優しさの陰
その日の朝、青山小雪には元気がなかった。
彼女は椅子に元気ない様子で座ったまま、そこから動かなかった。その顔は、あたかも辛いことがあったかのように意気を失い、憔悴している。
いつもなら、小雪は明るい女の子なのだ。誰にだって活発にあいさつするし、希望に満ちた笑顔をうかべている。みんなと雑談にふけり、生気にあふれながら動き回っているというのに。
だが、この日の様子は対照的だった。
その顔は何もしたくないとはっきり知らせている。顔をささえる皮膚は彼女の名前のように青白い。
クラスの誰もが、その理由を察知した。
あいつがここに、いないからだ。
「……大貴は?」
瀬原勝が竹内文子に問うた。
「昨日の練習の後、急に体調崩しちゃった……ってさ」
文子はそう言って、ためいきをつく。
小雪ほどではないにしろ、彼女も元気のない顔を見せていた。あるべき何かがない、という感じの失望らしかった。
「そっか。あいつにあの漫画の新巻を貸してやろうと思ったのに……」
「え? あの恐い漫画見せてるの?」
「恐い漫画じゃないぞ。あれは面白い作品だ!」
「でも、ゾンビとか出てくるじゃない」
「そこが面白いんだよ。あの暴力的な世界観がたまらないんだ。ごく普通の日常ものなんてつまらないだろ」
自分の考えを瀬原に、少しひく顔の文子。
「一番最初の日常的な雰囲気と、ゾンビが出てきた後の殺伐とした世界観のギャップがすごいんだよなあ」
「何それ、ますます読みたくないし」
二人の会話など、少女にはまるで耳に入らない。
あの漫画がどうのこうのなど、『あの子』がいないことに比べれば、何の重要性も持ちはしない。
「小雪、やっぱりどんよりした顔」
横からささやきかける戸邊麻里香。小雪の親友の一人だ。
「いつもの小雪らしくないよ、そんなじっとしてさ」
小雪は麻里香に面を向けると、いっそう心細げな顔で。
「そんな、私、大貴くんがいないとがんばれないし」
「大丈夫だって、明日にはきっと元気になってもどってくるから」
「でも、今はいない……」 今にも泣きそうに。
「一日なんて短い時間だよ。この苦しみはすぐ終わるから」
「で、でも……」
小雪はどのようになだめられても、悩むのをやめることはできなかった。
自分の片割れともいうべき人間がいない時に、なぜ憂えずにいられようか。
ああ、この気持ちを一体誰が理解してくれるというのだろう。私は、誰よりもあの子が好きだというのに。
激しくふさぎこんだまま、その時間を過ごしていった。
佐藤大貴に対して小雪がなみなみならぬ感情をいだいていることはみんなが知っていた。大貴は格闘技の研鑽にうちこむ朴訥な少年で、少し顔つきが荒っぽいところはあるが、きりっとした目つき、力に満ちた体格、陽気な性格でみんなから慕われていた。そしてそんな大貴の姿に惚れこんだのが彼女だったのである。
昼になり、みんなが各自食事を始めた中で、小雪はやはり意気消沈したままだった。
数人の女子が彼女を誘おうとしたが、小雪は顔を横に振るばかりでいっこうに調子が上がらない。無理に引くつもりはなかったので彼女を一人にしたが、それでもいつよりは口数が少ないようである。竹内文子は戸邊麻理香に向き合って食べていたが、何回か小雪を見張るかのように、ちらちらと察ていた。
二階にあるこの教室の様子を俯瞰すると、クラス中がいくつものグループに分かれているらしい。
瀬原は遠くから小雪をながめて言った。
「驚いたな、小雪って大貴がいないとあんなにしおれちまうのか」
瀬原から見て左には、里見景輔が座っている。
ほおの丸くやさしい顔つき、中性的な外見をした褐色の少年だ。
「うーん、彼女、本当に調子悪いみたいなんだけど……ねえ、やっぱり保健室とか行かせた方がいいんじゃ?」
「国語の時間でもあいつ全然文章とか読みださなかったし……」 これは右に座っていた男子の言葉だ。
「おい李駿」
そこで瀬原は彼に釘を刺すかのように、
「今の小雪はあいつと似てると思っただろ」
「似てる? そんな……」 急にむっとした顔を見せる李駿。
「小雪は今日がそういう状況だから、あんなしょんぼりしてるんだよ。あいつさえいりゃ、他の女子ともくっつきあってるのに」
李駿が思い浮かんでいるであろうことに深入りはせず、
「ああ、大貴がいない小雪は誰よりもみっともないからな」
と、急にしたり顔を。
「そうだ、いいこと考えたぞ」
「ん?」
二人が首にかしげるや、低い声で語り始めた。
「小雪に喝を入れてやろうじゃないか。ぬるい言葉でなだめるんじゃなくてさ。もっとこう頭ごなしに」 その顔は腹黒い。
「なんか、悪いこと考えてない!?」 里見が困り顔を浮かべた時、褐色の肌と白目がとなりあって、少年の顔つきは見かけ以上いたいけに見えた。
瀬原は里見のそんな表情を視てにやけながら、
