気を揉む その三
「吉良、無理しちゃ駄目」
そう言って一瞬歩きかけた彼女はすぐにくるっと振り返り、普段とは違う口調でこう言った。
「絶対、だよ?」
胸の前でぎゅっと手を握り、うっすらと涙目になっているようにもみえなくはない。
可憐な少女にそんなことを言われた俺は、伏し目がちに頷くだけに終えた。
悲痛そうな表情の彼女は、前をゆく武装したメンバーに呼ばれ足早にこの場を去っていく。
俺はその背中をただただ見つめるだけだった。
ラジカルフォースとの契約通り、俺は魔巣窟へ来た。正直何の準備も、心構えもせずにこの日を迎えた。
何の力も持たない俺は邪魔な存在でしかない。
しかも周りは慣れ親しんだパーティーに属する、俺以外は顔見知りの者達。
足どりは重く、未知に対する好奇心など一切ない。俺の中にある気持ちは、ただただ早く帰りたい、その思いだけだった。
悲痛そうな表情に見える少女の顔も、俺が要因だ。
今日に至るまでの俺の素っ気ない態度。あまり距離を近づけないようにしていることを薄々彼女自身も気づいていたのだろう。
なんとなく微妙な空気が俺達の中には生まれていた。
そんな微妙な空気の中でも、彼女は俺を気遣った言葉を投げかけてくれる。
何故に彼女が?
そんな視線で周囲のものは好奇と疑いの目で俺を見つめている。
どう見ても場違い。
道具袋一つ肩に引っさげ、中に入っているのは以前中年女性が持たせてくれた水筒一つと、ラクル。
袋の中身など周囲の者には分からないだろうが、衣食住に関わる道具を何一つ手に持っていない俺を、何しに来たんだと、その視線は物語っている。
当然だろう、こんな場違いで不審な男がいたら、俺だって気になる。
何の準備もすることなく、流れにただ身を任せてこの場に来たのだ。自業自得なのだろうが、今はただただこの場をやり過ごすことだけを考える。
他人任せもいい所だ。
ちなみにラジカルフォースは三つの部隊に分けて魔巣窟を進んでいるそうだ。誰かが教えてくれた訳じゃない。周りを歩く者達の話しを、聞いていないふりをしながらその耳に入れただけだ。
前をゆくのは偵察を主とする斥候部隊、真ん中に主力部隊を置き、最後は後方支援部隊という名の荷物持ちだ。俺は約束通り後方支援部隊の中にいるのだが、一人だけ自分の軽い荷物を持っている。他は食材や予備の武器など正に支援にふさわしい道具を重たそうに持っていた。
周りも何も言わないから、俺も何も言わないで最後尾をとぼとぼと着いていく。
魔巣窟の内部はいわば洞窟となっていた。
俺の少し前をゆく者は篝火を灯しながら歩いているのだが、主力部隊には魔術師がいて、魔法で周囲を照らしているそうだ。
最後尾を歩く俺からはその光景は見えていない。
洞窟の奥へと歩みを進める度、ここにきたことをひどく後悔する。
出口が遠のけば遠のくほど、見知らぬ者の中に俺一人という状況が、寂しさと不安の感情を大きくしていく。
なんとか我慢できるのは、道具袋の中でラクルがごそごそと動いていること。ラクルさえいれば、俺は一人じゃないと、子分にしたつもりの存在に俺は依存してしまっていた。
一日が終わるのがとてつもなく、ひどく、長く感じた。
周囲は篝火による明るさのみ。時間の感覚も分からず、狩り漏らした魔物がいつ襲ってくるかも分からない恐怖。
歩く横には前をゆく主力部隊が倒した魔物の死骸。
人は一体どうしたら、これほど異形の形をした恐ろしい化物に立ち向かっていけるのか。
俺には無理だ。
切る、殴る、抉る。全てこの手に感触が残っているなど、どうやっても耐え難い。
魔巣窟へ入って一日目。ハインツは俺の元へはこなかった。時間の感覚などはないが、ある程度まとまった仮眠の時間を与えられたことから、なんとなく一日の区切りだったのだろう。
ハインツがやってきたのは二日目だった。
二日目に入って二回目の休憩中。
ブーツで足音をコツコツと鳴らしながら、まるで洞窟に似合わない可憐な少女が歩いてくる。
松明による灯火ではない、魔術によるきわだった明るさがそう見せたのかは分からない。
もし彼女の存在を知っていなければ、初めて見るものには天女、あるいは洞窟内であることを考えれば、人を美貌で惑わす類の魔物かという程に、人々は彼女の美しさを語ったであろう。
俺は思わず、ごくりとつばを飲んだ。
ハインツの美しさと、彼女から発せられる言葉に不安を感じて。
完全に俺はこの一団のお荷物。衣食住から魔物への対応まで全て他人任せ。そんな俺の状況を知ったハインツが俺に発する言葉がなんなのか、俺は怖かった。
周囲の者に声をかけながらハインツがこちらに歩いてくる。
ハインツに励ましの言葉でももらったのだろうか、頭を下げお礼を言う者、笑顔で談笑する者、しまいには手を合わせ拝む者までいた。後方部隊ほとんどの視線が彼女へ向いている所をみれば、彼女の人気ぶりが分かる。
一人一人に声をかけ、徐々に、徐々に、彼女が近づいてくる。
正直、逃げ出したかった。周囲の者へ励ましの言葉を口にする彼女が、俺に一体なんていうのだろうか、怖くて、たまらなかった。
地べたに腰を下ろし足を抱え込むように座っていた俺は、自分の顔をそのまま両腕へとうずめる。彼女を見ないようにした。俺など気づかずにそのまま戻って欲しい、そう、願った。願った、ふりをした。
本音は、彼女から声をかけられることを切望しているのだ。
ブーツを鳴らす、その足音が目の前で途切れる。
顔を伏せていても、それがハインツの足音であろうことは見ずとも分かる。
俺の店の中で歩くハインツの、幾度となく聞いた、彼女の足音のリズムだった。
この時の俺を表現するのなら、まるで怯えた子犬、だ。
足音が止まり、一瞬の沈黙が訪れた。
彼女は俺の姿を見てどう思っているのだろうか。
一瞬でも自分が好意を口にした男の、情けない姿を見て。
「吉良。」
ささやくような彼女の俺を呼ぶ声が聞こえたが、一度目は無視することにした。すぐに反応することで、彼女から声をかけられることを待ち望んでいたことを、悟られるのが嫌だった。
本当に、どうしようもない自尊心である。
「…吉良?」
今度は、先程より少しだけ強く、高い声だった。
俺はゆっくりと顔をあげた。
ハインツの二回目の呼びかけが思ったよりも大きな声であったのに驚きぴくりと反応してしまったから、気づかないふりはもはや無理であった。
顔を上げた視線の先。
女の子座りをし、両手を地面について下から可憐な少女が覗き込んでいた。