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山間の村にて




 その日、男はその場へ踏み込んだ。

 緑。

 山を彩る若草色から深緑、広がる田には未だ穂をつけぬ稲。中天に在る太陽の下、見渡す限り健やかに息づいている。

 人気のない道、陽炎立ちそうなアスファルトを男は行く。

 暑苦しいほどに精気漲る面構えはまだ三十路に届くまい。190センチメートル近いだろう肉体は鍛えに鍛え上げられている。シャツを押し上げる胸板の厚み、肩まで一体化して流れているかのような太い首、押し込めた力を抑えきれるはずもない双腕、両脚。

 そして何よりも強く印象付けられるのは、その肉体ですら不足に思えてしまう覇気だ。この男が見た目ほど弱いわけがないという、冗談のような感想を人は抱いてしまうのである。

 風が吹く。身体から発散される熱を少しだけ洗い流してゆく。

 人の姿はない。まばらに家屋は見えるが、静かだ。この道の行く末も稲の丈に隠れてしまっている。

 此処へ来て、男に更なる目的地はない。その上で気侭に、肩に細長い青い袋を担いで力強く歩む。

 ほぼ四方を囲む山の稜線は雄大、薄く雲のかかる様さえ見える。

 時がゆったりと流れる。高空を飛ぶ鳥は果たして何だろうか。

 男は行く。大きく弧を描きながら道なりに、右手に竹林を望みながら中央を、崖の下を鼻歌混じりに、やがて小川へ辿り着く。

 そこにかかった、橋とも呼べぬ、渡しただけの板の上に少女の姿があった。

「こんにちは、おにーさん」

 十代の後半に入った程度の可憐な娘だ。満面の笑みで迎えるように、小走りに駆け寄って来た。最後に、ぴょん、と跳ねて目の前へ。怖じる様子はない。

「ようこそ、この村へ!」

「邪魔するぜ」

 男は笑う。男臭く、それでいてどこか人懐こい。

 少女もまた、返すのは人懐こい笑顔のままだ。

「何もない村だけど、よかったら案内するよ」

「おう、頼むぜ。独りで回ってるより楽しそうだ」

「任せて!」

 鷹揚に頷けば少女がまた跳ねる。軽やかなステップでくるりと身を翻し、少し先で早く早くと手招きした。






 まだ穂をつけぬ稲が揺れる。風に吹かれ、細波となって広がってゆく。






 畦道を行く。

「あっちにある広そうな家が……ええと、村長の家ね」

 少女が指差す方には、なるほど、平屋ながら大きな家がある。庭も広く、立派な枝振りの松の傍に耕運機が停められていた。

「この村長がすけべなジジイでさ、しかもなんか陰湿なんだよね。奥さんの方はいい人なだけに辛いよね」

「すけべは男の性だぜ?」

「うわー、ここでそっちの肩持たれるとは思わなかった」

 平然と返せば、少女はきゃらきゃらと笑う。

 燦々と太陽の光が降り注ぐ。きらりと何かが反射した。

「ってことは、おにーさんもえろいの?」

「誰にも負けんとは思わんが、俺よりエロい奴はあまりいないかもしれんな」

 男はいっそ自慢げですらあった。

 少女はぶんぶか両手を振る。

「いやいやいや、当方だだ引きなんですけど」






 まだ穂をつけぬ稲が揺れる。風に吹かれ、細波となって広がってゆく。






「しかしさー、こんな場所で米作りとか、始めた人は何考えてたんだろうね? この村、雨降らないと干上がって大雨降ると水に浸かるんだよ? もっと別のものでもよかったんじゃないかなー」

 一面に広がる田の緑を示しながら少女がやれやれとわざとらしく首を振る。

「おかげで昔は人柱の風習があったんだ。日照りも水浸しも勘弁してくれってね」

「そうかい」

 神頼みである。

 神とは世界の化身ばかりではない。歳を経た獣が知恵と力を得て成るものもあれば、人が祀り上げられることもある。

 神は一柱、二柱と数える。人柱の柱とはそれを指す。過酷な生、あるいは死を経て、人が神と呼ばれることになるのだ。

「今までやって来られたってことは効果自体はあったわけだ」

「そだねー」

 少女は曖昧に笑う。笑って、進んだ先に見える樹を指差した。

「あ、あれ枇杷の木。甘くておいしーよ。おにーさんも食べてみてよ」

「おお、ちょうど喉渇いてたんだ」






 まだ穂をつけぬ稲が揺れる。風に吹かれ、細波となって広がってゆく。






 枇杷の皮を剥く。

 男は立ったまま、少女は腰を下ろし、樹に背をもたれかけさせて。

「ねー、おにーさん」

「ん?」

「あたし、喋り方、変じゃないかな? この村じーちゃんばーちゃんばっかりになっちゃってたから、今風の口調って今ひとつよく分かんないんだよねー。一応てれびとかのを参考にしてはみたんだけど」

