女は言う。セルヴィアナが少女に戻れる日と、彼女が王冠を被り玉座に就く日と、ジエンは両方を願ってやまない。その両方の景色が重なるのなら、これ以上なく理想的だと思っていた。ただし、理想の対義語は、現実である。ジエン・グランツェはただ、一人の男として、少女の幸福を願うばかりだった。

   ■

 雲は低く、暗く、雨の気配を纏う。それも、豪雨。

 レバント丘陵、聖皇国軍宿営地には不穏な空気が満ちていた。原因は、後から合流した列強派遣軍が、自軍の分の補給物資しか携えていなかったためだ。

 聞いていない、ライセからそのような指示はなかった、と、わざと聖皇国語ではなく異国の言語で言う将に、イザベラは思わずその胸倉を掴み上げた。

 兵士たちが青白い顔をしている。健康状態も悪いが、それ以上に、精神状態が最悪だ。怒り、絶望し、見放す人の表情をしている。暴動を起こす直前の人間たちの表情だ。

 信用という言葉の重要さについて、鼻持ちならない連中は省みない。

――いや、もとを正せば、私が原因か。

 ライセでイザベラと口論になって黙らされたのを、根に持たれたらしい。イザベラの言葉を信じて辛抱強く食糧が到着するのを待っていた聖皇国軍の兵士たちが血走った目をして、責任をとれと詰め寄るのを、彼は実に愉快そうに眺めていた。

――こいつに指揮を任せていたら、敗けるな。

 隊列後方に回され、イザベラは沈黙する。

 騎馬隊の本領は突撃にある。速度を生かして敵の隊列に果敢に突っ込んでこそ。後衛に回って得があるとすれば、自軍の退却掩護くらいだ。

 無能な指揮官ほど危険なものはない。大砲の弾より多くの死者を出す。

――使える兵隊はせいぜい四万か。

見える範囲の兵士たちの顔色を瞬時に見極め、全体の統率力を測る。総数では三倍以上を保有するが、イザベラ自身が率いて突撃を敢行できそうなのは、せいぜい四万強。ことさら、派遣軍の兵隊の顔には余裕がある。慢心とも言う。それではいけない。いざ死を前にして怖じない分、木偶のほうがまだましなくらいだ。凶弾を前にして前進するには、必死にならなければならない。必ず死ぬとわかっていて、より生存の確率の高い方向として、後ろではなく斉射の向こう側の敵将を狙うくらいの異常さが求められる。

イスガル軍には、それがある。正常な感覚を狂わすだけの統率力を、東のクロユリは持っている。普通の人なら誰しも持っている「安全」の手綱を容易く手放させる。

普通じゃない相手に、普通のやり方は通用しない。

――案山子には、突っ立っていてもらうべきだ。

 勝つための図形がある、とラインハルト少年伯は言う。イザベラには今もって未来図は見えないが、東のクロユリに至る経路は見えていた。

 こちらの隊列に対して、イスガルは正面に陣を構えており、まだ行軍を開始していない。仕掛けるのなら今だとイザベラは判断した。

――命令無視で銃殺刑か、敵の斉射で蜂の巣か。

 無性に煙草が欲しくなって、我慢ならずにイザベラはパイプを取り出した。

――どっちも、らしい死に様だ。

 唇の端に吸い口を引っかけて嗤うと、イザベラは煙とともに宣告する。

「聖皇国軽騎馬隊、及び重騎馬隊の隊長に突撃命令を賜った。これよりナギェロッソ大尉が引率し、イスガル・北領同盟軍隊列側面を襲撃する。北領からの援軍が到着する前に、イスガル軍を壊滅させる」

 無論、そんな命令はない。しかし、それを知るのはイザベラと列強派遣軍の指揮官だけだ。疑わしげな顔をしている兵隊に向かって、イザベラは言ってやった。

「どのみち、我々には後がない。ここでイスガル軍を叩き潰してソルディアを奪還できなかった場合、我々には退却するだけの物資の余裕がないぞ。戦え。さもなくば死ね。生き残りたければついてこい。勝機は怖じぬ者だけが知る」

 傭兵は知っている。最初から最期まで、頼れるものは自分の才覚だけだということを。  

   ■

 セルヴィアナは荒野を睥睨し、背後に大陸最強の黒の軍勢を従え、沈黙する。

 湿気を含んだ風が荒ぶる。遠雷。まもなく雨が降るだろう。

 我が手を、見下ろす。

 緊張して白く凍えたこの手を包む温度が、確かにあったはずなのだ。

 愛か、夢か。

 セルヴィアナはただ見つめる。

 一人で生きてきたはずだ。だから、淋しさを覚える理由などない。そのはず。

 丘陵の向こうに展開する十三万の聖皇国連合軍が前進してきている。対するイスガル・北領の同盟軍は四万。

――一人でここまできたんだ。だから、この先も一人で歩もう。

 セナは自分に言い聞かす。最初から、ちゃんと自力で歩んできたではないか。ジエンや大佐、サザのような腹心を得て、軍部からも認められ、祖国に栄光をもたらし、父王の夢を受け継いだのは、全部、自分の意志と能力によるものだ。

――誰の許しもいらない。愛される必要はない。

 イスガルの王になる。その夢が、限りなく現実に接近している。あの十三万の大軍を踏み越えた先に、ようやく、遠かった栄光が見えているのだ。ここで敗けられない。

――それなのに、何でこんなに淋しいんだろう。何で、虚しいんだろう。

 夢に近付いているはずなのに、確実に、幸福から遠ざかっている。

「元帥閣下」

 ジエン・グランツェが側に寄り、深々と頭を垂れた。

「雨が降りそうです。天幕へお戻りください」

 彼は重要な情報が入ったから作戦会議を開くと言っているのだ。それを理解した上で、セルヴィアナは首を横に振った。

「ここでいい」

「畏まりました。聖皇国連合軍の構成は騎兵百九十七個中隊、歩兵百二十四大隊、総勢十三万名。現在、我が軍の正面に平行に展開しております。ただし、聖皇国側と列強派遣軍側の指揮官同士の反りが合わず、連携はとれていない模様。物資不足が原因で脱走兵も相次いでいる様子で、まとまりに欠いている現状です」

「アルデナ平野の時の状況に似ているな。しかし、用心しなければならない。あちらにはナギェロッソ大尉という将官がいる。元モルドァ傭兵隊の出身だそうだ」

 かすかに驚いたように、ジエン・グランツェが顔を上げた。

「事実ですか?」

「大佐が言っていた。私によく似た戦法をとる、奇抜な将らしい」

「作戦を変更しますか?」

 セルヴィアナは再び荒野の軍勢に視線を戻す。

「敵の大半はこけおどしだとわかった。このまま正面会敵しても、火力と射撃の精度でイスガル軍が圧倒的に勝っている」

 自分で言って、セルヴィアナは「あ」と思わず口元を抑えた。気付けば過去に自分が落とした敵将と同じ思考に陥っている。

「軍上層部に、少し時間をくれと伝えろ。熟考したい」

「了解しました」

 ところが、ジエンはすぐには去らずに、しばし留まる。セルヴィアナは怪訝に思い振り向き、ぎょっと息を詰めた。

 ジエン・グランツェが、顔に似合わない清潔な白いハンカチを差し出していた。

「我が心の代わりに、お持ちください。涙を拭く必要がなくとも、お顔の血泥を拭うのに役立つかもしれませんから」

 いらない、と断りかけ、セルヴィアナは束の間黙る。

「受け取ろう。もしかしたら、身近な人の傷を手当するのに、使うかもしれないから」

「ありがとうございます」

 セルヴィアナは、手元のハンカチに視線を落す。

「どうかされましたか?」

「いや……何か、どこかで似たようなことがあったような……」

 脳裏に閃く白と緋。雪と、月と、誰かの笑顔。

「約束したような……解いてはいけない、と……」

 記憶の糸を手繰っても、手応えもなく仄暗い闇に垂れている。セナは首を傾げた。

「昔から、戦に出る夫や恋人に、無事に戻れるまじないとして襟にリボンやハンカチを結ぶ習慣はありますよ」

 ジエンの言葉に、セナはじっとその顔を見上げた。

「私にはそんな相手はいないぞ」

 すると、ジエンもまた、じっとこちらを見つめる。

「閣下、今言うべきことではないかもしれませんが、先日仰っていた夢の話、自分なりに考えてみたのです」

「本当に今言うべきことではないな。でも聞こう」

「はい。やはり、いたのか、いなかったのかは、閣下御自身にしかわからないことです。最も納得できる結論が出ることを願います。ただ、仮に相手が女ではなく男であったら、閣下の御前から黙って消え失せた心理が、多少、理解できます」

