3.意外な事で運命は変わるものです
なぜ大和型四番艦が建造継続され、そして空母になったのかを説明します。
「では、こちらのブースにお集まりください。まずは紀伊の歴史からご説明します」
案内された小部屋の壁には年表とたくさんの写真が貼られていた。手前のガラスケースにはいくつかの模型が飾られている。
「紀伊の歴史は昭和14年、西暦で言うと1939年から始まります。この年アメリカの軍備計画に対抗して日本も沢山の軍艦を建造する計画をたてました。紀伊はその計画の中の1隻でした。ただし、この時は大和と同じ戦艦として計画されていましたから、今とは全然違う形でした」
いわゆるマル4計画、第四次海軍軍備充実計画ってやつだ。アメリカの第二次ヴィンソン案対抗だね。紀伊は大和型の四番艦、111号艦として計画されてる。ちなみに信濃は110号艦だ。
瀬川さんがガラスケース右端の模型を指さす。そこには2隻の戦艦の模型があった。一見よく似ているが所々違っている。
「奥側が大和、手前が紀伊です。小さな砲の場所や数が違いますね。これは当時急速に進化していた航空機への対応として設計変更されたものです。この他にも船体の見えない部分で色々と変更されています」
大和の方は建造当初の形だから副砲が船体中央の左右にもある。逆に紀伊の方は最初から副砲が無くて高角砲が増えている。前後の副砲があった場所にもそれぞれ2基ずつ高角砲があった。その高角砲も形が違う。確か12.7cmから長10cmに変わっていたはず。
「そして翌年の1940年に紀伊はこの呉で起工しました。姉妹艦の信濃も同じ年に横須賀で半年早く起工しています。本来ならこの模型の形で1945年に竣工するはずだったのですが……1942年のミッドウェー海戦で運命が変わりました。それまで優勢だった日本は、この海戦で主力空母4隻を一度に失いました。不足した空母を補うため、建造中だった信濃と紀伊は空母に設計変更されたのです」
そう、確かにミッドウェー海戦は紀伊の運命を変えた。でもこれは素人向けの説明だね。俺みたいな人間はこれじゃあ納得しない。実は紀伊の運命を変えた事件は、その前にもう二つ有ったんだ。
まず、最初のきっかけは戦艦陸奥の爆沈だ。
昭和15年(1940年)、紀伊がここで起工されたのと同じ年に、日本海軍は土佐沖で夜間演習を実施した。演習自体は毎年やっているんだけど、だいたい毎年なんやかんや事件が起こる。そしてやっぱり、この年も事件が発生した。第三水雷戦隊の一隻が放った魚雷が目標艦を担当してた戦艦陸奥に命中しちゃったんだ。
本当は魚雷は艦底を通過するはずだった。でもどういう訳か陸奥の舷側に命中したんだ。更に悪いことに、なぜか実弾頭が装着されてた。たぶん単純ミスなんだろう。そういうポカミスって大事な時ほどやっちゃうよね。
まだ内務科が編成されていない時代だし、演習の目標艦だから戦闘配置にもついていなかったんだろうね。陸奥の応急と注排水作業は遅れに遅れた。その結果、陸奥には大浸水が発生して、あっという間に転覆一歩手前の大傾斜を起こしちゃったんだ。
その晩はなんとかギリギリで注排水が間に合って陸奥は助かったんだけど、艦政本部は大騒ぎになった。そりゃ少々古いとはいえビックセブンに数えられた大戦艦が、たった一本の魚雷で沈没しかけたんだからね。当然、彼らはすぐに原因調査と対策に乗り出した。
その結果、分かったのは注排水機能の不足と水密区画の構造問題だった。
当時の日本の艦もそれなりにポンプは積んでたんだけど、まず容量が足りなかった。それに集中方式だから電源をやられると全滅しちゃう。
水密区画も問題だった。これまでは被害極限を目的に縦隔壁を多く設置してたんだ。中小型艦だと中央縦隔壁で真ん中で仕切られてた。でもそれだと浸水が片舷に寄っちゃって簡単に大傾斜しちゃうんだ。注排水が間に合わないと、そのまま転覆だ。
検討の結果、注排水機能については補助発電機を多数配置して大幅に増強することになった。水密区画も縦隔壁を減らして前後方向の区画を増やすことにした。中小型艦は中央隔壁自体が廃止になった。
この方針は大和型を含む建造中の艦艇にもすぐに反映された。既存の艦艇も発電機やポンプを追加したり、縦隔壁に穴を空ける工事をしたそうだ。
フィリピンや沖縄で大和型、信濃型がいっぱい魚雷を受けても粘りに粘れたのは、この設計変更が一つの理由だって言われている。
さて、その発端となった陸奥だけど、修理が終わってドックを出た1週間後に、なんと謎の大爆発を起こして今度はあっけなく沈んじまった。
爆沈の原因は現在でも不明だけど、一番有力なのは放火説だ。
