うん、でも7巻が本物。
1
女の王に、北領独立。歴史的破天荒を同時にしでかしたセナとシズマは、現在、ソルディア城に構えた作戦本部にて、仲良く卓を挟んで向かい合っていた。
と言っても、セナは黙々と書き物をしていたし、シズマはじっと膝を揃えてひたすら黙って借りてきた猫をしていた。が、とうとう沈黙に耐え切れずに、シズマは口を開いた。
「俺は嬉しい限りだよ、こうしてルヴィアと同じ部屋にいられて。欲を言えば二人きりがよかったな。ねぇ、何書いてるの? 恋文?」
途端、息の根止める勢いで、全員に一斉に睨まれる。一人は当然、クロユリ様である。ぎろりと黒い瞳を向けて、薄く唇を開いて笑う様子は、地底の魔物を思わせた。もう一つは、彼女の背後で直立している参謀肩章の青年で、シズマの立場が上でなければ簀巻きにされてベルテ河に沈められそうな、ゴロツキと呼ぶにふさわしい目つきの悪さである。そして、その隣。こちらはシズマが発した言葉の内容に苛立ったというより、不用意に発言したこと自体に対して牽制している様子だった。ススロ時代によく噂に聞いた、かの悪名高きモルドァ傭兵隊長、ご本人様である。ここまでは、まあ、仕方ない。
「なんでお前も俺を睨む?」
シズマは自分の隣のエイラーンを振り向いて、眉根を寄せた。万一、シズマが向かいのゴロツキ参謀に簀巻きにされた時には、唯一庇ってくれる可能性があるのは彼だけなのだが、そのエイラーンでさえ、一緒になって縛り上げるのを手伝いそうな勢いで睨んでいる。
「状況をよくよく考えた上で、慎重に発言なさってください」
溜め息混じりの腹心の諫言に、シズマは唇を尖らせた。
「十分、理解しているぞ。だからこそ、大事な大事な同盟国の新王陛下と、俺たちの将来について、ゆっくりとっくり、話し込みたい。お前ら邪魔だ、と言っている」
「うるさい」
ぴしゃりとクロユリ様に叱られて、シズマは黙る。彼女は書き物を続けながら、うっすら氷の微笑みを浮かべたまま言う。
「参謀、そこにいるのは同盟国の首長だ。あまり睨むんじゃない。それと大佐、眉間の皺を解せ。怖い。ロートリゲン卿の意見には全面的に同意する。最後に、シズマ」
そこで彼女は不意に手を止めて顔を上げると、手に持ったままの羽ペンの先でふわりとシズマの眉間を撫でて、にっこり、魔性の笑みを深くする。
「私の部下の前で舐めた態度をとるんじゃない。次に渾名で呼んでみろ、今度は羽のほうじゃなくてペン先で眉間を突くぞ」
おっかねぇ、とシズマは笑い、羽先を軽く払う。
「では、真面目に話すが、ローハン、ノザリの二都陥落に続いてカナンも戦況が芳しくないぞ。このままでは連合軍がクラズウェラを包囲するのも時間の問題だ」
「我々は敗けているな」
セルヴィアナはこともなげに言い、ようやく筆を置くと、背伸びをした。
宣戦布告からすぐ、七星候の一人が聖皇国連合軍に名乗りを上げ、挙兵。ソルディアに兵力を振り分けた結果、手薄となったローハンに攻撃を開始した。この抜け駆けが発端で、セルヴィアナ戴冠に異を唱える七星候たちが次々にベルテ河西岸イスガル領に侵攻を開始した。
開戦から二月、イスガルは前年の戦闘でせっかく無血開城させた三都のうち二都を奪われ、現在、カナンでは三万の連合国兵と八千のイスガル兵が対峙していた。
対イスガル同盟に参加した国は、大小含めて三十超に及ぶ。そのうち、七星候の軍隊だけでも総兵数七十万を超えており、聖皇国からの呼びかけに応じた列強国の援軍も含めれば、その数、推測一千万。対して、イスガル八万と北領六万の、十五万。
まさに、世界の全てを敵に回した状態だった。
「ちょっと私も反省しているところだ。今、泣きながら七星候らに、詫び状を書いた」
言葉とは裏腹に、彼女はニヤニヤしながら手紙を机に並べて、彩に置いてあった花瓶から花を一輪抜き取って、水滴を紙面に垂らした。
「なかなか小賢しいだろう? エレオノラ姫から教わった手口だ。泣き濡れたように見える手紙の作り方。貴様には真似できまい」
自慢げに口角を引き上げるクロユリ様に、シズマは肩を竦めた。
「目の前で他の男に手紙を書かれるのは釈然としない。せめて何て書いたのかくらい教えてほしい。でないと嫉妬しそうだ」
「……貴様、わかっていて言っているな? まぁ、いい。北領に妙な因縁つけられてはたまらないからな。そちらの言葉を借りるなら、七星候同士、嫉妬してもらおうかと。現在カナンに侵攻中の軍勢を撃退してくれたら、あるいは、クラズウェラへの侵攻を諦めてくれたら、その国にカナンを開く、と。皆、私のために争い合えばいい」
「性格悪いな」
「ふん。貴様だって、最初にローハンが落ちた時、何も言わなかったじゃないか。わかっていたんだろう?」
シズマは答えず、ただ、いつものやんごとなき微笑みを返しただけだった。
連合軍一千万。それが一斉に襲い掛かってきたらひとたまりもない。しかし、最初に七星候の一人が功を急いて、最も内陸に位置していたローハンに攻撃をしかけたことで、連合国側の連携は崩れた。もともと聖皇国側にいたシズマには、今の煌翼宮に、盟主として連合軍を統括するだけの力が残されていないことが、わかっていたのだ。
彼女は涼しい顔をして蝋印を捺している。
「一度にはお相手しかねる。お一人ずつ、丁寧におもてなしするとしよう」
あんまり余裕綽々なものだから、シズマもちょっと意地悪をしてみたくなった。
「それにしたって、奪った領土をさらに奪われたんだ、もっと焦った方がいい。ことイスガルの国民からしてみれば、これだから女は駄目だって思われるのでは?」
「口さがないのには言わせておけ。そもそもこれは、参謀部からの提案だ」
セルヴィアナは背後のゴロツキ参謀を振り返り、愛想よく微笑んで見せる。まだ若い参謀官は、シズマのことを睨んだままゆっくり深く、肯いて言った。
「ローハン、カナン、ノザリは、元より捨石です。兵士たちにも作戦に従い、即刻撤退を命じてあります。備蓄は開戦前にソルディアと北領に振り分けました」
「ちょっと、質問いいか?」
シズマは微かに身を乗り出し、硬い表情の参謀官を見上げた。
「何なりと」
「ソルディアに戦力が集中するのはともかく、北領も厚くしたのは何故だ?」
「ルブロを警戒してのことです。現在のところ、参戦の意図は明らかになっていませんが、南下を開始した時には、北領が最初の交戦地であり、イスガルの盾となるからです」
あからさまに隣でエイラーンが眉を顰めたので、シズマは机の下でその脛を蹴っておく。
「盾ってのはカンジ悪いが、北領はすでに独立を宣言したんだ。自分の身は自分で守る。戦闘になった時、イスガル軍がすぐに駆けられる状況とも限らない。だから、現状できる限りの予防として、そして、他の戦線の予備として、北領への供給が優先されたんだ」
そういうことだ、と、セルヴィアナは肯いた。
「それに、取られた三都は山に隔てられ、内陸側からだと孤立させやすい。撤退させた兵を旋回させ、補給線を断つ」
淡々と彼女は言うが、意味するところは脱走と暴動の誘発だ。補給線を断たれた兵士たちは地元の民家から備蓄を強奪することで餓えを凌ぎ、現地の治安は悪化する。
「恨まれるぞ」
「知るか。領民が憎悪するのは、直接自分たちの生活を壊していった侵略者たちであって、なぜそうなったのを考えるのは、遠い未来、平和になったあとからだ。湖水地方がまさにそうだ。違うか? 我々イスガルへの憎悪を乗り越えて、こうして手を結ぶに至ったのは、北領の民が、過去の殲滅戦の原因と結果について、冷静に考えられるようになったからだろう?」
「おっしゃるとおりで」
シズマは隣でじっと沈黙しているエイラーンの様子を伺いながら言う。
「司令官として、元帥閣下の判断は的確だ。だけど敢えて、戦線の将としてではなく、領土と民を持つ首長として言わせてもらう。見捨てられた民は、悲しむぞ」
はっと、彼女は息をのむ。
「見捨てたわけじゃない。戦闘が終了し、ソルディアの領有が確定した後、再びイスガルの領土として三都が戻ってきたのなら、無論、等しくイスガルの民として迎え入れる」
「間違っているとは言わない。だけど、過ぎた時間は戻らないし、死んだ人間も戻ってこない。俺たちの戦争によって、人民は確実に失うものがあることを忘れているぞ」