「何故、男に限る?」

「恋慕という点において、共感できます。もし叶わぬ恋をしていて、結ばれないことで相手に別の未来の可能性を示せるのなら、自分は身を引きます。そして身を引くのならば、相手の心にも記憶にも一切残さず、最初から恋心などなかったことにしてしまいたいですから」

「そんなの、自己満足だ。残された方はたまったもんじゃないぞ」

「愛しているからこそ、自分の心を満たすことより、相手の幸福について真剣に考えてしまうのですよ。結ばれることだけが幸福とは限りません」

 セルヴィアナが言いかけ、口を開いた時だった。

アオォン!

 鋭く、狼の遠吠えが丘陵に響いた。セナもジエンも、本能的に背筋を正す。理屈抜きで緊張させる、妙にはっきり聞こえる遠吠えだった。

 危険だぞ、と仲間に告げているのだ。

 何となく、セナは自分に言われているような気がしてならなかった。落ち着かなくて、望遠鏡を取り出して敵軍を観測する。

 大軍の後ろの方で、土煙が上がっていた。

 おかしい、と直感が告げていた。

「数個大隊で遮蔽されているが、その奥で動いているように見える」

「陣形は変わっていないようですが」

 隣でジエンが目を眇める。しかし、セルヴィアナはやはり、落ち着かない。

「聖皇国は図体ばかりでかくて、動きが鈍い。ただ後続部隊の隊列が整っていないだけだかもしれない。が、そうでないかもしれない。何か目的があって動き出しているのかも」

 セルヴィアナが再び望遠鏡を覗き込むと、背後から「伝令!」と叫ぶ声が聞こえた。

「連合軍の後方にあった縦隊が、こちらの左翼方向に移動しています!」

 なに、とセルヴィアナとシズマは同時に息を詰めた。

 事実を確認するまでもなく、次々と連合軍を監視していた部隊からの報告が届けられ、セナは、項の後ろが冷たく痺れていくような悪寒に見舞われた。

「やられた!」

 セナは唸りを上げ、曇天に咆える。

「同じ手を使いやがって!」

 隣のジエンも、苦々しく顔を顰めている。

「聖皇国連合軍は歩兵大隊で後方の隊の動きを覆い隠し、こちらの注意を兵数の多い方に向けさせ、その隙に四万の精鋭で側面後方へ回り込み、火線が乱れたところへ重砲隊を含む九万の大連隊で雪崩れ込む算段なのでしょう。ルースで閣下が丘を使って斜行したのを、人垣で代用した、応用戦術ですな。退却しますか?」

「それこそ敵の狙いだ。我々が驚いて浮き足立った瞬間に、挟撃するつもりだろう。敵が勢力を二つに分けたのだとしたら、数で劣る私たちには勝機だと考えるべきだ」

 闊歩する。その時、空を割るほどの激しい雷鳴と、それに重ねて狼の遠吠えが再び響いた。

 アオオオオオオオン!!

 あまりの大音量に、セナはびくりと反射的に歩みを止めた。

 雲が白く光る。

 刹那に空を裂く光、一閃。

 視界が漂白される。

 夢か、現か。

 記憶と記憶の狭間に、セルヴィアナは声を聞いた。

 あれはたしか、輝く緋色の空の下――。

――ご覧、姫……

荒野、西の方角を――聖皇国との国境を指さす男の幻影。

――お前が指揮官ならば、どう采配する?

 あの日の夕景が視界に重なり、広いだけの荒野の景色が、高低差のある交戦地点へと変更されて、セルヴィアナは髄の震えるような興奮を覚えた。

 眩しいばかりの夕陽を遮り、あの日の少女は架空の戦闘を語る。

――砲門を並べ、挟撃します。おそらく敵は騎馬を中心にした機動隊を編成し、奇襲をしかけるはず。

「閣下?」

 閃光の中に、過去と未来が交錯して、今を生きるセルヴィアナの目を開かせる。

セルヴィアナは肯く。幻影の父もまた、深く肯いた。それから、「悪くないが、惜しい」とどこか得意気に目を細めた。

――最後の十字砲撃まで戦闘が展開できなかった場合、我々は騎馬隊と歩兵隊のほとんどを失う。それに加え、敵軍を掃討できなかった場合、砲台の場所が敵に知れてしまう。二度目の襲撃には対処できない。撤退できないような手段を講じておくべきだ。

 ならば、と、さらに手段を講じようとして、あの日、少女は現実に遮られた。

 女という、現実に。

 今、その先へと手を伸べる。

「ジエン。あそこに見える高台に、重砲を並べるんだ」

 伸ばした手で、セルヴィアナは可能性を指さした。

「作戦を変更する。至急、各隊隊長を招集せよ」

「了解」

 敬礼とともに答えたジエンが笑っていた。セナもまた、魔物の顔で笑っていた。

 セルヴィアナはすぐさま前司令官を天幕に集合させ、すでに自軍が危機的状況にあることを告げた。

「聖皇国連合軍の騎馬隊前衛が、我が軍の左翼及び後衛に進行中だ。信じがたいかもしれないが、重騎馬隊と軽歩兵隊が前衛大隊の背後を斜行し、こちらから行軍を遮蔽して我が軍の背後に回り込もうとしている」

 セルヴィアナは指揮用の宝剣の切っ先で、聖皇国軍の動きをなぞりながら説明する。

「これより、ただちに全軍を旋回させ、敵騎馬隊を迎撃する。重砲隊を高台へ移動、北領歩兵隊、龍騎兵隊、およびサルマリア隊とイスガル長銃隊が敵軍と肉薄する。会敵予想地点では激しい戦闘が見込まれるが、ここがこの戦役の勝敗の分岐点と心得よ。モルテール砲雷長」