 見上げてくるまなざしは不安そうだ。

 男は気楽な顔のまま少女の危惧を否定した。

「変だとは思わん」

「そっか。ならよかった」

 少女は表情を緩める。

「そういえばすけべなおにーさん」

「ん?」

「おにーさんのそのすけべ眼力によると、あたしっていい女?」

 見上げてくる。小首をかしげて。

 男は答えを迷わなかった。

「情のこわい、いい女だ」

「ん、あんがと」






 まだ穂をつけぬ稲が揺れる。風に吹かれ、細波となって広がってゆく。






「あっちの家はマっつぁんの家なんだ。奥さんがもう死んじゃってる上に足を悪くしてて、ちょっと心配してたんだ」

 少女が小さな家を指す。

 それからその隣の真新しい家を。

「隣はすろーらいふで余生を送る? そんな感じで都会から引っ越してきた人の家。来てからまだ二月も経ってなかったかな」

「そうかい」

 そんなことを聞かされたところで何の足しにもなりはしないというのに、男は鷹揚に頷いた。






 まだ穂をつけぬ稲が揺れる。風に吹かれ、細波となって広がってゆく。






 村を一回りした後は山道を登る。

 案内とはいうものの、結局は個人の家くらいしかない。枇杷以外に意味はない。

 ただ並んで散歩をしていたと言った方が近いのだろう。

 先を行く少女の足取りは軽いものだが、獣道よりはまし、程度のものだ。男の脚力をもってすれば何の問題もないが。

 やがて開けた場所に出る。傾斜もなく、晩夏の太陽に染まる広場があった。

 そして木漏れ日の中にちんまりとした祠が一つ。

「この村を守る神を祀った祠、だよ。さっき言った人柱の」

 背を向けたままでそう言ってから、少女は軽やかにこちらを振り返る。

「これで全部。何もない村でしょ?」

 十代後半に入った程度の可憐な少女だ。屍衣の如き白の単を身に着けて、肩の辺りで切り揃えた黒髪が揺れる。

 くちびるが笑みの形に歪んだ。

「最初から気づいてるんだよね、おにーさん? 枇杷、結局食べなかったっぽいもんね」

「悪い。折角勧めてくれたんだが、腹の中に蟲抱え込むのはさすがに御免でな」

 男は困ったように頭を掻いた。

 しかしまなざしの奥にどこまでも冷徹な光があった。

「季節の割りに稲の生育が遅すぎる。それ以前に、お前が言ってたように稲作でやっていけるような土地じゃないな。土地神に恵みを打ち切られでもしたようだ」

「ごめーとー」

 くるくると少女がその場で回る。

 ひらりと裾がめくれ、覗いたふくらはぎには痣が見えた。

 袖の中にも首筋にも痣がある。

「神様になるのって苦しいんだね。そう決まってから、長いこと散々酷いことされたよ。今でもちょっと残っちゃってるのはヤだね」

「よく聞くな」

 人ではないものに成るならば人を逸脱しなければならない、と考えられることは多かった。

 あながち外れてもいない。ただ死んだだけでは世界に融け還ってしまうだけだ。人として扱わないことによって人ならざる存在に近しくなる、そういう機序は確かに存在している。

「歴史によると、あれからもう四百年くらいになるみたい。最初の頃は何も考えられずにただ稲をよく育ててただけだった。気づいたらぶんめーかいかとかしてたっぽい」

「それ最初どころじゃねえだろ。明治維新から二百年も経ってないぜ」

「ごめん、実はあたしあんまり学とかないんだー」

 少女はきゃらきゃらと笑う。

「とにかく、すっかり時代が変わっててさ、あたしのことなんてすっかり忘れててさ。そりゃそうだよね、あたしだって物覚えはよくなかったもん。でもよかったんだ、子供たちとか可愛かったし、昔のことなんてそんなによく覚えてるわけでもなかったし。大した問題じゃないと思ってた」

 木々がざわめく。風が止んでいる。だというのにざわめく。

 頭上の太陽は過酷なまでに熱い。

「愛しいあたしの子供たち。あたしがいないと死んじまう」

 熱を帯びた声は、狂気をも秘めている。

 元来の神霊である世界の欠片たちに信仰は必要ない。人というものの生まれる前から在ったのだ、そのようなもので存在を左右されるはずもない。もちろん、鎮めることや心を動かすことはできるが、その本質に影響を与えることはできないのだ。

 しかし、成った神は違う。

 少女を人柱としたかつての村の者たちとて、土地神を造り上げて終わりとはいかない。報復されることのないようその御魂を祀り、鎮め、豊穣を願った。少女は二百年以上の間、祈りを捧げられ続けたのだ。