「……それを守るための、戦いだ」
一瞬、セルヴィアナの瞳が揺れた。彼女の冷然とした将官の貌がこんなも呆気なく崩れることを知り、シズマは俄かに後悔していた。
思えば、シズマはセルヴィアナの、東のクロユリとしての面ばかり多く見てきた。だからかもしれない。彼女にも血と涙があることを、つい、忘れかけていた。
「悪かった、余計なことを言ったみたいだ」
「いや、いい。きっと、私に必要な言葉だった」
セルヴィアナは素っ気なく受け流すと、落ちてきた横髪を耳に掛けた。
「何はともあれ、敵が連携できていないのは、幸運だ」
シズマは彼女の言葉には肯かず、口を閉ざして立てかけられた世界地図を見やる。字の読めないシズマには、国の名前と地理が一致しない。それでも、大陸全土が敵であることくらい、一目瞭然であった。
総人口一千万。あまりに規模がでかすぎて恐怖さえ覚えない。地図を埋め尽くす敵の行軍予測線の赤い色は、襲い掛かる怪物の絵のようになっていた。さしずめ、北領とイスガルは捕食されるウサギ。ただ、怪物の頭は一つじゃなくて、それぞれに獲物を食おうとしてばらばらに動くものだから、こんがらがって、とても動きが鈍かった。
イスガルは知っているのだ。自分たちが対峙しているのは世界ではなく、目先の欲に踊らされて兵隊を動かした、烏合の衆だということを。
「多面的かつ連続した戦闘が、今後も続くことが見込まれる。しかし、同時開戦さえ避ければ、一個一個の戦闘はルース村の時よりもずっと容易いはずだ」
シズマの視線からその胸中を読み、セルヴィアナは言った。
「敵を壊滅させ、大勝利を誇ることはない。ただ、自軍の兵力をできるかぎり削られないような方法で、決戦に備える」
「決戦というのは、対ライセか」
「そうだ。ここに、勝機がある。最悪、クラズウェラまで失ったとしても、ライセを征圧することができれば、北領と同時に行軍し、挟撃が可能だ。しかし、圧倒的に数に劣る現状では攻城戦は不利だ。野戦にて決着をつける」
ライセの守備を固めていたシズマとしては、セルヴィアナの意見に肯くばかりである。そして、それ故、ライセの兵隊を丘陵におびき出すことの難しさも承知していた。
「野戦に誘導するのは賛成するが、俺の時と同じようにはいかないぞ。兵站が課題だ」
「それは敵も同じ条件のはず。煌翼宮の宝物庫に、無限にスープの湧き出る銅鍋でもあるのなら、話は別だが?」
「もしかしたら、あるかもしれないぞ。魔法の鍋はなくても、財宝の類を切り崩して軍資金にあてるという手が使える分、俺たちよりも戦術展開に余裕がある。俺は、前回同様、短期決戦を推すね。攻撃こそ最大の防御だ」
「急いてこちらが飛び出すのを待っているのかもしれない。取り囲まれてはひとたまりもない。アルギーニの商船がベルテ河からライセに入ったとの情報も入っている」
おや、とシズマはまじまじ、セルヴィアナの顔を見つめる。「何だ?」と睨まれ、シズマは覚えた違和感をそのまま口にした。
「らしくないな」
「どういう意味だ?」
ルヴィアらしくない、と渾名で呼びそうになり、シズマは寸でのところで取り下げる。
「……元帥閣下には失礼かもしれんが、何というか、堅実だ」
「慎重にもなる。少しでも時期と均衡を間違えれば、一瞬で潰されるんだぞ」
潰そうとする手に噛みつくような、そんな獰猛な将だった。少なくとも、ルース村でシズマが震え上がったのは、夜の黒を纏い咆える、人知を超えた魔物であった。
――なんだか、大人しいぞ。妙だ。
シズマは腕を組み、しばし、熟考に入る。
彼女の言葉は、確かに強気だ。戦術の提案も攻撃的で、読みも的確。それなのに、以前に覚えた圧倒的で渦巻くような勢いが感じられない。
――どうした? 原因は何だ? 俺か?
相も変わらず顰め面しているクロユリ様の、ほんのわずかな変化を、イスガル側の誰か一人でも気付いているのだろうか。そして、それを示唆した場合、彼らはどのような行動にでるだろう。それを考え、シズマは口を閉ざす。
――ルヴィアは、きっと自覚していない。なら、余計なことを言って乱すべきじゃない。
ふと、顔を上げて辺りを見渡す。
――赤毛がいないぞ。
シズマはクロユリ様が侍らせているのか侍っているのか、いつだって二人べったり、仲睦まじい魔狼の乙女が見当たらないことに気付く。
素知らぬ顔で、シズマは言う。
「この戦闘は敗けられない。前回のように勝利することが目的ではなくて、ただただ、生き残ればそれでいい。どんな手でも構わないが、兵を大量に失っても敗けだし、領土を失っても敗けだ。何より、王を失うことが、最大の敗北だ。俺たちは自分を守りながら戦うことになるわけだから、堅実であるべきだ」
すると、クロユリ様はむっとした様子で眉間に皺を刻んだ。
「貴様が言うと反語に聞こえる」
「そうだとしたら、そっちの旋毛が曲がっているんだ」
「そうかもな」
セルヴィアナは淡々と受け流して、封をした手紙を整えると背後の参謀官に渡す。
「ローハン、カナン、ノザリを捨石にして、さらにクラズウェラと北領を盾にして、敗走を擬装して、実質、焦点はライセとの決戦に絞るというやり方の他に、具体的かつ画期的で安全な策を思い付いたら言ってくれ。私から参謀部に掛け合おう。実現可能なら、な」
「異論はありませんとも、元帥閣下」
シズマは苦く笑った。彼女は、笑っていなかった。
ようやく長い冬が過ぎ、荒野の花が綻び始めた頃のことだった。
■
女のくせに。
それを言われると、イザベラ・ナギェロッソの怒りの導火線は一気に進む。同じく軽蔑の言葉として、聖皇国の将官たちはよく、傭兵上がりのくせに、と顔を顰めるのだが、こちらについてはどうとも思わない。むしろちょっと嬉しいくらいかもしれない。
傭兵としての自分の在り方が、イザベラは好きだった。肩章のついた立派な軍服と騎馬を与えられ、大尉と呼ばれるようになっても、イザベラは傭兵らしさを失いたくはなかったし、今後もそうだ。雌としての隷属か、生ける刃として血を浴びて生きるかと問われ、イザベラは後者を選んだのだ。だからこそ。
「女だから、何だというのです?」
ふいー、とイザベラは相手の顔に煙を吹きかけてやった。聖皇国が寄越した同盟国の連隊長である。イザベラよりも年長だが、浴びた血の数ではこちらのほうが先輩だ。なので、多くの「敗け」を踏み分けて生き残った元傭兵として、言ったのだ。
食糧を確保するべきだ、と。あと、金。世の中、命の次に大事なものは金である。
現在、ライセには何故だかアルギーニの商人が来賓としてやってきていた。金勘定のできないイザベラには関係ないことだ、と無関心を決め込んでいたところ、ラインハルト少年伯に司令官室に呼び出された次第である。
用向きは、商談。何故、自分が呼ばれたのかイザベラは首を傾げたのだが、アルギーニが売りつけてきたのが大砲だと知って、俄かに背筋を伸ばした。
聞けば、同じ大砲をすでにイスガルが入手しているという。ライセで残りを買い取る気はないか、と吹っ掛けてきたのだ。
「煌翼宮には御賛同いただいていますが、実際に戦場で我が軍を率いる大尉に、相談してからのほうがよいと思いまして」
ラインハルトは大人たちの顔色を慎重に伺いながら、ほっそりと言う。仰々しく黒光りしている砲門を一目見て、イザベラはきっぱり、首を横に振った。
段違いの生存率と勝率を誇るモルドァ傭兵隊に身を置いていた者として、「新式」「史上最強」「高額」の三条件が揃っていて、実戦においてその効果を発揮できた武器を知らない。新式ということは使い慣れておらず、史上最強という架空の数字に踊らされて策を誤り、無用の長物に金を出したせいで支払が滞り離反される。概ね、それで大敗するのだ。
それを買い占めるほど財布に余裕があるなら、食糧を十分に確保し、褒賞を用意して、兵士たちの心身の健康を維持するべきだ。そう提案したところ、先に来て話を進めていた同盟国の将官が激昂した。
彼が言うには、イスガルに遅れを取った上に、兵卒のご機嫌取りのために軍資金を費やすのは、馬鹿げているらしい。