「はい、ここに」

「アルギーニ式の大砲の調整はいかに」

「すでに参考数値が手元にあります故、すぐにでも連合軍の隊列に撃ち込めます」

「よろしい。行軍中の騎馬と歩兵は、こちらで引き受ける。重砲隊は敵歩兵大隊を壊滅せよ」

「了解しました」

 肯き、セルヴィアナは再び地図を眺める。

「サルマリア隊は私が直接指揮を執る。それでは諸君、健闘を」

 天幕を叩く雨の音は容赦なく、空を割るような雷鳴が轟く。

不穏な音の渦巻く中で、セルヴィアナは言う。

「皆、生きてまた会おう」

 セルヴィアナは笑う。ただ笑う。

 過去に夢見た戦闘が現実になろうとしていることが面白くて、それだけだった。

 楽しいか、とあの頃の少女が否定的な目をして問う。答えは、篠突く雨のその先に。

   ■

燈夕月十四日。

 イスガル・北領同盟軍四万と聖皇国連合軍十三万がレバント丘陵にて交戦。

 兵数で劣るイスガル軍は接近戦に誘導すべく連合軍に対して真向かいに陣を構える。


十四日午前十時、雨天。

連合軍十三万は圧倒的人口差と火力をもってイスガル歩兵大隊を撃破すべく、重騎馬隊を後方に下げて開戦を待つも、伝達がうまくいかず、手違いからナギェロッソ隊が行軍を開始。隊の移動は連合軍歩兵大隊によって遮蔽され、イスガル軍左翼の側面包囲に成功。自軍の危機をいち早く察知したセルヴィアナ元帥は、全軍を直ちに再展開。重砲隊を丘陵頂に配備し、サルマリア隊を含むイスガル歩兵三十二個連隊が方向転換、ナギェロッソ隊を迎撃する。

   ■

閃光。少し遅れて、轟音。その轟音の中に、確かに聞こえた。

「全軍、突撃!」

 イザベラは微かに驚いた。それは不意を突かれたためではなく、その声はあまりに明瞭で、とても澄んだ音色をしていたからだ。

 思わず、聞き惚れる。

 雷鳴も雨音も跳び越えて、その声に一瞬、意識を奪われそうになった。

――噂通りの、魔物っぷりだな。

 敵にも味方にも、その魔性の声はあまねく届く。それが、致命的だ。

「迎撃用意! 構え筒!」

 鬨を上げてイスガル軍が丘を駆け下りてくる。彼らが第一線を整える直前に、斉射の号令を発する。イスガル軍は三回連続して斉射を行う。一線を崩してもすぐ二線目の筒が準備しているので、どの道、こちらは被弾する。

「軽歩兵連隊、突撃!」

 意味は、肉璧。本命は次の重騎馬隊の突撃である。案の定、自慢の三回連続一斉射撃を崩され、イスガル軍の攻撃に一瞬だけ空隙が生じた。

「今だかかれ! 正面サルマリア歩兵隊に集中砲火! 狙うはクロユリ、ただ一人だ!」

 イザベラはイスガル軍の完璧な一斉射撃が崩れた、その一瞬に賭けた。これでもかとばかりに火力を注ぎこみ、ついに前衛の歩兵隊を掃討する。

 水煙と硝煙の向こう。嘶く馬を乗りこなし、兵士にしてはあまりに儚い影を見つける。

――あれが、クロユリ!

 イザベラは馬から降りて地面に膝をつき、姿勢を安定させて長銃を構えた。

 クロユリはまだ気付かない。

 ここで、仕留められれば……。

 イザベラは引き金を引いた。命中したかどうか確認する間もなく、続けてもう一発。さらにもう一発。馬上の影が仰け反り、均衡を崩して落馬する。

――当たったか?

 やがて、霞む視界の向こうで、ふらりと立ち上がる人影。

 どうやら仕留め損なったらしい。イザベラは短銃に持ち替え、徒歩で距離を詰めた。その脳天を確実にぶち抜くには、互いの顔がはっきり見えるほどに近付いてからのほうが、成功率が高いのだ。

「セルヴィアナ・イズロー元帥とお見受けする!」

 走りながら銃身を構え、身元を確認する。

 イザベラは標的を確実に射程内に捕捉した上で、今度こそ確実に、引き金を引いた。

 一瞬。閃光と轟音の狭間の、虚無。

「元帥閣下!」

 銃声と同時に、視界に影が割り込んだ。

 クロユリを撃ち抜くはずだった弾丸をその身に飲み込み、参謀肩章の男が血泡を吹いて、こちらを睨む。見る間に広がる紅い色。イスガル軍の黒の軍服よりもさらに深い色をしていた。男の身体が前に大きく傾ぎ、ついに片膝を地面につく。

「ジエン!!」

 喉を引き攣らせてクロユリが叫び、その背中にしがみ付く。

 的が動かないのなら、それに越したことはない。イザベラは容赦なく拳銃の引き金を引いたのだが、雨に湿気たのか、不発に終わった。

――ちっ、肝心な時に!

 イザベラは腰の裏から短剣を引き抜き、胸の前に構えて突進する。

 所詮女か、とイザベラは思った。目の前で倒れた一人に気を取られ、行動停止してしまう。

 白刃と雷光。振り上げる。勝った、と確信した、その刹那。

撃たれた男が、獣のように唸りを上げながら、握り込んだ拳をイザベラの鳩尾に食い込ませた。無防備になっていた胴体に、重たい衝撃。視界に火花が散る。手が痺れて短剣を取り落とてしまった。

 あ、と臍を噛んだ時には、すでにそれを奪われた後だった。

 クロユリの心臓に突き刺さるはずだった刃を取り上げ、男は瀕死の獣形相でそれを迷わず前に振った。

 イザベラは、笑う。ただ笑う。

 白刃はイザベラの喉を裂いで、自分の血が見事に吹き出すのを見つめながら、イザベラは笑った。

 実に傭兵らしい犬死ではないか。

 栄光もなく、泥に塗れ、それでも思うのだ。傭兵としてこの上ない名誉だと。

 自分のために生きて、自分のために戦い、自分のために死んでいく。それを誇らしいことだと思う程度には、イザベラは己の人生を楽しんだ。

――ああ、こういう終わり方でよかった。

 いい人生だった、と心の底からそう思えた。それが極めて稀なことであり、ほとんど人間が理不尽や不条理に顔の筋肉を緊張させたまま硬直しているのを見てきたからこそ、イザベラは自分が幸福だと確信する。

 笑って死ねるように生きてきた。傭兵として生きて、死ぬのだ。

 平穏だけが幸せではない。平和な世には生きられないから、泥水と血と硝煙の中にこそ。

 やがて訪れる、静寂。

雨。

 叩きつけるように。

   ■

――こういう終わり方かよ、ホント、つまんねー。

 いつか思ったことを、ジエン・グランツェは再び思った。

「ジエン、ジエン!!」

 雨に濡れた黒い髪がしっとりと白い頬にかかって、やけに色っぽかった。

 いいものを見たな、とジエンは笑う。同時に、胸部から血が逆流して、吐き出す。二日酔いの嘔吐感に、似ていなくもない。

 酔っていたのだ。気持ちよく、騙された。

 夢だった。輝くばかりの、美しい夢。

「いやだ、いやだ、いやだ!!」

 豪雨、彼女の頬をいく筋も雫が伝って落ちていく。そのうちの一つか二つくらいは涙であってほしいと願う。

――いつか絶対泣かせてやるって、何度思ったことか……。

 事あるごとに泣かせたいと思った。苦しめて、悩ませて、追い縋らせて、ぼろぼろに毀して、半狂乱になって名を呼ばれ、それを突き放す快感を妄想しては、現実の彼女のあまりの冷徹さに挫けてばかりだった。