「大丈夫だって、平気だから! 小雪は優しい奴なんだし」
「でも大貴のことになると、色が変わるぞ?」 李駿もしかし、里見と似た反応。
「いや、間違っても怒って暴れ出すなんてしないはずだよ」
瀬原勝はそれを明らかに確信しているらしかった。
「おい小雪さん!」
小雪の席まで近づくと、やけに目立つ声で呼びかけた。
「え……?」
おびえた顔で見上げる小雪。
「一人だとさびしくって仕方ないだろ? 今日くらい僕と話し合ってみないかい?」
「で、でも」 返事を出しかねて、小雪は黙りこくってしまう。
『彼』以外に、そういう口の利き方をされるのは慣れていないのだ。
「わ、私、あの子がいないと……」
「何だよ、そんなに固くなって」 いじらしい笑いを浮かべる瀬原。
「瀬原君って小雪に興味あったんだ」 麻里香が思わずつぶやいた。
「へえ、意外」 そっけない反応を見せる文子。
「外見からしてそういうこと、しそうだしね……」 小雪の困惑した様子を冷淡に見やりながら、文子は二人の会話の行く末に注目した。
一方で、瀬原は小雪が縮こまる姿に喜びを覚えていた。
「大貴のことか? あいつはもう今日は来ないと思っていい」
文子は不意に顔を固くした。
目先の少女の額から見える冷や汗。
「仕方ない、そんな都合だったんだ」
「私、それがどうしても嫌」 小雪が初めて明確な声で返した。
「今日大貴くんがいなくてとても悲しい。みんなより悲しんでるの。だからどうしても元気が湧いてこないの」
文子は二人をしらじらしい目で視ていた。小雪が『彼』に対して言及しているのを聴いて耳のはがれる思いがした。
「安心しろって、こんな時間とうに過ぎる」
「今だから、だめ」 瀬原の言葉など小雪には通用しない。
「大貴くんが見えない世界は、灰色で無感触の世界。何を見ても感動しないし、何を食べてもおいしくない」
やばいなこいつ、と瀬原は思った。あいつに対する慕情は想像以上らしい。
両手を広げて、さらに弁舌をふるう。
「でも、人生いつだって楽しい時ばかりじゃないだろ? たまにはこういう経験が必要なんだ。自分の心を鍛えるためにな」
小雪の顔つきに、変化が生じ始める。
「経験? こんなことを経験して、何になるっていうの?」 眉が、わずかにつりあがる。
一体こいつは何を言ってるんだ。なぜ、大貴のことをこんな二人に語られなくちゃならないんだ。
「だから、精神を練り直すんだよ。人間は快楽ばかりを追い求めてはだめになってしまう。苦しみを味わうことで人間の感性を矯正する必要がある。ちょうど君はその時にさしかかっているんだ。これは耐えなければならない」
小雪の感情を素通りして、瀬原は語り続け。
「つまり、大貴君が今日いないのは当然あるべきことだったってこと?」
何かを含んだ、疑い深い顔で。
「そうだ。これはもう定まっていたことなんだ。変えられないことだったんだよ。今ここに大貴がいる世界は別の宇宙にある。だが、俺たちがそこに行く手立てがあるか? ないだろ? だからこの現実は変化することなく存続していく」
小さな声が加わり、わずかに口がゆがむ。
「なにしろ、あいつがいないというのはかなり目新しいからな……」
小雪は爆発した。
「許せない!」
大音声のもと、そのまま立って瀬原が首をつかみあげた。
激しい力だった。
「おい!? 何を……!?」
とまどう瀬原。誰もが彼女の豹変に驚き、
「ちょっと、小雪!」「やめて!」
制止しようとした。
一番あせったのは里見である。
「ああ……これだから言わんこっちゃない」
「ちょっ……待てよ! 俺が悪かった、悪かったからぁ!」
瀬原は息も絶え絶えに叫ぶ。
だが小雪は気にも留めない。その体から発出されているとは思えぬ怪力で、瀬原を押しながら床を歩いた。
激情に顔を紅潮させ、歯をくいしばりながら。
李駿は小雪の恐ろしげな様子に戦慄しながらも、冷静になろうとつとめた。
「先生を呼びに行ってくる」と里見に告げ、部屋を出ようとする。
その直後、しかし、
「いや、無理かもしれない」と真顔で里見はつぶやいた。
どういう意味だ?――疑念でふと立ち止まる李駿。
「小雪、まじになってる。もうこれは……」 見ると、額にわずか汗をたらしている。
李駿には、里見が最悪の事態を想定していることは明白だった。
「ねえ、二人とも落ち着いてよ!」
「そんなことしてたら、時間の無駄だって」
麻里香や他の女子が制止の声。
だが、二人には今のところ誰も聞こえないようだ。
「分かった、俺が悪かった……だから、もう放せよ!」
「恕さない……恕さない……」 小雪は目をぎらぎらさせて瀬原の顔をにらみつけている。対する瀬原は自分がどうなるかわからない恐怖でいっぱいになり、慈悲を求めるように涙さえも。
二人の命運が誰に分からなくなった頃、
一人の女子が突如、小雪の背中へと。