そこで、イザベラは言ってやったのだ。大砲を買っても、それを運ぶ人間がいないとどうしようもない、と。しかし、兵隊を木偶だと思っている輩は、彼らのご機嫌を取らなかった場合に起きる脱走や離反などの統率力不足による敗北の種を顧みることはないのだ。
一兵卒の命は弾丸一発よりさらに軽い。それでも、生きている。生物であるからには、死を恐れる。それは当然のことで、とても正しい。生き残ろうとするから、逃亡するのだ。その正常な判断を鈍らせ、勘違いさせるための麻痺毒が、褒賞である。あるいは実際に酒や煙草などで麻痺させる奴も少なくない。
どうせ自分だけは死なないと信じているんだろう、とイザベラは相手を冷やかに睨んだ。
「大砲の数は十分に足りていますよ。金があるなら、使いどころを選ぶべきです」
イザベラは野戦で決めるつもりだった。ローハン、ノザリを制していたイスガル兵が敗走したとの情報が入っている。間もなくカナンも落ちることだろう。そうすれば、イスガルはソルディアの兵力の幾何かをクラズウェラの防衛に回さざるを得ない。兵数に明らかに差が生じた時点で、総力を上げてイスガルの主力であるクロユリの軍勢を叩き潰す予定だ。
それには、重砲はかえって足手まといだ。動きが鈍くなる。
それでも押し売りを続けるアルギーニに対して、イザベラは素気無く「いらんものはいらん」と頑として肯かなった。
そしたら、「女のくせに」ときた。
女か男かは関係ないだろうに、とイザベラは思った。
そして、大抵の場合、鼻持ちならない奴がそれを言い出すと、次に決まってこう来る。
「決闘だ!」
いつものことなので、イザベラは「決闘」という単語が聞こえた時点で短銃を抜き、相手の口の中に銃口を突っ込んで黙らせる。
「すみませんが、傭兵上がりのクソアマなもので、決闘などという品のよい殿方の勝負はよくわからないのですよ。殴り合いますか? それとも、撃ち合いますか? 殺し合いでもいいですが、それなら貴方はすでに敗けておられる」
イザベラは思いっきり相手の目を見たまま撃鉄を起こした。
「ラインハルト様、いいですか?」
いいわけないでしょう、と、少年伯は困った顔をした。困ってはいるが、けして怯えていない。暴力に慣れきった子どもは、慌てることなく、ゆるゆると首を振った。
「銃を下して、気を鎮めてください。大尉の意見ももっともですが、先のルース村での戦闘直後に、ライセが被弾したのもまた事実です。その時に用いられたのがこの大砲なら、イスガルの火力が予想よりも強化されている懼れがあります。その前提で再度、作戦を練り直す必要がありますよね?」
「おっしゃる通りで」
「なら、より多くの『勝利の図形』を用意しておきたいのです。大砲が増えることで、わたしたちが辿る経路も分岐が多くなります。なので、わたしは、言い方が悪いですが、逃げ道を多く確保するために、火力の強化を提案します。いかがですか?」
「……逃げる段階まで、兵隊が生き残っているとよいですね」
全くです、と、ラインハルトはイザベラの厭味をちっとも意に介さずに肯いた。
イザベラは将校の口から銃身を抜くと、彼の襟で唾液を拭い取ってから腰に戻す。恨みがましく睨む相手を、さらに睨み返して、イザベラは煙草の吸い口に唇を寄せた。
「大尉は野戦で決着をつけるおつもりでしょうが、イスガルには北領の軍隊がついています。防衛戦に移行した場合、要塞の火力が高ければ高いほど、こちらが有利です」
もっともだな、とイザベラは思った。
「それと、大尉。これから供に戦場に出る友人に対して、先ほどの行為は感心できません」
失礼いたしました、と、イザベラは相手に対して形ばかり頭を下げておく。
「わたしからもお詫びを」
見かけばかりは儚いラインハルト少年伯にまで謝罪されては、相手も引き下がらざるを得ない。そこはさすがに列強国の王室から派遣された連隊長だけあって、その場は品よく丸く収まった。が、イザベラは輝くばかりの矜持に泥を塗られた男の執念深さを知っている。
「ケツの穴の小さな男ですね」
意外なことに、連隊長が去った後に口を開いたのは、ラインハルトだった。物腰丁寧に罵倒して、ラインハルトは襟を正す。
「大声をだして、高圧的に振る舞うことで、相手を支配して自分の優位を保つやり方は好ましくありません。正直に申し上げれば、大尉があのまま引き金を引くことをちょっとだけ期待していましたよ。そうなったとして、わたしは多分、隠蔽したでしょう」
イザベラは、暴力を語る悲しい目をした少年伯を見やる。
「……悪辣な考えをお持ちで」
「わたしを虐げてきた男が、そういう人間でしたもので。……好き嫌いはともかく、戦場で連携がとれないのは問題なのでは?」
ごもっともです、とイザベラは煙草の吸い口を放す。
「ただ、この手の問題はどこの戦場にも付き物です。数が多ければ多いほど、思惑が錯綜します。避けられない、というより、解決策が明確な問題ですよ。仲良くできないなら、どちらかが流れ弾に当たって死ねばよいのです」
「怖いことを言いますね」
「それが傭兵のやり口です。ラインハルト様は、本来守られているはずの大将が戦死する理由をご存知か。将官というのは、安全な場所から指示を出す特別な存在です。勇猛果敢に弾除けの隊より前に出て撃ち殺されるのは、稀ですよ。凶弾は後ろから発射されるものです」
「……わたしも、背中に気をつけることにします」
乾いた笑いを浮かべる少年伯に、イザベラは深々と肯いた。
「時に、伯爵。イスガル軍が押され始めているようですが?」
「出撃しますか?」
イザベラは少し考え、首を振った。明確な意図があってのことではなく、わからない、という意味だった。イザベラは傭兵の頭しか持ち合わせていない。目の前の敵を撃滅せよと命令されれば、そのための具体的な方法は思い付くが、戦場を上から俯瞰する目を持たないので、可否を己が判断することはできないことを承知している。
「ご判断はお任せいたします」
「ありがとうございます。ではまず、わたしの考えを申し上げますね。わたしは、イスガルと北領の共闘戦線は、我々連合軍とは異なる問題を抱えていると見ています。そもそも、北領はイスガルとは険悪であったわけですから、戦いが長引き、戦果が芳しくなく、疲労が蓄積されるに従って、士気は下がり、ことさら北領軍の負の感情が高まるはずです」
「離間を狙いますか」
なかなかの悪党っぷりにイザベラは満足したのだが、ラインハルト本人は、自分の考えに懐疑的である様子だった。微かに唇に触れて首を傾げる。
「無論、それはイスガルだって承知の上で同盟しているはずです。なので、イスガル軍からしてみれば、北領の軍勢は、ルブロに背中から襲い掛かられないための予備の軍勢にすぎません。おそらく今回の戦闘も自軍の戦力のみで戦い抜くつもりでしょう」
「一千万対八万ですか。身の程知らずですね。嫌いじゃないですよ」
「大尉は、そういう無茶な志を好みそうですね。わたしは、あまり好みません。なぜなら、イスガルは無理をしますが、無謀ではないからです。勝算があるのです。現状、イスガルは次々と領地を取られていますが、それを奪い返そうとしないあたりが、とても気になります。敗走した兵は、ちゃんと追撃を行い壊滅させたのでしょうか」
「詰めが甘いと?」
「……甘いのではなく、我々連合軍は、詰めてさえいないのでは? 誘い込まれているように、わたしには感じられます」
ラインハルトは横に立てかけられた俯瞰図を振り返り、じっと瞳の奥に熱を灯していた。
良い目をする、とイザベラは美味い煙草をたっぷり吸う。
あれは本能だ。猫が藪の影から枝の小鳥を狙うのは、餓えているからじゃない。ただ面白いからだ。取れるとわかれば飛び掛からずにはいられない。
「イスガルは、ここ、ライセに照準を合わせているのです」
ラインハルトはやたらと炯々とした目をして言う。
「東のクロユリは聡明な方です。三都を取られたところで、彼らが結託してソルディアに侵攻を試みることはないと読んでいるのです。連合軍側の多くが、イスガルが聖皇国から奪った領土を、横から毟り取ろうと目論んで参戦したことを見抜いているのです。それに、クラズウェラを包囲するだけの余力と気力がないことも知っています。そして、弱ったふりをして我々をおびき出そうという魂胆ですね」