「いやだ!! ジエン、だめだ、私をおいていくな!!」

 小さな子どものように泣きじゃくって、激しく首を横に振る。その衝撃で飛び散る水滴の一つ一つまではっきり見えるほど、妙に視界が鮮明だった。

――ああ、綺麗だ。

 最高に腕のいい絵師を呼んで、この瞬間を絵画に残して保存したいくらいだ。けれど、ジエンはそれを他者に見せたくはないな、と思った。

 自分だけのものだ。この瞬間は、自分だけ。

 彼女は嗚咽を漏らしながら、もしもの時のために、と渡したハンカチを取り出して傷口に当てようとしている。しかし、手が激しく震えて、見当違いなところに触れていた。

 そんなんで間に合うものか、とジエンは思った。なので、そっと彼女の手を退けさせる。

「閣下、それは、どうか、ご自分の涙を拭くのに、お使いください」

「泣いていない!」

 彼女は叫び、両手でもって再びハンカチで出血を抑えようとする。致命傷にたいしてあまりに無力な応急処置に、ジエンは鼻で笑ってその手からハンカチを奪った。

 すっかり血を吸ってしまったからには、新しいのを用意してやらなければならない。

「ありがとうございます。このハンカチは戻りませんが、閣下は祖国に戻らねばなりません」

「お前も一緒だ! 一緒じゃなきゃいやだ!」

「わがままが、すぎますぞ」

 雨の音は、いよいよ大きく、激しく。砲撃の音と混ざりあう。作戦通りに戦局が展開しているのなら、丘の上のサザが、そろそろ大砲をぶっ放し始める頃合いだった。

「ひとりはいやだ!!」

 絶叫、硝煙と砲撃と生死の混淆に響く咆哮。

 泣かせたい、泣かせたい、と願ってやまなかったのに、これだけ情熱的に泣かれると弱ってしまう。もうちょっとだけ面倒見てやってもいいかな、という気を起こしてしまう。

「閣下の三歩後ろが、自分にとって、一番、安全でした」

「貴様がいるから!」

 彼女は怒っていた。なぜ怒られるのか、ジエンにはわからなかった。

「ジエンが後ろにいるから、私は無茶ができたんだ!」

 まるで、悪さを教えたのはお前だ、とでも言いたげだ。確かに、陰鬱に俯くばかりだった黒髪の姫君を、狗の軍勢を率いる雌狼に仕立て上げたのは自分かもしれない。

――いやいや、お前、最初から結構、すごい奴だった。

 破天荒。まさにそれだ。運命さえもぶっ壊してしまうほどの突破力。彼女には常識と普通がまるっきり通用しなかった。

――最初から、突き抜けていた。

 ジエンは笑う。愛しい気持ちに、嘘はない。

「貴女は、王だ」

「ジエン……大丈夫だから……きっと、また一緒に……」

「我らが王の道に、栄光あれ」

「勝手なこと言うな! お前も来るんだ!」

――ったく、これだからお姫様は。

 我儘で、傲慢で、やりたい放題、高笑い。それでこその、クロユリ様だ。

「失礼いたします」

 最期の最後、消え失せる間際に自分の命を何に使うかと問われれば、ジエンは、これだと決めた上玉を口説くに使う。男に産まれたからには、絶世の美女を落としてみたい。

 運命の女を、命の限り愛したのだ。

 口元の血反吐を袖で拭ってから、その怒った顔を引き寄せる。

 このまま喰う勢いで、激しく口付をした。

 完全燃焼、ジエンは十分、満足だった。

 この髪を洗ったのは俺なんだぞ、と、恩着せがましく撫で回し、あとは冷然、突き放す。

 いつも突き放す側だった彼女が、狼狽えて瞳を揺らしていた。

「セルヴィアナ」

 ジエンは笑う。笑って別れましょうと言ったのは、彼女の方だ。

「愛している」

 ぽろん、と、夜明け前の空の色をした瞳から、雨とは違う色をした雫が溢れて落ちた。

 その時。

「ルヴィア!!」

 叫ぶ声とともに、戦場に翻る天狼旗が見えた。

 すれ違う運命と、生と死。未来はどちらの手にあるか、一目瞭然であった。

 ジエンは呆然としているセルヴィアナを突き飛ばす。倒れかかったその身体を、二本足のトカゲに跨ったまますり抜けざまに掻っ攫っていく晴天の青。何か言いたげにその瞳が複雑に揺れたので、ジエンは勝ち誇った笑みを浮かべた。

――譲ってやるよ。だから、必ず守り抜け。

 雨が景色を洗い流していく。雷鳴と砲撃が解けて混ざり合い、彼女は混沌を抜けていく。

 それは、時代を呼び込む風にも似て、高らかに、清らかに、クロユリの軍旗は翻る。

 夢は果てなく輝いていた。

 ジエン・グランツェはすこぶる上機嫌だった。この世に愛を知り得たのだから。

   ■

十四日正午、豪雨。

聖皇国連合軍が左翼側面に接近していることを察知したイスガルは、セルヴィアナ元帥指揮下、未だ行軍中にあった連合軍に突撃を敢行。ナギェロッソ大尉はイスガル軍の斉射を躱し、重騎馬隊がイスガル歩兵連隊に突撃、大打撃を与える。この時、セルヴィアナ元帥が被弾し落馬するも、駆けつけた北領龍騎兵の果敢な突撃により、戦線離脱に成功。


同日午後一時。

 イスガル側が高台に配備した新式砲台から凄まじい砲火を行う一方、聖皇国後衛からも砲撃が行われ、両軍の熾烈な砲撃戦はおよそ二刻ほど続いた。その後、崩壊した聖皇国騎馬隊をモルドァ大佐率いるサルマリア隊が撃破するも、ついに圧倒的人口差を覆すことはできず、イスガル軍は徐々に後退、後から到着した北領軍がこれを掩護。聖皇国軍は退却をはじめるイスガル軍に追撃を試みるが、日没、悪天候、部隊の消耗などの悪条件にみまわれ、成果を上げることはできなかった。

 なお、この戦闘の結果、セルヴィアナ元帥は戦友であるジエン・グランツェ参謀官を失っていることを、ここに特記する。

   ■

 北領の援軍が間に合ったのは運がよかったからだ、と人は言う。殊更、龍騎兵の突撃が成功したのは奇跡だと言われると、シズマとしてはちょっと複雑な心境だ。「脚の速さだけが取り柄の趣味部隊ですから」と社交辞令を返しておく。素直に礼を言えないのは、大陸最強の軍国としての矜持の高さ故なのか、はたまた、クロユリ様のこまっしゃくれた精神が全軍に浸透してしまったのか。

 ともあれ、シズマにはイスガルに恩を着せて、領地の割譲や戦費の負担を申し出るつもりはなかった。清廉潔白、無欲にして謙虚。それが理想的だが、ちょっとくらいは見返りとして、ただ一言、惚れた女に「助けてくれてありがとう」と微笑まれることを期待したって罰はあたるまい。

 驟雨、漆黒の軍旗を握りしめて荒野を見つめる細い背中に声をかけようとして、しかし、思い留まる。きっとシズマが逆の立場なら、振り向きたくはないだろうから。

 ところが、こちらが気を遣うと逆に拗ねるのが、彼女の面倒かつ可愛らしいところで、セルヴィアナは振り向くと、やたらと瞳を光らせてこちらを睨んだ。

 何の用だ、と吠えられると思いきや。

「ありがとう」

 予想外にあっさり望みが叶い、シズマは「お、おう」とぎこちなく頷く。

「援軍が間に合ったから、我が軍は全滅を免れた。礼を言う」

「同盟ってのはそういうもんさね」

「それに、北領から連れてきた医者の集団。あれのおかげで負傷兵の生存率が俄然、向上した。あれは何だ? イスガルの軍医ともまた違った様子だ。それに、随分若い」

 ああ、とシズマは背後を振り返り、肩を竦めた。

「北領に赴任して早々、一悶着あってな。その時、妥協案として公共の医療施設を創ったんだ。大半、医者と呼ぶには三本毛の足りない輩だが、人手は多いに越したことなかろう? あと、少なくとも一人、震え上がるほど腕のいい外科医も連れてきたから」