「もう、やめて!」
竹内文子だった。彼女は小雪の服を後ろからつかむと、深い力でこちらに引き倒した。
ばたりという音がして、小雪は地面に叩きつけられる。圧力がなくなって急によろめく瀬原勝。
「分かってた。大貴をそういう風に言われるのが堪えられないくらい」
辛そうな顔で、地に臥した小雪に文子は語る。
「でも、私だって嫌なんだよ。こういう話を聴いているのは」
小雪はすでに凶暴な顔つきではなくなっていた。急に体に入ってきた痛みが、彼女を正気に戻し、あの弱弱しい少女の表情を形成させていた。
もう少女は、涙を浮かべ、誰かに赦しを乞うている顔。
「うう……痛い」
「痛い?」
そっか、小雪は私のことが分かってなかったんだった。
「うん、確かに痛いのは分かる。でも、こっちは心が痛かった」
文子は低いが真に迫った声で小雪に語る。
「だからと言ってどうしようもないけどね。結局こいつが悪いのには変わらない。けど……」
瀬原はしばらく目が回っているようだったが、ふと文子の顔に目をやると、すぐに彼女が自分を助けてくれたものだと思い、息も切れ切れに。
「あ、ありがとう、文子。もうすぐで、俺は……」
文子は、顔をしかめずにはいられなかった。
小雪は気づくと、職員室に呼び出されていた。瀬原と何かいざこざがあったようだ、と先生たちは聞いていた。
瀬原に対して手を挙げてしまったことは申し訳なく感じる。だが、瀬原が大貴のことについてとやかく言われたのにはどうしても納得できなかった。
彼女は大貴のために怒ったのであって、自分自身のために怒ったのではない。しかし、先生たちはまるで小雪が自分を悪く言われて怒ったのだと理解しているようだった。
彼女は彼らを前に大貴のことを告げることはできず、ほとんど受け身で質問に応じるしかなかった。
大貴くんに対する思いを、軽々しく人に告げることなんて、できるわけないのに。まして先生たちの目の前だ。それを話せる相手では、なおさらない。
小雪は教室に戻るとまた座りこむ。誰も何があったか訊くことはせず。
ますます陰鬱な顔になっていたからだ。大貴くんのために怒るのは正当なことだというのに、なぜ私はそれをはっきりと主張できなかったのだろう。
結局そういう風にして、一日が終わっていった。
授業が終わると、小雪は即刻家に帰ることに。大貴のいない学校に長くいるつもりはさらさらなかった。
小雪は帰路の上を踏んでいた。もう、眠ってしまいたいなと思う。このような日に長く時間を費やしたくない。
麻里香たちはこの時になっても一緒に帰らないかと誘ってくれた。その心を、嬉しくは思った――決して嫌なわけではない。本当はあの人のことなんてさっさと忘れて、親友たちとの会話に打ち解け、鬱屈など忘れ去ってしまいたかった――だが、気づくとそれも断っていた。
もしかしたら、罪深いこれまでのことではないか?
一時の楽しみにふけり、あの人への思いを消し去ってしまうのは。
「ううん。もう行くね」 あの時、私は何を頭に描いていたのか。
小雪はしばらくしてから、だんだん足を進めるのも物憂くなり、ある家の土台に座りこんだ。
気づくと、たわいのない話し声がふっと現れて、そばを通り過ぎていく。
「今日の学校、きつかったね」
「いや、ほんとに。鉄棒の逆上がりなんてできるわけないよ」
「一度はできたんだけどなあ」
「えっ、できたの? わあ……すごいなあ」
「でも、鉄棒のことよりもっと大事なことあるよ」
「なんで?」
「だって、今日あのアニメあるから」
「そっか、急がなくちゃ!」 素早く踏み鳴る足音。
別のささやきが聞こえる。
「じゃあ、やっぱりありさは自発的に友達を探そうとしたことはないの?」
「ないですぅ。どうせまわりにいる奴みんな、自分とはそりの合わない人間ばかりなんですぅ」
「なら、やっぱり話し相手を見つけるってのはなかなか難しいわね」
「それどころか、欲しくないってことも思うこともあるくらいですぅ。でも……」
「でも……?」
「やっぱり、自分が孤独でたまらなくなった時、なぜか友達がそういう奴が無性にほしくなるんですぅ。だから、結局自分がどっちにしたいのか、分からない……」
「あなたの気持ちは分からないでもないわ。私は……、ずっとそうだったし」
「美架さんはあっちに仲間がいるんだから、いいですぅよ。……こんな所にいたのか。いや、何も見なかったことにしよっと」
「ええ、私も彼女を見なかった」
それからはしばらく誰も聞こえなかった。
もうずいぶん、長い時間が経ったような気がした。
「おい、小雪!」
はっとして、顔を上げた。すると、そこには。
「あっ……!」
もう、いかなる憂鬱も小雪からは吹き飛んでいた。まさにこのことで、小雪はいかなる悩みからも自由だったのである。
彼女は喜んで、彼の元に腕をのばしていた。