ふ、とラインハルトが笑った。ぞっと、イザベラでさえ項の冷えるような、陰鬱な微笑みだった。類まれなる魔物っぷりを見せつけ、少年はさらに続ける。
「昔、猟犬に小鳥を追わせたことがあります。高く飛べば逃げられるのに、その鳥は何故か低空飛行を続け、とうとう犬に捕まりました。その後、わたしはたまたま、草むらの中に鳥の巣を見つけました。卵が三つありましたよ。それを守ろうとして、わざと傷を負ったふりをして猟犬を巣から引き離したのでしょう。擬傷と呼ばれる、鳥の防衛行動だそうです。健気ですよね」
笑う少年に、イザベラは確信をもって訊ねた。
「その後、ラインハルトはその巣の卵を、どうなさったのでしょう?」
「嫌なことを訊くのですね。大尉なら、どうしますか?」
「飯の足しにします。卵は栄養価が高いので」
「ふふ。大尉らしくて、よいですね。各隊長から、セルヴィアナ・イズローの署名の入った手紙が届いたとの報告がありました」
ラインハルトは司令官の机を回り込むと、引出から封書を取り出してイザベラに差し出す。
「よろしいのですか?」
「大尉の御意見を伺いたいのです。わたしのような若輩者より、大尉のほうがこういうことには精通していらっしゃる。……できれば、女性としての判断も伺いたいのですが」
「それは、ご期待に副えかねますな」
イザベラは常勝戦姫セルヴィアナ、あるいは稀代の戦術家である東のクロユリが書いたという手紙を受け取り、その第一印象に、微かに違和感を覚えた。
「かわいいですね」
かわいい、とラインハルトが目を見張ったので、イザベラは困った。
「少女趣味というべきか……意外ですね。噂に聞こえる彼女の人物像とはかけ離れています」
「東のクロユリといえども、花も盛りの乙女ということでしょうか」
イザベラは「拝読いたします」と断りをいれてから、すでに封切られた手紙を広げた。泣き濡れた文字や、清楚な百合の模様を鼻で笑う。
「手練手管とは、小賢しい限りですな」
イザベラの言葉に、ラインハルトは苦笑する。
「やはり、そうですか」
「とっつかまえて縛り上げたら、嘘泣きくらいは見せてくれるかもしれませんよ」
「問題は、この可憐な策略に我らが連合軍の誰か心優しい者が絆される可能性があるということです。この手紙が全部で何通、どの時期に発送されたのかを調査しました」
「素早いですね」
「ええ、重要な問題ですので。結果、わたしの元に提出されなかった封書がいくらかあるようです。毒花の香りに誘惑されている者がいるようですね」
ラインハルトは悲しげに眉を下げる。あの角度は、同情。誰かが悲惨な末路を辿ることを知っているからこそ、ラインハルトは憐れみを向けるのだろう。
「困ったものです。イスガルと北領の仲が悪いのを利用するよりも早く、こちらの仲が良くないことを利用されそうです。我々は物資に余裕がありますが、どうやら、時間に余裕がないみたいですね」
「仕掛けますか?」
「今こそ勝機です。いかに速い翼を持っていても、永遠に羽ばたくことはできません。しかし、イスガル軍は可愛らしい小鳥ではなく、獰猛な怪物です。油断はなりません。その勢いを、できる限り削いでおきたいところですね」
ラインハルトは笑う。その目が実に生き生きと輝いていて、イザベラはつくづく、ああ、いい指揮官に巡り合えた、と喜んだ。
「獣は瀕死の時にこそ獰猛になるものです。確実に止めを刺すためにも、誰かに押さえつけていてもらうべきです。カナンに向かっている隊に連絡を取りましょう。幸か不幸か、彼らはクロユリからの恋文を隠しています。手紙の存在について言及すれば、こちらの指示に従ってくれるかもしれません」
「合流するのですか? 今ライセを強化しても、ソルディアにいるイスガル軍に警戒される懼れがあります。それならそれで、短期決戦も可能ですが」
「いいえ、大尉。彼らには方向転換して北上してもらいます。こちらに注意が向いて、手薄になっている隙をつきましょう」
うーん、と唸り、イザベラは苦い煙を噛む。
「イスガルの都市を攻囲するのは、厳しいかと」
「それは、守備する人員があってこその話です。案外、がらんどうかもしれませんよ? それに、わたしはイスガルの領土へ侵攻するつもりはありません。少なくとも、今は。わたしは、この機に北領を攻め落してしまおうかと考えています」
ラインハルトは、普段は悲しげな角度に俯いている顔を上げて、晴れやかに笑って言った。
「白状すると、カナン攻囲隊が勝っても敗けても、この戦役全体において、重要な戦闘ではありません。もとより、彼らはイスガルに奪われた聖皇国の領土を、聖皇国の援護という口実で横取りしにきただけのことですから、自業自得だとわたしは思います」
「北領の兵を消耗させるおつもりか」
「同盟とは、そういうことです。目的のために手段を選ばず、仇敵と結んだ結果、北領はイスガルのせいで再び血を流すのです」
イザベラは、ふいー、と煙を天井に向かって吐き出した。えげつないことこの上ないが、実に良い手である。
「大尉、わたしと賭けをしませんか?」
「盤上遊戯はもう嫌ですよ。勝てないですから」
「いえ、今度は、盤上ではなく、現実の地図の上で」
ラインハルトはソルディアの位置に刺さっていた待ち針を抜くと、深々と、サルマリアに差し込んでうっとりと微笑みを浮かべていた。
「第三王子が北領へ取って返して愛しいクロユリのために軍隊を動かすか、それとも、クロユリ自身が古巣を守りに飛んで帰るか」
イザベラは待ち針の刺さっていた穴を凝視する。小さな穴だが、一度生じた綻びを繕うのは難しいし、そんな時間を与えるほど鈍間なつもりもない。
「どっちでもいいです。いない人間のことは考える必要はありません。実際に敵を撃ち殺す立場として気になるところは、ソルディアに誰が残るか。それだけですね」
ふうん、とラインハルトは笑うのを止めて後ろに手を組み、小首を傾げた。
「大尉は、誰に残ってもらいたいですか?」
「それはもちろん、モルドァですね」
即答し、イザベラは片頬で笑った。
「あの男は根っからの傭兵、戦闘狂ですから」
「褒めているのですか? それとも、貶しているのですか?」
「無論、最大級の尊敬語です」
■
ソルディア城の中庭では、アカシアが綺麗に咲いていた。荒野で見かけるものとは違って葉がうっすらと銀色を帯びている。朝靄の中、黄色い花房が金色の滝のように輝いて、珍しい葉の色と相まって、とても幻想的な景色になっていた。
その花影で、世にも美しい蜜色の馬が草を食んでいた。
お、とシズマは歩みを止めて思わず見入る。
天馬のように優美な馬だった。観賞用として庭に放し飼いにされているのだろう。確かに、花園にこそふさわしく、麗しい乙女の姿に化けてくれるかもしれないという妄想した時だ。馬がふと顔を上げて振り向いたので、シズマもつられてその視線の先を見やる。
途端、大きくアカシアの花の枝が揺れて、クロユリ様が顔を出した。
彼女はこちらに気付くなり、盛大に顔を顰める。
「貴様は一体何なんだ、私の行く先々に現れて」
何だとは何だ、と言い返したいところだが、シズマとて少しは学習し、成長し、試行錯誤してきたわけで、「そういう運命だからかな」とにっこり、笑って見せた。
「逢瀬を邪魔して悪かった。ところで、その馬、見覚えがあるぞ」
シズマはこめかみを突いて、エレナ直伝のやんごとなき微笑を弱冠、渋くする。クロユリ様は魔性の笑みを浮かべると、ふんぞり返って自慢げに腕組みして言った。
「貴様にとっては嫌な思い出か?」
「ルヴィアにとっては、亡き父上の輝かしい思い出だろうな」
「ああ。戦場には連れて行けないけれど、お気に入りだよ」
そして、けして人に対しては向けることない、優しく慈愛に満ちた目をして彼女は馬の鼻面を掌で撫でまわす。とろん、とした目をしたまま微動だにしない様子の馬に、シズマは直感的に、鈍いと感じた。
「綺麗な馬だ」
「褒めてないな?」
にやり、クロユリ様は笑う。
「私も同感だ。綺麗なだけが取り柄の馬だ。よく目立つから、ちやほやされて、乗っている人間を立派に見せかけてくれる。……美人を娶るのと、同じ心理かな?」
シズマは肩を竦め、現実的な毒は聞き流して、夢のような景色に没頭する。
