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お尻の縫い目が破れたら  作者: 二蝶いずみ
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第十五話 教頭の秘密 

 一人の紳士が今日も、名声会W総合病院を訪れる。


 敷地内の桜の木々は、たくさんの蕾を蓄え、今か今かと、その花を咲かせるタイミングを待ち焦がれている。

 一瞬立ち止まり、今にも咲き出しそうな桜を眺めながら、ある女性に想いを馳せる。


 あれは、そう、桜の季節だった。

 去りゆく一人の女性がいた。

 ぶっきらぼうで、なんの取り柄もない自分に、優しく笑いかけてくれた、たった一人の女性。


 とある高校に転勤したばかりの自分は、問題児の取扱やら保護者との連絡ミスやらで、教頭から絞られる日々が続き、いかれこれの状態だった。


 学生時代に柔道で鍛えたので、体力には自身があった。しかし次第に体調を壊し、痩せていく自分を心配して、一人の女性教師が、ある日弁当を作ってきてくれた。


「たまには、体に良いもの食べてくださいね」


 それから、何度か話しかけてくれたが、気の利いた言葉を返せる訳も無く、会話が弾むことはなかった。


 もう二十年以上も、昔のことだ。


 自分に好意を持ってくれていたのかもしれない。

 でも当時の自分は、彼女に何もアクションをおこせなかった。

 とにかく、自分に自身がなかった。

 彼女のことが気になって仕方なかったのに、なんのアプローチもしなかった。


 翌年の春、

「お世話になりました」

という言葉だけを残して、彼女は別の学校へ転勤していった。


 長い黒髪の女性。


 桜。


 そういうものが、いつもあの人を思い出させる。


 時が経ち、自分は教頭になった。

 未だ独り身だ。


 教頭になって何年目かの春、季節外れの風邪を引いて病院へいった。

 病院の敷地内には、何本もの桜の木があった。

 外来の待ち合いから、中庭に咲き誇る桜がよく見える。ガラス越しに迫ってくるようで、本当に素晴らしい。


 入院患者が何人か散歩している。


 その時ふと、一本の桜の木の下のベンチに座っている一人の女性に目が止まった。


 ……似ている。あの人に。


 パジャマにカーディガンを羽織り、サンダルを引っ掛けた入院患者スタイルそのものだが、少しふっくらとした顔の輪郭や、黒くて長い髪、それに優しい雰囲気が昔のままだ。


 入院生活は長いのだろうか。

 どこを患っているのだろうか。

 やはり、既に結婚して家庭を持っているだろうか。

 あのとき、どうして自分に声を掛けてくれたのか……。


 彼女に聞いてみたいことが次々に溢れてきたが、やはり勇気がなく、ただ、ちょっとした理由を見つけては病院へ通い、遠くから彼女の姿を眺めるだけしかできないのだった。


 昔と何も変わっていない。

 ただ歳を重ねただけの自分。

 もし彼女に声をかけたら、どんな、反応が返ってくるだろう。

 覚えていてくれなかったとしたら、人違いの振りをして即座に立ち去ろうか。

 それとも、昔の同僚との再会を、少しは喜んでくれるだろうか。


 病院の正面玄関の自動ドアを通過しながらも、同じ考えや不安がいつものように頭の中をぐるぐると、巡る。


 しかし、今日のこの男は、いつもとは何かが、少しだけ違っていた。


 もしも神様がいて、自分にチャンスを与えてくれたなら、ありがとう、と一言お礼だけでも言いたい。


 そんな気持ちだった。


 そんな気持の教頭の頭上に、キラッと光る天使の輪が舞い降りた。

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