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お尻の縫い目が破れたら  作者: 二蝶いずみ
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第十三話 A子の違和感

 運悪く、ネックレスが壁を飛び越えて、吹き抜けのロビーの方へ弧を描いて飛んでいく。

 A子はスローモーションの動画を見ているような感覚を覚えた。


 あ、ネックレスがとんでいく……


 細めのチェーンに小さなダイヤのトップがついた、私のお気に入り……


 去年の誕生日にT輔に買ってもらったやつ……


 じゃなかった、自分へのご褒美に買ったやつ……


 不倫よ……ですって?


 かつてこれほどまでに、自分の居場所の無さを感じたことがあっただろうか。


 A子は、サスペンスドラマのクライマックスシーンでよく見るような、断崖絶壁に立たされて、吹きすさぶ風に煽られている感覚に見舞われていた。


 あたし、こんなとこに立ちたくて立ってるわけじゃないのよ。


 楽しい散歩道の終着点が、たまたまここだったってだけ。


 気付いたら、行き場のない崖っぷちに、一人追い詰められている。


 できることなら、早く部屋に帰って、美味しいスープをすすって、温かいお風呂にでもゆっくりと浸かっていたい。


 しかしそんな極楽は、今の自分からは果てしなく遠い場所にある。



 まさか自分がこんな目にあうとは。



 だけど、なんだろうか、さっきから、胸をチクチク刺してくる、この違和感。


 T輔に奥さんがいたなんて、そんなこと信じたくない。


 夢であって欲しいけど、どうやら、現実らしい。


 いままで全然知らなかった。


 本当は少し変だなってわかってた?


 会える時間は少なかった。


 付き合って二年近くなるのに、友達に紹介されたことはなかった。


 スマホを何台も持ってるのは知ってた。


 たけど、だからって家族がいたなんて、自分は浮気相手だったなんて、そんなこと、気がつくわけなかった。



 考えられなかった。



 考えたくなかった。



 好きだったから……。



 始めてT輔と出会ったときから、あいつの笑顔とデカい声に騙されてたんだ、私。


 バカだ……。


 そうよ、いっぱい、楽しい思い出があるわよ。


 勇気や元気、もらってきたんだ。

 仕事の悩みも、T輔はちゃんと聞いてくれて、いつも冗談言いながら励ましてくれた。


 ……ぜんぶ、嘘だったの?


 それより何より、私が傷ついたこと、それは……。



 宙に浮いたネックレスが、照明の光を反射して、キラッと輝く。



 そう、嫁の前で嘘をつかれたことだ。


 私じゃなく、家庭を守ろうとしたことだ。


 そうだ、これだ、違和感の正体は。


 私は、都合の良い人形か。


 ふ、ふ、ふ、


 今まで仲良く手をつないで歩いてきたのに、突然手を離して私を崖っぷちに追いやったわね。



 ふ、ふ、ふ、



 男は、いざとなったら家庭をとるんだ。



 ふ、ふ、ふ、



 こんな崖っぷち、自分から喜んで飛び降りてやる。


 青ざめるあいつの顔が楽しみだ。


 A子が衝動的に、エントランスを覗き込んで囲いに手をかけた、その時だった。



 ビリビリッッッ



 繊維と繊維を繋ぐ糸が急激に左右に引っ張られ、繊維もろとも千切れる音がした。


 この音が、何かに取り憑かれたように遠のいていたA子の意識を、現実に引き戻した。


 A子が、音のした方向に視線を向けると、そこにいたのは、見覚えのあるスーツ姿の男だった。


 ん? どこかで見たような……。


 あ! あのひとだ!


 ぴちぴちズボンの、お尻の縫い目が今にも破れそうだった、あの人が、すぐそこにいる。


 筋肉質そうな体付きで、高そうな生地のスーツに、そうそう、あんな風なキメキメの髪型をしていた。


 彼が、カフェコーナーの囲いに片足を載せて大きく身を乗り出し、吹き抜けのシャンデリアの方へ思い切り手を伸ばしていた。


 結構な危険をおかしての勇ましいポーズではあったが、残念ながら、ネックレスは彼の手にキャッチされずに、エントランスの方へ落ちていくところだった。


 そして何より、急角度で足を上げたせいで、彼のズボンのお尻が派手に破れてしまっていた。


 男は、足をおろし、A子たちの方へ気まずそうな表情を見せてから、

「ごめんなさい! 間に合いませんでした!」

と、大きく頭を下げて言った。


 A子には、この男が、ただただ眩しかった。


 眩しすぎて、頬をぽろぽろと涙が流れていくのに気付く余地もなかった。


 ただ、A子がこの男に救われたということは、疑いようのない事実だった。


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