本当に、綺麗な景色だった。黄金の馬と、朝露に輝くアカシアの花の色。星を宿すような銀の葉の影に、澄み渡る荒野の夜の色をした黒い瞳。
「綺麗だ」
「私に見惚れたか?」
「そうだと言ったら、信じるか?」
「よく言われる」
あっそう、とシズマは口を閉ざして視線を逸らした。一方、セルヴィアナは鼻で笑った。
「……綺麗な景色に夢中になりたい時くらい、私にだってある」
「誰にだってあるさね。男が美女を欲するのは、けして自分の虚栄心や所有欲を満たすためだけじゃないと思うぞ。綺麗なもの、清らかなものに対する、憧憬じゃないかな」
「それなら、理解できる」
セルヴィアナは言い、馬を撫でていた手を今度はアカシアの花に伸ばした。
「浄化されたいし、満たされたい。そういう気持ちなら、とてもよくわかる」
目を細めるセルヴィアナの様子を慎重に伺いながら、シズマは周囲に人がいないことを確認する。確かめるには、いい機会だと思ったのだ。
「なぁ、ルヴィア」
「その名で呼ぶな、気安い」
「そうは言うが、頭と尻尾を先に取られたから、俺は残った真ん中を貰っただけだ」
「何の話をしている?」
「セナってあいつが呼ぶから、俺はルヴィアと呼ぶことにしたんだぞ」
「だから、何の話だ?」
「マナ」
シズマはここにいない、けれど、それまでずっとセルヴィアナの側にいたはずの魔狼の少女の名を口にした。
「話が通じないな。会話をする気があるのか?」
「マナは、どうした?」
セルヴィアナは怪訝に眉根を寄せて首を傾げている。
「誰のことだ?」
慎重に、一音一音、けして間違わないように、シズマは言葉を発した。
「あんなに、一緒だったのに」
「悪気はなさそうだが、貴様の言っていることが欠片も理解できない」
「……演技、じゃないようだな」
「さっきから何なんだ、貴様」
「悪かった、変なことを言ったな。ちょっと俺が勘違いしていただけだ」
「大丈夫か?」
シズマは微笑む。どこからも、誰の目にも心地よく見える完璧な角度で、偽物の笑顔を作る。自分が白状しない限りは、この微笑が嘘だと誰にも知られずに済む。
「だめかもな」
セルヴィアナが何か言いかけて口を開いた時だった。
「元帥閣下、こちらにおいでか」
モルドァ大佐の声に、シズマは振り返る。朝靄の曖昧さもあって、遠目には立ち上がって威嚇する熊のように見えた。略式の敬礼に、シズマも敬礼を返す。すると、大佐のこめかみに青筋が浮かんだので、シズマは、同盟国の首長として今の自分の立場ではその必要がないことを思い出し、咳払いで誤魔化す。偉くなったもんだ、と今更ながらに思った。流民から偽物王子を経て、浮沈激しい半年を過ごした後、最終的に未然形とはいえ新興国の主である。大出世も甚だしい。
「北領総司令殿も御一緒でしたか。ちょうどよかった。至急、作戦本部にお戻りを」
「ライセが動いたか?」
俄かに軍人の表情になり、セルヴィアナが緊張した声を上げていた。
「いいえ。カナンに向かっていた軍勢が、方向転換して北上しています」
「わかった。すぐに」
アカシアの花房を割って飛び出したクロユリ様の隣を足早に歩きながら、シズマは思う。
普通が一番。
一番、幸せだ、と。
至急、作戦本部の置かれた大広間に駆けつけると、すでにジエン・グランツェ参謀が忙しない様子で地図や戦闘序列と思しき巻物を幾重にも広げている。セルヴィアナはずかずかと角突き合わせて顰め面している将軍たちをどかして中央に陣取ると、参謀官さえ押し退けて自分が一番よい場所を奪い取った。まあ、当然と言えば当然なのだが、見た目が少女なだけに、何となく、違和感がある。シズマでさえそうなのだから、おそらく、始めて戦友としてイスガル軍の軍議に参加した北領の軍人たちは、さぞや驚いたに違いない。あーだのこーだの意見を交わすイスガル軍上層部の人垣に隠れて、文字の読めないシズマはこっそり息を潜めていたのだが、ついにクロユリ様に見つかって目と目が合う。無言で手を拱いて、彼女は再び地図に視線を落した。
「カナンに行軍中だった連隊が方向転換し、北上しています。列強国の混成部隊です。手薄のサルマリア砦を狙うつもりでしょうか」
ジエン・グランツェの言葉に、シズマの思考が回り出す。
「いや、違う。カナンとサルマリアなら、カナンのほうが攻囲しやすいはずだ」
思考と同時に言葉を発して、全員の注目を浴びてしまう。
「サルマリアはイスガル北部への突破口だ。守備が甘い今、狙う価値はある」
セルヴィアナは冷静な目をして言う。シズマはうーん、と唸った。
「サルマリアは渓谷に守られた難攻不落の要塞だ。攻め落とすにはかなりの覚悟が必要だぞ。俺なら野戦に引きずり出す。そして、野戦をするのならば……」
シズマは僅かに眉根を寄せた。
「その先の平野を選ぶだろう。針葉樹林帯のさらに先、北領側の、アルデナ平野だ」
セルヴィアナはぴん、と眉を跳ね上げる。
「参謀、砦兵の数は?」
「二千です。イスガルはほぼ全ての兵力をベルテ河西岸部に結集してしまっています」
「北領の護衛としてサルマリア隊を出す」
「閣下、それは賛同いたしかねます」
ジエン・グランツェは軍人然とした無表情で、なにやら文字の犇く巻子を広げて言った。
「ライセが動きを見せています。ナギェロッソ大尉率いる聖皇国軍に出撃の気配が濃厚です。敵は、北領の守備に兵力を消費させ、ソルディアの防衛が薄くなったところへ仕掛けてくることが予想されます」
「陽動か……」
考え込むセルヴィアナの様子を伺いつつ、シズマは発言する。
「北領軍三万のみで迎え撃ちましょう」
「敗けたら後がないぞ」
「敗けませんよ。ただ、龍騎兵を持っていっても?」
「無論、構わない。もとより北領の精鋭だ」
「なら、大丈夫です。列強派遣軍を蹴散らせて、すぐに戻ってきますよ」
すると、セルヴィアナは呆れた顔をしてこちらを見た。
「大した自信だな。策はあるのか?」
「たった三万で六万五千を撃破できると信じた閣下ほどでは。まあ、強いて言うなら……」
シズマは北領もイスガルも等しく見渡して、ニッと笑って自らの胸に拳を押し当てる。
「俺が指揮を執ります。だから、北領軍は、勝ちますよ」
唖然、皆が押し黙る。セルヴィアナだけが、声を上げて笑っていた。
「その過剰な自信はどこから湧いて出てくるのか、知りたいな」
「それは閣下への愛の泉からです」
途端、机の下で脛を蹴られる。冷然とした眼差しを向けながらも、彼女はその両目にシズマだけを映して「戻ってこいよ」と言った。
嬉しかったが、それだけじゃ、物足りない。
待っていて欲しいし、思っていて欲しい。欲しい、どうしても、欲しい。
しかし、その情熱を吐露してしまう前に、シズマは踵を返した。
目指すは北領、ベルテ河支流の二本の河に挟まれたアルデナ平野。
天狼旗が今、蒼天に翻る。
■
ベルテ河から枝を伸ばす二本の河のうち、南を走るセレゲー河の畔を走りながら、シズマはふと、空を見上げた。
河の向こうではすでに列強派遣軍二万が行軍している最中だ。対する北領軍は、二本の支流のうち北側のナージ河を渡る大橋のたもとに集結したまま、総司令の到着を待っていた。
空の太陽は間もなく南中。
――たしかこの辺りに漁村があったな。ちょうど昼飯時か。
シズマはどうでもいいことを思い、明け方に漁に出て帰ってきた漁師たちが、ようやく一服しているところを想像する。
今、舟は空いている。思考の手札の中に、条件が揃っていた。
――ふうん……。急ぐことねぇな。待つこともない。
シズマは指笛でフィオを呼んだ。
「全軍停止だ」
へ、とフィオは目を丸くして、素の貌をする。
「停止、ですか? 総司令、急がなくていいンですか? 北領軍が待っているンじゃ?」
「腹が減っては戦もできないって言うだろう? 昼飯にする」
「……すンません、何かの暗喩なら、俺には難しすぎます」
「そのままの意味だ。確か河畔に漁村があったはずだ。ちょっと立ち寄らせてもらうことにする。魚が食べたい。フィオ。お前は先に北領に行け。夜間の行軍を許可する。夜陰に乗じて橋を渡り、列強派遣軍右翼を包囲するよう伝えろ」
「総司令はどうなさるんで?」
「俺を待つ必要はない。だけど、機を逃してはいけない」
そこでシズマは冗談半分、敬礼をして見せる。
「交戦地のど真ん中で待ち合わせだ。わかったら先に行け」
