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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

キリマンジャロ

 激しい眠気に襲われて目が覚めた。


 悪い夢を見ていたようだ。時計を見る。午前三時。

 仰向けのまま腕を伸ばしてカーテンを少し開けた。外はまだ暗い。

 最近は仕事が忙しく、少し寝不足気味だった。明日は久々の休みなのでゆっくり眠りたかったのだが、ひと度目が覚めてしまうとなかなか寝付けない。普段は夜中に起きたりすることはほとんどないのだが、これも歳のせいだろうか。なんだか寂しい気持ちになった。

 そういえば、最近は登山にも行かなくなったな。ふと、そう思った。最後に山に登ったのは5年前だったか。昇進して大きな仕事を任せられるようになるまでは、妻と二人でよく登ったものだ。思えば、初めて出会ったのも、初心者向けの登山ツアーだったか。その時見た紅葉がとても綺麗だったのを覚えている。だが、それも昔の話で、近頃はどこかへ一緒に出かけるどころか、口すら利かなくなってしまった。

 どうして急にそんなことを思い出したのか。……ああ。

 夢だ。

 そうだ。夢を見ていたのだ。

 雪山だった。私は仰向けに倒れていた。どうやら遭難していたらしい。強い風が顔にぶつかって少し痛かったが、あまり寒くはなかった。むしろ、目の前いっぱいに広がる太陽の白い光が心地よかった。意識を失いかけて感覚が無くなっていたのだろうかと考えたが、そもそも夢の中のことだ。何も感じなくて当然だろう。ただ、耐え難い眠気に押し潰されそうになる自分をはっきりと覚えている。やはり寝不足なようだ。


 夢の内容を思い出せてすっきりしたのか、また眠くなってきた。

 目を閉じると、またぼんやりと白い景色が……。


 雪に覆われた岩肌が見えてくる。きっとあれが山頂なのだろう。

 頭が少し痛かったが、足取りはしっかりとしていた。

 周りには誰もいない。メンバーとガイドを置いて来てしまったようだ。これではまた遭難してしまうと思った。このまま進めば標高5000mの世界。歩く度に体がどんどん重くなっていくのがわかる。ここはもう人の住む場所ではないのだ。きっとそれは、神様に近づきすぎるせいだろうと私は思う。神様は上から人間を見守っているから、近づいてはいけないのだ。歩きながら空を見上げる。神様は分厚い雲に隠れていた。風が強まる。頭痛も酷くなる一方だった。

 少し横になろう。そうすればまた歩ける。このまま引き返すことはできない。私はどうしても頂上に行きたかった。風に雪が混じり始める。もうすぐ吹雪に変わるだろう。神様が怒っているのだ。当然だと思った。あんなことをしてしまったのだから。許されるわけがない。ああ、また眠くなってきた。目の前はもう真っ白だ。私はついに耐えられなくなり、目を閉じた。


 妻はコーヒーが好きだった。休日の朝は、早く起きて豆を挽くのが習慣になっているらしい。台所から聞こえてくるその音のせいで、私はいつも望まぬ早起きを強いられる。それに、私はあの苦い飲み物が好きではなかった。だから、妻のコーヒーを飲んだことがない。いや、違う。あれはいつのことだったか。

気づけば私は天井を眺めていた。時間は午前四時を回っている。カーテンから覗く空が微かに明るい。

 どうやらまた目が覚めてしまったようだ。起きるには少し早い。妻もまだ寝ている時間だろう。辺りは静まり返っていて、豆を挽く音も聞こえない。

黒い飲み物。黒はよくない。不吉な色だ。白が好きだ。白が好き。白が――――。

 思い出した。嫌な記憶だ。

 私は、温厚で滅多に怒らない妻を、一度だけ怒らせてしまったことがあった。仕事が順調に進み、昇進が見えてきた頃、妻は私にコーヒーを淹れてくれた。少し奮発して買った良い豆らしい。名前は忘れた。とにかくコーヒーが苦手だった私は、砂糖とミルクを雪崩のようにカップに注ぎ込んだ。これがよくなかった。妻は絶句していた。雪崩が収まり、私がカップに口をつけると、妻はようやく、どうしてそんなことをするのと呆れた口調で私に問うた。私は少し、というかかなり驚いた。飼猫に顔を引っ掻かれたような気持ちになった。そして、驚いた拍子に、思わず言ってしまったのだ。

