08.じんわりと沁みた
07.じんわりと沁みた
「にいを知ってるのは中学からだけど、仲良くなったのは高校からかな。ほら、あの性格じゃん? 俺、どうしてもあいつのことが気に入らなくて関わりたくなかった」
「わかります、私も最初はいやなやつとしか思ってませんでした」
「成瀬も?」と佐伯さんが少し笑ってコーヒーを一口飲んでから、伏し目がちに続けた。
「俺、体の弱い妹がいてさ。あ、重い病気ってわけじゃないよ。俺自身、なんの病気もしたことがなかったから、あいつが辛そうにしてるのを見ていられなくてさ。こないだ、成瀬にしたのもそれが原因」
その反動で妹の頼みは何でも聞いてやってた。自分でできるだろうってことでも、妹に頼まれるとどうしても断れなくてね。」
佐伯さんはそこまで話し終えると、マグカップを両手で包み込む。たぶん、話し辛い部分なのだろう。
気軽に話して欲しいと言ってしまって良かったのだろうかと、今更ながら後ろめたさが募る。
彼はしばらくマグカップの中を覗き込んでから、再び口を開いた。
「俺、高校で生徒会やってたんだ。体育祭とか文化祭が近くなると、実行委員を募って生徒会中心で準備進めてたんだ。成瀬のところでもあったでしょ? 人数集めてもそれが結構大変でさ。ある時、体育祭の準備で、放課後にやる準備に遅くまで参加できなくなったんだ。“ここまではやるけどあとはみんなでお願い”って、委員会が終わった後、生徒会メンバーだけに伝えた。例のごとく妹に早く帰ってきてと頼まれてさ。最初はやっぱ嫌な顔されたけど、できない分、他でちゃんとカバーすると言ったら生徒会の他のメンバー含めて渋々ながらも了承してくれた」
佐伯さんは持っているマグカップの中身をゆっくり回しながらそこまで話し、短く息を吐く。
「まずは生徒会メンバーに報告をしてから体育祭実行会で話すつもりで、人がハケてから伝えたのにさ。一人だけ聞いてたんだよな。そう、にい。そんときの体育祭実行委員にいたんだよ、あいつ。実行委員は各クラスからの選抜だったし、あいつが自分から希望したのかは知らない。委員会に参加しているときも、ダルそうに椅子に座ってて。やる気があるのかないのかわかんなかった。そのにいに反対されて、準備をしないとは言ってないだろって俺つい怒鳴っちゃってさ。周りがざわざわし始めてからやっと自分のしたことに気づいて。しまったって思ったときにはなぜかにいに腕引っ掴まえられて教室出てた」
目が合った私が眉を潜めていることに気づくと、佐伯さんが渋い顔をして
「俺も殴られるかと思ったよ。あいつ短気そうだしね」
――昔から強引なヤツなんだ、にいは。そう付け加えた。
「人気のないところまで俺を引っ張ってきたところで、やっとにいが手を離した。そこで言われたんだ」
――率先して生徒の前に立って先導するのが生徒会だろ。余程の理由がない限り、生徒会長が動かないのはズルいんじゃないの?