 だから少女は和魂ニギミタマとして村人たちを愛し、幸魂サキミタマとして恵みをもたらし続けてきた。

「なのに減っていくの。外へ出て行く。もう子供もいないどころじゃない。きっとあと三十年もしたら誰もいなくなる」

 ねとつくように少女が言う。

 黒い眼球から黒い液体が流れ落ちた。

 少女の相は既に、和魂ニギミタマではない。

『許さない』

 ぼこり、と少女の下半身が膨れた。

 脚の如く逆さに生えてきたのは老人たちの上半身だ。男もある。女もある。いずれも目を剥き苦悶を残した死体だ。

 比較的まだ若い、還暦を迎えた程度の二人は、二月前に引っ越してきた夫婦なのだろうか。

『あたしは奪われた。好きな人も一生も奪われた。成りたくなんてなかった! 思い出したんだ。忘れてた昔のことを全部さあッ!! なのにもう要らない? もう終わり? ふざけるな!!』

 少女は裏切られた。押しつけられた役目すらも、もはや失われようとしていることに気づいてしまったのだ。

 だから荒魂アラミタマになった。

 山が、村が震撼する。墨を流したように一挙に黒雲に覆われた天から雫が降り始めた。

 此処は少女の領域だ。

『あたしの中からこれ以上出て行くのは許さない、あたしの者はあたしの中に還るの。最後のこれだけは誰にも奪わせない!!』

 喉も裂けよと絶叫。少女は縋る。

 雨の中、男はいつしか剣を手にしていた。

 袋に入れていたもの、それは丈夫なだけの鉄剣である。諸刃の、1メートルほどの身を持つ。

 雨滴が伝い、切っ先から滴る。腐臭がした。

 そして男は問うた。

「お前、名前は?」

 神の力は絶大である。人から成った彼女は脆弱だが、それも本来の神霊と比べてのことだ。一帯を支配する威は人の抗し得るものではない。

 だというのに男は飄然とあった。

「俺は須藤竜也すどうりゅうやってんだが」

 今や異形と化した少女へと、変わらぬ屈託ない笑みを向ける。

 中てられてか、少女の憎しみに歪んだ顔貌が一瞬だけ凍った。

『……サチ』

「そうかい」

『ひ、ひひひひ、おにーさんってば』

 少女はけたけたと笑う。

『やさしーね。ゆっくり融かしたげる。あたしの中におにーさんが欲しい』

 抱擁を誘うように大きく両腕を広げ、けたけた笑う。

 男は非難も憐れみもしない。無論、惑いも恐怖もない。

「いいや、一撃で終わりだ」

 ただそう言って、脇に構えた。

 踏み込みはただの一歩にして万難を破砕する。

 身を繰る様は人にして人を超え、万敵を攻略する。

 そして振るわれた剣はただの鉄剣にして万象を切り裂き、その斬撃の途中に少女があった。

『あ』

 少女は無垢を見せた。

 信じられない、と自分を見下ろす。

 左腰から右胸までを真っ二つ。神でなければ既に終わっている。

『おにーさん……?』

 下半身の死体が落ちて崩れた。少女は再び自分の足で立つ。

 予告どおりの、一撃、だ。鎮めるのではなく御魂そのものを武力で捻じ伏せる。それはもはや人の所業ではない。加護なくして、異能なくして、この男はやってのける。

 そして男へ少女は今、問うのだ。

『おにーさんは、あたしを救いに来たの……?』

「いいや」

 男は飄々と答える。

「悪いが俺は殺しと壊ししかできねえ男でな」

 消えゆく少女の姿に言葉を贈る。

 向けた笑みは、泣き疲れた幼子へのものに似て。

「今度こそよく眠れよ、サチ。悪い現実ゆめはこれで終わりだ」








 荒水波あらみわと名乗る機関がある。

 それは古より怪異を滅し続けてきた独立戦闘集団である。時の権力にも寄らず、血脈にも拠らず、独自に活動してきた。それゆえに政府と敵対することすらあったが、その実力をもって絶えることなく続いている。

 起源は古い。三貴子みはしらのうずのみこの一柱たる素戔鳴尊が人に創らせたのだとさえ言われ、長はスサノオと名乗る。

 荒水波は力を打ち砕く力である。

 荒水波は善を破壊する善であり、悪を踏み躙る悪である。

 荒水波は敵にとっての絶望である。

 荒水波は神すら屠ってのける。

 薄れ行く黒雲を引き裂いて、轟音と烈風を纏い戦闘ヘリが降りて来る。

 土地神によって閉鎖された世界が開け、迎えが来たのだ。

 男は少女の祠に背を向ける。

 行く足取りに揺らぎなく、どこまでも強く在る。

 第九十七代スサノオ。荒水波統帥、須藤竜也の生きる先は常に戦場だ。
















 すべてが終わって。

 蒼穹が果てを見せなくなって。

 祀る者も祀られるものもなくなった祠が、今も山の中腹に朽ちてあった。















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