フィオは目を白黒させながら、それでも「了解です」と敬礼を返し、単騎、隊列を離れていく。その背中を見送り、シズマは蜥の手綱を引いて減速させた。怪訝な顔をしている龍騎兵たちを見渡して、シズマは横柄に笑った。
「同志諸君に問おう。既存の道がえらく遠回りだと思った時、どうするべきか」
ぽかん、と口を開けている彼らに、シズマは言ってやった。
「近道を自分で作ればいい。俺はそうする」
シズマは、小さな村ののどかな昼時に武装した軍勢で押しかけるという、自分が逆の立場なら迷惑極まりないことをしてのけ、挙句、舟を貸し出せと無理を言った。
村人と軍隊の両方の圧力に挟まれて冷や汗を滝のように流している村長に、シズマは内心、謝罪しながら、悪びれもせず尊大に蜥の上から威圧的に言いつける。
「褒賞は弾む。欲しいだけいくらでも出そう。前金だ、受け取れ」
と、金貨の入った天鵞絨の財布ごと、村長の禿頭に投げつける。
ひっでぇな自分、と苦笑しつつも、必要な演出だと自覚していた。言うことを聞かせるには、圧倒的に立場に差があり、たとえまとまっても敵わないと思わせることが重要だった。軍人でないだけで、彼らは彼らなりに、自分たちの生活を守るための力を持っていることを、元流民のシズマはよくよく理解していた。なにせ、かつて自分が横流しの手伝いをした武器の行く先の一つである。藁山の底や洋服箪笥の中に何を隠しているのか、よくわかっていた。
「急いでいる。舟の他に人手を貸してもらおう。こちらの望み通りにしてくれたのなら、さらに倍出すと約束する」
ふと、シズマは出迎えという名目で出頭させた村民たちが絶望的な目をしていることに気付き、にっこり、愛想笑いを浮かべた。土台、庶民魂のシズマには、彼らが何を思っているのかとても共感的に理解できた。
「案ずるな。借りるだけだ」
「畏れながら、兵隊様に貸しだしたものが返ってきたためしがありません」
彼らにとっては、北領独立だの、王だの、そんなものは関係ない。シズマが何者であっても、軍服を着て高慢ちきに振る舞って生活を破壊していく兵隊は、どこからこようが全部、怪物なのだ。ましてや、この辺りはイスガルと北領の境ゆえ、焼き払われたり、一夜で老人を残して人が全て消えたり、そういう「事故」が多くあったのだろう。
「胸中、察するぞ」
シズマは言い、蜥を降りると、深々と頭を下げている村長の目の前に立つ。
「人も舟も、必ず無傷で返す。約束しよう。だから一晩だけ貸してくれ。臨時収入だと思って。な?」
後半、背後の兵隊には聞こえないように声を潜める。驚いたのか、うっかり顔を上げた村長と目が合ったので、シズマは片目を瞑って見せた。
「どーせ働くなら、賑やかにやろうじゃないか、なぁ!」
顔を見合わせ、少しだけ警戒を解いた様子の村人たちの顔を見て、シズマは追い風を確信する。何でもそうだ。楽しめるかどうか、成功する時にはそれが重要だったりもする。
それからはあっと言う間だった。もともと龍騎兵は蜥との適合性のみで選抜された趣味部隊である。元ススロや平民が大半だから、土木作業は慣れている。そういう土臭い連中であるから、村人ともすぐに馴染んでしまった。
良きかな良きかな、と一人、高いところにいるつもりだったシズマだが、板棒担いだ龍騎兵の一人に「総司令が原因ですよ」と言われてしまった。立派な様子の軍人が、気を効かせた女衆が出してくれた雑魚の揚げ物を美味そうに齧るのを見て、彼らは一気に協力的になったとその兵士は言う。同じ釜の飯食う仲、というやつだ。同じ物を食べるだけで、人の心の壁というのは、ぐんと低くなるものだ。
なので、シズマは皿を片付けに来た娘に「ごちそうさま、美味しかった」と言っておいた。彼女が真っ赤になって大皿を落として割ってしまったのを見て、言うべきじゃなかったかな、と俄かに後悔する。怒られてはかわいそうなので、シズマは割れた皿の欠片を拾って、自分が罪を被っておいた。
そういうわけで、作業はシズマが当初予定していたよりも遥かに早く、かつ確実に進んで、日没までには全ての準備が整った。
そして夜半。いよいよ作戦開始を告げる直前、不意に、袖を引かれて、シズマはぎょっとして振り返った。昼間の娘が、潤んだ瞳でこちらを熱心に見つめながら「またお会いできますか?」と問うので、シズマは内心、焦りに焦って逃げ出す準備をしていたのだが、顔では涼やかに笑って、彼女を介して協力してくれた村人全体に向けて言う。
「夢だと思って、夜が明けたら忘れてください」
実際、奇襲を試みる龍騎兵の軍事行動の手伝いをしたと知れたら、もし失敗して北領に敵軍が雪崩れ込んできた時に、彼らは無事ではすまない。なので、村長にだけは身分を明かして、そのことについてよくよく言い含めてある。
「それでは、諸君。始めようか」
シズマは篝火さえない闇の中で笑う。
今、セレゲー河には橋ができてきた。猟師の小舟を舫で繋いで、渡し板を乗せただけの簡易な浮橋である。明日にはなくなる一夜橋だ。
北のナージ河の橋を渡って夜襲を仕掛ける歩兵連隊と、挟撃をしかけるという作戦である。シズマにとっては幸いなことに、列強派遣軍は連携がとれていなかった。大将同士の反りが合わず、軍事行動のあれこれについて何一つ合意に至っていない、というのは、クロユリ様が餞別代わりに派遣してくれた、イスガル側の諜報員からの情報だ。彼が百合の意匠の指輪を携えてさえいなければ、シズマはその言葉を信じず、こんな阿呆な作戦を思い付くこともなかったかもしれない。
恋しい相手を想って指輪に口づけするなど、我ながら女趣味だと苦笑しつつ、戦勝祈願だと思ってこっそり百合の花に唇を寄せた。
よし、とシズマは慎重に、浮き橋に蜥の歩を進める。
河の向こうから、狼の遠吠えが水音に紛れて聞こえていた。
■
初花月末。
イスガル・北領の宣戦布告を受け、ルース村での戦闘で敗北し、兵力を温存して反撃の機会を狙っていた第一次聖皇国同盟軍が先んじてローハン、ノザリの二都を攻囲。翌月、青葉月第一週のうちにイスガルは二都から撤退、クラズウェラまで後退する。
青葉月十二日。
カナン征圧のために行軍していた第一次聖皇国同盟軍及び他列強からの派遣軍の混成隊三万は、急遽、方向転換して北上。南西にイスガル軍主力のほとんどが集中している隙をつき、北領に標的を変更する。これに対し、精鋭、北領龍騎兵が迅速に反応。北領総司令自らが指揮を執り、ソルディアから急行。セレゲー河に浮橋を渡して、連合国軍左翼に突撃。直後、夜間行軍を強行した北領歩兵連隊がナージ河の橋を渡り、右翼側を攻撃。未だ行軍中にあった連合軍は体勢を立て直すことができず、第二防衛陣まで撤退し、翌朝、戦闘は終了。
龍騎兵及び北領総司令は、出撃の気配を見せるルブロを警戒し、湖水地方に留まった。
雲耀月はじめ。
アルデナ平野での敗北により、第一次聖皇国連合軍は散開。多国籍の連隊を主とする第二次聖皇国同盟軍が再編成され、再びカナン攻略のため侵攻を開始。イスガル軍は物資不足が原因で砦を放棄し、クラズウェラまで撤退。セルヴィアナ元帥はソルディア城の食糧庫を解放し、慰労品をクラズウェラに届けさせると、自身も兵士たちの前に立ち、敗走を経験して消沈している彼らを激励して士気の回復を図った。
■
初夏、雲は耀き風の薫る、気持ちの良い晴れ空の下。
「負け犬どもめ、しけたツラをいつまで晒すか!」
クラズウェラ砦に突如として罵倒が轟いた。
セルヴィアナ元帥直々の激励とあっては、砦を追い払われてきた兵士たちは極度に緊張せざるを得ない。死して祖国に尽くせと叩き込まれた兵士たちである。戦々恐々としている敗残兵たちを睥睨し、セルヴィアナは酒樽を足蹴にする。次々と搬入される酒樽に目を白黒させている彼らに向かって、笑ってみせた。
「鬱陶しい、景気づけにこいつをくれてやる」
セナが蹴った葡萄酒の樽は、ソルディア城の食糧庫から持ち出したものだった。他にもクライツベリ伯爵は金銀財宝の類を置いて行ってくれたが、セナは、蜜色の金の馬以外は、すでにそのほとんどを食糧と交換してしまっていた。
それでも、足りない。
最初の侵攻から半年が過ぎた今、イスガル軍はすでに食糧難に見舞われていた。
