嘘つきのつくりかた

Main story

06.つま先のパラドックス

「今日は機嫌いいのね。ねぇ、なんなの。朝から気持ち悪いんだけど。俺の仕事の邪魔、しないでくれます？」

　心配事も消え、朝からすいすい仕事が捗るのでとても気分が良かった。こいつが話し掛けてくるまでは。

　スカッとしたさっきまでの気分が新倉のお陰だと一度でも思った私が浅はかだった。

　そう、これは全部私の努力の結果だ。

「邪魔なんてしてません。静かに仕事してただけじゃない」

　新倉がくるりと椅子をこちらへ向ける。

「静かに？　じゃあ朝からずっと聞こえてくる不快な音階はなんでしょうねぇ？」

　と、机に肘をついて気怠そうに顎を乗せた。

「私、歌ってた？」

「ええ、思いっきり。この周辺の皆さんにも聞こえてたんじゃない？」

　想像するだけで顔から火が出てくる。

「うげ……」

　心なしか周囲を漂う空気に、冷たいものが混じっているように思えてきた。

　自分の体温も急激に下がってきた。

「うげって女子が使う言葉じゃないでしょうよ……」

　彼の呆れた声を背中で振り切って、私はジュースを買いに逃げた。

　数台の自動販売機といくつかの椅子とテーブルが置いてあるだけの小さな休憩スペース。

　少し離れた場所には、透明な壁で囲われた喫煙スペースもある。

　自動販売機でいつものミルクティーのボタンを押すと、傍に置かれた椅子に座った。

　ペットボトルの底に少し溜まった沈殿物を軽く振る。

　ゆらゆらと広がっていくそれをしばらくボーッと眺めていた。

　ガコン。プシュッ。

　私のものではない乾いた音が響いた。

　社内の人間に出会えば「お疲れ様です」の社交辞令くらいはする。

　社会人としての最低限のコミュニケーション、マナー。

　何も言わないのは一人だけ。

　ちらりとその人物の顔を確認すると向き直り、ペットボトルの蓋にグッと力を入れて回した。

「無言かよ」

　ミルクティーを一口飲んで、無作法な人間へ用意した言葉を放つ。

「……オツカレサマデース」

「全然労う気がねーし」

　当の新倉は口にはしているが特に気にした風もなく、また缶コーヒーを傾けた。

　今なら言えるかもしれない。

「新倉。その、ありがとう」

　コーヒーの缶を口に加えた新倉がこちらを見た。不思議な顔をして。

「なに。あの不快なメロディー止めたこと？　それならありがとうじゃなくてごめんなさいでしょ」

　私の謝罪が繋がる先はそこか。

　しおれてしまった傲慢な男への感謝を呼び起こすネジをもう一度巻き直す。それだって十分おかしいことだけれど。

「違う。こないだ相談したこと。お陰で佐伯さんの信用失くさずに済んだことに対して」

「ああ、やっぱり相手は青ちゃんだったのね」

　最後の「ね」で新倉が持っていた空き缶をゴミ箱に投げた。

　カンと乾いた音を立てて、それは弾かれることもなくすんなりゴミ箱に入った。

「新倉さんの言うことに間違いはないでしょ」

変わらないふてぶてしさ。

感謝を伝えたかったのは間違いがなかったので、素直に謝辞を伝える。

「今回はとても助かりました」

新倉は顔色を変えず軽く首を傾ける。

「今回は？」

「今回も、です」

　耳聡い彼はしっかり助詞を訂正。

　どうせまた“してやったり“という満足そうな顔をしているのだろう。新倉の方へ視線をやる。

　目が合った新倉は想像していた顔と違っていた。

　無表情。

「でもよく信じたね？」

「新倉がいつになく真剣だったから」

「俺はいつだって真剣ですけど？」

　そんな風に茶化して言われたところで、説得力なんて全然ない。

「アナタがこの仕事真面目に頑張ってるの知ってるし」

　今度は茶化しの言葉は返ってこなかった。

「今日の新倉気持ち悪い」

「気持ち悪いってなに。人が素直に褒めてんのにバカ」

「バカとは何よ、バカとは」

「ごめん、バカじゃないわアホだわ」

「謝るとこはそこか！」

　どちらからともなく、ふふっと笑みが溢れたのを皮切りに。休憩スペースいっぱいに二人の笑い声が響いた。

　最近は結構楽しんでいるかもしれない、新倉とのやりとりを。

彼の皮肉も、真っ直ぐに受け止めずにいればただの掛け合いだ。

「で？　青ちゃんなんだって？」

「ミス、バレてた」

「でしょうね。あの人もバカじゃないもん。アナタは違うけど」

「まだ言うかっ……！　でも正直に申告したから許してくれたもん」

「へーそれはそれは。良かったね」

　ちっとも祝っていない口調で、新倉が一歩一歩こちらへ歩いてくる。

「……そうやっていつも奪われてくんだよな」

　最後、新倉が何を言ったか聞こえなかった。

　急に視界が真っ暗になって、唇に柔らかいものが押しつけられた。

　冷たい感触とさっき飲んでいたコーヒーの匂いが、真っ白になった私の脳を侵していく。

　感触が少し離れて、向きを変えてもう一度近づいてきたところで我に返る。

　目の前の大きな胸を両手でドン、と思い切り突き飛ばした。

　不意をつかれた新倉は後ろに大きくよろけて壁に手をつく。私は一歩二歩、後ずさり身構える。

「なん……で？」

　言葉が喉に引っ掛かった。

　喉がカラカラに乾いているせいだ。さっきミルクティーを飲んだのに。

「人のことふざけてるっていうから？」

「いきなり……こんなことする方がふざけてるじゃん」

「アナタが青ちゃんの話ばかりするからでしょ」

　今まで向けられたことのない目の色にたじろぎ、思わず飲まれそうになる。

　私を真っ直ぐ見つめるその瞳はとても強いのに、目尻は下がって寂しそうな顔に見えた。

　なのに、気持ちのコントロールは利かなくなっている。

「は！？　佐伯さんは今関係ないでしょ！」

「関係あんだよ！　わかれ！」

　新倉の語気の強い言葉は悲しそうな顔と背反している。

「わかんないわよ！」

　新倉にされたことよりも、理解できないこの状況に耐えられなかった。

　手の甲でグイッと唇を強く拭うと。もう一秒だってそこには居たくなくてその場から駆け出した。

　遠くでガンッと自動販売機を蹴り飛ばした音が聞こえた。

　どう見ても被害者は私なのに、どうして新倉があんな寂しい顔をするのかいくら考えてもわからなかった。