 シズマは冷徹に反射する片眼鏡を思い出し、苦笑する。

「このままシエドまで掩護するから、安心して少し休むといい」

「休む? 馬鹿言うな」

 セルヴィアナは顔を上げ、雨の彼方を睨んで言った。

「我が軍はこれから聖皇国連合軍への反撃を行う」

 シズマはゆっくり、慎重に、セルヴィアナの背後に立った。ここが崖だったら、そのまま飛び降りてしまいそうだと思った。それほどに、彼女の声は無機質で、作業的だった。

「馬鹿言ってんのは、そっちだよ」

 シズマは肩越しに再び背後を見やった。疲弊して傷付いているのは身体ばかりではない。敗走の現実に、あれだけ精彩を放っていたイスガルの軍服が、濡れそぼって色褪せて見える。

「敗けたんだ。まず、それを受け入れないと、次の手は浮かばないぞ」

「敗けていない」

「いいや、敗けだ。壊滅していないのは、天が味方したからさね」

「敗けていない!」

 彼女は叫んで振り返ると、やおらシズマの胸倉を掴んだ。

「敗けてない! 敗けてはいけないんだ! 私はまだ戦える! 戦わなければならならない! ここで諦めたら、全部、なくなってしまうから……だから、私は敗けてはいけなかったんだ! 勝たなければならないんだ!!」

「現実から、目を背けるな」

「敗けてない!!」

 シズマは溜息をつき、瞳を伏せる。

「ルヴィアよ。今、自分がどんな目をしているか、わかっているか?」

「知るか! 負け犬の顔か? それとも、しょぼくれた捨て犬の目か? 何とでも蔑めばいい。私は敗けていない」

「手負いの獣だ」

 シズマは伏せていた瞳を開けると、セルヴィアナの両肩を抑える。

「狩で止めを刺し損なって、追い回した挙句に暴れられた時の、獣の目だ」

「……イスガル軍は、死に体だと、そう言いたいのか?」

「そうじゃない。誤解のないように言っておくが、俺は今、とても慎重に言葉を選んでいる。何故なら、お前が今にもしでかしそうで、すごく、危ないからだ」

「しでかすとは、どういう意味だ?」

「破滅。いいか、ルヴィア。どうか怒らずに、冷静に聞いてほしい。戦場で一番厄介なのは、自暴自棄になった大将だ。あまりにも死の衝撃が大きくて、生と死の均衡が崩れて、守ることを忘れる。逃げるのも、生き残る手段の一つだと考える余裕がなくなっているぞ」

 セルヴィアナは反論しようと口を開き、そのまま唇を噛んでそっぽを向く。

「このままでは、私は、また守れずに終わる。それは、嫌だ。どうしても嫌だ」

「何を守りたいのか、教えてはもらえないものかな」

「夢を……」

 不意に、くしゃりと彼女の顔が歪む。ひび割れ崩れて、落ちかける。

たった一瞬、セルヴィアナが少女に戻った瞬間に、シズマは思わず呼吸を止めて見入った。

 しかし、次の瞬間には獰猛な獣の顔に戻って言う。

「ソルディアを奪われるわけにはいかないんだ。ここは何としても死守する」

「そうだな。俺も、賛成だ」

「嘘つけ」

 すかさず、セルヴィアナは言う。

「ルブロの軍勢がついに動き出したという情報が入ってきているぞ」

「何だよ、知っていたのか。性格悪いぞ」

「貴様こそ、私に隠し事をして、何が同盟だ」

「……その言い方だと、今度はイスガル軍が北領に援けにきてくれるように聞こえるが?」

「うるさい! だから、敗けてはいけなかったんだ!」

 セルヴィアナは頭を掻き毟り、曇天に向かって唸りを上げると、唐突に手に持った軍旗を振りまわして、消沈する兵士たちを踏みつける勢いで闊歩しだしたから、シズマはぎょっと目を見張った。

「ばか! ばか、ばか、ばかー!!」

 半狂乱になって騒ぐクロユリ様に、シズマのみならず、北領の兵士も、イスガル軍の兵士でさえ、俯いていた顔を上げて彼女を見上げた。

「栄光はすぐそこだ! 今、諦められるわけがないじゃないか! ばかーッ!!」

 わんわん吠えたてながら彼女は歩む。激励にしてはあまりに無様で、醜態と呼ぶにはあまりに真っ直ぐすぎて、こんな彼女の生き方を、どうしても放っておいけないのだ。

 だめだ自分が何とかしないと。きっと、その場に居合わせた者全員がそう思ったに違いない。座り込んでいた兵士たちが一人、また一人と立ち上がって、彼女の後を追いかける。

 それが東のクロユリ。

「ばかー!!」

 天に向かって罵倒する。シズマは見かねて、立てかけられたままの天狼旗を取ると、その先端を軽く黒百合の軍旗に絡ませた。

「止めるな」

「止めたわけじゃない。交差する旗の意味は、敵対だけか? ともに戦うと言った。それが俺の……俺たちの生きる意味だ」

 しばし、彼女の夜明け前の瞳が見つめる。やがて無言で頷くと、セルヴィアナは再び歩み出した。その足取りは爽快。敗北してなお、彼女は勝ち誇る。

「そういえば」

 やおら彼女は襟を開くと、首に提げた金の鎖を引っ張った。飛び出してきた既視感のある鍵を、シズマは思わず凝視してしまう。

「驚いた。本当に片身離さず胸の谷間にしまっていたとは」

 ばかやろう、と彼女は睨み、項の留め具を外して差し出したので、シズマは素直に受け取る。直後、素手で受け取ればよかったと俄かに後悔していた。手袋をはめていなければ、金属に宿る彼女の体温に触れられたのに、などと、言ったら蹴られそうなことを考えていた。とはいえ、シズマの思考の半分はいつでも現実を見つめている。

「すごい大きな疵があるな」

 激しく抉れた鍵を観察し、シズマは首を傾げた。

 撃たれたんだ、と彼女は平然と言ってのける。

「これが凶弾を弾いた。凄いことだと、私は我ながら思うぞ」

 嘘だぁ、とシズマは思わず顔を顰める。しかし、弾痕だと言われればそんなふうにも見えてくる。セルヴィアナが手を出して返すように求めてきたので、その掌に乗っけてやる。

「ちょっと俄かには信じがたいけど、ルヴィアが無事ならそれでいいよ」

「守ってくれた。そういうことにしておいてやる。光栄に思え」

「無論ですとも、元帥閣下」

 彼女が再び首に提げて大事そうに鍵を仕舞い込むのをじっと横目で見守りながら、シズマはしばし、無言になる。

「幸運と言えば」

 セルヴィアナは自らの胸を抑えて、ふと、遠い目をした。

「凶弾を受ける直前に、狼を見た気がするんだ」

「戦場で?」

「多分な、幻だと思うんだ。ちょうど雷が光っていたから。緋い毛並の狼が、私の乗る馬の真横を駆け抜けていって、思わず手綱を引いて振り返った。偶然だ。全部、偶然。振り返った先で私を狙う者があり、背中から胸を貫くはずだった弾丸は、私が軌道のど真ん中で止まって振り向いたことで、この鍵を射抜いた」