「頑として俺の言うこと聞かないんだよ。妹のことは先生以外に伝えてないし、周りにはあまり知られたくなかった。けど妹との約束もあるし、仕方なくにいに理由を話した。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」
――甘えてんじゃねーよ
理由はわからないけど新倉なら言いそうなことだと思った。
「にい曰く、体が弱いことに甘えて自分で何もしようとしない妹も、その妹のせいにして自分のことをおざなりにしている俺も、どっちも甘えてるんだってさ」
「信じられねぇわ」とぼやきつつも、口元に笑みを浮かべて彼が首を振る。仕方ないなといった風に。
「すげぇよな。普通、家庭の事情入ると一歩引いて遠慮するものじゃん? まぁ、誰もいない場所まで引っ張ってったのはあいつの優しさなのかも知れないけど。俺は、それまで妹の頼みを聞いてやることが俺にできる唯一の優しさだと思ってた。けど、妹に優しい振りして、自分ができないときの理由にしてたのかも知れないとにいの言葉で思い直して。会議室に戻って生徒会メンバーに週の半分なら遅くまで手伝うよって伝えた。全部って言えないところがズルいのかもしれないけど、急に妹のことを切り捨てることもできなかったから。
今ではあまり妹のわがままを聞いてやることもなくなったし、妹も自分でできることはするようになった。そしたら、ちょっと楽になってた」
新倉が佐伯さんに怒った真意はわからないし、自分勝手のようにも聞こえる言葉だ。でも結果的に佐伯さんの枷を外した。
苦笑いを交えつつも、嫌な顔一つしていない佐伯さんが証拠だ。
「後になってその話をにいにしたら、“お前の顔があまりにも不幸そうで鬱陶しかったの”だってさ」
口に軽く手を当て肩を震わせる佐伯さん。その時のことを思い出したらしい。
口ではふてぶてしいことを言っても、相手に意図が伝わった新倉と佐伯さんの関係が少し羨ましいと思った。
すっかり冷め切ってしまっているコーヒーを佐伯さんは一気に飲み干し、マグカップを机にコトンと置いた。
私はその様子をただ眺めていた。彼に名前を呼ばれて気づくまで。
「成瀬。にいはかなり言葉悪いけど、鈍感なやつじゃないよ。成瀬も知ってると思うけどさ」
そう言ってウインクをして様になるのはきっと佐伯さんくらいだ。
「たぶん、成瀬が泣くくらいひどいことをにいはしたんだろうし、俺もそれは許せない。でもさ、あいつを嫌いにならないでやって」
佐伯さんの話を聞いて、わかる部分もある。
でも色々な感情が胸の中でぐるぐるして、素直に頷くことがすぐにできなかった。
雨はもうすっかり上がっていた。
会社の前の道路の地面には雨が溜まった小さな水溜りがところどころにあった。そこに電灯の光が反射して、ぼんやり明るい。
「本当にすみません、ありがとうございます」
「なんか、俺成瀬のこういう場面に立ち会うこと多過ぎない?」
「ほんと、嫌なセンサーつけないでください」
会社を出た階段の前でフフッと佐伯さんが笑った。
「妹のことは気にしなくていいよ。成瀬、気にしてたでしょ?」
佐伯さんが触れられたくない部分だと思ったので、顔に出さないようにしていたがバレていた。
申し訳なさを前面に押し出した上目遣いで佐伯さんを見ると、返事の代わりに頭にポンポンとされた。
彼のクセみたいなものだとわかってるけど、子ども扱いされたようで気恥ずかしい。
早くこの場所から離れようと勢いよく振り返った。
「成瀬、足元!」
佐伯さんの声が飛んできた。
踏み出した先にはまだ地面がなくて、ああ、もう一段、階段あったんだと気づいた時には既に遅く。体はバランスを失い前に倒れていく。
すぐに強い力で後ろに引っ張られ、その反動で佐伯さんの胸に鼻を打った。
シトラスとシダーウッドの香りがした。
「あっぶねー……お願いだから前見て歩いて……」
私を受け止めてくれた彼の両腕にグッと力が入る。その感触で私は現実を理解した。
「びっ、くりした……」
「びっくりしたのはこっちだから。大丈夫? 足捻ってない?」
佐伯さんの声が直接頭に響いてくる。同時に彼の鼓動が早いことに気づく。
当然だ。目の前で人が階段から落ちそうになったのだから。
「大丈夫です……すみません」
佐伯さんの腕にもう一度ギュッと力が入った。
そして赤ちゃんをあやすようにゆっくり私の背中を叩く。
私の息遣いが落ち着いた頃。ようやくその腕を解いてくれた。
正直、階段から落ちたことよりもいつもと様子の違う彼に戸惑った。見上げた彼の顔は半分だけ月明かりに照らされていた。
「これからは愚痴相手の一人に俺も入れといてよ」
そう言う佐伯さんの笑顔がじんわりと心に沁みた。