03.青に染まる春
×××
まだ、右も左もわかってない春。
桜の木には薄いピンクよりも青々とした緑が目立つそんな頃。
「相変わらず、ここの文献の多さにはびっくりするわ……」
通常業務が終わった後は、毎日資料室に篭ってプレゼン準備。期間は残り1ヶ月。
この会社は少し変わっていて、入社間もない新入社員全員に社内でのプレゼンテーションが課せられている。
“まだ何の色もついていないときだからこそ、独自のアイデアが光るはずだ”
そんな社長の意向で毎年大規模に行われる新入社員対象のプレゼンテーション。他社で行われている社員研修の代わりだ。
この道を極めたいと入社を決めた私はその課題にむしろ好戦的だった。渡された資料を元にプレゼンを行うことが最低条件なのが厄介だ。
その資料というのがある程度知識がないと理解のできない、なかなかの曲者。
無難な道へ逃げてもできないことはないがそれでは芸がない。どうせなら賞を取りたい。
最初からつまづいていたら、きっとこの先も進めない。
そう、自分を奮い立たせて準備を進めていた。
「これと、これ。だめだ。こんな英語ばかりの文献なんて訳すだけで時間取られるよ」
時間はたっぷりとあるように見えて、難解資料を元に内容をまとめることを考えると短い。
周りの新入社員たちのほとんどは期限内に間に合わないことを恐れ、簡単にまとめて逃げる人も少なくなかった。プレゼンを行うことが最終目的で、その練習時間も必要になるからだ。
そろそろ残り半分になろうという今、私は会社の資料室で謎を解く為の膨大な参考文献の量に泣きそうになっていた。
「もう、意味分かんない……」
キィ。
資料室の扉が開く音がした。
私は溢れてきてしまった涙を慌てて拭うと、手持ちの本を広げて読む振りをする。
「あれ、まだ残ってる人いたんだ」
新倉だった。
入口すぐの棚から、扉口に立っていた彼が見えた。
隣の席には鞄がまだ残っていたことを頭の隅で思い出す。
すぐにコツを掴んでなんでもこなす器用さと整った顔。
自分の容姿が悪くないことを自覚しているのだろう。少し長めの髪はいつもワックスで整えられていてネクタイも毎日変わっている。そんなところも女子社員にはウケているらしい。
そんな彼が私はなんだか苦手だった。
自分のすることを済ませてさっさと資料室から出ていってくれればいいのに。
「なに、何がわかんないの」
私の気持ちをよそに彼は私の側まで近寄ってきた。
スルリと他人のテリトリーに入ってくる。新倉にはそんなところがある。
彼の手が目の前に伸びてきて、私は思わず目をつぶった。
すぐに違和感を感じたのは手元の軽さ。
目を開けると、私がさっきまで格闘していた文献を彼がパラパラとめくっていた。
「あー、これでも間違いじゃないんだけどね」
新倉の手に置かれたまま私の視界から消え別の列の棚へ移動した。
何か嫌味でも言われるんだろうか。やっと涙を堪えたばかりで堪える自信がない。
そう思いながら彼の音を聞いていた。
「はい。こっちの方がわかりやすいよ」
彼が選んできた本はシンプルな装丁の本だった。
私は差し出されるまま、両手で本を受け取った。
彼が助けてくれると思っていなかった。
弱っているところに優しくされると余計泣きそうになる。
「……ありがとう」
再度涙声になりつつある声をなんとか整えるので精いっぱいで、新倉の顔は見れなかった。
「俺もね、やりたいことあってこの会社入ったんだけどね? さすがにこれはキツかったわ。でもここが戦いの始まりなわけでしょ? 何、戦いの始まりって」
自分で話し出した癖に、自分の言葉に迷っている。
私はなんだかおかしくなって吹き出した。
「とにかく最初からつまづいてたら、俺これからやってけそーにないもん」
笑われて格好がつかなくなったのか、語尾を投げ気味に新倉が答えた。
それが更におかしくてまた吹き出しそうになったが、少しかわいそうになって右手で口元を抑えた。
いじけ気味の彼を見ながら、この人も人に弱みを話すんだと少し嬉しくなった。
同期なんだから呼び捨てでいいと思う。
ただ、彼への苦手意識はまだ抜けなくて、中途半端な喋り方になった。
彼は口の右端を上げにやりと笑った。
「持つべきものは社内の知人ですな」
「社内の人間に答え聞いたの? ずるい!」
自分と同じ位置にいると安心していたら、既に答えを見つけている。さっきまでの躊躇なんて一気に吹き飛んだ。
不正を疑われたにも関わらず、新倉は慌てもしない。
「いやいや、それじゃカンニングになっちゃうでしょ。俺はヒントもらっただけ」
そしてなぜか得意そうに言った。
「知ってる? 営業部の佐伯青さえき せい。あれ俺の幼馴染」
要領いいなぁ……と小さく呟くと
「だからフェアになるようにアナタにも教えたでしょ?」
と、尚も得意そうな顔をして答えた。
それが新倉とまともに話した最初。
準備万端で臨んだ社内プレゼンで表彰された社員の内2名は、私と新倉だった。
名前を呼ばれて新倉の方を見ると、彼はニンマリとした不敵な顔を私に向ける。
可愛げのない表情だけど、悪い気はしなかった。