「それ、後の語り草になりそうだ」

「普通、死んでいる」

「そうだな。でも、俺はルヴィアが生きていて、本当によかったよ。神話でも何でもいいよ。生きて、こうして一緒に隣を歩いているだけでいい」

 うん、と彼女はどこか茫洋とした様子で肯く。

「生きていてよかった。でも、何だか申し訳ないようで……」

「生き残って悪いことなんてないさね。振り返っちゃ駄目だ」

「わかっている。その手の感傷はルースの夜に捨ててきた。違うんだ。もっと、低くて単純な違和感なんだ。待ち合わせの約束をすっぽかしているような、そんな気分だ」

 シズマは瞬きもせずに天を見上げていた。

「……少し、晴れてきたみたいだな。もうすぐ雨が止みそうだ」

「そうだな」

「雨が止んだら、忘れるといい。覚えていても仕方ないことさね」

「まあ、そうなんだがな。でも、気になる」

「相手が俺だったら平気で待たせるくせに」

「そんなことない。私は時間に正確だぞ」

「ルヴィアは真面目だ。待たされるのも、悪くないぞ」

「それは、相手がいつか必ず現れると信じているからだ」

「俺は不確定要素を潰しておく性質でね。現れるかどうかもわからない相手なら待たない。待つのは、確実に自分の前に現れるように仕向けた相手だけだ。俺は運命を信じない」

「そういう計略のない相手だったら……」

 セルヴィアナは戸惑うように首を傾げる。

「きっと馬鹿みたいにずっと待ってしまうだろう。そのまま忘れさられてしまうのは、あんまりだ。あまりにも、かわいそうだ」

 シズマはにっこり、笑ってみせた。

「心当たりでも?」

「いや……別に、特定の誰かというわけでなくて……上手く言葉にならない。離れていったのは相手ではなくて、私の方なのかも」

「大事なことならそのうち思い出すもンさね」

 やはり、シズマは笑っていた。

「それに、忘れるべきことかもしれないじゃないか。永遠なんてないんだよ。風化していくものを無理に留めおくこともない」

「でも、辛いんだ」

 セルヴィアナは胸を抑えて顔を顰める。憎む、あるいは求める。複雑に絡まる彼女の心の中が表層化されて、シズマは見惚れた。

「願わくは、そんな貌で俺のことを思っていてほしいところだね」

 笑う。ただ笑う。栄光も幸福も、具体的な形を伴うところまで近づいていた。

   ■

 レバントから敗走したイスガル軍五万が、北領軍六万と合流した。

シズマはそのままセルヴィアナとともに北上し、ルブロ軍十万に備えるつもりであった。

 レバントの戦闘ではイスガル軍側に死傷者一万と七千の捕虜という甚大な被害が出ており、残った六万三千のうち、ソルディア防衛のために一万三千が残された。一方、聖皇国連合軍の損害も激しく、突撃を敢行したナギェロッソ隊はほぼ全滅したと聞いている。

 イスガル側には再び野戦を行う余力はなく、また、聖皇国側に残された軍隊のほとんどは列強派遣軍であった。派遣軍側の司令官が血気盛んな性分でソルディアを包囲する気でいるのなら極めて危険な状態だが、シズマは、十中八九、連合軍はすぐには仕掛けてこないだろうと踏んでいた。

 クライツベリ少年伯は慎重な性格だ。それに、とても冷静だ。機を待つことができる。具体的には、こちらがルブロに勝手も敗けても、ライセが動くのはその直後が最適であるとわかっているはずだ。結果次第では攻囲に至ることなくソルディアは陥落する。

 兵数ではほぼ互角だが、実質、戦闘が可能なのは北領軍六万だと、シズマは沈黙するイスガル軍を見渡して判断した。

 連戦に次ぐ連戦の果ての、大敗北である。殊更、参謀官ジエン・グランツェを失ったのは、イスガル軍にとって相当の痛手であったに違いない。

 口数少なく配給の食糧を貪る兵の姿に、シズマは天を仰ぐ。

――ルヴィア一人じゃ、無理だ。

 奇跡は一度きりだからこそ。理屈で測れない強運ゆえに、それを補填するにも理屈が通じない。神がかり的な勝利は、まさしく彼女が普通の人間ではなかったからなのだ。

 そして今、その事実を知る人間はこの世に自分一人だけだと、シズマは気付いていた。

 いつからか、どこからか、あの緋い髪の少女はセルヴィアナの前から姿を消した。姿だけでなく、記憶からさえ消えている。

 緋月狼に見初められた少女が、人間に戻ろうとしているのだ。

 不思議なのは、それを理解できるという事実だった。シズマは計り知れない天空から、自らの手元に目を落とす。他の人間が軒並み乙女に化けた緋月狼のことを忘れ去っているというのに、シズマだけが、未だに彼女のことを覚えていた。

――今は、考えるのはよそう。

 目の前の現実の勝負に集中してさえいれば、きっとよい結果になるはずだ。

 シズマはそっと踵を返し、クロユリ様の待つ作戦本部の天幕へと足先を向ける。

北の大山脈に放った斥候のうち、湖水地方側を見張る部隊から、ルブロの兵隊を目撃したとの報告が入っていた。

 火薬の匂いと金具の打ち合わさる慌ただしい空気の中、シズマがイスガル側の統帥天幕を訪ねると、すでにクロユリ様が地図を床面一杯に広げて這いつくばっている。急ごしらえの作戦本部に、机を持ち込む時間さえ惜しんだらしい。

 新王が地べたに四つん這いになっているのに、その家臣が立っているわけにはいかず、皆一様に跪いて頭を垂れている。自分一人で立っているとあまりにも居丈高なので、シズマもこじんまり、地図の拡がっていない端っこの方にしゃがみこんだ。

 ふと、セルヴィアナは顔をあげ「いたのか」と言う。シズマは憮然と「今来たところだ」と返事をしようとしたが、それさえ待たずに彼女は再び地図に夢中になってしまった。

 それにしてもすごい集中力だ。いつぞやフェイゼンラフカ図書館での本の虫っぷりを思いだし、シズマは言った。

「本の次は地図か」

「妬くな」

 思いのほかちゃんと返事があり、それはそれで、シズマはまた複雑である。やがてクロユリ様がするすると地図から退いて、立ち上がった。

「サルマリア砦を避けて湖水地方側から攻め入るか」

「そりゃあ、元帥閣下の古巣だからな。俺なら敬遠する。不確定要素が多い道は避けたい」

「例えば?」

「サルマリア砦は自然の創り出した不落の要塞で、敵軍の指揮官はそこを詳細に熟知している。伏兵と遊撃で迎え撃つには好条件だ」

 それに、と、シズマはいつもの癖でこめかみを突く。

「あそこは古くは女神の神殿だった。そういう奥ゆかしいところにだな、手引きもなく野郎が踏み込むもんじゃない」

 すると、彼女は苦笑して首を横に振った。

「意外と信心深いな」

「まあ、色々見てきたからな。男にだって勘は働くもんさね」

「確率としては、五分五分だったんだ。私が北領にいるとわかれば、敵はイスガル側から侵攻を開始するかもしれないと懸念していたのだが、まあ、よかったよ」

「隊を分割してマリエンドと北領の同時侵攻の可能性は?」

「それならそれで、半壊させられる好機だった」

 問題は、と、セルヴィアナは地図の一点を指揮用宝剣の先で示した。

「十万全てが、予想以上の速さでこちらに向かっていることだ」

「総力上げて北領を狙っているわけか」

「敵は我々を全滅させるつもりだな」

「うちの斥候から入った情報では、すでに峠を越えたらしいぞ。早ければ明日にでもこちら側に到達するかもしれない」

 とん、と彼女は北領のさらに先、竜骨山脈の麓に拡がる荒野を突く。

「ここで迎撃しよう」

「何もない、真っ平らなところで正面きってぶつかるつもりか?」

「逃げ隠れしたってしょうもない」

「いくらなんでも、雑すぎでは?」

 セルヴィアナはきょとんと目を瞬き、首を傾げた。

「私が丁寧だったことがあったか?」

「性格が繊細かどうかはともかく、戦術は緻密だった」

「そうでもないぞ。ソルディア侵攻の時だって勘だと言い張って出兵した」

「その勘を、あまねく兵士に可能性として示すことができていた。理論や経験を上回る説得力があったからこそのことだ。大胆通りこして、大雑把だぞ。大丈夫か?」

 シズマは思わず心配してしまう。当のクロユリ様はつんと顎を上げて腕組みすると、「なら私より賢い案を出せ」とのたまう始末。

 彼女はしきりに髪の毛を弄っている。

――大丈夫じゃないぞ、これ。

「万策尽きたか?」

 シズマの言葉に、ぴしりと空気が凍った。怒らせるのは覚悟の上だが、仕方ない。

 ぎぎぎ、と音の聞こえそうなほど真っ黒な笑みを浮かべてクロユリ様が振り返った。獲物を狙い定めた猛獣の目をしている。食い殺されるかもしれないと、シズマは内心、滝のように冷や汗を流していた。