もともと酷かった艦内の私的制裁が、訓練事故の後にもっと酷くなっていたらしい。それで、いじめのターゲットになってた水兵が弾薬庫に放火して自殺したって言われてる。昔からいじめは有ったんだね。いじめは良くない。絶対だめ。
まだ開戦前だったから、この事件は世界中で大ニュースになった。アメリカなんかは今でも日本が米国を油断させようとした謀略だなんて言ってるし。
もちろん日本海軍は慌てた。なにせ、まだ大和と武蔵は完成してないのに40cm砲戦艦が長門一隻になっちゃったから当然だよね。
だから海軍は信濃と紀伊の工事優先度を上げて、設計も簡略化して、とにかく急いで完成させようとしたんだ。このせいで雲龍型4隻の建造が取りやめになったって言われてる。
でも、この時点で実は紀伊の工事進捗は信濃より半年以上も遅れてた。もしそのままだったら紀伊の運命はまた少し変わってたかもしれない。
この状況を変えたのがドーリットル空襲だ。
昭和17年(1942年)4月、あの有名なドーリットル空襲があった。
この時、横須賀を襲ったB-25の落とした爆弾が、建造中の信濃に命中しちゃったんだ。このせいで信濃の工事は6か月遅れる事になる。このおかげで工事の進捗は紀伊とほぼ揃ってしまった。
ちなみに隣で改装工事を受けてた大鯨は被害にあわず、無事に空母龍鳳として完成してる。さすが幸運艦と言われるだけの事はあるね。
そして運命のミッドウェー海戦。これで信濃と紀伊の空母化が決定したんだ。
この時、両艦とも船体工事の進捗が60%くらい、まだ上甲板が据えられていない状態だった。おかげで却って空母化が捗ったらしい。
もし、もっと工事が進んでたら空母化に手間取るか中途半端な構造になったって言われてる。逆に遅れてたら工事中止になって資材は他に回されてたと思う。本当に絶妙なタイミングだった。
艦政本部が用意した改設計案は130号艦、大鳳の焼き直しだった。上甲板がまだ無くて船体規模が大きいから飛行甲板も強度甲板になって格納庫も2段にできた。もし工事がもっと進んでたら格納庫も一段にしかできなかったと言われてる。
モデルにした大鳳が1944年6月にマリアナ沖で爆沈したから、しっかりその対策工事も行われた。こうして1944年末に大戦中の最大最強の空母と言われる信濃・紀伊姉妹が完成したって訳だ。
信濃、紀伊空母化の代償で雲龍型の4隻が建造中止になったけど、それだけ日本海軍の期待も大きかったんだろう。実際、唯一参加した沖縄戦で2隻は期待通りの活躍をしたんだから、その判断は間違ってなかったって事だ。中途半端な雲龍型が戦争末期に4隻あったところで、活躍できたとは思えないし。
そんな脳内解説を得意げにしてたら、いつの間にかツアーが移動してた。やべぇ。慌てて俺は追いかける。
「……ミッドウェー海戦で敗北した結果、信濃と紀伊は空母に変更する事が決定されました。そして2年後の1944年末に完成しました」
そう言って瀬川さんがガラスケースを指さす。そこには竣工当時の紀伊の模型がほかの空母達と一緒に展示されていた。
「世界最大の大和型戦艦をベースにしていますから、信濃と紀伊も当時は世界最大の空母でした。隣にあるのは、同時期の日本と他国の空母です。御覧の通り大きさがぜんぜん違うでしょう」
紀伊の横には飛龍型・翔鶴型・大鳳型・ヨークタウン級の同スケールの模型が並べられている。それらと比べると紀伊は長さも太さも大人と子供かってくらい違っていた。
「1955年にアメリカがフォレスタル級を建造するまで、信濃と紀伊はずっと世界一の空母の座を占めていました」
「どのくらい飛行機を積めるんですか?」
さっきの中学生がまた質問した。うん、今度は良い質問だ。
「計画では他の空母とあまり変わらない84機でした」
中学生は少し残念な顔だ。うん、わかる、その気持ち。こんなに大きいのに少なく感じるもんね。瀬川さんもそう思ったのだろう。笑顔で捕捉説明してくれた。
「これほど大きな空母なのに少ないと感じるでしょうが、これは戦争後半期に機体が大型化した事と、格納庫に余裕を持たせたためです。零戦のような開戦時の機体ならば目一杯積めば120機ほど、アメリカの空母の様に飛行甲板にも積めば150機は積めたと言われています」
今度は中学生も満足顔だ。信濃と紀伊の2隻をあわせれば300機、飛龍型4隻以上だもんね。これなら中止になった雲龍型も浮かばれるってもんだ。
史実より3年早く陸奥が爆沈します。慌てた海軍は信濃と紀伊の完成を急ぎます。ついでに水密防御と注排水機能も改善されます。
そしてドーリットル空襲で信濃の工事が遅れたおかげで、二段格納庫のまっとうな空母になりました。雲龍型が4隻犠牲になりましたが、仕方ないですよね。