二の姫
今を去ること千数百年前。
平安京の時代。
ある大納言家に三人の姫君がいた。
一の姫は帝の后がねとしてそれは大事に扱われ。
三の姫は末の姫であることから甘やかされ愛された。
二の姫はと言うと。
これが少しばかり変わった姫君で、あらゆる才があり過ぎた。
望むままに馬を与え、弓を取らせれば必ず獲物を仕留め、漢詩や和歌も難無くこなし、裁縫の腕も申し分ない。楽も筝や琵琶、竜笛までも嗜む。
才気の塊であった。
ここまで出来過ぎとなれば生まれるところを間違えたのではないかと、これは父・大納言の悩みの種である。
更に言うならば二の姫は顔立ちも凛とした美姫であった。
二の姫は名を晶子と言う。
さてはこの仰々しい名前が行き過ぎであったかと思う大納言の元へ、二の姫は手ずから縫い上げた直衣(平安時代以来、天子・摂家・以下公卿の平常服)を持ってくる。
「おもうさん(父上)、どうぞ、おもうさんの為に縫い上げました」
そう満面の笑顔で言い、見事な出来栄えの直衣を差し出す二の姫に、日頃は悩みの種と思う大納言も、ついつい相好を崩してしまう。
晶子の名に相応しく、透き通るような色白の、目は切れ長で睫の庇の長いこの娘こそ、帝の女御として入内させるべきではないかという思惑が頭を過るのはこんな時だ。歳も十五と頃合いである。
しかし。
「二の姫や。昨日は狩りに参ったそうだが、どうであったかな、獲物は」
二の姫は父親の問いにはきはきと答えた。
「はい、おもうさん。昨日は雉を二羽と鹿を仕留めました!」
「………」
二の姫には女の才と男の才の両方があり過ぎるのである。
「そうか。それは重畳であったな」
「はい!舎人(貴人に従う雑人)の雪鷹が良い仕事をしましてございます」
雪鷹、の名を聴いたところで大納言の眉がぴくと動く。二の姫は身分の隔てなく誰とも朗らかに接する。深窓の姫君としては些か異例である。まかり間違って舎人などと恋に落ちられでもしたら困る。
大納言は二の姫の母である北の方(妻)とも話し合い、この際、二の姫を宮中に出仕させることにした。二の姫の噂は帝の耳にまで届き、再三、出仕させよとの声がかかってはいたのだ。今までは一の姫を先に、という思惑があった為、これを丁重に断っていたが、こうなれば姉も妹もない。とにかく、二の姫は宮廷に出すべきだ、と大納言は考えた。
その話を聴いた二の姫は憂鬱になり、勾欄(宮殿や廊下などの端の反り曲がった欄干)に両腕をもたれかけ、庭に遊ぶ雀を眺めていた。
春先の長閑さよと思いながら、姉の一の姫を差し置いて宮中に出仕すると恨みが怖いし、今までよりずっと窮屈な生活を強いられることになる、と憂い顔であった。
「二の姫様。如何なされました?」
丁度巻物の数巻を運ぶところであった雪鷹が、そんな二の姫に声をかける。
常識では有り得ない、二の姫の周囲の関係のこの気安さが、大納言をして二の姫を宮中に押し込めてしまおうと思わせたのであった。
精悍な顔立ちの雪鷹は、貴族の間では荒いとも映るのかもしれない。
けれど二の姫は雪鷹の顔が好きだった。
時々、彼の吹く竜笛を聴くのも。
雪鷹も二の姫が出仕する話を聴いている筈である。
しかし今まで同様、何も態度が変わらない。
「雪鷹。そなた、私が出仕しても構わぬと思うておるのか」
「ああ、そのお話しですか」
「どうなのじゃ」
「二の姫様は俺の存念を気になさっておいでですか」
す、と雪鷹が二の姫に近づく。
二の姫の顔のすぐそこに、雪鷹の顔がある。
半分が影になって、目の力の強いことが判る。
「もののついでに聴いたまでよ。座興じゃ」
「ふうん」
雪鷹の顔がどんどん近づく。
とうとう、二の姫は雪鷹の身を押し遣った。
近接した雪鷹は真顔だった。
「二の姫様さえお望みなら、俺はいつでも貴方様を攫いますよ」
大納言家の姫に相応しく、宮中で与えられた局は広く、調度品も整っていた。
宮廷の女房として立ち働いている内に、二の姫は何度か求愛の和歌を貰った。
しかし二の姫はそれらをことごとく無視した。
二の姫の心には雪鷹が在り、何より二の姫はもっと広い世界を渇望していた。
広大である筈の宮中は、様々な人の思惑が入り乱れ、二の姫には窮屈に感じられた。
そして中には二の姫にどんなに袖にされてもめげない男もいた。
蔵人頭・藤原惟義である。
蔵人頭と言えば帝直属の守衛の長官のようなもので、花形である。
本人の顔立ちも端整で、貴族受けしそうな雅顔だ。
これが二の姫に送った和歌は数知れない。
春には桜、夏には橘の白い花に添えて恋歌が寄せられる。
「貴方のお心には一体どなたがお住まいなのか。その方が羨ましくも妬ましい」
御簾越しにそんな言葉をかけられたこともある。
当然、周囲の嫉妬も買う。
父である大納言は大納言で、帝からのお召しはまだかとそればかりを訊いてくる。
慣れぬ宮中の暮らしもあり、二の姫は疲弊していた。
閉塞感と鬱屈が、二の姫を徐々に蝕んでいた。
こんな時に思い出すのだ。
思いきり馬で駆けた野山。
途中で飲んだ川の清水。
降るような葉の緑。
そして雪鷹の顔。
彼の吹く竜笛の音色。
突き抜けた蒼穹とともにそれらがあった懐かしき頃。
今、二の姫は御簾の内から蕩けるような赤い夕陽を見ている。
大納言が待ち望んだ二の姫の入内話が浮上した秋。
二の姫は病がちになり宿下がりすることになった。
高麗端の上の褥に伏す娘を見て大納言は、己の浅慮を知った。
二の姫を宮中に入れるのは、野生の鳥を小さな籠に閉じ込めるも同じこと。
どうして親としてもっと娘の気質を重んじてやれなかったかと。
特別な計らいで、雪鷹は二の姫への目通りを許された。
それは、二の姫の命の残り僅かであることの証左でもあった。
「二の姫様…」
「雪鷹か」
逢いたかった、と面やつれした顔でか細く言った二の姫に、雪鷹は悔いた。
こんなことになるのであれば、無理矢理にでも攫っておくのであった。
鄙の暮らしも二の姫ならば馴染んでいけただろう。
宮中にいるよりもずっと。
几帳を押し退け、雪鷹は衝動のままに二の姫を抱き締めた。
病の筈の二の姫からは、それでも芳しい香りがして、雪鷹を酔わせた。
その夜、雪鷹は夢を見た。
一頭の見事な龍が、地から天へと解き放たれる夢である。
雪鷹はなぜかその龍が二の姫だと確信した。
己は今、龍を抱いているのだ。
理屈ではない、それは直感だった。
そしてこれから己はこの龍を失わねばならない。
喪わねばならない――――――――――。
夢の中の雪鷹の目からほろほろと涙が流れた。
(二の姫様…)
翌年、二の姫は玉のような男子を生むと間もなく身罷った。
大納言は愛娘の息子として、雪鷹とともにこれを手厚く遇した。
二の姫の息子は長じるにつれ、母譲りの才を発揮し、位人臣を極めることとなる。