ジエン・グランツェが渋い顔して報告してきた。
当然と言えば当然だ。イスガルは拠点を失い、補填されることなくソルディアの備蓄に頼って食を繋いでいるのだ。限界は近い。
兵站不足は誤魔化せない。人は食わずに生きていかれないし、食事の量が減ればすぐにばれてしまう。ことさら、イスガル式の粗食に慣れない北領軍の不満の声は大きかった。
最初、ジエンはセナに、残量一月、と嘘をついてきた。じっと見つめていると、次に二週間と言った。さらにセナがじっとり睨んで黙っていると、苦い顔をして一週間と言い直した。
そこでセナは言ってやった。三日に訂正しろ、と。
虚偽報告も大概である。多分、参謀部の計算した一週間とは、二食を一食にした場合であり、二週間というのは、ソルディアの民家を襲って、彼らの冬のための蓄えを強奪した場合の計算だ。数値上では可能でも、その計算結果を聞いたら兵たちは逃げ出してしまう。
ましてや、敗軍として退かされた連隊である。
セナが、撤退を命じた指揮官たちに本来の目的を教えたのは、つい先ほどのことだった。無論、捨石にしたなどと、正直には告げない。ここは「色仕掛け」である。飲みもしない美酒の杯を髭面にぶちまけて、失態に対する不満の演技を見せつつ、その襟首を掴んで引き寄せ、耳元で誘惑する。幸い兵数が温存されているのだから、それを率いて聖皇国軍の補給部隊を強襲せよ、と。そして、没収した彼らの階級章を袖に括りつけて、にっこり愛想笑いを浮かべて「精々これ以上私を怒らせないよう頑張りたまえ」と彼らの肩を叩くのだ。
それを隣で見ていた参謀官が、後でぼそっと「すっかり悪玉ですな」と言ったので、「上手になっただろう?」と切り返しておいた。
「本当のことがばれたら、嫌われますよ」
「参謀部と北領総司令しか知り得ない私たちの作戦の情報が下級官の耳に入ったのだとしたら、そっちのほうが問題だ」
「食糧難は早急に解決しないと、全軍の士気にかかわります」
「どうせジリ貧なら放出してしまえばよい」
セルヴィアナは憤然を鼻から溜息をつく。
「夕飯がなくなる現実を知ったって、誰も嬉しくなかろう? 苦い現実よりも、甘い嘘。我慢した結果、それが無駄であったと知った時のほうが人は怒るものだ。だったら、目先の快楽に溺れ、刹那的でも満足したほうが、後悔がないはずだ。違うか?」
「……楽観的で、享楽主義的です」
「肯定と受け取る。士気が下がり、統率を乱すよりかは、追加支給を行って元気付けてやったほうが得だ。それとも、参謀官は身も心もぼろぼろになっている時に蹴られたいのか?」
「……」
「何故黙る?」
「過去の御自分の所業を思い出していただきたく存じます」
「私はとても寛大で優しく慈悲深かったなぁ」
セルヴィアナがにっこり笑うと、ジエンは唸りながらも許可の署名をしたのだった。
セナは惜しげもなく、ソルディア城の地下に温存されていた酒樽を残らず解放し、貴族階級の食卓に上るような最上級の白亜穀粉と、霜のような脂も美しい肉を、クラズウェラに集結した五万の兵士たちに大盤振る舞いしてやった。どんなによくても羊のカツが御馳走だったイスガル兵にとって、おそらく生涯で最高の食材であったに違いない。
「ばーっとやるぞ! 後悔しないよう、好きなだけ飲み食いしろ! かわまん、無礼講だ!」
かかれー、とばかりに歓声を上げて酒樽に突撃する兵士たちの様子に満足して眺めていると、ジエンがやってきて、三歩後ろで立ち止まった。
「どうした、参謀官。隣にきても、いいんだぞ?」
「ありがとうございます。しかし、ここが一番、落ち着くもので」
セルヴィアナは「そうか」とだけ答えた。それきり、ジエンは黙ってしまった。妙な沈黙が流れ、落ち着かない。やがて、ジエンが口を開いた。
「よい天気ですね」
「もっと気の効いた会話ができないものかな」
「天候の話題が一番無難です」
「危険な話題でもかまわないから、要件を言え」
では、と、ジエン・グランツェはやおら距離を詰め、隣ではなく、セナの真後ろに立った。不自然なほど接近されて、セナは俄かに緊張して息を吸う。
「近いぞ」
「無礼講なのでは?」
「親しき仲にも礼儀あり、とも言う」
「そう、険しいお顔をなさらず」
「もとからこういう顔だ」
不意に、後ろに組んだ手にジエンが触れてきた。ちゃんと死角を狙う辺り、実に腹の立つことである。ジエンにしか見えない。他人にも、セナ自身にさえも、見ることができない。
「そんなはずないでしょうに」
「言っておくが、肖像画は国民向けに色々修正がかかっているぞ。貴様の目にはどう映る?」
「かわいいですよ」
「口説き文句ならもっと捻ってこい」
「かわいいです」
「……どうやら、脳天ぶち抜かれないと黙らないつもりのようだな」
「馬鹿は死んでも治りませんので、ご容赦ください」
「で、何の用だ?」
セルヴィアナは堪りかねて振り返り、ジエンを至近距離から睨み上げる。存外、ジエンはいつになく静かな目をしていた。
「閣下。この戦いが終わったら――」
「結婚しよう、とか言うんじゃないぞ。大佐曰く、出撃前に婚約した奴は戦死する」
「違いますよ。戴冠式のことです。マリエンドで戴冠するか、シエドで戴冠するか。どうせなら、凱旋と同時に戴冠する方が、華やかでよろしいかと」
「マリエンドがいい」
セルヴィアナは即答する。それから、偉大なる父王がかつて宣伝を兼ねて三百台の馬車を連ねて行進した日のことを思い出し、微かに笑った。
「王冠は重たいから、ずり落ちないように調整しておかないとな」
「国家の至宝を落っことすという大事件だけは、ご勘弁ください」
ジエンは苦笑し、そっと背後を離れる。
「ちなみに、自分の隣はいつでも空いておりますので」
セナは肩越しに振り返る。マリエンドの事件の後、結局、ジエン・グランツェは殺到する縁談を全て断ったと聞いている。このまま結婚しないつもりらしい。
「老グランツェに、孫の顔を見せてやればよいのに。案外、ああいう頑なな爺様ほど孫を可愛がってくれると思うぞ」
「そっくりそのまま、閣下に今の言葉をお返しいたしますよ」
「親不孝はお互い様か」
セナは肩を竦め、再び宴会を繰り広げるイスガル兵たちを見渡す。
「ともかく、食糧問題だけは早急に対策を考えないとな。餓えると心が荒む」
「閣下は、北のルブロ皇帝の寵姫、ケリツェニーデ姫をご存知でしょうか?」
「ああ、あの、浪費家の」
セナは悪名高き毒婦の顔を思い出そうとしたが、天井に届かんばかりの派手な鬘と、ゴテゴテ、キラキラ、おバカなまでの過剰な衣装しか、印象に残っていなかった。まあ、記憶にある文字情報では、美少女であったはず。
「まさに傾国の美女というやつだな。民にはひどく嫌われているらしいが」
「対する閣下は絶世ですな。一つの時代を終わらせようとしていらっしゃる」
「今のは、気に入った」
「お気に召していただけて何よりです」
「で、敵国の愛妾がどうかしたのか?」
「冗談話ですが、食糧事情の芳しくない北の民に対して、ご飯がないならお菓子を食べればいいじゃない、とのたまったそうで」
ぷ、とセナは思わず噴き出した。
「面白い姫だな。馬鹿もそこまで突き抜けると素敵だが、さて、我が軍もあまりよそ様を嗤っていられないぞ。何せ、夕飯がないなら宴会をすればいいと言ったのは私だからな」
セナはひとしきり笑い、ふと、真顔になる。
菓子を与えて誤魔化せるとは思っていないが、主食となる食材を変更することで、抜本的に食糧事情を改革しようという発想は、そのまま転用できると思ったのだ。
ぱちん、と脳裏で石火が弾ける。それは熾の火の粉の残像と重なり、天啓が降ってきた。
「穀がないなら、芋を食えばいい!」
「はい?」
「兵士たちから、変な噂を聞いたぞ!」
「また、莫迦に馬鹿がバカなこと教えやがりましたか。真に受けてはいけなせんよ」
しかし、セルヴィアナは止まらない。興奮気味にジエンに詰め寄る。
「とある商人がな、半年くらい前に荒野の一画に土地を買ったそうだ。土地には鉄鋼網が張り巡らされ、警備の私兵が筒を掲げて巡回しているそうだ。不穏だろう?」
「あーはいはい面白いですねー」