 しかし、シズマが言ってやらないと、セルヴィアナが窒息する。負けず嫌いの彼女の口からは、けして弱音は出てこない。出してはいけない。ましてや今のイスガル軍はセルヴィアナ一人の求心力で持ちこたえているようなものだった。

 なので、一休みするのにだって、喧嘩をするしかない。

「決死の突撃命令を出す気でいるなら、こちらも軍隊を率いる総司令官として言わせてもらう。そんなことしたって犬死だ」

「言わせておけば」

 ゆらり、彼女は黒炎の幻影を背後に纏って正面に向き直る。

 腕組みして顎を引き、背後に百戦錬磨の武将たちをずらりと並べてこちらを睨む。実に肝の縮む思いである。

「他者の考えを否定するだけなら、為政者でなくても可能だぞ」

「熟考した上での結論で、それしか道がないのなら、賛同する」

「私の考えが足らぬと申すか。なら、北領総司令殿はよほど賢明な戦略をお持ちのようだ。どうか浅はかな女に、正解を示していただきたい」

「厭味を言うな。俺は絶望するなと言っている」

「では、そちらの希望的観測を聞かせてもらおうじゃないか」

「……希望的観測って時点で、聞く耳を持っていないよな、それ。まあ、いい。それでは、畏れ多くも東のクロユリ様に申し上げる。ずばり、策はない」

「……、……素敵な解答だ。千回死ね」

「千回死ぬより一回生きよう。ともに生きよう。そのための逃げ道として、小狡い手を考えよう。正面対決して華々しく散るのがイスガルの職業軍人の誉れかもしれんが、生憎、北領の民は戦争が終わったら鉄砲を鍬や鋤に持ち替える。考え方からして異なる。北領の兵隊の頭の中では、守ることが前提だ。だから俺は北領の首長として、民を守る戦略を提示したい」

「時間はないぞ。明日にはルブロの十万の軍勢が攻めてくる」

「何とかなるし、何とかする」

「呆れた。そんな間抜けた言葉で民を惑わすか」

「騙されたい奴は騙されるし、騙す必要がある。元帥閣下はいかに?」

 にやり、シズマは口角を引き上げた。セルヴィアナがぴん、と片眉を跳ね上げる。

「軍議を中断する。これ以上は言葉を連ねても無駄なようだ」

「同感だ。混成軍の司令官同士の反りが合わないのは、まことによくあることだからな」

 天幕を出る間際、イスガルの砲雷長、だったか、こんな汗臭いところには似つかわしくない、優雅な様子の青年が、日付表を見上げながら「あ」と小さく声を上げていたのが、何故だかやけに印象に残っていた。

――なるようになる。いや、なるようにしか、ならないんだろう。

 シズマはこめかみを突く。いつだって窮地にこそ思うのだ。人生は面白い、と。

「何を笑っている?」

 声が聞こえて、シズマが後ろを振り返ってみると、触れそうなほど真後ろに立って、すこぶる不機嫌な顔をして、クロユリ様が腕組みしていた。

「にっちもさっちもいかないなぁ、と」

「その割には、悪い顔をしているぞ」

 言われてシズマは自らの顔を両手で擦った。

「北領の龍騎兵の突撃は見事だった」

 何故、今それを言われるのかわからず、シズマはお座なりに「ありがとう存じます」と愛想笑いを浮かべておく。

「蜥を見たい」

「ええっと……どういった風の吹き回しで?」

「見るだけでいい。駄目か?」

「無論、構わないけれど」

 シズマは怪訝に首を傾げながらも、クロユリ様を蜥の囲いに連れて行く。シズマの姿を見つけるなり、さっそくやってきた蜥をじっと見上げて、彼女は何やら考え込んでいる様子だった。やがて、セルヴィアナは微かに溜息をついて、ゆるく首を横に振った。

「やっぱり、変だ」

 さきほどまでの剣幕が嘘のように、セルヴィアナはしょんぼり眉を下げた。こんな顔もするのかと、シズマは驚く。それとも、こちらの方が元来の彼女の顔なのだろうか。

「厚かましいことを承知の上で言うが、俺でよければ相談に乗るぞ」

 ちょっとどんな反応が返ってくるか想像もつかなくて、シズマはドキドキしながら横目で様子を伺う。セルヴィアナは別段怒るふうでもなく、すんなり口を割った。

「こんな時に何だが、極めて個人的な悩みなんだ。戦略とは全く関係ないが、いいか?」

「当然、喜んで」

 うん、と淡く肯き、セルヴィアナは蜥の囲いに腰かける。まこと、姫らしからぬことである。こういう野性的なところが、シズマの庶民魂の琴線に触れるのだ。彼女に合わせて、シズマも囲いに背を預ける。

「私は友だちがいない」

 ぷふ、と思わずシズマは笑ってしまった。隣でセルヴィアナが頬を膨らます。

「笑うな!」

「あー、ごめん、ごめん。いや、その性格じゃあ仕方ないかなぁ、と」

「……私は、相談相手を間違えたか?」

「いいや、俺で正解。俺ほどこの世でルヴィアのことを理解している者はないね。ルヴィアの研究においては世界的権威だぞ、俺」

「それなんだがな」

 意外にも、彼女は真摯な眼差してこちらをじっと見つめて言った。

「そうじゃないかもしれないと、最近、思い始めた」

「そんなことない。俺ほどルヴィアのことを思っている奴は他にいない」

「そうだろうか。確かに、お互い敵対していた頃には、私はお前の考え方を粒さに観察していた。どうやったら勝てるのか、常に追いかけていた。そういう意味で、お前は好敵手で、先輩で、唯一にして最高の悪役だった」

「お褒めに預かり光栄だね。俺も、ルヴィアのことを思わなかった日はないぞ」

「残念ながら、私はお前のことばかり考えていたわけじゃない」

 がく、と思わずシズマはずり落ちそうになる。

「あのさ、この流れでそれはないんじゃない?」

「真面目に聞いてくれ」

「はい」

「私は、敵のことばかり考えていたわけじゃないし、常に戦っていたというわけでもなかったはずなんだ。勿論、父王に導かれ、背中を預ける戦友や、兵士や将官たちの信頼を得てきたわけだが、それは私にとって闘いだった。身体を張って、命を賭けて挑んだ闘いであって、夢を駆け上がるための努力の一環だった。でも、私の記憶には闘いの履歴ばかりじゃない」

