心を揉む
手に力を込める度、俺の手は至福な時間を味わっていた。
男の肌では決して成し得ない、柔らかくもどことなく優しさを感じさせる感触。
肌に優しさという表現は適切とは言い難い。
だが俺の手は確かにそれを感じとっているのだ。
その細く華奢な腕。決して力仕事などしたことはないだろう。
小さな背中。どうやら本人が気にしてしまう程度に、肉づきがある。
腰は造形かと思えるほどにくびれがある。そこから臀部にかけて、滑らかに、そして急激な隆起を描く。
身体の曲線を強調するためだけに作られたかのような、白く光沢を放つシルクのドレスもまた、それらを際立たせ、彩っている。
今俺は自分の能力であるマッサージの力は使っていなかった。
ただひたすらに、自分の手に神経を集中させている。
一つだって、この感触を逃すわけにはいかなかったのだ。
この後何が起きるかなんて考えもせずに。
「んん…」
彼女は、フレイは。
うつ伏せの状態から、顔だけをこちらに向ける。
「ごめんなさい、今結構本気で眠くなってたみたい」
無造作にかきあげられ、紐で結わえた金色の髪が、フレイの顔にふわりとのった。
それを見た俺はくすりと笑う。
「もう、笑わないの。罰として、マッサージ延長ね?」
少しだけ微笑んで見せたその表情は、いつもの凛としたフレイではない。
どこか甘えた雰囲気を感じさせる、幼く、愛らしい顔をしていた。
その表情は、そう。
俺はフレイに惚れていたのだと、気付かされるには十分過ぎる程の破壊力だ。
面倒見がよく、優しさの中にも厳しさがあって、結局はやっぱり優しいフレイ。その行動一つ一つが、俺の感情を容易に乱す。
そんな素敵な人がいるのならば、俺などという小粒脇役の人間は惚れないはずがなかったのだろう。
「…どうしたの?」
少しだけぼーっとしてしまったかもしれない。
フレイには、俺が上の空だったように見えたのかもしれない。
「さては、私の事考えてたでしょ?」
ここでそのセリフを言うフレイもまた。
俺は図星をつかれて、そうかもしれない、と呆れて苦笑いだ。
「吉良君。私ね、あなたに聞いてみたいことがあるんだ。ってこんな体勢で言うのもあれか。」
そういうと、フレイは俺にマッサージをやめるよう告げた。そして自分のベッドから起き上がり、正座をしてこちらに向き直った。
シルクのドレスは肩から落ちかけ、今にもするっと落ちてしまうのではないかと心配になる。
「吉良君もここに座りなさい。」
ぽんぽんとベッドを叩き、男を自らのベッドに誘い込む女。
文字だけ見ればふしだらであるかもしれないが、フレイの真剣味を帯びた表情がそうではないことを物語る。
俺はベッドに正座するフレイの前に立った。
決して上から胸を覗こうと思った訳ではない。
急に真剣な表情になったフレイを見て、俺は不安になった。
嫌な予感というのはよくあたるもので。
あらたまって一体何を聞く気なのか。
俺は、真剣な場は、苦手だ。
「私ね、吉良君の本音聞いたことないと思うんだ。」
その言葉に一瞬、俺の胸がどくんと大きく脈打った。
本音?俺がフレイを好きとかどうとか、そうゆうのだろうか?