「一面、白い可憐な花が埋め尽くす。観賞用かというと、そうでもない。葉の黄色くなるまで放置したかと思うと、根こそぎ全部掘り返してしまったらしい。新種の毒薬の素材だと、専らの噂だ。不老長寿の秘薬の研究をしているだとか、人面草を栽培しているとか、死を恐れぬ軍勢を作ろうと心を壊す麻薬を精製しているとか。どうだ、あやしかろう?」
胡乱な噂に、ジエンは顔を顰めた。
「軍部のあずかり知らぬところです」
「ばか。貴様こそ間に受けるな。多分、栽培しているのはニノだ。何でそんなもの大量生産しようと思い付いたのか知らないけれど、開墾時代からの嫌われモノに目を付けた、その慧眼! あれは美味いからな、きっと昔の私みたいに、ススロの食事から着想を得たんだろう。いい勘をしている商人だ。国策として援助するから、今収穫できている分だけでも戦線に運んでもらおう。これで食糧問題が解決するかもしれないぞ」
問題は受け入れられるかどうかだ、とセルヴィアナは真面目な顔をする。
「あの根っこは不気味だ。あの瘤が、人の顔に見えるといって皆嫌がる。でも美味い」
「……、……、閣下、冗談ですよね?」
「あの鳥鍋……あれだ、あれなら受け入れられる! 美味いからな!」
「閣下、それは、気まぐれですか? それとも、のっぴきならない思い付きですか?」
「この戦役を勝ち抜く戦略の要と心得よ。返事!」
「了解であります」
それから間もなく、本当にニノイモが大量に荷馬車に積まれて搬入されてきて、それを見た北領の兵士が青ざめ、イスガル兵が病んだ目をして「あの酒は美味かった」と呟いているのを見つけ、参謀として、ジエンは押し切られてしまった己の不甲斐なさを呪う。
セルヴィアナはというと、彼らの怨嗟もどこ吹く風、むしろ誇らしげにニノイモの山に登って、一つを手に取り、うっとり両手に掲げて持って眺める始末。
世も末だ、と老将たちは嘆いていた。
うるさいやれ、と彼女は思い付きを押し通し、搬入されてきた不気味な拳大の丸い根っこの皮を炊事番の草兵に押し付ける。嫌なら貴様があの鍋に入るか、と煮立った銅鍋を指さされては、誰もかれも、黙って言うことをきくしかない。
呪われた植物の根っこを食べるなんて、と絶望的な顔をしている兵士たちに向かってセナは強硬手段に出る。
「ほう? 貴様ら、私の手料理を食べられないと言うのか」
ついに手ずからイモの皮を剥きはじめる。そしてとうとう一食分として配給された芋と干し肉と豆の、不格好な粥を前に、全軍が沈黙した。
どんな状況でも希望はある。恐れ戦き、冷や汗を浮かべている彼らを未知の食材へと挑ませたのは、この崩れた欠片のどこかにセルヴィアナ元帥が自ら刃を入れたイモが含まれている可能性があるという事実であった。何より、当の本人が真っ先にそれを頬張り、いつもは冷然としている表情を俄かにほっこり和ませているのを、彼らはしっかり見ていた。
食べなければ死罪だぞ、と言外に脅されては、食べるしかない。ジエン・グランツェは全ての思考を停止して目を閉じると、なけなしの勇気を振り絞ってその物体を口に入れた。
■
イスガル軍が芋煮会を催す、二週間ほど前のこと。
レバントの丘陵に宿営している連合軍には、張りつめた空気に満たされていた。現状、イスガル軍は備蓄が尽きたとの情報が入っている。空腹に荒んだ目をしている兵士たちにとって、それが唯一の救いだった。
聞こえるはずのない酒宴の声が、クラズウェラの方から風に紛れて聞こえてくる。
――意地の悪いことだ。
イザベラは煙を、夏の日差しを反射して輝く雲に向かって吐きかける。
ライセでは来る決戦のために兵站を温存する方針をとった。一方、イスガルは三都を失い、自暴自棄になったのか備蓄を全て放出して敗残兵を労うという破天荒をしでかした。
――かつてのイスガル軍なら、決死の突撃を命令しそうなものだがな。
負け犬に食わす飯はない、と蹴り出された経験のある元傭兵として、イザベラにはクロユリのやり方は温いと感じられた。
――だから、女だとなめられる。
いかに天賦の才と神がかった強運に恵まれた戦略家とはいえ、将たるもの、冷酷にならねばならない時がある。兵隊を気遣ってしまうあたり、セルヴィアナも「姫」なのだ。
裏切られ、背後から撃たれる恐怖を知らない。それは、自分がそうやって他者を食らって潰して踏み台にして伸しあがってきたわけではないがための、隙である。
イザベラの隊がライセを出発してすでに一週が過ぎていた。丘陵に宿営している聖皇国軍が五万。これに対し、イスガル・北領同盟軍は四万をソルディアから出した。そのほとんどはイスガル軍で構成され、中核はやはり、セルヴィアナ直属モルドァ大佐率いるクロユリの軍勢であるという。
芸のない、とイザベラはパイプを唇の端に引っかけたまま嗤った。
二刻ほど前、作戦統括を担うクライツベリ少年伯から、戦闘準備の遅れていた列強派遣軍八万が出発したとの連絡が入った。補充物資を携え、明日の昼には合流を果たす予定である。
――才能に慢心しているからだ。前から後ろから、そろそろきついんじゃないか?
対するイスガルは、クラズウェラの防衛で増援を出す余裕はないはず。北領に温存している三万を送り込んだとして、開戦に間に合うかあやしいところだ。
十三万。この数字を相手にするには、四万というのはあまりに少ない。北領の援軍が間に合ったとしても七万だから、圧倒的に不利だ。
しかし、イザベラはルースの二の轍を踏むつもりはない。イスガル軍と敵対するのなら、全体の兵数ではなく、隊の動きに注目するべきだ。
栄光を知らない傭兵は知っている。大将を失った軍勢は崩壊するということを。
――さあ、イスガルの狗どもよ。お前たちの希望を撃ち落してやろう。
丘陵の彼方、まもなく視界に入る黒の軍勢を馬上で待ち構え、イザベラは戦闘の予感に身を震わせた。
――クロユリはここで潰す。必ず、討ち取る。
名誉のためじゃない。恨みがあるわけでもない。あるのは衝動。戦い、勝ちたいと渇望するだけだ。正義も悪もない。ただの欲望、悦楽のみ。それを教えた男と、敵対している。
イザベラにとって、これは理想の戦場だった。全ての条件が揃った敵と、全ての条件を満たす主に恵まれ、イザベラは十足した気持ちで煙をのんだ。
美味いと、心の底からそう思う。
硝煙と、血と、煙草。この香りのない場所で生きていける気がしないし、そんな世界をイザベラは望んでいなかった。
「何もいらない、今が一番、幸せだ。……なんてな」
突然呟いた馬上の指揮官に、馬を押えていた雑兵がぎょっとして振り返る。ラインハルトとそうかわらない齢の頃の少年兵の幼い顔に、イザベラは渋い煙を吹きかける。
咳き込む少年に、イザベラは笑う。
「坊や、所属は?」
「第二軽歩兵隊所属です」
「お前、軽歩兵の意味を知っているか?」
「はい。牽制の斉射後に突撃を敢行し、戦線を開く攻撃用の小隊です」
「一言で言うと、肉璧だ」
絶句する少年の、曲がった帽子を直してやり、イザベラは笑ってやった。
「戦闘後に再び私の馬を引くのがお前だったら、一晩付き合え」
え、と息を詰めて顔を真っ赤にしたのが面白かったので、イザベラはもう少し、かわいがってやろうかという気を起こした。
「ちなみに、戦闘開始前に愛を語り合うと死ぬという迷信がある。傭兵連中は割と信じている輩が多い。何故なら、それで死んでいった奴を目の当たりにしているからな。だが、あんまり脅すのもかわいそうだから、本当のことも教えておいてやる」
「はい、是非とも!」
すでに泣きそうになっているガキに、イザベラは傭兵的温情を示す。
「ほとんど死んじまうから、その中にたまたま、故郷に許嫁がいたり、片思いの相手がいたりして、運よく生き残った奴が、死んじまった奴の昔話を覚えていてくれただけのことだ。だから、墓碑銘のかわりに噂が残る」
しょんぼり、少年兵はすっかり怯えて鼻声を出した。
「大尉は、自分のことを覚えていてくれますか?」
「忘れるに決まっている。名を残したければ、思い出や迷信の中ではなく、ちゃんと軍人の名簿に残ることだな。その方が確実だ。そして、その方法はただ一つ」
イザベラは掌を拳銃に見立てて、人差し指で彼のこめかみを突いた。
「殺せ。生き残れ。それだけだ。頑張れよ」
はい、と彼は素直に肯いた。
その純真な様子に、イザベラは、コイツ死ぬな、と直感した。