 コーヒーは嫌いなんだよ。

 それ以来、妻とは口を利かなくなってしまったのだった。大失態である。妻を傷つけるつもりなど微塵も無かった。むしろ感謝していた。本当のことだ。仕事の愚痴を嫌な顔ひとつせず聞いてくれるし、私がくだらない冗談を言うといつも楽しそうに笑ってくれた。そもそも、私が調合した甘くて白い飲み物は、なかなか美味かった。


 嫌なことを思い出してしまった。怒らせて当然のことをした。仕事が落ち着いたらちゃんと謝ろう。いや、先延ばしにしても気まずくなるだけだ。すぐに謝ろう。だが、疲れが溜まっているせいか、どうにも体がだるい。もう少しだけ眠らせてくれ。朝になったら一緒にコーヒーを飲もう。そして、休みを取って、また紅葉を見に行こう。そうだ、それがいい。

 しかし、何かを忘れている気がする。大事なことを……ああ、また眠気が……。


 明日は、猛吹雪で大荒れになるそうだ。テントの中でガイドが残念そうに言った。吹雪は当分止みそうにないらしい。登頂は断念するしかないという判断だった。

 納得できなかった。私は頂上に登るために来たのだ。登らなければならない理由があった。一日だけ待ってもらえないかと頼んだが、聞き入れられなかった。気まずい沈黙が流れた。その日はそれ以上何も話すことはなく、皆疲れた顔でそれぞれのテントに戻り、早めの就寝となった。

 深夜、私は音を立てないように起き上がり、隣で寝ている男にそっと近づくと、山小屋のキッチンで盗んだナイフを喉に突き立てた。声で他の者が目覚めないよう、左手で口と鼻を塞ぐ。少しの間、体をばたつかせていたが、やがて動かなくなった。他のテントに忍び寄り、同じ手順を繰り返す。私の邪魔をする者はいなくなった。手が汚れたので雪で洗った。辺りは真っ暗だが、時間がない。進まねば。

 謝りに行くのだ。ゆるしてもらうために。誰に。何を。


 私は起き上がった。全てを思い出した。

 ベッドから立ち上がり、豆を挽く音が聞こえる台所に向かって歩き出す。午前七時。もう眠くはない。

 私は壊れかけていた。急に怒鳴ったり、泣き叫んだり、物を投げたり、もどしたり。

 辛くて、苛立って、辛くて、何度も妻に八つ当たりをした。それでも妻は、私を見捨てること無く、そばにいてくれた。それがまた辛くて、同じことを繰り返した。体の中に黒くて嫌な物がどんどん溜まっていった。

 ある日、ついに私は妻に手を上げてしまった。頬を叩く嫌な音が鼓膜を突き抜けて、頭の中をぐちゃぐちゃにした。私は壊れた。掌に残るジリジリとした痛みだけが、いつまでも消えずに私を責め続けていた。

 だから私は、妻を拒絶したのだ。辛そうにしている君を見るのが、悲しかったから。

 妻に謝りに行くのだ。全てをゆるしてもらうために。


 おはよう。俺にもコーヒー淹れてくれよ。

 少しミルクを、いや、やっぱり多めで。苦いのはだめなんだ。笑うなよ。

 うん、やっぱり砂糖が無いと苦いなあ。でも香りは好きだな。これなんていう豆なんだっけ。

 ……なあ、あのさ。ええと。

 今までいろいろあったけど、ずっと一緒にいてくれて、ありがとうございました


 妻は少しだけ驚いた顔をしていた。

 そして、ニッコリ笑って、わざとらしく深々と頭を下げながら言った。

 どういたしまして


 よかった。赦してもらえたんだ。

 太陽の日差しが少し眩しかった。なんだかまた眠くなってくる。

 このまま少しだけ眠ろうかな。きっとまた夢の続きを見るのだろう。


 私は仰向けに寝そべっている。寒くはない。

 空は晴れ渡っていて、地面は白く光り輝いている。

 体がふわふわと浮かび上がるような心地だ。

 私はこのまま登っていくのだろう。


 あの白い光のもとへ。

初めての投稿になります。

途中まででも読んでくれると嬉しいです。

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