これは、愛の告白的な流れなのだろうか。
小粒の俺はそんなありえもしない妄想にかられる。
「吉良君はさ、一体いつになったら、本音で私と話をしてくれるの?」
その言葉に、さっきとは違う感覚で、俺の胸が脈打った。
「いつもその場しのぎの言葉で取り繕って。本気で思ってるんだか分からない事言って。…そんなに私じゃ、頼りない?」
俺の血の気が引いていく。
告白とかそんな甘い話しなど、あるわけなかった。
フレイは気づいていたのだ。
俺が、いつだって本気で話しをしていなかったことを。
毎日その場しのぎ。
目的なんか何一つなかったから、適当に流れに身を任せていた俺のことを、彼女はしっかりと見ていたのだ。
「別に怒ってるんじゃないから。ただ、話して欲しいの。あなたの、吉良君の言葉で。どんなことだっていい。吉良君が今考えてること、思ってることを、教えて?」
考えてること、思ってること、か。
ないよ、そんなもん。
俺には何もない。やりたいことがない。守るものがない。生きる目的がない。
異世界にきて、わけわからん能力を貰ったって、何もないものは何もない。
はは、何言ってるのか分からない
苦笑いをして、そんな言葉で場を濁す。
この反応は流石にいただけないだろうとは分かっていた。
ちらりとフレイを見る。
「…い加減にっ…」
言葉を一瞬詰まらせたフレイは、俺に呆れたのかもしれない。そう考えた瞬間だった。
「いい加減にしなさい!!この臆病者!!いつまであなたは自分の心を隠したままでいるの?!それじゃ、誰にも理解されない!分かるはずなんてない!」
そして、最後にフレイはこう言った。
「あなたは、それで、いいの?」
その一言が、今まで抑え込んでいた俺の感情を爆発させた。
フレイは最後の最後に、俺の奥底にあった核心を攻めてきた。本当に俺のことをよくみているのだなと、いつもなら感心したのかもしれない。
だがフレイの、静かに言った、分かったようなその口ぶりに、己の中に湧き上がる激情を抑え込むことなんてできなかった。
「………ない」
「え?何?聞こえないから」
「いいわけ、ないだろうがっ!!!」
心からの叫び。
この異世界にきて、初めてだった。
こんなに感情的になったのは。
一言言い放った事で、俺の中に渦巻いていた感情がとめどなく溢れ出てくるのが分かった。
「お前がっ!お前に、何が分かるんだよ?!」
フレイの両肩をつかみ、ぶつけようのなかった気持ちを吐き出した。
「俺はな、俺は、ずっとずっと苦しかったんだよ!!訳わかんねぇうちにこんな場所にいて、かと言って帰りたいわけでもない、やりたいことだってない。そんな俺が本音でお前らと話ができる訳がねぇだろう!!空っぽなんだよ俺は、何もないんだよ!何も!!」
しばらくこんな感情に任せて叫ぶことなんてなかった。そうでなくても、感情を吐き出すことに慣れてない俺だ。
身体が小刻みに震え、フレイの肩にかけていた手は力が入らなくなり、だらりと下に落ちていく。そして泣いた。
フレイは何も言わない。
突然俺が叫んだことに驚いたのだろうか。
目尻にうっすらと涙を蓄え、それでもただ俺をじっと見ていた。
まるで俺の言葉を待っているかのように。
その視線は決して外されることはない。
もう俺に逃げ道はなくなっていた。
「助けてくれよ…分かんないんだよ、俺…。なんで俺はここにいるんだ?なんで俺にこんな力が?俺は何をすればいいんだ?何かしなくちゃならないのか?教えてくれよフレイ!頼むから教えてくれよっ!!」
言葉とともに、ありとあらゆる体液が顔から流れ出る。そんな表現ができる程、俺の顔はぐちゃぐちゃに歪んでしまっていただろう。
床に膝をつき項垂れる。
いつものことだ。
こうやって下を向いてしまえば、もう見なくてすむんだ。
現実を、何もできない俺の世界を。
一瞬沈黙の時間が流れた。
当たり前だ。こんなヒステリックなことを言われたら誰であってもどん引きだ。
そんな投げやりな気持ちの中、俺の頭を不思議な感触が襲った。
柔らかく、優しいそれが、俺の頭を包み込んだ。一瞬何が起こったのか分からなかった。
気付いたというよりは思い出したと言っていいだろう。それは久しく味わっていなかった、温もり。
そう、これはフレイが、ぎゅっと俺を抱きしめていた感触なのだと。
「吉良君…それが、吉良君の本音だったんだね?」
優しい口調で、フレイが話し出す。
「…私は吉良君の本音が聞けて嬉しいよ?今の私に、吉良君の言葉に対する答えは分からないわ。でも、一緒に答えを探すことはできる。分からなければ一緒に悩むことだってできる。一人でできないなら、一緒に手伝うことだってできるのよ?だから一緒に探していこう?ほら、顔をあげて」
なんてやつだ、そう思った。
この状況で顔をあげろとか。
それでも、もうどうでも良くなってしまった俺は顔をあげた。
フレイの顔が近くにあった。
そして、フレイも泣いていた。
「吉良君は一人じゃないから、絶対に、一人じゃないから。私がいる、私がついてる!」
そしてフレイは再び俺を抱きしめた。
どうしてこの人はここまで言ってくれるのだろうか。
そう思ったが、今はこのまま何も考えずにこの身をフレイに委ねることに決めて、俺は再び思う存分泣きじゃくったのであった。