 ふと、セルヴィアナはそこで言葉を切り、空を見上げた。

 綺麗な夕空であった。昨日の嵐が空を磨いていったのだろう、恐ろしく感じるほどに澄んだ緋色が無限に拡がる。

「綺麗な空だな」

 シズマは言い、セルヴィアナはくしゃりと顔を歪めた。

「綺麗だけど、何だか切ない」

「恋をすると、夕陽で泣けるって聞いたぞ」

「夕陽で泣けたら、恋なのか?」

「おい、大丈夫か?」

「困ったことに、大丈夫じゃないんだ。夕陽で泣けるんだ」

 眩しいからか、それとも顔を隠すためか、彼女は手を翳す。

「唯一、私と闘わなかった人がいたはずなんだ」

 微かに喉を震わせてセルヴィアナが言うのを、シズマは黙って聞いていた。

「私を守ってくれた人がいたんだ。王になると決めた時、私は自分の心にある余計なものを捨てたはずだった。だけど、今の私には、その時に千切って投げ捨てたものが補填されている。わざわざ拾い集めて修繕したのは、私じゃない」

「人ってのは、人との関わり合いの中で互いに削れたり、補ったりして、良くも悪くも変化していくもンさね。きっと、ルヴィアは多くの人と関わる中で、欠けたものを補っていったんだよ。ちゃんと人間として成長したってことさね」

「そうだろうか。私は、多分、お前の言うほど他者と関わってこなかったように思う」

「意識的にしろ、無意識にしろ、関わってきたんだよ。それを絆という」

 絆、と、彼女は反芻して、再び首を傾げた。

「繋がりの深さで言うのなら、私は多分、それを失くしているんだ」

「ルヴィア、考えすぎだ」

「許せ。今だけは、自分のために考えたいんだ。もう間もなく、私は自分以外の大勢のために、全ての時間を費やさなければならなくなる。きっとこれが、自分自身のために使える最後の時間だと覚悟している」

「その同伴者として俺を選んでいただけたのは幸いだが、それなら、もっと楽しいことを考えたらどうだ? 例えば、夕飯のこととか」

「馬鹿か?」

「恋する男は皆馬鹿さね。俺は今、鳥鍋が食べたいな。ルヴィアと一緒に食べたい。ちゃんと意地悪しないで作り方教えてやるからさ。だから……」

 逃がすものか、とシズマは思った。今掴まえなければ永遠に失われるような気がして、ひどく焦っていた。想い続けた少女が、この腕の中に落ちかけている。ならば、シズマは全身全霊、抱きしめる。必ず守り通す。

「この戦いが終わったら、結婚しよう」

「……笑うところか?」

「俺は本気さね」

「よせよせ。開戦前に結婚を誓うと死ぬぞ。そして、それが真実だということを、ついに私も信じざるを得なくなった。だから、よせ」

 セルヴィアナは笑っていたが、シズマは笑わなかった。

「俺なら、ずっとルヴィアと一緒にいられるよ。ひとりにはしない。黙って消えたりしない。一緒に生きるよ。誓えるよ」

「ふん。その誓いを立てて去っていった奴を複数人知っている。信じるものか」

「信じていい。俺だけは、信じていいぞ」

「疑わしい限りだな。お前は嘘つきだから。それに、私は誰とも結婚しない」

「そう頑固にならずに」

「私が頑固なんじゃない、お前がしつこいんだ。婚約発表の時からずっとだぞ?」

「あ、そういやルヴィア、俺が贈ったドレスどうした?」

「今の今まで忘れていた」

「俺はお前に着せたくて贈ったんだぞ。本音を言えば脱がせたい」

「ばか。……そういえば、どうしたっけかな」

 セルヴィアナはしきりに首を右に左に傾げている。

「……おかしいな。試着したような、してないような……鏡に映した姿を見ているんだ。確かに、見た。それは憶えているんだが……」

「また着ればいい。きっと似合う」

 シズマはにっこり、笑って言った。

「衝撃的な婚約発表だったけれど、あれで反って、ルヴィアに対して本気になったよ」

 うん、と曖昧に返事をして、セルヴィアナは額を抑えた。

「私はあの時も、ひとりじゃなかった」

「俺がいたから」

「お前も、いたよ。でも、向かい合っていた。厳密に言えば睨み合っていた。そうじゃなくて、睨み合うんじゃなくて……見つめ合ったような……ザルツァーの死んだ日、私は、相手の瞳に映る自分を見て、それで、ようやく息ができたんだ。あれは、誰だったか……」

「俺じゃないかな」

「違うよ。あの時、お前は近くにいなかった」

「責められているのかな、俺は」

「そういうわけじゃない。いなくて当然だ」

「その言い方の方が、余計、心にずっしりくるな」

「面倒な奴め。ともかく、私の隣には友だちがいた。でも、今の私には友だちがいない。友だちだったのか、それとももっと親密だったのか、そうだとしたら、何故私はそんな大事な人のことを忘れていしまったのか、疑問だ」

「なあ、ルヴィア」

 シズマは堪りかねて彼女の肩を掴んで向き直らせた。

「不確かな思い出じゃなくてさ、現実を見るべきだ。現実の積み重ねの上に、未来はある」

 すると彼女は怒るような、悲しむような、実に複雑な色の目をして言った。

「思い出を大切にしたいと願って何が悪い?」

「思い出は過去だ。過去に捕らわれるな」

「言葉だけなら、お前が正しいように思う。だけど、何故かな、心の底では納得できない」

「単純に俺のことを嫌いなだけだよ。好きの裏返しでもある」

「嫌いな相手に」

 ふと、セルヴィアナが顔を寄せた。耳殻に吐息のかかるほど接近され、シズマは一瞬、思考が空白になる。

「こんなふうに助けを求めたりはしないよ」

 一瞬、シズマは全ての表情を忘れる。言葉も、思考も、何もかもなくしてしまう。

「あー、もう、いいや。喜んで敗けを認めよう」

 シズマは今度こそ心の底から笑って、セルヴィアナの頬に唇を掠った。

 セルヴィアナは、相変わらず尊大に勝ち誇って笑みを深くする。それでいて、ずっと抱え続けてきたかなしみを吐露するのだ。

「さびしいんだ。すごく、さびしい」

 嘘かもしれない。でも、真実かもしれなかった。

「そんな顔で言われても、説得力ないな」

「お前はどこででも一人で生きていけるだろうけれど、私は不安だ」

「ひとりぼっちで生きていくのは、誰だって不安だよ」

 不意に、彼女は蜥を振り返った。

「この生き物は、騎手の魂の伴侶だと言っていたな」

 そうだけど、と、シズマは蜥の嘴唇に手を伸ばす。

「信頼と絆、か。羨ましい限りだ。どうやって調教するんだ?」

「馬みたいに、人間が教え込むことはないよ。蜥が人間に合わせるなんてことはない。人間側が蜥に受け入れてもらうしかないね」

「ずっと気になっていたんだが、この生き物は卵から生まれるのか、それとも分娩か?」

「それが、謎なんだ。野性の蜥と荒野で遭遇するしか、方法がない。だからある意味、選ばれているのは俺ら人間の方で、巣の在り処も、蜥が導くまではわからない」

「そうか。だからこそ安全なんだな」

 それから彼女はふと思い出したように顔を上げた。

「ザルツァーと逃げた夜、私はどうして蜥の巣穴に逃げ込んだんだろうな」

「さぁ? 崖から踏み外して落ちてきたんだと思ったけど?」

 シズマは慎重にセルヴィアナの様子を伺う。その横顔は無防備なほど白くて、考えが全く読めなかった。

「今じゃ、いい思い出だな」

 シズマの言葉に、セルヴィアナは肯く。

 そう。思い出だ。シズマはそっと俯いて、緊張して白く乾いた自分の指先を見つめていた。

 このまま完全に思い出になってしまえと、冷酷なことを願っていた。

 だって、それが彼女の幸せだから。人間の、あたりまえの、正義であるのだから。



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